第八章 十三
賊と絡み合った者達も必死である。何処の誰で何しに来たのかは知らないが逃がしてはならない悪党だとだけは認識しており、立ち上がろうとする賊の体に喰らい付く。自分達が持っていた武器が近くに転がっているのだが、それを持たせてはならない。
しかしそんな掴み合いはすぐに止んだ。塀とその下に居た賊と稟施会の男達をも飛び越えた周漣が着地すると同時に振り返り、大きな白い袖が音を立てながら舞う。丁度周漣を見た賊の胸元に迫る一本の短剣。賊はそれを払おうと空いていた左手を思い切り振り上げたが空振りに終わった。
「ぐっ!」
短剣の速さの方が勝り、賊の腕が上がるよりも先にその先端が黒い装束に触れ、そのままその奥へと押し込まれた。
「うう……」
賊は胸に突き立った短剣を包み込むように両手を広げたが、触れられない。地面に座り込んだ格好でひたすら痛みに耐えようと体を震わせている。
周りの稟施会の男達は、余りに早い出来事に半ば呆気に取られてその様子を眺めていた。周漣の存在は知っていたが、ただ短剣を投げただけとはいえその攻撃の鋭さは思いも寄らない。それ以前に周漣の普段の物腰から武器を手にするという事自体想像し難いのである。短剣は深々と賊の胸に沈み込んでおり、構えて体当たりをしたと言うならまだしも、余程修練を積まねば投げてこうは刺さらない。
周漣の手にはまだもう一本残っている。それを握り締めたまま賊に近づいていく。
「待ってくれ!」
そう言って塀の上から外へ飛び降りてきたのは求持星だった。
「確認したい事があるんだ。待ってくれ」
求持星は地面に座って背を思い切り丸めている賊に駆け寄った。
賊の口から鮮血が溢れ、まるで真紅の帯をくわえている様にも見える。時折痙攣する肩に、腰を屈めた求持星が手を置いた。
「おい!」
「何を確認するのですか?」
周漣の冷ややかな細い声が背後から掛けられる。
「九宝寨の人間は余程の下っ端じゃない限りあんたを知らない者は居ない!」
求持星は周漣を振り返って言ったが、すぐに顔を戻して賊の表情を覗き込んだ。
「お前はこの人を知らないのか? お前は……」
求持星は途中で声を落とし、賊の耳元に口を近づけた。
「……『山』から来たんじゃないのか?」
痛みに耐えながら歯を食いしばっていた賊も、どうやら意識が朦朧としてきた様で、求持星の言葉に特別な反応はしなかった。
「お前……こんな奴らが居た……とは……」
時折、口から血の飛沫があがる。
「おい……白珪山じゃないのか? どうなんだ」
求持星は小声ではあるが語気を強めて賊の肩を揺すりながら訊く。
「ぶっ……んん……」
もはや賊は喋る事も出来ず、今にも事切れそうになっている。
「それで、何か分かりましたか?」
周漣がいつの間にか求持星のすぐ傍で見下ろすように立っている。いつもの俯いて目を伏せている様な姿勢だったが、賊の隣に屈んだまま周漣を見上げた求持星には暗闇に光る周漣の瞳がはっきりと判り、暫く体を強張らせて言葉を失った。
「捕らえろ!」
太史奉の声が再び響き、屋敷の外で稟施会の男達が賊と求持星の周りに集まってくる。急に周漣は求持星から目を逸らし、残った一本の短剣を持ったまま歩き出した。塀を再び飛び越える事はせずに門のある方へと去って行く。
「……もう、終わった」
求持星は男達に向かって呟き、賊が抱き起こされて連れて行かれるのをぼんやりと眺めていた。もう、生きていないのかも知れない。
「戻ろう」
いつの間にか傍に立っていた洪破人がそう言って求持星の肩を叩く。思わず求持星はびくっと身を震わせる。
「……正直、もう体が動かねぇよ。戻ってきたばかりだってのにな。求さん、済まなかったな」
洪破人は笑ってみせる。求持星は俯いて暫く何か考えていた様だったが、再び顔を上げて洪破人を見た。
「俺のせいだ。俺を追って来たんだからな」
「あんたが訳ありだってのは旦那も知ってて此処まで連れて来たんだから、あんたが気にする事は無い。後の事は全部うちが処理する。あいつらに関わる事は全て調べ上げてうまくやるさ」
求持星は洪破人の目を見ながらその言葉の意味について考えを巡らせる。
「とりあえず、もう休もう」
洪破人が歩き出したので、求持星も続いて屋敷の門に向かった。
中に戻ると、短剣を持っていた方の賊が稟施会の男達に運ばれていくところであった。こちらも口から血を流した骸と化している。洪破人と求持星は立ち止まってその姿を見つめた。求持星が言う。
「圧倒的に奴らの方が上手だった。ああなるのは俺達だったとしても何ら不思議は無い。奴らもまさかやられる事になるなど思ってもみなかっただろう。しかもあんな、突然に、あっけなく、だ」
「そうだな……俺と石は粘って粘って、結局力尽きるところだった――」
「それを、出て来ただけでひっくり返すんだからな……」
「夏さんかい? 実際、二人に手を下したのは……周漣さんだったけどな……」
「周……婉漣ならば造作無い事だ。お前達が『夏』と呼ぶ殷総監も……どうやったら、あんな人間が出来るんだ?」
求持星の問いは洪破人には向いていない。ただ、そんな疑問が口からこぼれただけであった。
男達はぞろぞろと門を潜って出て行く。太史奉の命で寝ていたのを叩き起こされて召集されたのだろう。洪破人はその後姿を見送ってから呟いた。
「全く、俺達は役立たずだって証明しちまった……。って、あんたは違うぜ。あんた……俺とやった時、加減してただろ? 全然動きが違ったもんな」
「そんなつもりは無かったが……ただあの時既に、本当は倚天剣などどうでもよくなっていたのかも知れないな」
薄明かりの中で浮かび上がる求持星の横顔を洪破人は見つめた。出会ってから今まで、この求持星の顔には常に影が差しているとでもいうのか、疲れきった表情しか見ていない様に思われた。
「行こう」
再び二人は歩き出し、屋敷の中へと戻って行った。