第八章 七
「もしそうなればいくら彼女とていつものように余裕で居られる筈は無いでしょう。夏さんを今追っているという劉毅ですが、おそらく彼は北辰に夏さんの事を教える事は無いと思います。彼は個人的に……そう、個人的な感情でもって殷汪を探している。北辰の張新あたりに横槍を入れられるのはとても不本意な事。夏さんを追う者は今後も劉毅のみと考えて良いでしょうね。しかし……周漣さんは劉毅と同様に殷汪捜索の命を受けながら、既に殷総監が死んだと劉毅が方崖に報告した後も、戻らず此処に居る。もしその事に対して方崖がなんらかの疑いなどを抱いたならばこれは少々不味い事になる。まぁ彼女の事ですからその辺の微妙な匙加減を我々が案ずる事も無いでしょうが、仮に、仮にですよ? 万が一北辰が彼女に叛心ありとして動き出したら、いくら七星といえども一人だけではかなり危ない。もしそうなったら我々にも出来る事はいくらかある筈です。既に彼女にはうちも世話になりましたからね。しかしまぁ、彼女はとても賢い人です。何も問題は無いんじゃないですか? そう判断して今も此処に居る筈です」
「……夏さんも居るしな」
「夏さんは……彼女をどう思っているのか良く分かりません。追ってきた北辰の人間な訳ですからねぇ、彼女は。案外彼女が危機に晒されても傍観するだけかも知れません。それはそれで仕方の無い事。追っ手の組織の中枢の人間です。となれば、彼女に助勢出来るのは洪さん、我々ですよ」
周維がにやりと笑うと、洪破人は思わず視線を逸らしてしまった。
「あー、まぁそうだな。そうならない事を願うばかりだが」
「周漣さんは確かに太乙北辰教の七星、周婉漣な訳ですが、七星のどんな噂を聞いても、彼女は普通の女性と変わらない部分を多く持っていると思えてならないんです。風をたった一手で仕留めたとしても、です。そう思いませんか? いや、洪さんはそう思っているからこそ、彼女に魅力を感じていると――」
洪破人はフッと鼻を鳴らして首を竦める。
「ハハ……何だか笑えるな。俺如きが七星周婉漣に……夏さんの方が……」
「夏さんが今興味があるのは、流石に私も驚きましたが、西の開墾でしょう? それを今から洪淑華の秘伝の武芸に向けてもらいます。周漣さんは一先ず方崖へ戻るでしょう。あらぬ疑いを持たれる前に。洪さん。これからです。これから色々と動かしていきますよ。我々がね。今は思いもよらない様な変化が我々個人にも起こります。そしてこの江湖にも」
周維はいつの間にか取り出した扇子を顔の横でくるりと回して円を描く。
「旦那の言う事はいつも大袈裟な様でいて、本当にしちまうからなぁ。何をするつもりやら……」
「まぁまぁ。ぼちぼち行きましょう。劉さんの件はそうゆっくり出来ませんがね。さて、休みましょうか。明日、また万乗閣に行って報告を受けなければ」
「ああ」
二人は立ち話を終えてその場を離れて行った。
劉健和と求持星に貸し与えられた部屋は手入れが行き届いていて、寝台も上質の物である。求持星は部屋で一人になると真っ先にその寝台に体を俯せ、久しぶりの心地よい弾力を全身で感じる。
(もう、どうにでも好きにしろ……。誰でもいい。俺を開放してくれ……)
求持星は酔っていた。劉健和らが広間で話している間、ずっと黙って周りが分からなくなるまで酒を呷り続けた。
(気に入らないなら……、殺せ……。もう端まで来ちまった……もう逃げる場所も無い……」
意識が薄れていく。寝台に埋もれていく様な感覚を覚えながら、『眠りに落ちていく時にはきっと体も下に向かって落ちているに違いない』と、そんな事を考えたのを最後に何も分からなくなった。
深夜、求持星の耳に音が微かに届いていた。しかしまだ気にする程でもない。屋敷のどこかの扉か何かが風に押されて鳴っているのだろう。寝台に密着させた顔を少しずつ動かして今までと逆を向き、鼻から長い息を吐いてから無意識に喉を鳴らす。
音が、止まない。キイ、キイと、早く閉めろと言う様に鳴り続ける。
(んん……うるさいな……)
徐々に大きくなっていく様に感じる。音自体が大きくなっていっているのか、それとも酔い潰れていた意識が音に集中し始めたのか――。
「ピィィィィィ!」
不意に甲高い音が屋敷中に響き渡り次の瞬間、求持星は驚きの声を発するより先に跳ね上がる様に寝台を下りた。
指笛。誰かがこの屋敷のどこかで指笛を鳴らしている。
(何だ? どうした?)
求持星はすぐに窓の脇に身を寄せて外の様子を窺った。しかしこの部屋の窓の外は屋敷の塀が近く、しかも明かりが無いので見える範囲は狭い。
(さっきから聞こえていたのは、この音だったのか?)
指笛は鳴り止まない。思い切り吹き鳴らされる音が屋敷の全ての人間に警戒を促していた。
「求持星」
「おわっ!」
窓の反対側、部屋の入り口の方から名が呼ばれ、求持星は飛び上がらんばかりに驚き左手で胸を押さえる。
入り口の扉には人影が映っている。中庭に面した回廊に誰かが立っていた。
「求持星、まだ居るのですね?」
(周婉漣……)
声の主は女。周漣であった。
「なっ、何か、あったのか……」
求持星は乾ききった喉からなんとか声を出したが、周漣に聞こえたかどうかは分からない。
「求持星。出なさい」
周漣の影は動かず、声だけが聞こえる。丁度その時、指笛の音が止んだ。
「あなたの仲間が二名、到着した様ですね。紹介して貰いましょうか」
「……仲間?」
求持星はゆっくりと近づき、扉を開ける。扉から距離を置いて回廊の欄干のすぐ傍に周漣は立っていた。
「来なさい」
周漣はそう言うと歩き出す。その動きはまるで衣服を出来るだけ動かさぬ様に注意を払っているかに見え、長い髪だけが一瞬ふわっと揺らいだ。
求持星は暗い中庭に目をやる。風は全く吹いていない。扉が鳴るのを聞いたのではなくあのけたたましい指笛を朦朧とした頭が勘違いしていたのだ。眠気は完全に消え去ったが、酒を含んだ頭が重い。
広間の方に複数の人の気配。慌しく動いている様で、やはり何かが起きていた。だが前を行く周漣の足取りは変わらず急いでもいない。
「一体何があったんだ?」
求持星は周漣の背中に声を掛けたが、何の反応も返って来なかった。




