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流浪一天  作者: Lotus
第八章
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第八章 二

 女は再び王老人に向かって僅かに頭を下げると西の林の方へと再び歩き出した。この道の先は暫く林の脇を通ってから山へと登っていく。女で、しかももう夕暮れが近い今頃からこの道の先に用があるとは考え難い。王老人は思い出した様に女の背中に向かって言う。

(しも)の滝だろうで。天佑だろう?」

 女はゆっくりと振り返り、また小首を傾げる。やはり瞳は見えない。口は――確かに、僅かに微笑んでいた。

 

 西の林に向かって暫く進むと水の音が聞こえ始めて徐々に大きくなる。柔らかなせせらぎの音ではなく、大量の水が落ちて岩を打ちつける激しい音だった。女は王老人に出会った道から、林の中へと続く細い獣道を入って行く。長い裳の裾を気にするように腿の辺りを押さえながら人気(ひとけ)の無い林を進むと、やがて林の奥の方で滝が作り出す白い霧が立ち木の隙間から漏れているのが見えてきた。

 女はそちらへと真っ直ぐ向かうが、滝から二十間ばかり離れた位置で足を止めた。女は顔を上げ、滝の方を向いている。女の目は薄く開いているがやはり何を映しているかまで知る事は出来ない。ただ、滝の方を見ているのは確かである。

 女の頬が僅かに動く。再び微かな笑み。滝の下の辺りに一人の男が居るのを見つけた。 女はそのまま暫くその後姿を見ていた。その男は裸で、滝に打たれている訳ではないが落ちてくる水を汲んで体を洗っている。引き締まったその肉体が濡れて光っていた。

 女は再び歩き出し、やや俯いて目を伏せながら真っ直ぐ滝へと近づいた。土で汚れた古い野良着が滝つぼの際にある小さな岩に掛かっている。岩の上に放り投げただけなのか地面に落ちかかっており、女は傍まで来ると腰を屈めてそれを拾い上げ、埃を払うような仕草で撫でると両手で抱え持ってその場に佇む。その時、男が女の方に振り返った。

 男は何も身に着けていない。腰に手を当てて女をじっと見るが、女も相変わらず表情も変えずにじっとしている。女はただ待っているといった感じで何も言わないので、男はまた滝の方を向いて落ちてくる水を頭からかぶった。

 やがて男は再び振り返って、ざぶざぶと音を立てて水の中を歩きながら女の方へ戻ってきた。その間も女は微動だにせずに待っていた。

「何かあったか?」

 そう言いながら男は水から上がると女の腕の中にあった服を掴み取り埃を落とすように二、三回振り、それを濡れた体に当てる。せっかく洗った体を汚れた野良着で拭くのでまた体を汚す事になりそうなものだが男は全く気にしていない様子であった。

「いえ、特には」

 女はただ、そう答える。

 近くで見る男の体は鍛えられた筋肉で張りがあって無駄なぜい肉は何処にも無く、少し日に焼けた皮膚が光を帯びている。女と殆ど変わらない歳の様で、二人で居ると夫婦の様に見えなくも無い。男が服を身に着けるのを待っている女は黙ったままで、従順な妻の姿を連想させる。

「じゃあ、何だ? 俺の水浴びを見に来ただけか?」

「それだけでも十分な価値があります」

 男も女も、真顔でそんなやり取りを交わす。男は服を身に付け終わると、傍に置いてあった鍬を手に取った。

「今日はもう仕舞いだ。帰る」

「はい。結構でございます」

 女が顔を上げて男の顔を見上げる。女の目は確かに開かれ、その双眸にははっきりと男の顔が映っていた。

  

 二人が林を出てから向かったのは周維(しゅうい)の屋敷で、着いたのは陽がもうじき西の山の稜線に触れるという頃だった。

「あ、夏さん。今日は早いね。旦那様がもう帰って来なったで。周漣(しゅうれん)さんが呼びに行ったんか?」

 屋敷に長く仕える老夫婦、葛林(かつりん)李施(りし)が隅にある納屋に居るところへ、滝で水浴びをしていた男、夏天佑(かてんゆう)が鍬を置きに来た。夏天佑はこの屋敷に周維の客として滞在しているがまだ一年は経っていない。滝から一緒に戻った女は周漣といい、屋敷の主人である周維が何処からか連れて来た者で夏天佑と同じく客なのだが、何故かこの屋敷の女中の様に振舞っていた。周漣がこの城南に来たのは夏天佑よりもふた月ばかり後であった。

 納屋の前で葛林と夏天佑が言葉を交わす。

「……明日から西の林に入るんだ。『やっと』って感じだ」

「おお、もうそこまで進んだんか。いやぁあんたもよう働くなぁ。最初にその鍬担いで出てったゆうて聞いた時、ほんまに出来るんか思ったで」

「もう何度も言ったと思うが俺は元々百姓の(せがれ)だ。さすがに開墾からやるのは初めてだったが。王さんが居なけりゃ遣り方も分からん」

「王さんは何でも知っとんなるでなぁ。若い頃から国中を廻って、この――」

 葛林は二度、地面を踏み鳴らす。

「大地を学んだゆうてなぁ。ほんま、凄いわ」

「そうだな」

 夏天佑が鍬を持って納屋の中へ入ると、葛林の妻、李施が中の棚を漁る様に手当たり次第引っ張り出していた。

「何してるんだ?」

「旦那様がまたお客人を二人も連れて来てなぁあ。部屋はあっても何も置いてへんさかい」

 李施はそれだけ言うとまた棚の奥を覗き込む事に夢中になっている。

「おい、もうえかろうが。とりあえずはあれで足りるっちゃ」

「ほうだねぇ。とりあえずあれでええか」

「あっ! おみゃあ酒用意したんか?」

「そんなん昨日周漣さんがちゃあんとやっとんなるわな」

「ほうか。ほんならええ」

 夏天佑が納屋の隅に鍬を置いて出ようとすると、葛林が袖を掴んで引いた。

「周漣さんがあんた呼びに行ったんか?」

「呼びに来たのかどうかは知らんな。俺の所に来たのは確かだ」

「ほうか。周漣さん、あんたの事よう気に掛けとるでな。多分あれ、あんたを――」

「葛さん。恐ろしい事は言ってくれるなよ。あれほど得体の知れん女は他に知らん」

 夏天佑は笑みを浮かべながらも葛林の言葉を即座にあしらい、背を向けて歩き出した。 

 

 その夜、周維は屋敷の者全てを集めて宴席を開く事にした。宴席といってもまだ屋敷に戻ったばかりで家人もその支度を整えて待っていた訳でもなく、広間に皆集まって食事をしようという事だった。新たに連れて来た劉建和と求持星(きゅうじせい)を皆に紹介する為でもある。

「ん? 夏さんはもう戻っているのかな?」

 周維が食事の準備をしている下女の一人に声を掛けた。

「はい。夕刻に戻られましたので、今はお部屋に居られるかと。お呼びしてきましょうか?」

「……いや、私が行きます。此処の準備が出来たら皆さんをお連れしてください。洪さん達も呼ぶんですよ」

「かしこまりました」

 周維は一人、広間を出て行った。

 


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