第八章 十二
男の呻き声が頭上で聞こえ、短剣の賊が勢い良く落ちてきて地面に叩きつけられた。その後、白い周漣の影がふわりと舞い降りる。その両の手には何故か賊の手にしていた短剣二本が握られていた。
「ぐうっ」
地面に這いつくばった賊は唸りながらゆっくり立ち上がろうとすると、周漣が再び舞うように飛び上がってから曲芸の様に賊の背に乗り、再び賊は地面に押し付けられる。
背筋を伸ばして立つ周漣は短剣を握り直し、足の下の賊の首筋に視線を落としていた。
「待て」
夏天佑は周漣に向かって言い、それから洪破人の居る方へ顔を向けた。
「来たんじゃないか?」
洪破人の隣に居た石がすぐに塀に向かって走り出し、そのまま塀の上へ飛び上がる。
石は外に向かって「入れ」という様に腕を振り、そのまま塀の上を駆けて正面の門へと向かって行った。
夏天佑は刀の賊に顔を戻し、
「もう諦めてくれ。……全てを」
刀の賊は顔を顰めて睨み返してから、相方を見る。女に踏みつけられて全く身動きが取れない様子で、その腕を考えればただ女に乗られただけであのようになってしまうなど考えられない。ならば、あの女が「普通では無い」という事だ。数手の内に得物を二本取り上げられ、いつそれを体に突き立てられてもおかしくないという、完全に勝負がついた状態にある。自分の方はといえば得物の刀をへし折ってしまう様な相手に睨まれて、全く勝算が見えない。
(こんな筈は……。この二人は一体何だ? くそっ! さっきまでは何も問題は無かったのにこいつらのせいで……)
「不思議ですねぇ。こちらの夏さんが相手になった途端、こんなに静かな闘いになってしまうとは。夏さんはまだ何もしてないというのに」
決着が付いたと判断したのか、周維が洪破人の傍に歩み寄りながらこの場に居る皆に聞こえる様な大きい声を出して言った。
「あれが全部やってればさぞ盛大な血祭りになった事だろうよ。敵が二人でも四人分の血飛沫があがるからな」
夏天佑はあごで周漣を指し示した後、右手にあった刃を地面に突き立てると倚天剣だけを持って後ろを振り返りそのまま歩き出す。丁度その時、屋敷の門が軋む音を立てながらゆっくりと開き始めた。
門から溢れ出すかの様に屋敷の中へなだれ込んで来る男達。全て稟施会の者であり全員が武器を手にしている。全部で三十名程居り、彼らは最初から賊がどれか分かっていたのではないかと思う程速く二人の賊を取り囲んで得物を構えた。中心に居るのは二人の賊と、周漣。
「あとはお任せ頂けますかな?」
周りを囲んだ稟施会の者達の中から周漣に呼びかける声。低く落ち着いたこの声は太史奉のものだった。
「まさか太史さんにお出まし頂けるとは思いませんでした」
応じたのは周漣ではなく周維で、笑みを浮かべて太史奉に歩み寄った。周漣はじっと短剣の賊――すでにその手に短剣は無いが――その上に立ったままである。
「この屋敷の守りを見直さねばなりませんな。周漣さんが居て下さって助かりました」
太史奉は周漣の姿を眺めながら言った。
洪破人が再び賊の前に進み出て、
「さすがにこれでは諦めるしかないだろ? その短くなった刀を捨てるんだ」
刀の賊はまだ壊れた得物を構えたまま全方位の気配に神経を集中させていた。
「此処が稟施会の周維の屋敷だという事は最初から分かっていた事。この位の人数を相手にする事くらい考えておったわ」
「……一人でも、か?」
刀の賊は少しずつ移動を始める。隙あらば逃げるつもりだろうが、少し動けばそちらの方に包囲する者達が集まっていき方向を変えればそちらに、といった具合で逃走を阻む壁は厚かった。
「……確かに、少しばかり油断したようだ。さっさとお前達を切って倚天剣を奪い逃げておれば……」
刀の賊は構えを解いて呟く様に言う。
「俺もあんたらの事を甘く見ていた。最初から――」
洪破人が話しているその時、いきなり賊は持っていた刀を周漣に投げつけ、次の瞬間一番近い方の屋敷の塀に向けて飛び上がった。
その速さは求持星と共に飛び回っていた短剣の賊と同じ程であり、周漣に刀を投げ付けたのは自分を捕らえられる者はおそらくあの女だけと踏んだからである。その投げた刀を折った男はすでにこの場から消えているのである。
「ハーッ!」
刀の賊は長く気合を発して屋敷の外に向かって跳ぶ。囲んでいた者達は急いでその方角へと駆け出し、塀の近くに居た者はその上に飛び上がる。今、刀の賊の手には得物は無いが、洪破人と石の二人を同時に相手して押す程の力量があり、拳法や掌法が全く出来ないとは考えにくく安易に飛び掛って捕らえられるものではない。
賊が塀の上に到達する直前に数人がその前方を塞いだが、賊は宙にあって姿勢を変える事など出来る訳も無く、すぐに塀の上でぶつかり合ってそのまま外へと転がり落ちていった。
「逃がすな!」
太史奉の声が響いて中に居た者達が一斉に塀に跳び上がる。それらの先頭を切って塀を飛び越えたのは周漣であった。
賊が周漣に放った刀は何の効果も無くすぐに払いのけられたが、投げた本人は周漣がそれをどうしたかなど見てはいない。すぐさま跳び上がり塀の上で稟施会の男達とぶつかった時にはすでに周漣の体も地から離れていた。
中に取り残された短剣の賊は、無残にも血を吐いて動かない。周漣はその背に乗ってから刀の賊を追って跳ぶまで地に足を付けてはおらず、賊の背を蹴って跳んだのである。軽功の達人の技というものはまるで体から重さが失せたかの様にふわりふわりと宙に浮かび上がるが如く見せるものが多いが、実際に何もせずにいきなり浮くなど有り得ず、体重を無くすなどという技も存在しない。外功と内功は別物の様でいて実は密接な関係にあり、周漣のような華奢な女性であっても十分練られた内力が体を満たせば筋力は勿論、体の各器官までもが強靭となるのである。周漣の体を一回の跳躍で塀の外まで運んでしまう力が短剣の賊の背に集中し、そんな力を無防備な背に受けて無事で居られる筈も無かった。
塀の外側で、数人がもつれ合いながら転がっている。屋敷は大きな通りに面しているのだがすでに深夜であり明かりもごく僅かで、どこか暗闇から住人が『何事か』と顔を覗かせているかも知れないが、今の所は表に人の気配は無かった。