第八章 十九
納屋の前で話している者達からほんの少し離れた処に、弱々しく傾いている小さな柵にもたれて地面に足を投げ出して座っている夏天佑の姿があった。目を閉じ、手も地面にだらりと下げたままゆっくりと深呼吸を繰り返している。傍目には居眠りをしている様にも見えるが本当のところは分からない。夏天佑は少しでも仕事に間があればこんな風に目を閉じて深呼吸をしていて、共に作業している者達は当初『どこか具合でも悪いのか』と尋ねたが、夏天佑は『大丈夫だ』とだけ言って薄く笑うとまた目を閉じる。皆もうその夏天佑の様子を見慣れてきていた。
「夏さんはほんまよう寝るなぁ」
「それが力の源っちゅう事か? あんだけ動いて汗一つかかへんだもんにぃ」
「あいつ、武芸が出来るちゃうだ? 剣でも鍬でもお手のもんだぁや。ハハ」
話し声が聞こえない距離でもないが夏天佑は呼吸の度に腹を動かすだけで他には何の反応も示さない。王老人も夏天佑の方を向いて僅かに微笑んだ。
「武芸では食っていけへんだぁ?」
「さぁ? それこそよっぽど凄腕とかだったら仕官の口もあるだろうけどなぁ」
「なんだ、周の旦那が雇ったちゃうだぁ?」
「ちゃうだろ? そうだったら何で毎日此処でこの作業に加わる?」
王老人が夏天佑を眺めながら溜息をつく。
「ずっと此処で儂らと共に働いてくれれば良いが、そうもいかんのだろうのう……」
「え、何でだ? どっか行くんか?」
「そもそもこの仕事したくて此処来たんちゃうだったら、何しに来ただ?」
「天佑は、周の旦那が招いた客人。あの旦那が何の理由も無く人を連れて来たりはせんだろう。今はする事が無いと言っておったな。天佑は元々儂と同じ呂州の百姓であったそうだから暇を潰すのには良いのだろう。だからこうして儂らと居るのだ。多分、稟施会は別の仕事で呼んだのだろうな」
「何するだろうな?」
「そんなもん、儂らに分かるかいや。稟施会だで?」
「まぁ、そうだぁ」
一日中肉体労働に従事している男達であるがどの顔も特別疲れた表情も見せず、この休憩の合間ずっと話で盛り上がっていた。
「さて、そろそろ戻るぞ。今日の分はきっちり終えておかんとな」
王老人が言うと、周りの男達はのそのそと体を動かして立ち上がった。夏天佑もその気配を感じて目を開け、ゆっくりと立ち上がる。
男達は皆、鍬に鋤、或いは斧などを手にぞろぞろと歩き出す。王老人がその後ろで夏天佑の方を振り返った。
(ん? あれは……)
夏天佑の傍にいつの間にか男が一人居て話し掛けていた。王老人はその男を見知っており、それは稟施会万乗閣にいつも居る小間使いの男であった。王老人は引き返して夏天佑とその男の傍へ歩み寄った。
「稟施会の呼び出しかな?」
「太史奉様が夏天佑様に万乗閣へお越し戴きたいと……」
稟施会から来たその男はそう言って王老人に向かって低頭する。
「話をすれば――だな。気味が悪いな」
夏天佑は王老人に向かって笑い掛けながら言った。
「全くだのう。まあ、まだ何の用か分からんからな」
「長くならなければまた戻る」
「あぁ、そうしてくれ」
夏天佑は手にしていた鍬を肩に担ぎ、王老人と別れた。
「正直、俺は今何を望んでいるのか、自分でも分かっていない……」
劉健和はぽつりと呟く。稟施会、万乗閣の一室。周維と洪破人、求持星は黙って劉健和を見つめていた。
「息子はわからんが、親父が殺された事は紛れも無い事実。見つけた時のあの無残な姿を一生忘れないだろう。だがそれで、俺は……何かしなければならないのか? と……」
劉健和はずっと俯いたままで誰とも目を合わせない。
武慶で周維や洪破人と初めて会った時、劉健和は方々を渡り歩く世慣れた商人といった感じであったが、今の、心情を告白するその姿はまるで叱られるのを分かっている子供の様で、身を縮めて小さくなっている。
「俺は徐を捕まえてどうしたいのか……?」
親を殺されて黙っている子。これは不孝であると人々は言うだろう。仇を措いて責めない者は人ではないと、人々が『子』を責めるに違いない。
劉健和の言葉は弱々しい。しかし、そのように責められる事はとうに覚悟していると言う様に、続けた。
「分からない。自分が分からない。徐は……奴は憎い。しかし、俺に何が出来るんだ?」
「あんた……、だから稟施会に頼んだんじゃないのか?」
求持星が劉健和に尋ねる。まだ多くを聞いていない求持星はてっきり劉健和が自らの復讐の為に稟施会に助力を依頼したと想像していた。相手の徐というのがどういう人間なのか知らないが、恐らく一介の、ごく普通の商人である劉健和が一人でどうこう出来る相手では無い筈で、その復讐を遂げる為により力のある者に助太刀を頼むのは当然の事である。
大抵、人に仇なす者というのは凶悪な江湖のあぶれ者で、その被害者は何の力も無い善良な庶民。泣き寝入りするしかない場合も多いが、そういった時には助太刀を買って出る者が出てきたりするものだ。それは個人であったり組織である場合もある。特に武林に属する勢力は、これらを耳にして放って置く事は殆ど無い。どんな小さな事件であっても余程手間のかかる事態でなければ、彼らはまめに動き仇討ちに加勢する。それは義侠の行いであるからである。少なくともその義侠心というものを江湖に示す事が出来る。穿った見方をすればそういう事なのだが、実際に仇討ちを望む、力の無い者にとってはこれほど心強いことは無い。仇を討つというのは戦う事であり、武林の人間はそれが生業と言って良い。お互い利害が一致するのだから当然となる。
「劉さんに頼まれた訳ではありませんよ。私の方から言い出したのですから。『力になれる』と。私が言うのもなんですが、稟施会にも、色んな事が出来るのでねぇ」
周維が求持星に答え、劉健和の方を向いた。
「劉さん。深く考えなくても良いのです。誰でも突然こんな事になれば戸惑い、迷う事になる。縁あって私はこの事件に立ち会う事になった。こんな言い方は失礼かとも思いますが、私は他人だ。劉さんの不幸を外から見ている。しかしだからこそ冷静に考える事も出来るのです。私は何としても徐を劉さんの前に引っ張り出します。その時、劉さんは自分の思う事をすればいい。私達にさせても構いません。当事者のあなたが徐に対してどうしようと、それを外からどうこう言う権利は誰にもありませんから」