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流浪一天  作者: Lotus
第四章
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第四章 二


 二十一

 

「よし。出るぞ!」

 朱不尽は今までと変わらない、出立の号令を掛ける。配下の鏢客はたったの四人。

「じゃあ、元気でな。世話になった」

 范撞が傍に居た傅朱蓮を見る。

「気を付けて。私は自由だから、今度出る時は緑恒にも行くわ」

「そうだな。夏は暑いから避けた方がいいぞ」

「朱蓮さん、本当に有難う。何て言ったらいいか……」

「楊さん、無理はしないで。傷は残るでしょうけど。」

「うん。じゃあ、元気で」

「またな」

「ええ、必ずまた会いましょう!」

 一同は皆、馬で暗闇の中を屋敷の門を出て行く。先頭は朱不尽とその隣に夏天佑、馬少風が進む。馬少風は傅千尽に夏天佑と共に行くよう命じられていた。追手が迫るかもしれない状態で朱不尽達はあまりに無勢過ぎた。もっと多くの人間を付けたいところだが自分のところの用心棒が多く手を貸す事は別の問題を生む。若い頃ならば自ら剣を手に友と行く事にしたはずだ。その決断をどうしてもすることの出来ない自分を情けなく、そして悲しく思いながら朱不尽の背中を見つめていた。

 

「さて、お前はどうする? 北辰の者はすぐにも来るじゃろうがお前も尋問されような。方崖で総監と何を話したのか――」

「儂はどうっちゅう事あらへん。いっつもみたいに世間話しに行っただけやがな。あーでもなぁ、せめてあん時教主に会っとけば良かったなぁ、そんな時間無かったけどな」

「洪兄、媛と一緒に暫くうちに居たらどうだ?あの家に二人で居って媛に危険が及んではいかん」

「……そうじゃな。世話になろうかのう」

 洪破天達は部屋に戻っていく。その後方でじっと立ったままの田庭閑が空を見上げている処に傅朱蓮が歩み寄った。

「田さん、随分と思い切った決断したわね」

「決断? ……そうだろうか。今はまだ、決断なんて言えないな。やっぱり俺はこれから逃げるんだよ」

「それは何の為かしら? 今までの、武慶に居た頃の自分を捨てて……違う自分になる為なんでしょう?」

 田庭閑は見上げていた顔を戻して傅朱蓮を見た。

「范さんから色々聞いたわよ? フフ、あんまり重要な事はあの人に言わない方がいいわね。……不満を感じているのに変わりたくないと思う気持ちは誰にでも起こるわ。そうね。あなたはやっぱり逃げるのよ。あなたを追いかけてくる「変わらなくていいじゃないか」っていう思いから。偉そうな事言えないけど、この江湖で生きる者にとってそれは大事な事だと思わない? この先大変かも知れないわ。凄くね。もう戻れない。そう決めたあなたは既に今までのあなたから変わってる。それと、逃げ足の速さも重要ね。逃げるのが得意ならそれをもっと磨けばいいわ」

 傅朱蓮がそう言いながら笑い、田庭閑もつられて微かに笑った。

「そうか。江湖のご先輩がそう言うんだから、自信を持つことにするよ」

「やめてよ、ご先輩なんて。旅に出て若い女性との話し方の修行もすることね」

 二人は並んで部屋に戻って行った。

 その夜は何事も無く洪破天達は普段通り休んだが、超謙ちょうけんら屋敷の用心棒達はいつ北辰の者が来るかと気が気では無く、ゆっくり休む事は出来なかった。

 夜が明けてすぐ、珍しく早くに目が覚めた田庭閑は僅かな荷を小さくまとめてこの屋敷を出る準備を整えた。武慶を出た時に持って来た大きな行李は、賊の襲撃にも耐えて無事だったが、その後大部分は処分して本当に必要な物だけをまとめ、随分小さな荷になっていた。

 

 

 二十二

 

 部屋を出るとほんの少しだが微かな風が冷たく感じる。ここ東淵は武慶や緑恒など南方の街よりも遥かに早く秋が訪れる。田庭閑は大きく上体を伸ばしてからその澄んだ空気を胸一杯に吸い込んだ。辺りはまだ音が無く、回廊の欄干にもたれて庭を眺める。

(前もこんな事していたな)

 そう思いながら頬杖をついた。

 

「何故まだ居るの?」

 不意に音が発せられ自分に迫ってくる様な感覚を覚えた田庭閑は急いで首を竦める。暫く固まったまま耳を澄ますが何も聞こえない。

「何やってるの? びっくりした?」

(……確か妹だったな)

 田庭閑は欄干から上体を起こし、澄ました顔を作って振り返った。少し離れた所に傅紫蘭ふしらんが立っている。

「アハハ、本当はびっくりしたくせに。ぼんやりしてよくそれで鏢局に居るわね」

「……俺は鏢局の人間じゃない。起きたばかりなんだからぼんやりもするさ」

 再び田庭閑は平静を装って元の姿勢に戻る。

(なんだこの娘は。朝っぱらからうるさいな)

「ねぇ、あんたも緑恒って所の人?」

 傅紫蘭は田庭閑の隣に立った。

「違う」

「じゃあ何処よ?」

(なんて生意気な口の利き方だ……こいつの姐さんも同じ歳の頃はこんなだったのかもな……)

 そんな事を考えていると可笑しく思えて口元が緩んだ。

「何よニヤニヤして気持ち悪い。あんたは何処の誰だって聞いてるの」

「名は田だ。俺は真……いや、別に何処の者でも無いな」

「ふーん。じゃあなんであの朱って人達と一緒に居たの?」

「成り行きだ」

「やっとあの人達居なくなったと思ったらまたお馬さん連れて行ったのよ。頭にくるわ」

(馬少風って人の事だな。この娘、まだ子供なのにあの人に惚れてるとでも言うのか?もう中年親父じゃないか)

「お前、朱鏢頭とはあまり親しくないのか?」

「知らないわ。お父様や朱蓮姐さんは昔から良く知ってるみたいだけど、私は子供だったから覚えてないもの」

(今だって子供だろうが)

「馬少風って人が朱鏢頭達について行ったのはお前の親父さんの命令だろう。ここの用心棒だってな。お前に仕えてる訳じゃない」

「何よ。偉そうな事言わないで」

(お前も十分偉そうだ)

「いつまで居るの?」

「フン、すぐにでも出て行くさ。心配するな」

「何処行くの?」

「決めてない」

「ふーん」

 傅紫蘭は田庭閑と同じように並んで欄干にもたれて顔だけを横に向けて頬杖をつく。

「何だ?」

「あんた、剣持ってるけど使えるの?」

 田庭閑は苛ついた。

(いちいちうるさいな。暇なのか? 暇なら寝てろよ)

「ねえ、どうなのよ? 何処で習ったの?」

 傅紫蘭の質問は止みそうも無い。

 

 

 二十三

 

「……武慶で少し習ったのさ」

 田庭閑はボソッと呟く。

「武慶? それって何処?」

 傅紫蘭は至って真面目な表情で、田庭閑は少し驚いた。

「武慶を知らないのか?……真武剣は?」

「知らないわよ。そんな名前。何処の田舎の武芸よ?」

「此処の方が余程田舎だ」

(全く子供だ。物を知らん)

「嘘。此処は国中の人間が遊びに来るのよ? いつも賑やかで都より活気があるわ」

「馬鹿な。お前は都に行った事あるのか?」

「行かなくても分かるわ」

(そんなわけあるか。井の中の蛙大海を知らず、だ。……俺もこいつと大して変わらないか)

「あんたはどうなのよ? 都、行った事ある?」

「俺は都の生まれだ。此処よりも遥かに巨大な街で、人も数え切れん程居る」

「面白い?」

「何?」

「都って面白いの?」

「……そんな事、自分で行って確かめたらどうだ?」

「お父様が許さないわ。朱蓮姐さんには何も言わないのに。きっと何度も都とか行ってる筈よ」

「何故だろうな?」

 今度は田庭閑が疑問を口にする。

「お前の姐さん、どうして旅とかするようになったんだ?」

 傅紫蘭を見ると頬杖のまま庭の木々を退屈そうに眺めている。

「きっと武芸が出来るからよ。よく分からないけど、凄いんだって姐さんは」

「それだけじゃ無いだろうけどな。お前が旅に出るなんて言ったら周りの者は皆、心配というより不安になるな」

「あんた、私の事知らない癖に何が分かるのよ? 偉そうに」

 傅紫蘭は真っ直ぐ田庭閑を見据えて睨みつける。田庭閑は無視している。

「フン。分かるもんか。何が分かるか? そう言う奴は決まって自分を人に理解させようとはしない。他人に理解して欲しいと願う癖にただ待ってるだけ。人がお前に興味を持って何か言えば「違う、分かってない」と言うだけだ。なぞなぞ遊びは他所でやれってんだ」

「うるさい! うるさいのよ! さっさと消えなさいよ!」

 傅紫蘭は拳を握り締めて声を荒げると、踵を返して走り去った。

(……俺は何を言ってるんだ。全くどうかしてるな。……フ、自分に言えよ。俺は馬鹿だな……)

 

 その後暫くしてから傅千尽が田庭閑を自室に呼んだ。

「お前はこれから何処へ行くんだ? お前を待つものは居らんのか?」

「居ませんよ。全く」

「そんなことはあるまい? 家族は? 親は何処にいる?」

「都です。ですから、都に行こうと思っています」

 田庭閑は色々聞かれるのが煩わしく、とりあえず親の元へ行くのだと思わせる事にした。

「そうか。都なら真っ直ぐ街道を行けば良いだけだしな。無事に行けるだろう。お前、一人で長旅の経験はあるのか?」

「……いや、でもいつかは経験するでしょう? それが今という事で」

「なるほどな」

 傅千尽は暫く田庭閑をじっと見ていたが、暫くして再び口を開く。

「都にはいくつまで居た?」

「十六です」

「今は?」

「十八……もう十九になります」

 

 

 二十四

 

「都で田家と言えば有名だが」

「都ですよ? 田なんて山ほど居ます」

「ほう、そうか?」

 傅千尽は真っ直ぐ田庭閑の目を捉えたままだ。

「何が言いたいんです? まさか田宰相の事を言っているのですか?」

「ほう、よく知ってるな」

「……当然でしょう。国の宰相ですよ? 都では子供でも知ってますよ」

「ハハ、そうか。儂は田舎の人間だからな。都で田を名乗る者は皆、縁者かと思っておったわ」

 傅千尽はそう言って笑うが、田庭閑は眉を顰めて傅千尽を睨んでいる。

「そんな顔せずとも良かろう? 宰相の縁者と思われる事はそんなに嫌な事だったのか? それは悪かったな」

「別に……そんなことは」

「で、親の許に帰るのだな?」

「分かりません。都に戻ってから考えます」

「そうか。ま、儂が心配する事も無いな。お前はもう大人だ」

 田庭閑は傅千尽から視線を逸らす。

(だったら放っておいてくれよ。何なんだよ)

「おう、そうだ。儂は都に知り合いは少ないが、宿を営むという男が居るんだが、知ってるか?」

「知りません。宿なんて沢山ありますからね」

「だろうな。史小倚ししょういという男だ。家に帰るなら別によいが、そうでないなら探して訪ねるが良い。傅千尽から聞いたと言えば宜しく取り計らってくれよう」

「……有難うございます」

「いつ発つ?」

「すぐに出ます。もう用意はしてあります」

「分かった。儂もそろそろ出掛けねばならぬのでな。まだ北辰の者は姿を見せぬ。早い方が良かろうな」

「はい。あの、色々とお世話になりました」

「うむ。達者でな」

 傅千尽は先程までとは違い優しい眼差しを見せ、田庭閑に向かって頷いた。

 

「もう出るの?」

 傅朱蓮が慌てた様に田庭閑に駆け寄って来た。田庭閑は丁度馬を牽いて庭に出てきたところであった。

「御免なさい。こんなに早く出るなんて思ってなかったから」

「君の妹は俺よりも早く起きてたよ」

 田庭閑はなんとか笑顔を作って見せる。

「紫蘭? 話したの?」

「少しだけ。怒らせてしまってさ。申し訳なかったと伝えてくれないか」

「良いけど……あの子は扱うのが難しいから、あまり気にしないで」

「親父さんにも挨拶しといたよ」

「そう」

「それじゃあ……」

「気を付けて」

「ああ。ありがとう」

 何か言おうにも言葉が思い浮かばず、田庭閑はすぐに馬に乗った。チラッと傅朱蓮を見ると視線が合ってしまい、慌てて目を逸らすが不自然な動作になってしまった。田庭閑は恥ずかしくなって勢いよく馬の腹を蹴り、屋敷の門を飛び出した。

(まったく、俺は情けない。まともに別れの挨拶も出来ないなんて。あいつ、范撞ならこんな事何でもないんだろうな……。ああ、俺は何故こんな人間なんだ!)

 

 

 二十五

 

 朱不尽ら一行は東淵を出て四日、緑恒に向かい順調に進んでいたが、居るのか居ないのか分からない追っ手が気にかかり、ゆっくりと休む間もない。

「ああもう、何かこう……来るなら来るでさっさとして貰いてぇな。一気にカタをつけちまってよ」

「カタをつけるって……どうするつもり?」

「んーそれは、分かんねえけど」

 いつも無表情な馬少風以外は皆、疲れの色が見え始めていた。夏天佑の体調は殆ど変わっておらず、時折楽になる事はあるようだが長くは続かない。

「夏殿、追手が来ているとすればどれくらい居るだろうか?」

 朱不尽が夏天佑に声を掛ける。

「追手自体は……大した数ではないだろうな。だが、そのうち北辰の息のかかった者達に命令が行き渡る。俺を……見つけ出して、どうするかな? 連れ戻せとは言わないだろうな。「殺せ」か。フン、奴らに俺が殺れるものか……俺は、殷汪だからな……人の手にかかって死ぬ事は、あっては……ならない」

 夏天佑は胸元を撫でるように腕を動かしながらゆっくりと答えた。

「でもあんた、他人が手を出さなくてもやばそうだぜ? その体を直す方法は考えてるのか?」

 范撞が夏天佑に尋ねる。この「夏天佑」の年齢は誰も知らないが、見た目が范撞達と変わらないので范撞は話し方に気を使うことは無かった。

「……考えても無駄だな。もう既に手遅れだ。北辰の者が俺を見つけるまでもたないかもな……ハハ」

 夏天佑はそう言って力なく笑う。

「殷汪って奴に出鱈目教えられたんじゃねえか?」

「黙れ!」

 突如、夏天佑が折り曲げていた上体を起こして歯を食いしばりながら范撞を睨みつけた。

「若造! 貴様如きに何が分かる!? この技は……このっ」

 夏天佑は胸に激痛を覚え、言葉が続かずに再び背を丸める。

「范撞、殷総監は長く武芸天下一と言われたお人だ。その技の深奥は我等凡人には計り知れぬものであることは間違いない。殷総監に直接教わったからといって全く同じ様に体得する事はこの上ない難事。出鱈目と言うのは軽はずみだぞ」

「殷総監はお、俺だ! 俺が死ねば殷汪は居ない! 何度言えば――」

「夏殿。それは、本物の殷汪殿が他に居る事を北辰教に気付かせない為か? 何故そんな事を? あなたは「殷汪」によって苦しむ事になったのではないか」

「違う!俺は兄貴にかっ、代わって……」

「天佑、落ち着け」

 馬少風がふら付いている夏天佑の体を支えた。

「本物の殷汪殿は今何処で何をしているのか……今も北辰で目を光らせておれば張新などという男の専横な振る舞いを許すことにはならなかったのだ」

 朱不尽は冷ややかに言い、前方を見つめている。

「フン、何か? あんたらが襲われたのは殷の兄貴のせいだと? 馬鹿馬鹿しい」

「馬鹿馬鹿しい?」

「真武剣派からの荷など何故引き受けた? 方崖への荷だと? そんな怪しい物を何の疑いも無しにはるばる持ってくるとはな! 受けなければあんたの部下は死ななかった!」

 それを聞いた朱不尽は怒りが込み上げてきたが、言い返す為の言葉が見つからない。

「そんな事俺らが知るもんか! 本物だか偽者だか知らねぇけどよ、仮にも総監様なら北辰の奴をちゃんと飼っとけよ! 自分の怠慢を棚に上げて偉そうな事言ってんじゃねえ!」

 范撞が朱不尽に代わって夏天佑に詰め寄ろうとした処に、馬少風が長い体を割り込ませ立ちはだかった。

「もういいだろう。無駄だ。何か結論が出そうなのか?」

 比較的大柄である范撞を、更に上から見下ろす様に馬少風が言う。范撞は、胸を手で押さえてこちらを見ていない夏天佑を見て舌打ちすると、黙って馬少風の前から離れた。

 

 

 二十六

 

 この日も何事も無く日が暮れて、朱不尽達は疲れた体を休める為に街道沿いの宿に入った。街道に面して建っているが看板の類も全く出しておらず、何も言われなければそこが宿だとは気付かないだろう。朱不尽は鏢局の仕事の関係で何度も利用した事のある宿だった。

「おお、朱鏢頭、ご無事でございましたか」

 中に入ると主人らしき初老の男がすぐに朱不尽に気付き駆け寄って来た。

「……ああ、うちの鏢局の者が立ち寄ったか?」

「はい。緑恒に戻る道中にお泊りになりました。魯鏢頭にお話を聞きまして、朱鏢頭のご無事をお祈りしておったところですよ。いやぁ、本当に良かった」

 どうやら本当に心底心配していた様で、笑みを浮かべた顔の皺が一層深くなっている。

「いや、それがまだ気を緩める事は出来んのだが……とりあえず何か食べる物を貰おうか。少しでいい。酒は止めておこう」

「まだ何か……あるんですか?」

「あー、かもしれん、という程度だ」

 朱不尽達は近くの席に腰を下ろす。范撞がまだ何もない卓上に突っ伏した。

「あーもう疲れた。もうこのまま眠っちまいそうだぜ」

「眠いけど、腹に何か入れないと多分熟睡できないよ」

 楊迅は背に括り付けていた荷を脇に降ろしてゆっくり息を吐いた。

「お前達、傷はどうだ?」

 朱不尽が鏢客の李と方に声を掛けた。

「もう全然平気です。剣も持てますから大丈夫です」

 方の言葉に李も腰の剣を掴んで大きく頷いて朱不尽を見る。この二人はまだ若いが范撞や楊迅より鏢客になって長い。李が腰の剣に手を遣っているのは再び鏢局の為に剣を振るう事が出来るという意味だ。朱不尽は口元を綻ばせてゆっくりと頷いて見せた。

「無理してもし、また悪化でもしたら事だぜ?」

「病気になった訳じゃない。もう傷は完全に塞がったからな。ただ、医者が言うには冬とか冷えたりすると痛み出す事があるらしいけどな」

「ハハ、爺さんみてえだな」

「ま、緑恒に居ればそんなに寒くならないからな」

「東淵はかなり寒くなるんだろうね」

「景北港なんてもっと北だぜ?」

 范撞がそう言ってから少し離れて座っている夏天佑の方に目を遣った。黙って俯いたままじっとしている。

「……なぁ、夏さんよ。横になったほうがいいんじゃねえか?」

「……殷だ」

 夏天佑は下を向いたまま言う。

「ああ、じゃあ殷総監さんよ。部屋を――」

「俺だって……」

 夏天佑がゆっくりと顔を上げて范撞を見る。

「腹は減る」

「……ヘッ、そうだな。飯だ飯」

 

 暫く待っていると主人が料理を数品持ってきて並べ、朱不尽の傍に来ると小声で話しかけた。

「あの……殷総監というのは……あの人が殷総監なのですか?」

「ん? あー、まあ……そうだ。だが、この事は一切他言無用だ」

「ええ、ええ、それはもう。それでは……あ、足りなければご遠慮無くお申し付け下さい」

「ああ」

 主人は席を離れる時もう一度チラッと夏天佑を見た。すぐ目の前に食事が置かれたが、夏天佑は再び下を向いて僅かにその肩が揺らしていた。

「ああ、これ食ったら即効で寝ちまいそうだな」

 

 

 二十七

 

 皆、黙々と食事に取り掛かるが腹を減らしているわりには箸の進みが遅い。時折息をついて茶を少しだけ啜る。辺りはしんと静まり返って、逆に音も無く近づいてくる見えない追っ手の姿を想像してしまう。

「朱さん、今日は此処で休むんだろ? 奴ら来たらやっぱまずいよな。何処でもだけど……」

「仕方あるまい。流石に体が持たないからな。今のうちに休んでおこう」

 宿は余程の事でも無い限り部屋が埋まる事は無い。朱不尽以下鏢局の者は皆一つの部屋で雑魚寝の状態で休むことにしたが、野宿が多いだけに屋根があるだけマシと言える。夏天佑と馬少風の二人は別の部屋を選んだ。

 

 深夜、朱不尽達の部屋の扉が静かに開き、主人が入って来た。真っ直ぐ朱不尽の許にやってくると腰を屈める。さすがに朱不尽も深く寝入っており、主人が声を発するまで気付かなかった。

「朱鏢頭、朱鏢頭」

「ん……んん?」

「北辰の――」

「北辰!?」

 朱不尽はいきなり目を見開いて飛び起き、主人の方が逆に驚いてしまった。朱不尽の声に一緒に部屋に居た者達も目を覚まして各々自分の獲物を手にする。皆、朱不尽同様寝入っていてまだ何が起きたかも理解できていないが直ぐに眠気も飛んで一気に緊張状態となった。

「皆さん、落ち着いて下され。朱鏢頭。先ほど北辰の人間が三名、前を通って行きました。一人は北辰の旗を背負っておりまして」

「旗? 珍しいな」

「はい。一体何があったのでしょう?」

 北辰教の者が背負っていた旗と言うのはおそらく北辰を表すのぼりの事だろう。黒地に白の星の印が配置されているだけの物だが、上に北辰、下に北斗七星を置く。他に取り立てて飾り付けてある訳でもないが、北辰教以外の者の目にはその黒が不気味に映る。

「通って行っただけか?」

「時折立ち止まって話している様でしたが、とりあえず此処の前は過ぎて行きました。しかしまだ近くに居ると思いますが」

「ふむ……夏殿は、夏殿はまだ部屋か?」

「いや、見ておりませぬが……」

 朱不尽は剣を手に立ち上がり、すぐに部屋を出て行こうとする。

「朱鏢頭」

 楊迅が声をかける。

「少し様子を見に行くだけだ。お前達は此処に居ろ。外に出てはならん」

 楊迅達は浮かせた腰をゆっくりと床に戻す。朱不尽は静かに部屋を後にした。

 朱不尽は隣の夏天佑らの部屋の前に立ち、中に声をかける。が、反応は無い。

「夏殿、失礼致す」

 ゆっくり扉を開け、中の様子を窺った朱不尽は驚きの表情を浮かべた。中には夏天佑、馬少風の姿は無い。その場で振り返り辺りを見回すが、人の気配は無かった。

「朱鏢頭?」

 宿の主人が傍にやって来る。

「誰もおらん。外か……」

「全く気が付きませんでした」

「表を見てくる」

「朱鏢頭、お気をつけ下さい」

 朱不尽は表に出る前から足音を消し、入り口の戸をそっと開くと耳を澄ます。暫くそのままの体勢で居たが、僅かに空けた戸の隙間にそっと体を差し入れ表に出た。また静かに戸が閉められた。

 

 

 二十八

 

 宿の周りは静まり返ってとりあえず人の気配は無い。朱不尽は暗がりの中を進む。この村は街道沿いに旅人を相手に商売する者達が住むくらいで民家の集落も無い。少し行けば辺りには建物も無くなる。

(もう通り過ぎたか? しかし……夏殿は何処へ?)

 生ぬるい夜風が時折緩やかに通り過ぎる。

(ん?)

 朱不尽は耳を澄ます。が、何も聞こえてはこない。

(気のせいか……)

 再び歩き出そうとしたその時、風に乗って声が朱不尽の耳に届いた。しかしそれが何と言っているのかまでは聞き取れなかった。朱不尽は剣を持ち直して声のした方へ歩き出す。視界の悪い中を暫く行って初めて、声が発せられたのが村から程近い林の中である事が分かった。

 微かな月明かりを頼りに雑木林へと足を踏み入れる。音を立てぬ様に注意しながら進んで行くと、今度ははっきりと男の声が聞こえてきた。

「もう時間の問題ですぞ、きっと張新様もお咎めにはなりますまい。お体の事もご存知なのですから……」

「フン、何故俺が張新ごときの機嫌を窺わねばならん? 教主は何と言っている? 教主の言う事など聞く気にならんか?」

「教主はまだ――」

「いつまでそのような事を言い続けるつもりだ? 教主はもう子供では無いぞ……もういい、俺はもう関係ないからな」

 朱不尽は木立の陰で息を潜めて耳を傾けている。人影らしきものは見えているが、北辰の黒い旗までは確認出来ない。しかし一方の男の声は間違いなく夏天佑のものであった。

「戻られなければ本当に謀反とみなされまするぞ」

「どうするつもりだ?」

「張新様は七星しちせいをお召しになられました。もう景北港を出られたかも知れませぬ」

「ハハ、知れませぬ? 知っておろうが! 七星か。俺を始末させる為だな。とうに謀反人な訳だ」

「大人しくお戻りになれば……」

「戻らん。七星でも何でもよこすがいい。で、お前達はどうする? とりあえず俺と遣り合っていくか?」

「……」

「今は少しばかり体調も良くてな。遊んで行け」

 夏天佑が腰の剣を抜き、朱不尽の目に一瞬剣のきらめきが映る。

「総監! 我等は……貴方様の行方を――」

 追手らしき男の声が急に聞こえなくなった。

「そ、総監!」

 人影が二つ揺れたかと思えば急に走り出す。

「逃がさん!」

 夏天佑の声が響き、更に人影が現れて先の二人を追いかけ始めた。朱不尽も暗闇から飛び出して距離を保ちながら追う。先程まで夏天佑らが話していた場所には一人の男が鮮血にまみれて横たわっており、その背には黒字に北辰の旗。

(……馬殿は何処だ?)

 朱不尽は辺りを見回しながら夏天佑を追いかけるが馬少風の姿が見当たらない。少し行った処で前方の人影が立ち止まり、朱不尽はすぐにまた近くの暗闇に身を隠す。どうやら追手の二人は大して逃げる事も出来ずに夏天佑に捕まってしまった様だ。

「総監様! わ、我々はただ命じられただけで――」

「そりゃそうだろう。命じられただけの者がこれから俺を殺しに来るんだろう?俺はどうすればいい?」

「天佑!」

 突然、馬少風の声が辺りに響き渡り朱不尽は驚いて身を強張らせた。あまりに大きく何処から発せられた声なのか見当がつかなかった。

 

 

 二十九

 

 夏天佑は尻餅をついている二人の男を見下ろしたまま動かない。

「三人だけか?」

「え?」

「お前達は三人だけで来たのか?」

「ほ、他にも……こっちの街道は俺達だけで……」

「フン、それは本当か?」

 顔を上げて辺りを見回す。暫くして突然頭上の木の葉がざわつき、新たな人影が落ちてきた様に見えた。

「どうした?」

 夏天佑は全く動じずが降ってきた男に声をかける。その男は抜き身の剣を持った馬少風で珍しく息が切れており、左の袖が数箇所切れている様であるが怪我をしているのかどうかは朱不尽には見えなかった。

「お前を探している男が、もう一人居た」

「フン、で? そいつはどうした?」

「……すぐにやって来るだろう。足は俺の方が速いようだが剣は歯が立たない。危ないぞ」

「ほう」

 夏天佑は再び追手の男達に向き直る。

「誰だろうな?」

「……わ、分かりません」

「俺だよ」

 突如更に新たな声が加わり、先程馬少風が現れた頭上から剣が真っ直ぐ突き出された。弾かれたかのように身を転じて馬少風と夏天佑が飛び退る。二人とも着地と同時に剣を構えた。

「いやぁ、そこのひょろ長いの、凄まじいな。見失わない様にするのが精一杯だ」

「りゅ、劉毅様!」

(何!? 劉毅だと!?)

 朱不尽は暗がりから目を凝らして男を見る。暗くてよく分からないが、どうやら夏天佑と変わらぬ背格好、しかし顔は恐らく全く違うだろう。方崖で聞いた劉毅ならば若くは無い筈だ。先程の話し方は軽い口調だが声自体は低く安定しており気息が充実している様子が窺える。劉毅は自分に向かって身構えた夏天佑を見て嘆息を漏らした。

「あんたのそんな姿が見られるとはな。体を壊すとやはりそうなってしまうものか」

「……」

 夏天佑は構えを解いて胸を張って見せる。

「張新に命じられたか?」

「おいおい、俺はそう何でもあれの言う事を聞くって訳じゃない。ま、あんたを追えとは言ってたがな」

「それを命令と言うんだ」

「んー少し違うな。俺は自分の意思で此処に居るんだ」

 劉毅はそういうとおもむろに剣を一振りしてから鞘に納めた。

「他の者はどうした? お前だけ抜け駆けすれば快く思わんだろうな」

「止めてくれ。あんた忘れたのか? 十年前、あんたが方崖に来てすぐ、俺達は揃いも揃ってこっぴどくやられちまった。そりゃそうだよなぁ。あの、殷汪だからな」

 劉毅はニヤリと笑みを浮かべる。自分がやられたという話をしておきながらまるで夏天佑を嘲笑うかのような面持ちだ。

「お前達、もう用は済んだのか?」

 劉毅は未だに腰を抜かしている男二人に言う。

「あ、あーもう……劉毅様に此処はお任せして……」

「そうか。ではもう行け」

「は、はい」

 男達は朽ちて落ちている木の枝に足を取られながら穴倉から這い出す獣のように四つん這いで走り出し、暫くしてからようやく立ち上がって駆けて行った。

 

 

 三十

 

「じゃあどうする? 何しに来た?」

「……ずっと隠れてるつもりだったんだが、この男に見つかってしまったからな。まだ名を聞いてなかったな?」

 劉毅が馬少風に言う。

「馬だ。お前は誰だ?」

 馬少風は剣の切っ先を劉毅に向けたまま口を僅かに動かした。

「俺か? 名乗る程でも……と言いたいんだが、既に俺の名を口にした奴が居るのにそれは変だな。俺は劉と言う。こちらの殷総監とは知り合いでな」

「俺に用が無いならさっさと行ったらどうだ?」

 夏天佑が苛ついた口調で吐き捨てる。

「いや、あんたに用があるんだ。しかし、あんたをどうこうしたい訳でも無いし、あんたに何かして欲しい訳でもない。ま、気にせずに旅を続けていただきたいな」

「何を訳の分からん……」

 夏天佑がまた胸元を押さえる。

「ほれ、また具合が悪くなるぞ? すぐにでも発った方が良くないか?」

 劉毅の言葉に夏天佑は訝しげな眼差しを向ける。

「お前、何を……? いいか、はっきり言おう。お前達七星が手を下すまでも無く、俺はもう長くない。何処へ向かったとしても辿り着く前におしまいだ」

「七星? ハッ、止めてくれ。そんな名、今では何の意味も無い。殷汪がやってきて俺達七人は無様な負けっぷりを披露してしまったからな。北辰の七星は地に堕ちた。あの時から俺は元の、九宝寨の劉毅だ。ま、今はそんなことはどうでもいいな。あんた、何故諦めた?」

「諦めた?」

 夏天佑が鸚鵡返しに聞き返す。丁度その時馬少風は剣を腰に収めて夏天佑の傍に寄った。劉毅は今のところ争う気は無さそうだと判断したのだろう。朱不尽はずっと同じ体勢で暗闇の中で身を硬くしている。

「あんたのその内力の暴走、止められるかもしれない人間が居るんじゃないのか?」

 劉毅は横目で夏天佑を見ながら静かに言う。

「お前……お前は……」

 夏天佑は言葉を続けられない。

「あんたが方崖を飛び出したと聞いて驚いたよ。驚いたが……何かこう……胸が躍った」

「……どういう意味だ?」

「フフ、張新はあんたと真武剣を結び付けたがっているらしいな。証拠を得たとも聞いている。ついにあんたは方崖を飛び出して真武剣に走ったと景北港ではもっぱらの噂だ」

 劉毅の言葉を聞いて朱不尽は額に手を当てて考え込む。

(何だ? あの男が俺達を襲ったんじゃないのか? いや、まだ分からない。張新の命令の意 図は知らされずにただ荷を奪えと言われただけかも知れん)

 劉毅は話を続ける。

「俺はそうじゃないと考えている。殷汪はそんな男じゃない。正反対だ。そう思わないか? 北辰だの真武剣だの、どうでもいいと思ってる筈だ」

「……」

「あんた、もう何年も景北港を出てないだろう? 体が言うことをきかなくなったからか?」

「……そうだ」

「あんたは急に出て行き、俺はすぐに閃いた。いや、ちょっと違うか。何て言うかこう……」

「さっさと言え!」

「ああ、言おう。あんたは真武剣派の許に行くのではない。行き先は、殷汪の処だ」

「……」

「あんたは殷汪じゃない。この事は他の誰も気付いておらん。張新もな。うまくやったもんだ。あんたをよく見ていれば分かりそうなモンなのにな。普通ならすぐばれる筈だが、フッ、殷汪はその珍妙な功夫をあんたに授け、誰も近付かせなかった。さすが殷汪、やることが普通じゃない。あんたが苦しむ事になると最初から分かっていただろうな」

 

 

 三十一

 

 夏天佑は浅い呼吸を繰り返しながら目を閉じている。

「……何故張新に言わない?」

「否定しないんだな」

「……」

 劉毅は夏天佑に真っ直ぐ向き直った。

「俺はあんたが何と名乗ろうとどうでもいい。あんたは本物の殷汪の居場所を知る人間だ。俺は会いたいんだよ、十年前方崖に現れた本物の殷汪にな」

「俺について来れば会えると?」

「そうだ。これは俺のごく個人的な興味だ。北辰は関係無い」

「……残念だったな。殷の兄貴にはお前は会えない」

 夏天佑は微かに笑みを浮かべている。

「おい、兄貴って何だ? まさか本当の兄弟ってんじゃないよな?」

「そんな訳ないだろう」

「会えないというのは? あんた、会いに行かないつもりか? 本当に諦めたのか?」

 劉毅は驚いた様に夏天佑の表情を窺った。

「殷汪ならその体がどうなってるのか分かるんじゃないのか?」

「お前は会えない。俺も会えない。これでおしまいだ」

「そう簡単に――」

「お前、何故殷兄貴に会いたいんだ? 昔やられた仕返しでもするのか? フン、たった十年でどれほど腕を上げたのか知らんが、兄貴に敵う奴はこの世に居らん」

「そんな事は考えてない。今はな。なぁ、あんた、会いに行かないだけか? まさか居場所を知らないのか?」

「……」

「教えてくれないか。何処に居るんだ?」

 劉毅は先程までの態度とはうって変わってまるで夏天佑に懇願するかの様に夏天佑の顔を覗き込んでいる。夏天佑もじっと劉毅の顔を見ていた。

「張新に言え。教主が探し出せと言えば皆競い合う様に探し始めるだろう。すぐ見つかるかもな。だからといってどうにも出来はせんだろうがな」

「……そうかもな」

「お前の個人的な用事はこれでもう――」

 夏天佑が急に咳き込んだ。右手で口元を覆い、左手は襟元をきつく握り締めている。持っていた剣が地に落ちる。劉毅は腰を屈めてその剣を拾った。

「あの剣じゃないんだな……」

 屈んだまま拾い上げた剣を眺め呟く。夏天佑の咳は止まらない。

「恨んでないのか? 殷汪を。あんたはあいつの身代わりにさせられ、しかもそんな危なっかしい技を……」

「う、恨むものか……お前には……関係ない事だ」

「そうか」

 劉毅は剣の柄を夏天佑に向けて差し出すが、夏天佑は視線を上げる事無く喘いでいた。劉毅は剣を地面に突き立てると立ち上がり踵を返して歩き出した。

「どうした? まだ……命令が残っているだろう?俺を殺す……命令が」

 劉毅は立ち止まって振り返る。

「あんたはもうもたないと言っただろう? ならば放って置くさ。俺が興味があるのは殷汪だけだ。此処に来たのはあまり意味が無かったな」

 劉毅はそれだけ言うと再び歩き出した。その時、

「待て!」

 鋭い声が響き渡り、劉毅を立ち止まらせた。朱不尽が暗がりから飛び出し夏天佑の傍に立っていた。

「ほう、やっと出て来たな。誰か知らんが俺に用があるのか? それとも其処の……殷汪か?」

「あなたに聞いておかねばならぬ事がある。私をご存知無いか? 顔を見た事は?」

 

 

 三十二

 

「何だ? 自分がどれだけ有名か確かめたいのか?どれ」

 劉毅は近付きはしなかったが大袈裟に朱不尽の顔を覗き込むような仕草をしてみせる。

「んー知らんな。名を聞こう」

「朱不尽と申す」

「ほう、その名はわりと有名だ。千河幇だろう? ん? 何故こんな処に居る? あんたまさか、緑恒に逃げるつもりだったのか?」

 劉毅は夏天佑に視線を移す。

「俺は何処にも……行かん」

「死ぬまで彷徨うって訳だな」

「……」

「劉毅殿と言われたな」

「ああ。何だ?」

 朱不尽はじっと劉毅の目を見据えて呼吸を整えた。

「我が鏢局が三江村で賊に教われた事はご存知か?」

「らしいな。景北港で噂になっている」

「……我等を襲ったのは九宝寨の者ではないかと聞いた」

「ほーう。そうか」

「あなたはその頭領だ。認められるのか?」

「さぁ、俺は知らんな」

「知らぬと? では、誰が知っているのだ!?」

 朱不尽は剣を持った腕を劉毅に向かって突き出した。確かな証拠を掴んではいないが劉毅のとぼけた様な答えを聞いて怒りが込み上げてくる。

「誰が知っているか? そんな事は自分で調べろ。自分の鏢局の話だろう? 俺は関係無いな」

「わ、私はこの夏殿にあなたの仕業だと聞いたのだ!」

「夏? 誰だ?」

「ここに居る、夏天佑殿だ! どうやら蔡元峰殿もそう考えておられる様だが、それでも知らぬと?」

「あんた、夏と言うのか。ハハ、初めて聞いたな。夏天佑か。ふーん」

 劉毅は朱不尽を無視するかのように夏天佑に喋りかけた。夏天佑が顔を上げる。

「お前は三江村には行ってないな。きょうはどうだ?手勢を連れて出ていた筈だ」

「そうなのか? よく調べたな。じゃあ喬高きょうこうか。俺じゃないな」

「喬高とは? 九宝寨の者か!?」

 全く他人事の様に話す劉毅を見ていると朱不尽は益々頭に血がのぼり顔が紅潮している。それとは対照的に劉毅は朱不尽に冷ややかな眼差しを投げた。

「喬高というのは九宝寨の寨主になる男だ。九宝寨の事が知りたければ会いに行くがいい」

「誰が寨主か知りたいのではない! 我等を襲い、身内を殺した下手人だ!」

「わからん奴だな。俺は知らんと言った。これ以上は何も無い。あんた調べるのが面倒になってもう此処で俺を下手人に仕立てようってのか? あんたの名声には相応しくないな」

 完全に開き直っているのか本当に知らないのか、どちらにしても朱不尽にはもう言う言葉が出て来なかった。夏天佑が劉毅に問い詰めるのを期待したが俯いて喘ぐだけである。

「ではあと一つだけ聞く。九宝寨にきゅうという男が居るか?」

「ああ、居るかもな。大勢人間が居るんでな。求という名はそう珍しくも無い。どうしてもと言うなら二、三人見繕って来てやっても……いや、駄目だな。そんな暇は無い」

 劉毅は朱不尽に口を開かせない為に間を空けず夏天佑に話しかける。

「じゃあ……夏とやら。これで最後だな。俺は自分で殷汪を探す。ま、あんたもご苦労だったな。ゆっくり休んでくれ。息のある間は何処かに落ち着いた方がいいぞ」

 劉毅は朱不尽には目もくれずに再び歩き始める。朱不尽はただその背を睨む以外何も出来なかった。


「本当に俺が殷汪では無いと何故言い切れる?」

 先程まで苦しんでいた夏天佑の声が変わった。劉毅はぴくりと肩を持ち上げ、ゆっくりと振り返る。朱不尽も突如変わった夏天佑の様子に半ば呆然とその顔を眺めた。

 

 

 三十三

 

 虚ろな眼差しが揺らいでいる。夏天佑の体が前後に揺れ、だらりと下がった両手の指先もゆらゆらと動いていた。劉毅は豹変した夏天佑の気配に驚き真っ直ぐ見据えて対峙する。

「あんた、夏と言うんだろう? 今更――」

「俺は太乙北辰教の総監、殷汪……殷汪だ。劉寨主、試してみるか?」

「夏とやら、もうやめておけ」

 夏天佑は手を持ち上げ両の手のひらを眺める。

「殷汪……何が違う?」

 ゆっくりと指を折り曲げ、そしてしっかりと握り締める。次の瞬間、夏天佑が音も無く地を蹴った。

 劉毅は即座に腰の剣を抜く。凄まじい勢いで劉毅に迫る夏天佑はまるで地面ぎりぎりを滑空する猛禽さながら、駆けるのではなく飛んでいる。朱不尽はその物の怪と見紛う程の夏天佑の姿に思わず後退った。馬少風の方は夏天佑が飛び出すのと同時に後ろに下がって観戦する構えで居る。得物を持たぬまま襲い掛かった夏天佑はそのまま劉毅の足を掴もうとする。劉毅が真正面から剣を地に突き立てる様に腕を振り下ろした瞬間、初めて夏天佑は左足を出して再び地を蹴り、体を回転させながら横へ避けた。すぐに劉毅が追う。すると今度は大きく蜻蛉を切って劉毅の上を飛び越えた。その速さは電光石火、しかも今は闇夜で夏天佑の姿がはっきりと捉えられない。

(奴の軽功けいこうは馬殿よりも上か!?)

 朱不尽は目まぐるしく飛び回る夏天佑を大きく見開いた目で追った。しかし劉毅もそう容易く夏天佑の挙動に惑わされはしない。常にその手に持った剣の切っ先は夏天佑の体すれすれまで迫っている。

「得物も無しでどうするつもりだ?」

「どうにかしよう」

 夏天佑が動きを緩めた処に劉毅が鋭い突きを入れる。剣が夏天佑の胸元に触れそうになったその時、夏天佑の手が一瞬消え、劉毅の突きが止まった。

「なっ……」

 見れば夏天佑が両手の指を綺麗に揃えて劉毅の突き出した剣の先端を摘んでいる。すぐにキィーンと甲高い金属音が響き、劉毅は何かを避ける様に後方へ飛び退って地に膝を着きながら再び剣を構えた。

「何だと……」

 劉毅の視線は自らの剣先を向いている。剣は縦に裂けた様で前方にある筈の剣の切っ先が失われて細くなり、長さも半分程になっていた。すぐに夏天佑を見遣ると両手にきらきらと光を放つ劉毅の剣先を摘んだままだ。左の手に剣の半分、右の手にはかけらと言ってもおかしくない刃のごく一部。しかしそのどちらも裂けた事によって更に鋭利な刃物となっている。

 夏天佑はその二つを持ったまま腕をだらりと下げ、劉毅に向かって笑みを浮かべる。

「劉寨主、……楽しくなってきたな」

「あんた本当に殷汪……いやそんな事は無い筈だ。しかしあんたも凄いな。今まで知らなかったなんて何とも惜しい」

「さぁさぁ、仕切り直しだ。お前の本気を見てみよう」

 夏天佑は口調までも変化しており別人の様である。その体に緊張は一切無い。

「殷汪に教わったのか? あんたの動きそのものは特別変わってはおらんが細かい挙動は確かに似ているな……」

「ほう、よく見てるな。しかし似ているというのは当たらんな」

 不意に左手長い方の折れた剣先を劉毅に向けて投げた。劉毅はすぐに反応して折れた剣を前に掲げて目を見張った。夏天佑の投げた剣は一直線に飛んでくるにも関わらずその速度が異様に遅く剣に重厚な内力が込められている。劉毅は急いで立ち上がり叩き落そうと剣を振り上げる。

「そんなに大きく隙を作る奴も珍しい」

 劉毅が息を呑む。何故か迫り来る剣よりも先に夏天佑の右手が劉毅の胸元を襲う。凄まじい勢いで突き出される光。

「おわっ!」

 思わず劉毅が驚きの声を上げた。

 

 

 三十四

 

 劉毅はただ夢中で自ら倒れこんで地面を転がり、その後すぐに地を蹴って更に後方へ跳躍して逃げた。

 

「おい、凄えな。あの夏って奴。相手は逃げてばかりじゃねぇか」

 茂みに潜む数人の影。宿から出てきた范撞ら鏢客達である。朱不尽の戻りが遅いので出てきたのだが村は小さくすぐに林の中の物音に気付いた。

「朱鏢頭は無事みたいだね」

「ああ。あれが北辰の奴か? 何で一人なんだ? 宿の主人は三人て言ってなかったか?」

「あの夏さんが倒したのかも」

「そうかもな。しかし体の方はどうなってんだ? 普通に動ける……どころじゃねえな。異常だ」

 

 夏天佑の投げた剣は劉毅に届いておらず、かと言って地に落ちた訳でもない。再び夏天佑が指で掴み取ると凄まじい勢いで旋回しながら劉毅を追う。益々速度が上がり僅かな月明かりが夏天佑の両手の金属片を光の輪へ変える。もはや劉毅は攻めの手を繰り出すことは不可能に思えた。

「ちょっ、待ってくれ!」

 劉毅は声を振り絞って叫ぶが夏天佑に反応は無い。ただひたすら劉毅を襲うからくり人形の様である。

「天佑!」

 再び聞き覚えのある声が辺りに響き渡り、夏天佑が声の方へ首を回してようやく足を止めた。声の主は馬少風であった。

「……なんだ?」

「夏天佑。もう勝敗は明らかだ。そうだろう?」

 劉毅はそのまま逃げ続け、かなり距離をとってからようやく息をついた。

「勝敗? そんなことは始める前に分かってる。俺は負ける事は無いからな」

「夏天佑。もう引き上げよう。あいつももうやる気にはなれんだろう」

 馬少風は劉毅の方を向く。劉毅は口を開きかけたがすぐに口を噤んで夏天佑を見た。再び襲って来られれば命は無いかもしれない。劉毅は混乱していた。

(こいつは本当に殷汪なのか? そんなはずが……。いや、殷汪は動きの全てが奴より遥かに精妙だ。こいつはまるで……ぶっ壊れた殷汪だ!)

「夏天佑」

 馬少風は三度「夏天佑」と姓名を口にした。

呂州りょしゅうはどうだ? 随分戻ってないな。一度行って見ないか?」

 何故か馬少風は随分と穏やかな口調でそんな事を夏天佑に話しかけた。

「呂州……呂州か。咸水かんすい……」

「ん? 咸水がどうした」

「いや呂州、呂州は何処だ?」

 夏天佑は誰に言うでもなく宙を見つめて呟いた。

「咸水って何処だ? そうだ! 咸水!」

「おいどうした?」

「殷兄貴! 助けてくれ! 俺を……俺を!」

 突然、夏天佑は叫んでそれまで持っていた剣の破片を落とし、そのまま崩れるように地に膝をついた。殷汪は咸水に居ると思いついたのだろうか。一体この夏天佑は自分を夏天佑だと分かっているのか殷汪だと思い込んでいるのか、傍目には判断がつかない。

「殷汪は……咸水に戻っているかもしれないぞ……」

 劉毅が夏天佑の表情を窺いながら恐る恐る言う。すると急に夏天佑が顔を顰めたので慌ててしまい折れた剣を掴んだ手に力が入る。

「……劉寨主、お前はまだ解っておらん――」

 夏天佑は険しい表情でゆっくりと顔を向け劉毅を睨みつける。劉毅が後退りすると急に夏天佑は口元を両手で押さえた。目が思い切り開かれている。しっかりと閉じられた筈の指の間から真っ赤な血が漏れ出した。

 

 

 三十五

 

「夏殿!」

「天佑!」

 朱不尽と馬少風が同時に叫ぶ。夏天佑が手を口元から離して驚きの表情で眺めるがすぐに再び喀血し、崩れる様に地面に突っ伏した。

「天佑? しっかりしろ!」

 抱きかかえて仰向けにすると夏天佑の真っ赤に染まった唇が震えており目が殆ど開いていなかった。

「再び血を吐けば呼吸出来なくなる! 横に向けるんだ!」

 朱不尽が言うと馬少風は夏天佑をゆっくりと横向きに地に寝かせた。数回咳き込んでまた新たな血が口から流れ出た。

「これが最後か……」

 不意に背後から聞こえた劉毅の声に朱不尽と馬少風がすぐに振り返って立ち上がり、二人同時に剣を抜いた。

「待ってくれ。いくら俺でも今のその男を襲う程恥知らずでは無い。俺は完敗だった。今生きているのが不思議な位だ……」

「夏殿をどうするつもりだ?」

 朱不尽は剣を下ろして劉毅に尋ねる。

「どうもしない。……総監の身はあんたらに任せる」

 劉毅は横たわる夏天佑に近付いて見下ろす。その眼差しは怒りか哀れみか、判断のつかない複雑な色をしていた。

「劉……毅」

 夏天佑が声を振り絞った。

「忠告……兄貴を追うのは止めろ。お前如きに、興味など無い。俺、俺の相手にもならん奴が……兄貴に適うものか。お前などは相手にせん」

 夏天佑は大きく呼吸をしてからまた続ける。

ぼくご先輩の天棲蛇てんせいだ……失われた今、兄貴は……」

「穆とは?」

 劉毅はすぐに聞き返す。

「穆……? 俺は……い、殷……汪……」

 夏天佑がそう呟いた後、暫く沈黙が流れた。

「天佑?」

 馬少風が顔を覗き込む。

「どうした? 夏殿?」

「……死んだ」

「何だと!?」

 朱不尽も傍らににじり寄って夏天佑の様子を確かめる。薄く開いた唇と目。肩を揺すって見てもその表情が変化する事は無かった。

「死んだか……」

 劉毅は一人呟いた。

「殷……殷総監は逃亡中に死亡した。方崖へはそう伝える。何ともあっけないが、これで終わりだ」

「……終わってはおらん」

 朱不尽は夏天佑を見つめたまま劉毅に言う。鏢局を襲ったのは九宝寨なのかどうか、詳細を知っているであろう人物はこれで景北港の蔡元峰だけになってしまった。

「気の済むようにしろ。だが、景北港で調べるなら慎重に事を運ぶんだな。何故か張新は最近調子付いている。一筋縄ではいかんな。フン、俺が言うことでは無いな」

 劉毅はそう言うと夏天佑から目を逸らし、その場を去って行った。朱不尽はその背中を睨む様に見つめ、馬少風は夏天佑を見たまま顔を上げることは無かった。

「……この男に一体何があったんだ? 何故こんな……」

 馬少風は夏天佑の暖かい頬を撫でていた。そんな事を言いながらもその長い顔はいつもと比べて変化は見られなかった。

 

 

 三十六

 

「朱鏢頭、一体何が……?」

「連れの夏殿が亡くなった。少し行った左手の林の奥だ。うちの鏢客の者達はまだそこに居る」

 一人宿に戻ってきた朱不尽が宿の主人に告げる。

「亡くなった? まさか北辰の……」

「いや、夏殿は前から病があったのだ。我等は先を急がねばならんのだが緑恒はまだ遠い。夏殿を連れて行くのは無理だ」

「あの……あの方、総監様は何処へ向かっておられたのですか?」

「……決めてはいなかった。方崖から逃げて来たのだ」

「えっ?」

「とにかく、夏殿の遺体をなんとかせねばならんのだが……」

「この先に墓地……と言っても行き倒れの者を埋葬している空き地みたいなものですが、其処に埋葬しては如何でしょう? 総監様には気の毒ですが……」

「仕方あるまい。そうしよう。案内してくれ」

 暗闇の中を男達が遺体を運ぶ。自分達が手を下した訳でも無いのだがどこか後ろめたく思われてならなかった。つい先程まで圧倒的な技を見せ付けた北辰教総監のこの男の体が急激に冷たくなっていく。何故自分達が北辰教内の揉め事に巻き込まれなければならないのか鏢局の仲間が殺された事は無論この上ない一大事であるが、少し前まではもっと事は単純な筈だった。下手人を探し出して仇を討つ。必ず成し遂げねばならないこの事が今ではとてつもない難事に思われて、朱不尽の中に憂鬱に思う気持ちが少しづつ大きくなってきていた。

 

「この人、望んで総監になったのかな? それとも殷汪って人に無理やり押し付けられたんだろうか……。何だか、不憫な気もするな……」

 自分達で掘った穴の底に横たわる夏天佑を見下ろしながら、楊迅は呟く。

「そうだな。殷汪ってのがこの姿見たら何て言うんだろうな。眉一つ動かさねぇかも知れねぇな」

 暫く皆で眺めていたが、やがて馬少風がおもむろに土を被せ始めた。

「お前達も手伝え。長居は出来ん」

 朱不尽がそう言うとその場の全員で土を運ぶ。あっという間に夏天佑の体は冷たい地中へと消え去った。墓標も何もない。色も音も無い終焉の地。

 馬少風が一人黙ったままその場を離れ、さっさと宿へ向かって行き、朱不尽もその後に続いた。

「あの馬って人、夏さんの知り合いだったよね?」

「ああ」

「あの人、何も感じないのかな?」

「さぁ? 同郷って言ってただけだしな、あまり知らないのかもな。ま、あの人に感情があるのかどうかも怪しいけどな」

 

「馬殿、思わぬ事になってしまったがここまでだな。そなたもあまり深く関わっては千尽達にも累が及ぶ事になろう。最初から無関係では無いが……」

「俺は夜が明けたら東淵に戻ろうと思う」

 朱不尽は頷いた。

「分かった。もうあまり寝る時間も無いがとりあえず休もう。我等も夜が明けたら発つ。お前達も少しでも寝ておけよ。北辰教の者がまた来ないとも限らん。急いで緑恒へ戻るぞ」

「朱さん。あの戦ってた奴は誰だったんだ? 帰ってったみたいだけどまた来るのか?」

「あれは……もう来ないだろう。しかしどうやら追手は方々に何人も出している様だ。最初に見た三人組とも別々に行動している。次に誰が現れるかは分からん。恐らく今夜はもう来ない筈だ。さぁ、部屋に戻ろう」

 朱不尽が先に部屋へ向かう。皆部屋に戻り、再び疲れた体を横たえて眠りにつく中、楊迅は一人仰向けのまま暗い天井を見つめていた。

(殷汪か……どんな人だろう? 確か梁媛は都で会ったんだっけな。もっと話を聞いておけば良かったな……)

 

 

 三十七

 

 早朝、馬少風は言葉すくなに朱不尽達と別れて街道を北へと駆けて行き、朱不尽はじっと後姿を見つめて見送った。東淵から此処まで夏天佑について来ただけだったが、何を思っていたのか、夏天佑の死をどう感じていたのか、何も分からないままだった。傅千尽に雇われた一介の用心棒に過ぎないと思っていたが、一体どのようにして傅千尽と出会ったのか、あの時見せた軽功は何処で習ったものなのか、いつも黙ったままのあの男にはどんな人生があったのか。ふと浮かんできた考えに朱不尽はハッとなった。

(夏殿は呂州から景北港、馬殿も同じく呂州から東淵? 一緒に呂州を出て来たのか? 夏殿はいつ殷汪と知り合ったのだ? 馬殿の軽功も夏殿のあの動きに近いものがあったが……馬殿は殷汪と名乗っている夏殿に殷汪とは誰なのか聞かなかった。もしや馬殿も殷汪を知って……いや、夏殿と同じ、もっと近い関係なのではないのか?)

 

「朱鏢頭、準備が出来ました」

 楊迅達がそれぞれ馬を引いて朱不尽の傍に集まる。

「朱鏢頭?」

「ん? ああ、もう出られるな」

「はい」

 朱不尽も自分の馬の許へ行き、近くに居た宿の主人に話しかける。

「夏殿……北辰の殷総監がここで亡くなった事は方崖に伝わると思う。見に来るかも知れん。遺体を掘り返すくらいの事はするかもな。主人、あそこには行き倒れの者が埋葬されていると言ったな?」

「はい」

「夏殿も病だった。遺体には刀傷も無い。行き倒れを埋葬したという事にしておいてくれ。北辰の者が来て万が一千河幇の事に触れたら、此処に居たのは俺ともう一人の、二人だけだったと言う事に。向こうが触れたら、だ」

「は、はい。でも本当にそれで……?」

「ああ、それで良い。頼む」

「分かりました。朱鏢頭、皆様もお気をつけて」

「よし、では行こう」

 朱不尽達五人は一斉に街道を南へと駆け出した。

 

 荷を運びながら景北港へと向かっていた時とは違い、皆馬に乗り休息もそこそこに街道を一気に南下し、往路の半分程の日数で緑恒へと舞い戻った。此処を出立してからもう三月が経とうとしている。東淵ならばもう秋が訪れているがこの緑恒の夏は長い。

 眩い日差しが差し込む中を一先ず鏢局の総号へと向かう。

「やっと帰ってきたな。もう暫く動きたくねえな」

 范撞が目を細めて辺りを見回している。

「……そうだな。当分仕事は受けん。存分に休め」

 朱不尽が答えるが、どこか力なく急に疲れきった様な声になっていた。

「朱さん、親父の所に行くんだろ?」

「ああ」

「俺も行っていいか?」

 朱不尽が振り返って范撞を見る。

「……そうだな。フ、俺に断わる必要も無かろう?」

「別に親父に会いたい訳じゃねぇ。俺は朱さんの話が聞きたいんだ」

「……まあ、いいだろう。先に鏢局に寄ってからな」

 通りを暫く行って鏢局の門が見えてくると中から数人の鏢客が飛び出してきた。

「朱鏢頭!」

「ご無事でしたか!」

 朱不尽は口元を緩めて頷いて見せた。

 

 

 三十八

 

「皆、無事に戻ったか?」

「はい。道中は何もありませんでした。朱鏢頭、何か分かったのですか?」

「たった今戻られたばかりではないか。こんな所で訊いてどうする?ささ、朱鏢頭、中へ。お前達ももう体は大丈夫か?」

「ええ。もうすっかり良くなりましたよ」

 楊迅達も他の鏢客達と言葉を交わしながら中へ入った。

「朱鏢頭!」

 門をくぐり中に入ると、魯鏢頭を先頭に更に数人が飛び出してきた。

「魯鏢頭、ご苦労だった。道中変わった事は?」

「ハッ! 何もありませぬ。皆、朱鏢頭のお帰りをお待ちしておりました」

「皆に迷惑をかけてしまったな。すまぬ」

「いえ、我等は朱鏢頭が無事に戻られて再び号令を下されれば何も申す事はございません。朱鏢頭、范幇主の処へ行かれますか?」

「ああ」

「では私も参ります。実は戻ってすぐに幇主と共に武慶に行ったのです」

「何? 武慶に……范幇主がか?」

「はい。朱鏢頭はすぐには戻られぬので、その……荷が奪われた事を報告に……」

 朱不尽は項垂れた。

「……そうか。俺は、幇主の顔を潰してしまった……」

「朱鏢頭、そう気を落とされますな。我等の失態であったことは否めませんが……真武剣の反応は少し意外でした」

「どういうことだ?」

「范幇主がお話になられるかと思いますので詳しくはそこで」

「ふむ。よし、では幇主に目通りしてこよう」

 朱不尽は魯鏢頭に言うと再び外へ向かう。後ろに居た范撞と魯鏢頭の目が合って范撞は下を向いて頭に手を遣った。朱不尽が先を歩いてゆくので二人並んでついて行く。

「……朱さんが、勝手に辞めるのは認めないってさ」

 魯鏢頭は少し間を置いてからニヤリと笑う。

「当たり前だろうが。これからが大変な時だ。しかし、よく無事に戻れたもんだ。もしお前一人ならどうなってたやら。ん? 田の奴はどうした?」

「あー後で朱さんに聞いてくれよ」

 

 幇主范凱の屋敷までの道中で朱不尽の顔見知りが次々に駆け寄って来ては声をかけた。或いは朱不尽の無事を喜び、或いは無くなった鏢客達のお悔やみを述べる。その度に朱不尽は丁寧に頭を下げて礼を返していた。

「朱鏢頭が参られました!」

 屋敷に声が響きわたり、朱不尽達が奥に向かって歩き出すと范凱が庭に下りて来ていた。

「おお、朱さん、帰ったな」

「幇主、戻るのが遅れて申し訳ございません」

「いやいや、無事で何より。さあ、部屋へ行こうか」

 范凱は朱不尽の肩に手を回し共に歩いた。その顔には笑みがこぼれていた。

 四人が部屋に入って腰を落ち着けると早速、范凱が口を開いた。

「朱さん、体の調子はどうかな? かなりきつい旅になってしまったが」

「此処に帰ることが出来なかった者達に比べれば私などは……」

「まあ、そうだ。しかし、ここは冷静にならねばな。鏢客の仕事は常に命を張って江湖こうこを渡らねばならん。安い命などというものは何処にも無いが、鏢局に居る者達は皆その覚悟が無ければならない。そして、朱さんの鏢局に居る者は皆その覚悟のある者ばかりだ。どうかな?」

 范凱は魯鏢頭に視線を向ける。

「勿論です。朱鏢頭、私は此処に戻ってから無くなった者達の家族に会って参りました。亡くなった本人は勿論ですが、家族の者たちも無念を訴えておりました。そして今は生き残った我等が必ずこの無念を晴らすと皆が信じております」

 

 

 三十九

 

 朱不尽はそれまで伏目がちだった顔を上げた。亡くなった鏢客は十八人。皆、待っていた家族が居た。貧しい家を支える若い働き手であった者や妻子と年老いた親を養う一家の大黒柱であった者達である。危険な家業であることは理解していても、突然その者達を失う悲しみと苦しみは耐え難いものであることは間違いない。残された家族もまた鏢局の身内なのである。自分がこれから父となり兄となって亡くなった者達の恩に報いなければならない。

「遺族の方々はこれから大変であろうが、我が幇会が責任を持って面倒をみよう。我等はこのような時にこそ助力を惜しまず団結せねばならん」

 范凱は落ち着いたゆったりとした口調で、そして力強く朱不尽に言った。

「それから、真武剣派だが」

「武慶に参られたと先程聞きました。申し訳ございません」

「ハハ、武慶は比較的近いというのに行ったのは十数年振りだ。懐かしかったよ」

范凱はそう言って笑う。

りく総帥に会って来た。朱さん、総帥は儂が言う前から殆どの事は知っておった。儂は報告と今回の損害の補償をする為に行ったのだが、総帥は補償金以外は受けとらなんだ。賊は我等共通の敵。共に協力して事に当たるというのが真武剣派の意であるという事だ」

「真武剣は我等をつけて……荷について来ていたのでしょうか?」

「もしそうなら朱さんが気がつかぬ筈が無かろう?」

「いや、私にはとても……」

「朱さん、どうしたんだ? 絶対に朱さんなら気付いた筈だ。間違いない。それに熟練の鏢客達も居る。皆揃って気付かない等という事があるだろうか?」

 范凱は魯鏢頭を見る。

「絶対はありませんが……しかし今回そのような人物は居ませんでした。居ない者を朱鏢頭が見る訳がありませぬ」

 魯鏢頭は范凱に向かって話しているが、その言葉は朱不尽に向けられていた。

「まぁ、真武剣派は北辰教を常に張っているだろうからな。東淵近辺の情報等は逐一報告されているだろう。で、まぁそういう話だけで終わったんだが、どうも総帥の態度には違和感があった。儂も会うのはかなり久しぶりで昔の印象と違いがあるのは当たり前だと思うが、どうも落ち着きすぎているというか、達観しているとでも言うのかな? 元々只者では無いのは確かだが……ああ、それと朱さんもわざわざ武慶まで来ることは無いと――」

「それは……?」

「朱鏢頭には引き続き調査を続行して頂きたいとな。引き続き、だ。朱さん、景北港まで行ったそうだね?」

「はい。方崖に初めて上りました」

「おお、そうか。方崖まで行ったのか。ふむ、真武剣派はそれも知っているのかもな。私も聞かせてもらおうかな?」

 朱不尽は賊に襲われてからの事を順を追って話す。特に北辰の蔡長老に会って方崖に上ってから殷汪を名乗っていた夏天佑という男の死までを事細かに范凱に伝えた。朱不尽の話に出てくる名は范凱も殆ど知っており、実際に会った事のある者が多かったが、馬少風、そして夏天佑という者については知らなかった。

「それでは、今の処襲ってきた賊、或いはその背後にある者の狙いは直接我等にあったのでは無いと言える訳だな」

「はい。どうやら北辰教の張新、この者の意思が最も強く絡んでいる様でございます」

「ふーん、張新と殷汪か……」

「幇主、張新という人物をご存知ですか?」

「いや、儂が方崖に行ったのは前教主の亡くなった時が最後だからな。殷総監や長老衆には対面しているが、張新という男は今の教主の……召使いのようなものだと思っておった。まあ、そうだな、陶峯殿が亡くなって殷総監も居ないのと変わらぬ状態ではそのような者がたかだか十年かそこらで権力を手にする事も可能か……」

 范凱は腕を組んでじっと考える様に宙を見据えた。陶峯の頃の太乙北辰教の事を思い起こしているのだろうか。

 

 

 四十

 

「とりあえず現状では我等に出来る事は殆ど無い。陸総帥も分かっている筈だが……どう調べろというのだろうな」

「でも的は北辰で決まりだろ?」

 魯鏢頭の後ろでずっと黙っていた范撞が、初めて口を開いて范凱に言う。

「今のところは、な。そう推測出来るというだけだ」

「だったら――」

「証拠を見せねば下手人はシラを切るだけだ。何か手掛かりがあるとすれば一番それに近いのは蔡長老だとは思うが……恐らく今となっては近づけぬな」

「はい。景北港はおろか、東淵周辺も近付くのは危ういかと」

 朱不尽はそう言いながら傅千尽達の事を思い浮かべた。傅千尽と洪破天の処にはもう北辰の者が来たに違いない。あの劉毅が方崖へ戻って報告していたなら傅千尽達にはあらぬ嫌疑がかかることも無いだろうが。

「……殷汪か」

 范凱が呟く。

「長く会っておらんが、どうにかして探し出すか……本物をな」

「どうやら東淵の洪破天殿が春頃に殷汪殿と共に都に行ったらしいのですが、その後別れてからは洪破天殿も殷汪殿の所在については全く分からないそうです」

「まぁ、あまり期待は出来ぬが殷汪ならたとえ長く方崖を離れていても人を良く知っておろう。我等の為に動いてくれるかどうかは分からんが、全く知らん間柄でも無い。とりあえず捜索に人を出しておこう」

 范凱が言うと朱不尽は黙って頷いた。

 

 朱不尽達は范凱の屋敷を出て再び鏢局へと戻ったが、道中三人とも押し黙ったままだった。珍しく范撞も物思いに耽っている体でじっと足元を見ながら歩いていた。

「朱鏢頭、お疲れでございましょう。食事を摂られますか?」

「……いや、まだ陽が高いが少し眠りたい。范撞、お前も眠いんじゃないのか?」

「んー、そうでもないかな。朱さん休みなよ」

 范撞の言葉に少し驚いた表情の朱不尽だったがすぐに相好を崩した。

「ハハ、お前にそんな言葉を掛けて貰えるとはな。ではお言葉に甘えるとしよう」

 朱不尽と魯鏢頭は鏢局の屋敷に入って行く。范撞は辺りを見回した。

「楊迅見てないか?」

 門の所で警備に就いている鏢客に声を掛ける。

「戻って暫くしてから出て行ったよ。陸先生の所とか言ってたけど、あの爺さんの事だろ?」

「ああ、そうだな。俺もちょっと出てくるわ」

 范撞は門を出て陸老人の家へと向かった。

 楊迅は陸老人と話し込んでいる。報告という訳でもないが、賊に襲われた事は勿論、道中見聞きした事をつぶさに陸老人に聞かせた。陸老人は黙って楊迅の言葉に耳を傾けていた。

「早速来てんのか」

 范撞が入って来て楊迅に言う。

「お前は無事だったのか?」

 陸老人は目を細めて范撞を眺めている。

「ああ。俺は運が良いからな」

「なるほど。それは良い事だ。しかし、運というのは急に強まったかと思えばすぐに消え去ったりもする。過信は禁物だ」

「なぁ、あんた、名はほうって言うのか?」

「……范撞、もう少し口の聞き方を改めてくれないかな?」

 楊迅が呆れた様に范撞に言った。

「難しいな。で?」

 范撞はすぐに陸老人に顔を戻した。

 

 

 四十一

 

「いかにも。儂の名は豊。言ってなかったか?」

「ああ。初めて聞いたな。真武剣の人間から聞いた」

 范撞はそう言って陸豊の反応を窺ったが、陸豊は全く表情を変えず眉一つ動かさなかった。

「儂もこの歳まで武林の隅で細々とやってきたのでな。真武剣派にも幾らか見知った顔はある」

「まぁ、そうだよな」

 范撞は軽く頷いて床に腰を下ろした。

「鏢局は暫く休業か?」

 今度は陸豊が尋ねる。

「いつまでか分からねえけど当分仕事は請けないって朱さんが言ってたな」

「先生」

 楊迅が改めて陸豊に向き直り背筋を伸ばした。

「私を……弟子にしてもらえないでしょうか?」

「弟子?」

「はい。今の私ではとても鏢客など務まりません。先生、私は先生に武芸を学びたいのです」

 陸豊は真剣な眼差しで真っ直ぐ自分の目を見つめてくる楊迅を眺めている。

「鏢客を続けたいのか?」

「それは……まだ分かりませんが、これからの私にはもっと……本格的に武芸を身に付ける事が必要だと思うのです」

「ほう。この世に生きる術は無数にある。武芸はその中のほんの一部。いや、武芸に優れていたとしてもそれが飯の種になるかといえば、もっと他に良いものがあろう。それでも、武芸を選ぶのか?」

 陸豊の声は少し小さく、呟いている様にも聞こえる。

「じゃああんたは何で武芸者を選んだんだよ?」

 范撞が口を挟む。

「儂か? 儂は農民だ」

「は?」

「儂は幼い頃からずっと百姓だった。剣は……田畑を耕しながら仕事の合間に教わった。今でこそすぐ其処の狭い畑を弄る程度だがな」

「そんな片手間に剣を振るってそこまでなったってのか?」

「お前の言うそこまでというのはどの辺りか知らぬが、とにかくこうなった訳だ」

「先生」

 再び楊迅が言う。

「私にはとても片手間では先生程の剣を習得する事は到底出来ません。今まではその片手間の様なものでしたが、これからは先生の弟子となって真剣に学びます。どうか、お願い致します」

 楊迅は床に額を擦り付ける。

「……楊迅。そのような礼は要らぬ。この儂とて我が師父に叩頭した事も無い。前にも言ったが儂と師父の関係は普通とは違ってな。教えてもらったから師父と呼んでいるだけだ。ハハ、お前が教えてくれと言うなら何も拒む理由は無い」

「あ、有難うございます!」

 楊迅は一度起こした頭をどうするか一瞬迷ったが、やはり叩頭するしかなかった。

「ただし――」

 陸豊はじっと楊迅を見据える。

「わが師父の剣は並みの剣では無い。たとえ近付く事は出来ても完全に習得する事は非常に難しい。かく言うこの儂も師父の往年の剣には遠く及ばぬ。速成など望むべくも無い。この事は、他の門派の武芸とは比較にならぬ程だ。しかし、完全でなくてもこの優れた剣術ならば正しく修練していけばいくほどそれだけ威力を増す……ハハ、今、全部言う必要は無いな。お前なら問題は無いだろう」

 陸豊は一人頷いた。

 

 

 四十二

 

「あーじゃあ、俺は帰るわ」

 范撞が立ち上がる。外をじっと見つめ、楊迅達から目を背けたままだった。

「あ、じゃあ俺も……」

「何言ってんだ。お前はたった今から爺さんの弟子だろ? これからは何をするにも爺さんにお伺いを立てないとな」

「あ……」

 楊迅は浮かせかけた腰を戻して陸豊に頭を下げた。

「申し訳ありません」

「ハハ、気にするな。今まで通りで良いではないか? 当分何も無いなら今までよりももっと多く此処へ来れば良い。儂はずっと此処に居る」

 陸豊はにこやかに話している。

「さあ、今日はもう帰ってゆっくり休んでまた来い。范撞、お前も暇なら一緒に来るがいい」

「邪魔する気はねえよ」

「フフ、邪魔、か。まあ良いから来い」

「……暇ならな」

「それでは失礼致します。明日、来ても良いですか?」

 楊迅が陸豊に尋ねる。

「お前が来たい時に来い。たとえ儂が手が離せんでもお前が出来ることはあろう?」

「分かりました。では失礼致します」

「うむ」

 楊迅の挨拶を聞いて范撞が先に家を出て、すぐに楊迅も続いた。

「范撞」

「ん?」

「これから暫く、きっと暇だよ。一緒に先生の所に来ないか? 剣を教えて下さるよ」

「師父って呼ぶのが普通じゃないのか?」

「あ、そうか」

「ま、気が向いたらついて行くさ。でも北辰の、あれだ……色々調べたり手が要る時とかあるだろ。何も無い訳じゃないさ」

「勿論、その時は俺も行くよ。俺だって、半人前だけど一応鏢客だ」

 范撞と楊迅が鏢局の屋敷に戻ってきた時には、陽は僅かに西に傾いていたがまだまだ夜までは時間がある。しかし、もう今日しなければならない事は何も無い。范撞は仲間を殺した賊について思いを巡らすが、今自分に出来ることは何も無かった。すでに父、范凱が数少ない手立てを考えて人を動かしている。楊迅はついさっきこの緑恒に戻ったばかりだというのにもう陸豊に剣を本格的に習うことを決めた。

(当分何も無いな……俺は、何したらいいんだ? 俺達は仇を討てるのか? いつになったら……あーもうわからん!)

 范撞は久しぶりの自室に戻り、寝台に身を投げ出した。

 

 今、太乙北辰教を敵に回せば、緑恒千河幇は仇を討つどころか逆にあっという間に踏み潰されてしまうだろう。千河幇はあくまで商売人の集団であって武林の各門派といくらかの誼を結んではいるが相手が北辰ではとても太刀打ち出来ない。ただ、今まではどちらかというと千河幇とは縁遠かった武林の大勢力、真武剣派が此処に来て急接近してきている。幇主范凱はどのように動くべきかをずっと考えていた。安易に真武剣派に近付いて良いものか、北辰教と必ず争う事になってしまうのか。はっきりとした事が何も分からぬまま、気が付けばいつの間にか緑恒千河幇は訳の分からぬまま、その未来への重要な岐路に強制的に立たされていた。


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