第七章 二十二
城南――。
都周辺が春を感じ始める頃には南端の城南ではもうすでに暑さを感じる日がある程、気候が違う。南へ向かった周維一行が城南に戻ったのは、樊樂らが呂州を出た丁度その日であった。道中出会った激しい雨は城南のすぐ手前まで追い続けて後にようやく周維らを解放した。
「ほれ、もう旦那様が戻られるでぇ、。皆戻れゆうて言え」
「もう戻ってますよう。会の方が知らせてくれたでしょうが」
「お疲れだろうで――」
「準備してます」
「……そんならええ。あっ、周漣さん、出て行ったんとちゃあうんか?」
「すぐ戻るゆうとんなったで大丈夫だぁ」
「……ほうか」
「先に稟施会んとこ行きなるでしょうで」
「分かっとるっちゃ」
劉建和と求持星の二人は城南に来るのは初めてである。噂程度のことは耳にしていたが、実際に街の色を目にするとつい言葉を発するのを忘れてしまう。
まず街にひしめいている建物の壁や屋根の色が北方の街では見られない赤みがかった黄色を基調とした明るい色ばかり。通りにある商店などの看板も派手な色使いで、漢字に混じって何やら模様のような異国の文字も多く使われている。
人は皆一様に褐色の肌を持ち、その中にも明らかに異国の者と見て取れる顔がちらほら見受けられた。周維の様に比較的肌の白い者も居るには居るが、白い者はみな大抵肌を隠しており、肌自体が見えない事の方が多かった。
「そんなに珍しいですか?」
周維は目を丸くして忙しく首を回している劉建和に声を掛けた。
「いや、何だか落ち着かないな。こうまで今まで見て来た街と景色が違うとな」
「確かに、此処は特殊な街です。きっと劉さんも慣れれば好きになりますよ。暑さ以外はね。ハハ」
周維とその一行は雨を避ける為に身に着けていた笠や道中に調達した粗末な蓑を脱ぎ捨て、城南に吹く風をそれぞれの胸元に導き入れる。陽がある間なら上半身裸でも居られる程の暖かさがあった。
「此処は雨は降ってなかったみたいだな」
洪破人が眩しそうに目を細めて空を見上げた。雨を生みそうな黒雲は見当たらず、真っ青な空に、ところどころ僅かな白の雲が浮いているだけだった。
「早速ですが、劉さん。稟施会にご案内致しますよ。もう徐について何か掴んでいるかも知れません。こちらからも劉さんにお聞きしたい事もあるでしょうから」
「俺達もそんなにゆっくり来た訳でも無いのに、此処にはもう伝わってるのか? しかもすでに探りに入っていると?」
稟施会がただの商会では無いという事くらいは劉建和も理解しているが、流石にそこまでいくと眉唾物と言わざるを得ない。しかし周維は薄く微笑むだけである。
(ま、わざわざ此処まで来たんだ。俺には全てをこの男に任せるくらいしか出来ないんだ。せいぜい驚かせてもらうさ)
「近くですよ。洪さんも来てもらえますか? 石さん達は荷を屋敷に運んで下さい。求さんもお連れして。あぁそうそう、石さん、周漣が居たら『求さんは私の大切な友人である』と伝えておいて下さい。必ずですよ」
周維はそう念を押すと、
「分かった」
石は洪破人の持つ荷を受け取った。
何層にもなるそびえ立った楼閣に、劉建和は案内された。随分派手で大きな建物に目を奪われたが周維や洪破人は此処が何という建物で、何をする処であるかについては触れない。入ってすぐに上へ向かう階段があったが、周維はその脇を通って一階の奥へと進む。「旦那様、お帰りなさい」
中に居た者達は周維に気付くと、にっこりと笑いかけながら軽く会釈をする。『旦那様』と呼ぶ割には随分と気安い態度である。周維も微笑み返しながら進む。
正面奥には部屋があった。扉も何も無い、ただ入り口の穴だけを造ったという様な、風通しの良さそうな部屋である。その真ん中には机があり、そこに居た人がこちらに気付いて立ち上がるのが見えた。
「お帰りなさいませ。早うございましたな」
「そうですか?」
此処でもまたその人物と周維が笑顔で言葉を交わした。
「劉さん。こちらは太史奉どの。此処の、稟施会の黒幕ですよ」
「旦那様が冗談でそう仰るのは構いませんが、表でその様な話が広まっては困ります。私が本当に黒幕なら、こんな良く見える場所には居ませんよ」
「まあとにかく、うちでは偉い人――という事です。太史さん。こちらが武慶の劉建和どのです」
「よく此処までお越し下されましたな。城南は劉どのを歓迎致します」
(城南が、か? そう言えるということは確かに偉い人だろうな)
劉建和は思ったが無論口には出さない。
「劉と申します。武慶で――」
「劉さん、この太史さんは物知りなんですよ。それはもう凄まじく。ですから劉さんの事も既にご存知です」
周維が言うので劉建和は口を噤んで太史奉を見た。太史奉は『物知りである』という周維の言葉を否定するつもりは無いらしく、微かな笑みをこちらに向けていた。
太史奉は歳は六十前後、細い顔にあご髭、深緑の地味な着物で体を包み落ち着いた雰囲気の男である。勝手な想像ではあるが、若い周維を補佐して稟施会を取り回す経験豊かな者――、劉建和にはそう見えていた。
「旦那様。もうお屋敷には戻られたのですか? 旦那様はともかく劉どのはお疲れでございましょう? 一先ずお戻りなさいませ。私も劉どのにご報告する内容をまとめておきますゆえ」
太史奉の話し方はどこか相手に有無を言わせないといった感じである。相手が周維であろうと関係ないらしく、周維に向かってそんな風に言える人物が居るということは劉建和には意外だった。
「ハハ、着いて早々に新たな情報を劉さんの耳に入れて稟施会の凄さをお伝えしたかったんですがねぇ」
周維は声を上げて笑い、ちらっと劉建和を見た。
「こんなすぐに分かる事なんて、そうは無い――」
「いえ、ありますよ。ただ多くあり過ぎて整理しなければ役に立ちませんので」
劉建和の言葉を太史奉は遮って『我々は情報を掴んでいる』と主張する。
(ま、ちゃんと聞かせてくれるなら何も言う事は無い)
「劉さん。稟施会は『もう少し待て』、だそうです。太史さんには逆らえませんので、私の屋敷に行きましょうか」
周維の言葉に劉建和は頷く。全くの無駄足で一気に疲れを感じた劉建和であるが、周維との付き合いとはこんなものなのだろうと思い始めているところだった。
太史奉が洪破人を呼び止めて『残ってくれ』と言ったので、先に周維と劉建和だけ出る事になった。
「劉さん」
歩いていた周維が不意に呼びかけたので劉建和は首を横に向けて周維を見た。周維はまっすぐ前を向いて歩きながら、口を開いた。
「今、この城南は面白いですよ。特に人がね。その気になれば此処から世の中を動かしていけるのではないか? と思う程です。ま、私だけかも知れませんが。今、劉さんは人生の中でも一番大変な時ですが、そんな時こそ人との繋がりです。私はあなたとの出会いを蔑ろにはしません。絶対に。今此処には色んな人が集まって来ています。多くの出会いを我々の力に出来る筈です」
周維は言ってから劉建和に目を向けてにやりと笑った。
「わざわざ此処まで来て頂いたんです。劉さんに後悔させる訳にはいきませんからね。フフ」
劉建和はただ愛想良く笑い返すくらいしか出来なかった。
周維が何を考え、何をしようと思っているのかは分からない。道中襲ってきた求持星までも連れて来るような人物である。相当変わった来歴の人物が周維の周りに居てもおかしくなかった。そういう意味では自分もまた、新たに加わった訳ありの客人というわけである。
(武慶で燻ってても何も変わらん。此処まで来たんだ。何か変わるさ。きっと)
再び表に出た二人は陽の光を浴びながら目を細め、賑やかな人通りをほんの少し眺めてから、周維の屋敷へと向かった。
第八章へ続く