第八章 十五
この男の態度は一貫していない。自分は夏天佑であって殷汪では無いと主張し続けたかと思えば、不意に夏天佑を装っている風な言葉を恐らくわざとに言う。殷汪ではないと思わせたいのではなく、ただ混乱させて楽しんでいるのではないか? 殷汪という人物は人々の噂から来る印象だけみてもかなり特殊な存在であり、本当に別人であったとして人々に殷汪だと思われて平然としていられるのなら、この目の前に居る百姓姿の男もやはり只者ではなかろうと求持星は考える。
(周婉漣も、この者を殷汪と思っている様だが……顔も少し違うのに何故そう思える? 俺だって方崖の殷汪の顔は覚えている……)
「とにかくだ。俺は北辰教に追われる立場だ。いや、正確には劉毅や周婉漣だけかもしれないが。方崖では殷汪は死んだとちゃんと思い込んでくれているらしいからな。今のところは」
夏天佑はまた求持星の頭の中をかき回す様な事を言って微笑んでいる。
求持星はじっと夏天佑の目を見つめた後、静かに話し始めた。
「喬高様の件……俺もはっきりと知って把握している訳じゃない。全ては想像でしかない」
「言ってくれ」
「……殷総監が、方崖を出る少し前だ」
夏天佑が僅かに頷く。
「喬高様と我々、つまり九宝寨の一部の人間に命が下された。劉毅様によってだ。その時既に劉毅様は九宝寨を喬高様に預けていたんだ。真武剣派から方崖に向かう一行を襲え、という事だった」
「劉毅の命令? もっと上からじゃないのか? 引退した寨主一人の考えで九宝寨は動くのか?」
「実際に劉毅様が喬高様に何と言ったのかは知らないが喬高様がやる事を決めた。方崖が――劉毅様に何か命じる事が出来るのは方崖だけだが――劉毅様に命じたのか、若しくは別なところが依頼したのか――。どうも他にその実行を望む者が居た様に思う。今思えば、だが」
「……それで?」
「真武剣派から殷総監に何やら贈り物をするらしいから、それを奪って方崖に行かせるなと……」
求持星は夏天佑の顔を注視して、『殷総監への贈り物』に反応を示すかどうかを窺った。夏天佑の視線はやや上を向いており何か考える風だったが、その様子以外は何も分からない。表情を読むのは諦めて求持星は話を続ける。
「真武剣派からの贈り物は……何故か千河幇の鏢局がその護送を請け負った」
「北辰の一派が千河幇を襲う……か」
「俺は何かおかしいと思ったが喬高様は……その鏢局の一行を完全に潰す、と……」
「奴は正気だったのか? 方崖の命だったならまぁ、それでも良いんだろうが、もしそうじゃなかったらただでは済まん。千河幇を敵に回すんだぞ?」
夏天佑は眉を顰め、本当に驚いている様子である。
「方崖からの命令だと言われたならその通りやるしかない。俺達には何も分からないから、ただ従うだけだ」
「それで、実行してしまった訳か。喬高はそれで殺される。方崖の命だったとしても『やり過ぎた』……劉毅に嵌められたか」
「本当にそういう事なのかは分からない。ただ、劉毅様と喬高様の仲はあの頃……良いとは言えなかった」
夏天佑は頷いて、また椅子に体を預けた。
ここまでは表面上はそれほど複雑な話でも無い。劉毅と喬高が仲違いでもして争い、喬高が敗れた。ただの喧嘩で緑恒千河幇の鏢局を襲わせるなど随分と大袈裟な罠を用いたものだが、そこには幾つか疑問が浮かぶ。
喬高は既に劉毅にとってただの部下では無い。かつては部下であったが今は太乙北辰教教主の下に同列。しかも自らが方崖に喬高を七星に推し、それが認められたのである。劉毅は元々序列といったものに執着する様な者でもなく実利があればそれで良しとする類の人間であり、この方崖での序列等が仲違いの原因にはならないだろう。ただ、喬高がそうして七星の一人となったのは北辰の前教主陶峯が亡くなってすぐの頃、つまり十年程前の事であり、それから現在までの間に劉毅と喬高、それぞれの立場に何か変化が起きていてもおかしくは無かった。それでも特に教主に近い存在である七星の一人が死んだとなれば方崖は放っておける筈が無い。まだ、何かがある。
北辰の七星。これはそういった名の北辰教における職名ではなく、元々前教主陶峯が選んで身近に置いた者達を、その存在を知る江湖の人々が呼んだだけの名である。七という数字も現在七名居るからに過ぎない。前教主の生前には六名で、その後に喬高が加わる。方崖の長老衆も折角名の知れたその者達の存在を活用しない手は無いと、陶峯死後、『北辰七星』の名を前面に出して強力な武闘派は新教主の許にも健在である事を武林に知らしめようとした。喬高が加わる事には特に反対は無かった様である。九宝寨という大規模な盗賊集団で寨主を継ぐ人間であり、武で身を立てる事が全てといっても良いその世界で喬高が非凡であったのはまず間違い無い。
「で? 喬高に付いて仕事しに行ったんだろう? あんたはその後も劉毅に使われていた。今度の仕事は、俺か」
夏天佑は眉を持ち上げて軽く言った。それから窓の方を向くと眩しそうに目を細めて外を眺めている。風で顔の横の髪が揺れている。求持星はその様子を眺めた。
(この男も、俺も、逃げ切る事は出来ないんだろうな。この辺境まで来ても……。此処まで来ても、昨夜の様に追ってくる。この夏天佑も北辰を忘れ去る生活など出来ないのだろう。ましてや今は傍に周婉漣が居る。この男を追って――)
「劉毅を裏切るのか? 辛いぞ」
夏天佑は窓の外を向いたままだった。求持星はそれを聞いて顔を持ち上げたその一瞬、ハッとなる。何も変わってはいない様に見えるが、今さっき夏天佑が口を開いた時の雰囲気がほんの僅かだけ、本当の年齢の殷汪に戻った様な、そんな声、そんな匂いに思えた。無論そんな殷汪の本当の姿など求持星は知らない。この世に知る者が居るのかどうかすら定かでは無い。ただ、今のは若い者の気ではない――そんな感じがした。
「劉毅様は俺を、喬高様と一緒に殺しても良かったんだ。ただ、殺す前に一仕事させようという事だろうな。逃げるかもしれないのに俺一人を放すという事は……俺がこれから何をしようと、それは全て劉毅様の望んでいる事になるのかも知れない」
「フッ、求さんあんた、難しい事を言うな」
夏天佑は椅子の上で体を伸ばし、また目を閉じて長く息を吐いた。