第四章 一
一
殷汪は少しふらつくような歩き方で脇にあった寝台程の大きな長椅子に倒れこむように座り、掛けられている黒の艶やかな毛皮に身を沈める。それが何の毛皮なのか、朱不尽には分からなかった。
「今日は何だ?」
殷汪は気だるそうに蔡元峰に顔を向けてぼんやりと見ている。
「あの、先程申しましたが、朱不尽殿の鏢局の件でございます。こちら、こちらが朱不尽殿でございます」
蔡元峰は僅かに眉間に皺を寄せたが、すぐに戻して殷汪に朱不尽を紹介する。一歩前へ進んだ朱不尽は拱手して丁寧に頭を下げた。
「ああ、あんたがそうか」
殷汪はそう言っただけで長椅子の上で大きく伸びをした後、じっと朱不尽を眺めていた。
「座らせてもらうで」
狗不死がそう言って部屋の中央にある椅子に腰を下ろす。
「ああ、あんたらも座れよ」
殷汪が朱不尽らに言う。
「失礼致します」
「冰冰、もっと明かりを増やせ。おい!」
急に殷汪が半身を起こして大声を出したので朱不尽は驚いて下ろそうとした腰を止める。
「先程出て行きましたが……」
蔡元峰がそう言うと、
「そうか。ならいい」
殷汪はまた何事も無かったかのように毛皮にもたれ掛かった。冰冰とは恐らく先程居た女の事だろう。殷汪の側女だろうか。
「爺さん久しぶりだな。景北港まで来るなんて珍しいじゃないか」
「東淵で遊んどったんや。ついでやしお前の顔見とくか思てな」
「ハハ、そうだな。そろそろ歳が気になってきたか?」
「まさか。ほんでもまだまだ、くたばれへんで」
「だろうな」
部屋の入り口の扉が開き、先程の女が酒を運んで来る。その時初めてその顔をしっかりと見ることが出来た。かなりの美人であると言えるがその気の強そうな鋭い眼差しを見て、朱不尽は苦手な女だと思った。
「冰冰、明かりを増やせ。暗いではないか」
女は持ってきた酒壷と杯を載せた盆を朱不尽らが囲む卓の中央に置いただけで、すぐ殷汪の傍に行くと屈みこんで殷汪に顔を寄せた。
「このくらいが丁度良いと、先程仰ったでしょう? 近づけばこんなにちゃんとお顔が見えますよ。ほら、こんな感じがお好きでしょう?」
女はまるで自らの息が殷汪の顔に吹きかかるほど顔を寄せるとその白く細い手を殷汪の腕に絡ませながら撫で、長い睫を湛えたその瞳は殷汪の口許に視線を這わせている。
(何だこの女は。無礼にも程がある。俺などは無視されようとも仕方ないが、今は狗不死様も居られるのだ)
朱不尽はその様子を見て憤慨するが、狗不死の様子を横目で盗み見ると、何とも思っていない様で早速酒壷を取り上げて香りを嗅いでいた。蔡元峰も黙って見ているだけだ。
「此処の酒はええ酒やなぁ。香りがええわ」
狗不死はそう言いながら朱不尽と蔡元峰の前に杯を置いて酒を注いでいる。
「都、行っとったんか?」
「ん?」
殷汪が訝しげな顔で狗不死を見る。
「洪の奴と都行っとったんちゃうんか? 春頃やな」
狗不死の質問に殷汪は何か考えている様に見える。朱不尽には何の話か分からなかった。
「……洪破天が言ったのか?」
「いや、あいつは何も言わへんけど、まあそれらしい噂を聞いたんや」
「総監様は何処へもいらっしゃってませんわ。都だなんて。ずっと私と一緒に居られたのですから、ねぇ」
女が口を挟む。相変わらず艶かしい視線を殷汪に向けて漂わせている。
「んーそうか? 都に「総監」ちゅう男が居ったらしいんやけどな」
「都となればそう気軽に行って来るという距離でもありませぬな。総監様は都には行っては居られません」
蔡元峰も狗不死に言う。
「……洪破天に聞けば良いじゃないか。何故聞かない?」
この殷汪は見た目は若造であるが、かつての丐幇の大幇主に対して全く遠慮は無い様で、実の年齢を比べても狗不死の方が遥かに上だが目上を敬うといった概念は全く持っていなさそうだ。
二
「いや、聞いたんやで? ただ知り合いの男と遊びに行ったとしか言わへん。そんで、なんか娘拾って帰って来とんねん」
「娘? フン、あの爺さん、まだ女が要るのか?」
「あほな。孫みたいなもんやで。浮浪児だった子を拾ってきたんや。傅千尽とこに預けるみたいな事言うてたわ」
「ふーん……」
殷汪は考え込む様に顔を前後に揺らしながら宙を睨んでいる。
「総監様、鏢局のお話を……」
蔡元峰が話を本題に持っていこうと声を掛ける。
「ん? ああ、鏢局な。おい、靜を連れて行け」
殷汪は不意に上体を起こし、女に言う。
「お傍に居ては駄目なの?」
「ああ、駄目だ。行け。また後で来い」
「フフッ、じゃあまた後で」
女は殷汪の頬に掌を這わせた後立ち上がって背筋を伸ばす。まるで殷汪にそのすらりとした肢体を見せ付けるかのような立ち姿で、露わになった肩から襟元を押し広げている胸元の隆起にかけての曲線に、思わず朱不尽は目を奪われかけたが咄嗟に顔を背けた。殷汪はぼんやりとそれを眺めてから力なく頷く。女が身を翻して奥へ歩き出すと甘い香りが辺りに漂った。
「靜様、総監様は大事なお話があるんですって。また後で遊びに参りましょう」
奥から女の声が聞こえてくる。どうやらこの部屋の手前で見た教主の妹、陶靜はずっと奥に居た様だ。暫くすると女が陶靜の手を引いて出てきた。朱不尽が陶靜に目を遣ると、向こうもこちらをじっと見つめている。目が合っているにもかかわらず陶靜は全く視線を逸らさず、まるでこちらの表情を観察するかのようだ。女に手を引かれているが空いた方の手は胸元にあり、やはり何かを持っている様に僅かに指を動かしていた。
部屋の扉が閉じられると、殷汪が朱不尽を見て口を開いた。
「あんたが運んできた荷の一部は教主の許に届いている」
「……賊を成敗されたそうですな」
「誰に聞いた?」
「街の者がそう申しておりました。賊が奪った荷を持って帰ってきたと」
殷汪はそこで大きく息を吐いて頬杖をついて朱不尽を見つめていた。
「あんたはどうしたいんだ?」
「私は……今はとりあえず我等を襲ったのが何者なのかを知らねばなりません」
「何の為に? 荷主に報告する為か? あんた、襲われてからずっとこっちに居るんだろう? 武慶に行かなくて良いのか?」
「それは……下手人を突き止めてから参ります」
「そうか。しかし突き止めれば武慶に行くことは出来んだろうな。生きて帰れぬやも知れん」
「総監様は、ご存知と言う訳ですな?」
「さあな。俺には言えん」
「何故でございますか!?」
朱不尽は思わず声を荒げた。
「我等を襲ったのは……まさかあなた様では……?」
「朱不尽殿! 言葉が過ぎますぞ! 何故総監様がおぬし等を襲わねばならぬ?」
蔡元峰が気色ばんで朱不尽を睨みつけた。
「ならば殷総監様! 何卒お教え下さいませ!」
朱不尽は立ち上がり殷汪を真っ直ぐ見据えた。その瞳には並々ならぬ気迫が込められている。殷汪を怒らせてしまうかも知れないとは考えていたが、ご機嫌を伺いにこの方崖まで来た訳では無いのだ。訳の分からないまま命を落とした多くの鏢客達の為にも、いざとなれば命をも張らねばならないと思っている。
意外にも殷汪は今までと変わらぬ気だるそうな表情で毛皮を撫でている。此処に来るまで朱不尽が想像していた殷汪像というものは完全に壊されていた。
「全く……困ったな。出来れば隠しておきたいと考えていたんだが」
「お、なんやなんや? 何があったんや?」
狗不死が目を輝かせて殷汪を見る。来る前から酒を飲んでいるので既に顔が赤くなってきていた。殷汪がチラッと蔡元峰を見た。
「朱不尽殿、座ってくれ。とりあえず分かっている事を話そう」
朱不尽は再び腰を下ろすと蔡元峰の方へ身を乗り出した。
「そなたの荷をこの方崖に持ち帰ったのは……劉寨主、劉毅だ」
朱不尽は蔡元峰の出した意外な名前に驚いた。劉毅といえば永く北辰教に属しており幹部として知られているが、その稼業は真っ当なものでは無く、数百の手下を従えた盗賊の頭である。
三
朱不尽の表情が険しいものに変わったのを見て蔡元峰は言葉を続けた。
「劉寨主が三江村に現れた賊を退治して奪われた荷を持ち帰った。そういうことになっている。劉寨主がそなた達を襲ったという証拠は何も無い。確かに劉寨主率いる九宝寨は昔から盗賊集団としてその名を知られておるが、前教主、陶峯様と共に行動するようになってからはそれほど手荒い真似をする様な事も無くなっておる」
「まぁそうやなあ。それ以前にあの劉ちゅう男がやる仕事ちゃうわな」
蔡元峰に続いて狗不死も話し始める。
「どういうことです?」
「あの男、若い頃は滅茶苦茶しおったがな。そんでもその辺のこそ泥とはちゃうで。まぁ盗みだの殺しだのちゅう話に感心しとる訳やないけど、とにかくあれの狙う獲物はでかいんや。普通誰も手え出さへん様なやばい仕事をしおる。ほんで何でもない様な顔して簡単にモノにしてしまうんや。変な話やけどあれを慕う奴も仰山現れてなあ。九宝寨に集まる人間が膨れ上がった訳や」
「左様。つまり、劉毅がそなたの荷を襲うのは奴をよく知る人間から見れば不自然に思えるのだ。何の利がある?聞けば百を越える人間が居たそうだが、以前そなたに見せてもらった荷の目録を見ても、全て奪ったとて割りに合わんように思える」
蔡元峰と狗不死が互いの言葉を補うように交代で話している。朱不尽はじっと聞いていたが、今言われた賊の利については最初から考えていた事である。きっと蔡元峰はそれを踏まえて先を探っていた筈だ。
「そのような事は分かって居るのです。動機が何であれ劉寨主の独断で行った事では無いというのは分かりきっております。今、荷が教主様の許にあるという事ですからな」
「だからそれは……本当に賊が別に居たとも充分に考えられるではないか。三江村で起きた事は一両日中にはこの方崖にも伝えられる。それから劉寨主に賊の討伐を命じて現場へ付くのは更に一両日。確かにそれほど時が経ってから賊に出くわすなど普通は考えられんが、何もその現場で見つけた訳では無かろう。詳しくは聞いておらぬがきっと別の場所で探し出したのだ。そなたは襲われた直後に東淵まで引き揚げた。劉寨主は襲われたのがそなた達であったと知っていなかったのではないか? 賊は全て討ち取ったと言う。荷が残っていれば持ち帰るだろう」
「では、何故劉寨主なのです? このような場合、賊の討伐を命じられるのはいつも劉寨主なのですか? 街の者の話では討伐に向かったのはこの方崖の精鋭であったと申しておりました。劉寨主は方崖にお住まいでは無い筈。教主様はわざわざ九宝寨から劉寨主を呼び寄せられたと?」
「九宝寨はそれほど遠方にある訳ではない」
蔡元峰は僅かに口を曲げて少し投げやりに言う。
「蔡長老様。全てお話頂けませんか?どうかお考えをお聞かせください」
そう懇願する朱不尽とは目を合わせずに蔡元峰は俯いた。
「あんたらを襲ったのは劉毅だ」
今までずっと黙っていた殷汪が不意に言う。その言葉に朱不尽は驚いて振り返った。
「総監様! それはまだ確かではございませぬ!」
殷汪は蔡元峰を無視して続ける。
「全く、くだらん話だ。こんな……くだらん事を本気でやるとは信じられなかったけどな、あんたの部下は……全く無駄死にだ」
朱不尽は一体どういうことなのか全く分からずに、ただ口をポカンと開けたまま殷汪を見つめていた。
「何や? ちゃんと説明してもらわな分からへんがな。何で劉の奴が襲うんや? 何の為に……」
「フン、あれは鏢局の荷に興味なんて無かったろうよ。命じた奴が居るのさ」
蔡元峰は大きく溜息をついて力無く項垂れた。
四
「劉寨主に命じる……そのような事が出来る人間は限られてきますな」
朱不尽はいよいよ話が核心に迫るとあって顔を紅潮させ拳を握り締めていた。
「俺はそんな物に興味は無い」
殷汪は吐き捨てるように言う。
「長老衆でも劉は動かせへんやろなぁ。ほんなら一人しか居らんな」
狗不死は蔡元峰を見たが、蔡元峰は口をつぐんだままである。
「一人? まさか教主、陶光……様?」
朱不尽は驚いて狗不死を見る。
「んーちゃうな。まぁもしも教主の口から命令が出とったとしてもそれは教主の考えとちゃうで。いっつも教主にくっついとる張新やがな」
「張新……」
朱不尽は呟いた。
「張新殿のご身分は知りませんが、劉寨主を動かせると?」
「張新は……総監になる事が決まっておる」
蔡元峰がようやく口を開いた。
「ほほーそりゃすごいわ。名実共に北辰を仕切るっちゅうんか」
「いや、そこまでは……もう陶教主様も幼子ではありませぬ。これからは陶教主様、殷副教主様の許に我等は結束せねばなりませぬ」
「何だよ。それはそんなに簡単に喋って良かったのか?」
殷汪が口を挟む。
「あ、いや、まあこれは……」
「副教主やて? そんな役目、北辰教にあったんかいな」
「無い。全ては張新が肩書きを欲しがったんだろうよ。俺はここ最近何もしておらんしな。俺を副教主様とか言って押し上げといて総監になるのさ。俺は総監と言ってもなーんにもしてねえけどな。奴は総監になったら色々と働くんだろうな」
「……お前はそれでええんか? 今言うたんがほんまやったら、いずれお前を追い出しに掛かるんちゃうか?」
「ハッ、もう始めてる」
「ん?」
「第何幕目か知らんが、鏢局を襲わせたのもその為だろう」
朱不尽はじっと聞いていたが、頭の中は忙しなく動いている。しかし殷汪の説明はまだまだ足りなかった。
「何やまた面倒な謎解きやなぁ。どう繋がるんや?」
「……くだらな過ぎて外部の人間に聞かせるのが憚られる位だ」
殷汪が朱不尽に目を遣ると、朱不尽はじっと睨み返す。溜息をついて話を続けた。
「あんたが武慶から運んで来た荷は、陸皓から俺への祝いの品だった」
朱不尽はすぐに東淵で傅千尽に聞いた話を思い出した。方崖の祝い事とは何かと尋ねた時、傅千尽は殷汪が副教主になるという情報を既に掴んでいた。
「あんたはあの荷を俺にこっそり届けろと言われたのか?」
殷汪が朱不尽に問う。
「いえ、ただ「方崖へ」と」
「つまり本来ならあんたはただ真武剣派からの荷だと言って誰か知らんがこの方崖の人間に引き渡した筈だ。当然、張新あたりが中身を確認して教主に見せる。書状くらいあっただろう?流石に張新が勝手に書状を開ける事は出来ない。書状に宛名は?」
「いえ、何も」
「なら、そうだ。教主が祝いの品を見る。陶光の事だ。きっと何も考えずに俺の処に持って来るだろう。それで終わりだ」
「……えらい勿体ぶるやないか? それを途中で襲わせてどないする?」
「あなたを追い落とす為に……真武剣派とあなたが秘密裏に密接な関係を持っている様に見せる……」
朱不尽が呟く様に言うと殷汪は僅かに頷いた。
「そうだな。一体、陶光に何て言ったんだろうな……いや、陶光に言うより長老衆に聞かせる方が効果あるな」
「お前、そこまで分かっとんのに、ほっとくんか?」
「……俺はもう疲れてんだよ。好きにしろって感じだ」
「何故……何故そんなくだらない事に付き合ってうちの鏢客達が死なねばならない?」
朱不尽が声を震わせながら搾り出すように声を出した。
「我等、緑恒千河幇は長年北辰に協力してきたと言うのに、この仕打ちは何だ!」
朱不尽は完全に頭に血が上り、最早殷汪らが傍に居る事など頭から飛んでしまったかの様で、声を荒げて掌を傍の卓に振り下ろした。
五
「断っておくが、これも証拠は無い。俺がそう考えているだけだ。どうだ蔡長老? そんなとこだろ?」
殷汪の言葉は朱不尽の激しい怒りとは対照的に、とても冷やかで低調なものだった。
「……」
「何だ。どこかおかしいか?」
「いえ……」
「ほんなら副教主の話ももう仕舞いか?」
「そりゃそうだろう。フン、その方がこっちは都合が良い。今まで通り、楽にしていられるしな」
「それはおかしいやろ。真武剣と繋がっとるさかい副教主は無し。それだけでは済まへんやないか。ほんまに追い出されるで」
「さっきも言っただろう? もう疲れてんだよ。出てけって言われたら出て行くさ」
「総監様!」
蔡元峰が殷汪を制するように声を発したが、殷汪は何も気にしていない様子で再び毛皮に横たわる。暫く沈黙が続いた。
急に朱不尽が部屋の入り口へと歩き出した。
「もういいのか?」
殷汪がその背中に声を掛ける。
「お話は充分理解致しました。失礼致す」
言葉遣いは丁寧であったがその目は鋭く睨みつける様である。
「おいおい、もう行くんかいな。一人はまずいで」
狗不死は慌てて立ち上がり朱不尽について行く。
「明日、教主に会う言うてしもたからな、また来るわ」
朱不尽はその後一度も振り返らずに一人先に部屋を出て行った。
「総監様、あそこまで話される必要は無かったかと……」
「いいんじゃないか? これで范凱の耳にも入る。どう出るかは知らんが、張新に噛み付いてくれりゃあこっちは楽になる」
「それでは我が教の立場が危うくなりまする。張新のやった事はとても許されるものではありませぬ。総監様、今の内に……いや、もう後は無いのです。張新を止めなければ――」
「蔡長老、悪いな……」
「さっきの話、信じるんか?」
朱不尽に追いついた狗不死が背後から声を掛けた。
「私はこの方崖の内部の事情など全く知りませぬが、先程の殷総監の話におかしい所は無さそうです。蔡長老様もどうやら同じように考えておられる様ですな。狗不死様はどのように思われましたか?」
朱不尽はそう言いながら真っ直ぐ前を見据えている。
「そうやなぁ。ありえん事ではなさそうやな。しかしなぁ、総監追い出す為やなんて、何ちゅうか……稚拙な策やな。とんだとばっちりや」
「……殷総監はいつもあのような方なのですか?」
「変やったな。ほんまに北辰から離れるつもりやろか。なんや具合悪そうにしてたな。あのけったいな技の修練で体に害が出てきとるんかもしれん」
「技?」
「いや、技と呼ぶんかどうかは知らんけどな。あの、若なっていく奇妙な……術か?」
「正直驚きました。あのような事が実際に可能とは……」
「儂は教えてもろてもやらへんで。あれ……かなり危なそうや。昔と別人みたいになりよったわ。ただ若なっただけとちゃう。顔が全然ちゃうねん。それに雰囲気やな。あれがこの方崖に初めて来た時から知っとるけど、そら滅茶苦茶凄かったで。儂かて腕に自身はあったけど、下手に動いたら息の根止められへんか思うくらいでなぁ。別に敵でもないのにな。ハハ」
「しかし今でも殷総監の武芸は……?」
「んーどうやろな。あれが自分の武芸を見せたんはほんま最初の頃だけや。後はぱったりと出るのを辞めてしもてな。もしかしたらあの技のせいで他の武芸を失ってしもたとか……いや、あかん。想像で物言うたらあかんわ」
「……」
「そんな事よりや。あんた、ほんまにすぐ緑恒に帰るんか?」
「はい。范凱幇主に報告せねばなりませぬ」
「そうやな。何にしてもあんた一人ではどうにもならん。范凱の息子、あれもはよ帰した方がええやろ。殷の話はまだ聞かせん方がええで」
朱不尽は范撞の事を思い出してハッとなった。当然、暫く先程の話を伏せておかねば何をしでかすか分かったものでは無い。
「狗不死様。范撞の居る宿を教えて下され」
「ああ、儂も他に寝るとこ無いし、その宿に帰るさかい、行こか」
六
方崖を離れ、朱不尽と狗不死が范撞の居る宿までやって来ると、宿の二階から大声が聞こえてきた。酔っ払いが喧嘩でもしている様で、何やら罵り合っている。朱不尽はハッとなった。
「……全くお恥ずかしい。あれは范撞の声です」
「ああ、そやな。なんか聞いた事ある声や思とった。一体何があったんやろな。楽しみやで」
狗不死が手もみしながらさっさと宿に入って行くので朱不尽もすぐに続いた。
「俺はそんな事を言ったんじゃない! いい加減にしてくれ!」
「何が違う? 貴様この景北港で我が教を侮辱するとは大した度胸だな! 緑恒の人間ということは千河幇の者か?」
「ハッ! 緑恒だから千河幇だって? なんて単純なんだ。この景北港に居る人間は一人残らず北辰教徒か?」
「そうだ! お前等を除く全てが陶教主様に帰依しておるわ!」
「どうだかな。確かにあんたみたいに教主に心酔してる奴は多いだろうよ。だがな、本当に全員そうなのか一度冷静に見てみるんだな。これだけの人間がいりゃあその種類もいろいろに決まってる。自分の信じる教主様の許に集うのは英雄好漢ばかりか? これだけでかい組織になりゃあ薄汚い盗人だって寄ってくるもんだ! あんたみたいな狂信者が一番性質が悪いぜ」
「な、何だと?」
「確かに俺はよそ者だ。外から見てるとあんた等のおかしさが良く判るってもんだ」
「おい! もうよせ!」
すぐ横に居る田庭閑が范撞の方に手を掛けて制止しようとするが、范撞の口が閉じられる事は無い。
「お前もそう思うだろ! ここの奴等は真武剣と比べてどうだ? 全く恐ろし過ぎる」
「貴様等、真武剣の者か!?」
「やめろ!」
朱不尽は范撞の大声が聞こえてくる二階に駆け上がり、すぐに范撞を見つけるとその前に飛び出した。
「おい、いい加減にしろ! お前酔ってるのか?」
「あ、ああ朱さんじゃねえか」
范撞がいきなり目の前に立った朱不尽を認識するまでに僅かだが間を要した。
「なんだあんたは。こいつらの仲間か?」
「……これは私の連れでしてな。どうやら悪酔いしたらしい。失礼致した」
「フン、お前も真武剣派とか言うんじゃないだろうな?」
「いつ、いつ俺が真武剣派だと言ったんだ? 全く……信心深い奴は何でもすぐ信じるんだな」
「貴様! もう許せぬ! 生きて帰れると思うな!」
范撞と対峙している男はそう言って拳を握って突き出した。剣の類は持っていない。
「お待ち下され――」
「ここはかの有名な景北港やないか。北辰教徒も居るし、千河幇だって居るやろ。真武剣の奴かって居ったってええがな。丐幇も居るで」
朱不尽に続いて狗不死が、范撞を目を血走らせて睨みつける男の前に立った。
「何だ爺! お前は丐幇の者か? フン、どうりで薄汚い格好なわけだ。この景北港に何の用だ? 貴様等つるんで何をするつもりだ?」
確かに狗不死の着ている物はかなりくたびれて所々擦り切れているが、男の纏った青い袍も似たようなものでとても良い身形とは言えなかった。
「何もせえへんがな。今日はもう酒飲んで寝るだけや」
狗不死は近くにあった酒の入った酒杯を手に取ると中を覗き込み、一気に呷る。
「おい! それは俺の酒――」
「まて! おい、この爺さん……」
今度は青袍の男の連れらしきもう一人の男が袖を引っ張って囁いた。
「もしかして丐幇の狗幇主じゃ……?」
「せやから儂はもうとっくに引退しとるわ。もうかなり前やで? ……いうて知らんわな。まぁとにかく酔っ払い相手にしとってもおもろないやろが。儂はおもろいけど。ほれ、お前等は外に出え」
狗不死が范撞にそう言うと朱不尽を見る。朱不尽は頷いて、
「さあ、出るんだ」
范撞の体を押しながら田庭閑に目を遣る。朱不尽と田庭閑は范撞の両腕をとって階下へ降りていった。
七
朱不尽と田庭閑は范撞を宿の外まで連れ出した。辺りは薄暗く、人も殆ど居なかった。
「おい、しっかりしろ! お前達今日着いたそうだな? 着いた早々にこんな騒ぎ起こして一体どういうつもりだ?」
「向こうが范撞に絡んできたんですよ。あっちも結構飲んでた様ですから、お互い変な絡み合いになって……」
田庭閑が范撞の腕を掴んだまま説明する。
「朱さん、俺、俺達はあんたを追ってきたんだぜ……鏢客は……辞めた」
「辞めた? どういうことだ?」
范撞は体を前後に揺らしながらニヤついている。田庭閑が東淵をまるで飛び出す様に出てきた事を朱不尽に伝えた。
「……それで辞めただと? 俺の承認無しに辞める事など出来ないぞ。おい、しっかりしろ」
その時、宿から先程范撞と罵り合っていた男が連れと共に出てきた。後ろには狗不死もついて来ている。
「おい貴様等、さっさと此処から離れるんだな。次に会ったらこの景北港から叩き出してやる」
男達はそう吐き捨てる様に言うとブツブツ言いながら歩いて行った。
「本当に申し訳ございません」
朱不尽が狗不死に向かって頭を下げる。きっと狗不死があの男達をなだめてくれたに違いなかった。実際はなだめたかどうか分からないが、とにかく大人しくさせてくれただけで大いに助かった。
「ああ、爺さんも来たのか」
「さっき上で見とらんかったんかい。まあええわ。もう長居は出来へんで?」
「あんな奴等どうってことねぇよ」
「いや、范撞。緑恒に帰るぞ」
范撞と田庭閑が揃って朱不尽を見た。
「もう何か掴めたんですか?」
「ああ、お前達が狗不死様をお連れしてくれたお陰で方崖に行く事が出来たのだ」
「方崖ですか?」
田庭閑は言葉を失った。相当な賭けだ。今無事に目の前に居るという事は、下手人は北辰教では無かったに違いない。尤も、北辰教の言う事をまともに信じる事は出来ないが、そんな事は朱不尽も重々承知の筈である。
「どうだったんだよ? 全部分かったのか?」
「酔っ払いに聞かせる話では無い」
朱不尽は冷静で范撞を無視している。
「お前は酒入ってへん時でも危ないらしいやないか。今は秘密や」
「何だと爺……」
時折生ぬるい風が范撞の頬を撫でていくが、酔いを醒ます効果は全く無さそうで、相変わらずじっと立っていられずにふらついていた。
「まずは范幇主に報告する。あと武慶にも行かねば……」
そこで朱不尽は田庭閑を見たが、田庭閑は咄嗟に俯き目を逸らす。朱不尽は気に止めずに宿を見上げた。
「とにかく今夜は此処に泊まるのだ。俺は別に宿をとっているから其処に戻るが、朝まで絶対外に出るな。早朝迎えに来る。帰るからな」
「儂も居るし心配無いで。儂は明日も方崖に行かなあかんでな。一緒には戻らへんけど」
「狗不死様、この御恩は忘れませぬ。狗不死様が居られなければきっとこの街で途方に暮れておった事でしょう」
「そんならこいつらに感謝してもらわな。儂を連れて来てくれたんやからな」
朱不尽が范撞を見ると立ったまま殆ど寝てしまっている。田庭閑が踏ん張って倒れないように支えていた。
「さあ、范撞。部屋で休め。田殿、行けるか?」
「あ、はい。大丈夫です」
「頼む」
「ほんならな」
「それでは明日……」
田庭閑が范撞を連れて宿へ戻って行き、狗不死も後に続いて歩いていくのを朱不尽はじっと見つめていた。
朱不尽は自分の宿に戻り、范撞に殷汪の話を聞かせるかどうか思案している。范撞もそれを知る為に此処まで自分を追ってきたのだ。何も聞かせないままで納得する訳が無いが、話すにしても出来るだけこの景北港から離れてからにした方が良いと考えていた。
八
翌朝、朱不尽が宿を出て范撞達の許へ向かっていると、後方から馬が一騎追って来る。見れば蔡元峰であった。
「朱不尽殿、もう行かれるのか?」
「はい。緑恒へ戻ります」
蔡元峰は朱不尽の横に並び、二人とも馬上にて話している。
「昨夜の話だが……范凱幇主に報告するのは仕方ないが、まだ確証は無いのだ。広く知れ渡る様な事にならぬようにお願いしたい。我等からこの様な事を言うのをおぬしは納得出来ぬかも知れぬが……」
「……」
「しかしこれだけは言っておかねばならぬ。陶教主は……我等北辰教は決して千河幇と仲違いする様な事は望んではおらん。引き続いて詳しく調べる」
「それは承知致しております。殷総監のお話は全て理解したと心得ております」
「……殷総監の事だが」
「……?」
「昨夜もご本人が言っておられたが、もう長い間体調を崩しておいででな。殆ど表には出ておられぬ。方崖の人間は皆知っておるが、まだこの街にも漏れてはおらぬ。しかしきっとまたお元気になられる筈だ」
蔡元峰はじっと朱不尽を見つめる。これも他言してはならぬと言う事であろう。朱不尽ははっきりと分かるように大きく頷いて見せた。
「それでは……そろそろ参りますので」
「うむ」
蔡元峰も頷き返し、そのまま黙ったまま二人は別れた。
朱不尽は馬を進めながら考えていた。全てが殷総監と蔡長老の読み通りであったとして、一体どの様な具体的な方策が取れるのか?
今、北辰は教主陶光を中心に殷汪、張新、それに蔡長老ら十数名からなる長老衆が居り、その他劉毅の様な独自の配下を持つ北辰に名を連ねる集団の頭領達。それらが北辰を動かしている訳だが、どうやら張新という人間は教主に最も近く、教主を動かす様な位置に居る様だ。教主がまだ若いという事もある。教主が動けば長老衆は追随するだろう。蔡元峰も基本的には同じなのだろうが、「彼は殷汪派である」という噂がある。確かに殷汪と親しい間柄ではあるが、派閥と呼べる程、他の長老達と距離があるのだろうか。今回の問題が明るみに出た場合、自分達と対峙する事になるのは張新、そして教主陶光という事になろう。当然殆どの長老達もである。。劉毅が実行犯であるという読みから、結局、北辰全てが敵になるのだ。何らかの事を進める為の頼みの綱となる筈の殷汪は、昨夜の様子では全く当てに出来ない。蔡元峰を加えたとしても恐らくどうにもならないだろう。
前教主陶峯が殷汪を呼び寄せた当時、既に殷汪は国中の者が名を知る英雄であった。前教主が覇を唱えるに当たってその旗印にした程の人間である。陶峯自身も傑物と呼ばれ、そして太乙北辰教の急拡大を成し遂げた人物で、そこに武芸天下一と言われる殷汪が加わって北辰教徒数万がこの二人に心酔したのである。それが今や陶峯は亡くなり、殷汪は殆ど姿を隠すようになって数年。陶峯の息子の世話役であった張新が自らの権力を揺ぎ無いものにするのに充分な時間が経っていた。本来、張新の横暴を止めるべき人物、それが殷汪でなければならないのだ。しかし、どういうわけか当の本人は訳の分からない状態でまるで自滅していくかの様だ。
全てを范凱に報告しなければならないが、結局何も出来ないという状況である様に思えて、絶望にも似た感情が朱不尽の中に湧き上がってくる。ずっと考え込みながら気が付くと范撞達の居る宿までやって来ていた。何処を如何通ったのか、よく覚えていなかった。
宿に入ると狗不死の姿がすぐに目に入った。
「あいつ、まだ酒が残っとるみたいやな。さっきやっと起きたんや」
狗不死は席に着いて茶を飲んでいる。朱不尽はその前に腰を下ろし、范撞と田庭閑の二人を待つ事にした。
九
范撞らが出てきた時にはとうに陽が登り、日差しがきつくなってきていた。それぞれ自分の荷を背に括って準備は出来ている様だが、范撞の方は未だ足取りが重い。
「さっさと出るぞ。緑恒まで急ぐんだからな」
「あの、東淵にも寄るのでしょう?」
田庭閑が尋ねる。
「ああ、通らねば戻れぬからな。まぁ、顔を出しておかねばな……」
朱不尽は傅千尽に何も言わずに急に飛び出してきた事を思い返す。会って詫びねばなるまい。
「儂も少ししたらまた戻るわ。そうや、洪の爺にそう伝えといてくれ」
狗不死が田庭閑に向かって言うと、田庭閑は頷いた。
朱不尽達は狗不死に重ねて礼を述べ、宿を離れた。大急ぎで戻る、ということも無かったが、あまり休みもとらずに東淵へと馬を走らせた。
東淵の街まで戻った朱不尽達は、まっすぐ傅千尽の屋敷へ立ち寄った。
「えらく早いお戻りだが……話を聞かせてもらえるのかな?」
傅千尽は朱不尽の顔をじっと見つめたまま静かに言った。朱不尽が姿を消してから随分と気を揉んで、再び朱不尽を前にして安堵したのは確かだが全く面には出さない。
「方崖へ行って殷総監に会うことが出来た」
「なに?」
朱不尽は狗不死と共に方崖に上がった時の様子を傅千尽に話し始めた。
范撞と田庭閑は部屋の外で話が終わるのを待っている。黙ったまま二人並んで庭を眺めていると、部屋の前に傅朱蓮が姿を見せた。
「……無事だったのね。早かったじゃない」
「……」
范撞は黙ったまま目を合わせない。
「俺達は何もしてないんだ。行ってすぐ帰ってきただけさ」
田庭閑が代わって答える。
「そう……」
再び沈黙が訪れる。しかし傅朱連はその場を離れようとはしない。
「あの、魯さんが……」
僅かに范撞が視線を上げた。
「必ず、あなたが必ず朱小父様を見つけて戻ってくるから、その時は宜しく頼むって……」
范撞は再び視線を落としたが、その口許は先程より少し緩んでいた。
「范撞!」
急に声がして三人が一斉に顔を向けると、こちらへ歩いてくるのは楊迅だった。もう傷を気にする事も無く、自然に歩いている。
「早かったじゃないか。無事で良かった」
「あぁ、結局俺達は何も出来なかったけどな。お前こそ随分良くなったみたいだな。まだ大して経って無いってのにな」
「もういつでも緑恒へ戻れるよ。で? 何か分かったのかい?」
「あー、朱さんが方崖で話を聞いてきたんだけど、詳しく教えてくれねえんだよ。まず親父に報告するってさ」
「そうか……」
「洪の爺さんに言っとかなきゃな。狗さんの事」
田庭閑がそう言うと范撞が急に思い出した様な素振りで、それまで黙って俯いていた傅朱蓮に向き直った。
「なぁ、洪の爺さん、今日も店に居るかな? 流石に毎日は居ないか?」
「え、あぁ、居るかも」
急に声を掛けられて傅朱蓮は戸惑った様子であったが、前と全く変わらない范撞の話し方に思わず心が弾んだ。范撞が街を離れてからというもの、ずっと後悔し続けていた。つい感情的な態度で范撞と別れたが、その後の魯鏢頭の言葉や楊迅と話しているうちに、范撞の真意はその表面的な態度からは窺えない物であると考えるようになった。全ては死んだ鏢客の為、危険と知りながら方崖へと乗り込んだ朱不尽の為、ただそれだけの為に范撞は行動する。魯鏢頭は結局、范撞をよく知っていた。永く一緒に居る楊迅も。自分だけがずっと感情的になったままで居た事を心から恥じた。知り合ってまだ僅かな訳でそれらの事は全く気にするような事でも無いのだが、何故か傅朱蓮は自分だけ分からなかった事がとても嫌だった。
「居るんじゃないかな? 梁媛が言ってたから」
楊迅が范撞に言う。
「梁媛?」
「ほら、洪さんと一緒に居た娘が居たろ?木に登ってた――」
十
「ああ、あの子か。孫を放っておいて酒飲んでんのか?」
「そうじゃないわ。梁媛は私のお母様の所へ行っているのよ。お母様にここで楊さん達のお世話する様に言われたらしくて」
「ふーん。とにかく店に行くか」
「私も行っていい?」
傅朱蓮が尋ねると范撞は何も言わずにただ頷いた。
「爺さん、いつか死ぬぞ」
「何を言っておる。死なん奴が居るか? お前だっていつか死ぬじゃろう」
范撞は紅門飯店に入り、奥に居た洪破天をすぐに見つけた。酒壷が二つ転がっている。
「早かったのう? 何も出来なんだんじゃろうが?」
「まあ、俺達はな」
洪破天を囲むように范撞と傅朱蓮、田庭閑、楊迅の四人が席に着く。
「あんたたち、無事だったのね。朱さんも一緒?」
傅英がすぐに范撞らの姿を見つけて酒を運んで来た。
「今、屋敷で傅の旦那と話してるよ」
「楊さんはもう飲めるかしら?」
「あー少し頂きます」
「本当に少しだけよ」
すぐに別の席の客から傅英を呼ぶ声が上がる。
「今日は兄さんの処に泊まるんでしょ?」
「あーどうかな。流石に世話になり過ぎてるしな」
范撞がそう言うと、
「朱蓮、ちゃんとうちに引き止めておくのよ」
傅英は傅朱連にそう言い残して席を離れて行った。
「何が分かった?」
洪破天が話を切り出す。
「朱さんが方崖で殷総監に会った」
洪破天は全く表情を変えず范撞をじっと見ている。
「全く何も話してくれなかったの?」
楊迅が尋ねると、范撞は大袈裟に首を振って見せる。
「色々話してくれたらしい。総監様がな。でもその内容は緑恒で報告するまで俺達には言わないつもりらしい」
「そうか……でも、何か分かったんだね」
「どうかな」
田庭閑が言う。
「朱鏢頭、何だか時々物思いに耽る感じで何か悩んでいるみたいだけど」
「そりゃそうだろ。何て言うかこう……複雑な話に違いないぜ」
「何よそれ」
范撞の言葉に傅朱蓮が笑い出した。
「な、何だよ?」
「いいえ、何でも。複雑な話ねぇ」
洪破天が酒杯を呷ってから静かに置き、口を開いた。
「殷汪には初めて会ったのじゃろう? 印象は言っておったか?」
「あーそうだ。なんか、病気みたいだぜ?」
「えっ? 病気?」
傅朱蓮が驚いて目を見開き、声を上げた。
「ちょっと違うだろ?フン、きっと妖術が暴走したのさ」
田庭閑はそう言って僅かに鼻を鳴らした。
「それも違うだろうが。爺さん、朱さんの話じゃあ殷汪って人は見た目俺達と変わらねえらしいけど、昔からそうなのか?」
「そんな、おかしいわ!」
傅朱蓮が再び声を上げて洪破天を見る。
「そんな事って……」
「会った者が言うんじゃから、そうなのじゃろう?」
「小父様……?」
洪破天はしっかりと口を結んで自らの酒杯に酒を注いでいる。
「どういう事だい?」
范撞達は傅朱連を見る。傅朱連は視線を宙に漂わせながら何やら考え込んでいる様子で口を開くまでに時間が掛かった。
「殷兄さんがずっと若いのは……特殊な内功の作用で普通の人より体の衰える速さがずっと遅くなるのよ。もう十年近く会ってないけど、確かに凄く若々しかった……。お父様とあまり変わらない歳なのに。でも、十年前でもあなた達と同世代になんて見えなかった筈よ。そうよ。小父様、そうよね?」
「……そうだったかのう?」
洪破天があまりにもその事について触れようとしないので范撞達は訝しがったが、特に詮索しようとも思わなかった。傅朱連は再び黙り込んだ。
十一
「景北港では――」
田庭閑が口を開く。
「北辰の者は武器を持たない? 携行している人間を見なかったけど」
傅朱蓮は首を傾げた。
「どうかしら? 私は小さい頃しか行った事無いから、よく分からないわ」
洪破天の方に顔を向ける。
「普段は武器を携行する者は居らんのう。武器を持つものはよそ者だとすぐに判る。しかし皆、無手の武芸を修めている訳ではない。騒動でも起こればたちまち何処からか大量の武器が運び出されてよそ者は包囲されるじゃろうな」
「なるほど。それで俺たちは一発でよそ者だとばれた訳か」
「何かあったの?」
楊迅が田庭閑の顔を覗き込む。
「何もねえよ。酔っ払いが絡んで来ただけだ」
范撞は上体を伸ばして頭の後ろで手を組み、前後に揺らしている。
「しかし……俺が賊の事を突き止めて、それで朱さん連れて凱旋してくる予定だったんだがなぁ。ただ行っただけで格好がつかねえよ」
「狗はどうした?」
「ああ、そうだ。狗の爺さん、朱さんと一緒に殷総監に会いに行ったらしいけど、教主にも会っていくって言って残ったよ。まさか教主とも知り合いとはな。丐幇の元幇主だって? ただの飲んだくれかと思ってたけど」
「フン、当たっておる。昔からただの爺じゃ」
「あの爺さんが北辰教教主様と知り合いか……方崖も今までより身近に感じるな」
范撞はそう言って笑う。
「あのような場所、儂なら絶対に近づかん。たとえ招待されても断る。まあ、儂みたいな者に用は無かろうがな」
洪破天はそう言った後、やおら立ち上がり、そのまま席を離れようとする。
「爺さん、帰るのか?」
「ああ。お前達はまた千尽の所か?」
「んー、たぶんそうなると思う」
「すぐ緑恒に戻るのであろう? まあ、よく幇主と相談するんじゃな」
洪破天はもう一度范撞ら三人に目を遣ってから、踵を返してさっさと店の外に出て行った。外は夕陽で赤くなっているが、通りは相変わらず人でごった返していた。
残った四人はそのまま店に残り、食事を取りながら朱不尽から聞いた殷汪の様子や、景北港までの道中での話し等を楊迅と傅朱蓮に話したりしながら過ごした。すでに陽は落ちているが、通りの赤い光が見えている。
「あんた達、戻らなくていいの?」
時折、傅英が様子を見に来ていたが、「大丈夫だ」と言うだけで腰を上げることは無い。
「あ、叔母様。私が持っていくわ」
傅英が片付けようとした皿を傅朱蓮が重ねて席を立った。そのままふと店の入り口付近に視線を向ける。
「あら? ……あれ」
「ん?」
田庭閑も振り返り、傅朱蓮の見ている入り口に目を遣った。
「おい、范撞」
田庭閑は隣に座っていた范撞の肩を揺する。
「何だ?」
「狗の爺さんが居る……」
「何?」
范撞も振り返って立ち上がる。見れば狗不死に間違いない。入り口から少し入った所で辺りを見回して誰かを探している様子である。
「何で此処に居る? まだ景北港の筈じゃあ……」
十二
范撞らが立ち上がり一様に入り口の方を見ているので楊迅も席を立って目を凝らす。
「あのお爺さんが狗幇主なの?」
「ああ。いや、前の、だけどな」
その時、狗不死が丁度こちらを向き、すぐに外に出て行く。
「何だよあの爺さんは。今絶対俺達に気づいたよな?」
范撞はそう言って入り口に向かって歩き出そうとすると、またすぐに狗不死が入ってきて今度は真っ直ぐ早足で近づいてくる。
「お、何だ何だ?」
「お前達、洪見てへんか?」
「ん?」
「洪や。洪破天やがな。来てへんかったか?」
「あーさっき会ったけど……なんで爺さん此処に――」
「何処行った? 帰ったんか?」
「ああ、まあそう言ってたけど」
「さっきって言ってももう結構時間経ってるよ。まだ陽があったからね」
楊迅が横から口を挟む。
「そうか」
狗不死はそれだけ言うと、すぐにまた外へ出て行く。
「お、おい。何があったんだ?」
范撞達はすぐに追って表に出ると、すでに狗不死は通りを南へ歩き出している。隣には頭から襤褸を被った人物が一緒に居る。時折、足を縺れさせる様によろめきながら狗不死について歩いていた。
「あれ、誰だろうな? 丐幇の人間か?」
店の前で狗不死の後姿を眺めていた范撞が田庭閑に言う。
「さあ? 分からんが、景北港で何かあったのは確かだろう。今此処に居るって事は、俺達が出てすぐに爺さんも出てきた筈だ。俺達も結構急いだからな」
「おい、行ってみようぜ。きっと洪の爺さんの家に行くんだろう」
「行くって……どうするの?」
傅朱蓮も表に出て来て一緒に狗不死を見ていた。
「そうだ、屋敷に戻って朱さん連れて来てくれないか? 何があったか知らないが朱さんが方崖に行った事と関係あるかも知れないしな。きっと朱さんも知りたがる筈だ。あんたは洪の爺さんの家、知ってるんだろ? 俺達は狗の爺さんについて行く」
「いいけど……洪小父様を探すのと鏢局と関係があるのかしら?」
「分かんねえけど、今から確かめる」
「早く行かないともう見えなくなるよ?」
楊迅が前方に目を凝らしながら言う。
「じゃあ、頼むぜ」
「分かった」
范撞達三人は早速、狗不死を追って歩き出し、傅朱蓮は朱不尽の居る屋敷に向かった。すでに薄暗く大通りは所々に明かりが灯してあるが、通りを外れれば暗闇が続く。ようやく大通りも人の姿は疎らになり、狗不死の姿が遥か先に見えていた。
狗不死と、隣の謎の人物は山手に向かって大通りを離れて行く。先にある集落の辺りには民家の明かりが見えているが途中の小道は完全に暗闇になっていて、范撞達は道を端を確かめながら進んだ。どうやら傅千尽の屋敷のある集落とは別の場所の様で、せり出した山裾が二つの集落を隔てている。
「おい、爺さん何処行った?」
「真っ直ぐ行った筈だけど……見えないな」
「見失ったか?」
とりあえず真っ直ぐ前に進もうと歩き始めると、不意に背後の暗闇から声が掛かった。
「お前達、こんな方に何の用じゃ?」
「うわっ!」
范撞達は飛び上がらんばかりに驚いて振り返った。闇の中に立っていたのは洪破天で、すぐ横には梁媛が身を寄せてこちらを怪しむ様な表情で見つめていた。
十三
「じ、爺さんか。脅かすなよ……もう家に帰ったのかと思ってたけど」
「千尽の屋敷に寄ったんじゃ。この子を迎えにのう。お前達は……儂に用か? この先には民家しか無いが」
楊迅が梁媛に目を遣ると梁媛は視線に気づいて軽く会釈をした。
「俺達じゃなくて、狗の爺さんだよ。狗の爺さんがあんたを探してたんだ」
「狗じゃと? まだ景北港ではなかったのか?」
「その筈だったんだけどな。でも何故か居たんだよ。きっと何かあったと思ってさ。追って来たんだ」
「で? その狗は何処に居る?」
洪破天は辺りを見回す。
「ついさっき見失った。きっとあんたの家に向かってる筈だ」
その時、洪破天がやって来た方角から馬蹄の響きが聞こえ、一同はまだ姿の見えない暗闇に向かって身構えた。洪破天は梁媛を自らの後ろに回らせる。
「ん? 朱蓮か?」
洪破天はすぐに気がついた様だが、范撞達には分からずじっと目を凝らしていた。
「あら? 皆揃ってるじゃない。狗さんは?」
姿を現したのは確かに傅朱蓮で、後ろには朱不尽と傅千尽も来ている。
「范撞、何があった? 狗不死様は?」
「何じゃ? お前達まで来てどうすると言うのじゃ?」
「あんたの家に行けばきっと狗の爺さんが居るさ。さあ、行こうぜ」
「あれは? 狗殿ではないか?」
傅千尽が言う。傅朱蓮達の来たのと反対の方角から、誰か近づいて来ていた。
「フン、狗じゃな。あの歩き方は……。横の人間は誰じゃ?」
顔が皆に見えるくらいまでやってくると、狗不死が声を発した。
「洪! よう今まで騙しとったな! 儂、ほんまアホやないか!」
「何じゃと? 儂が何を騙した?」
すぐ傍までやって来た狗不死は他の者には目もくれずに洪破天に詰め寄る。
「これや! これ誰や思う? お前は知っとる筈や。ほんまの素性までなぁ!」
狗不死は隣に居る襤褸布を被った人物を指差す。その瞬間、その人物は洪破天にしがみつくように飛び出した。
「何をする!?」
洪破天は驚いて向かってきた腕を掴もうとしたが、思いのほかその人物の動きは早い。先に洪破天の腕を掴んだがそのまま崩れるように膝を突いた。
「お前は一体……」
洪破天はその人物を見下ろして呟いたが、内心は穏やかでは無い。
(こやつ、儂より先に腕を掴みおった。もし武器の類を持っておったら……)
心臓が早鐘を打つ。洪破天には随分と久しぶりの感覚である。
襤褸布の下の顔がゆっくりと上を向く。一同は皆その顔を覗き込んだが、その顔を知っていたのは狗不死を除くと洪破天と朱不尽の二人だけであった。
「い、殷総監!?」
朱不尽の驚きの声に皆、自分の目を疑った。范撞と楊迅、田庭閑の三人と梁媛は殷汪を見た事が無いが、他の者は昔から知っていた。
「殷……? お前が殷汪だと?」
傅千尽がもう一度、男の顔を覗き込んで凝視している。
「全然ちゃうやろ? 昔の殷汪となぁ。朱蓮、どうや?」
「そんな……本当に殷兄さんなの……?」
朱不尽は傅千尽らの反応に一層驚いた。確かに男は方崖で会った殷総監に違いない。会ったのはたったの五日前だ。男の顔は青ざめて唇を震わせているが、どう見ても同一人物である。しかし昔からよく知る筈の傅千尽や傅朱蓮の様子を見ると、殷汪ではないと思っている様だ。
「こいつはずっと北辰の総監やった。それは間違い無い。でもちゃうねん。殷汪ちゃうねん。さあ、洪。種明かしして貰おうやないか?」
十四
洪破天は険しい表情でじっと男の顔を見つめてたまま黙っていたが、暫くしてようやく口を開いた。
「何故此処に来たんじゃ? 方崖の人間は知っておるのか?」
「フン、こいつが景北港を出た事は皆知っとる。もう探し始めとるわ。これはもうお尋ね者や」
「どういう事です?」
朱不尽が尋ねる。范撞達はというと何が何だか訳が分からず、ただ狗不死と洪破天の会話を聞いているしかない。
「……もう無理だ……兄貴に、い、殷の兄貴に会わせてくれ……頼む。もう……」
洪破天にしがみ付いたままの男が弱々しい声で訴えかける。
「あ、あなたは殷総監ではなかったのか?」
朱不尽は男の傍に屈みこんで問い詰めると虚ろな視線が返ってくる。
「……もう何年も総監と呼ばれてる。この間……言った事は、嘘じゃ……無い」
朱不尽は呆然となって男の顔を見つめていた。
「こいつ、方崖で四人ほど切りおった。なんか発作みたいなもんになって暴れたらしいわ。方崖出て逃げてくる所を儂が見つけたんや。景北港ではこれを捕まえる命令が出とる。蔡の奴なんか捕まってはおらへんけど屋敷で監視されとるわ。あんたと方崖に行ったあの後の事らしい」
狗不死が朱不尽に言う。
「洪兄、この者は殷汪ではないのだな? 殷汪だと言われても信じ難いが……」
傅千尽が確かめるように洪破天に尋ねた。洪破天は黙って前方の暗闇を見ている。
「少なくとも七、八年は方崖に居って殷総監と呼ばれとった。儂もそう思っとったわな。でもほんまに殷汪か言うたら、それはちゃうねん。洪、これは誰や?」
洪破天はもう一度男の顔を眺めてから口を開く。
「この者はかなり具合が悪そうじゃ。家に連れて行く。大勢居っても仕方ない。お前達、今日はもう帰れ」
「そんな訳にいくかいな。儂ら皆――」
「これは殷ではない! お前達は知らぬ他人じゃ!」
「洪兄、確かに知らぬ男だが、具合が悪いのなら医者に見せよう。洪兄の家に連れて行っても寝かせる場所も無かろう? 儂の家に連れてゆこう」
傅千尽の言葉に洪破天は睨む様に見返した。
「フン、そうか。ならば好きにするがよい。媛児や。もう遅い。さっさと帰るとしよう」
洪破天は男を無理やり押し退けると、梁媛の手を引いて歩き始めた。
「おいおい、爺さん……」
范撞は何か言おうとしたが、洪破天に睨みつけられて口を噤んで後退した。
「俺はもう、も、もたないんだ! 頼むよ……殷の兄貴は何処、何処に居るかだけでも……」
男は地面に這いつくばる様な体勢で声を振り絞っている。洪破天は振り返って見下ろした。
「景北港じゃろう? それ以上は知らん。会っておらんのか?」
洪破天の男を見るその眼差しは、どこか憂いを湛えていた。
「もう一年以上会ってない……。家にも行ったんだ。でも、居なかった……」
「ならば……わからん」
男が苦しそうに荒い息遣いで居るのを見て洪破天は項垂れた。
「本当の殷兄さんは、景北港に居るの? 居るのに、総監では無かったの?」
傅朱蓮が洪破天の顔色を窺いながら恐る恐る尋ねた。
「千尽、この者を連れて行ってくれ。……儂も行く。媛児よ。帰るのは待ってくれ」
洪破天は項垂れたまま言う。
「はい」
梁媛は頷いた。梁媛もこの見知らぬ男に興味を持っていた。この「総監」と呼ばれている男はきっと洪破天の知り合いのあの、「総監」と呼ばれていた夏天佑と繋がりがあるに違いないと思っている。
「分かった。では行こう」
傅千尽が男を抱えて立ち上がらせると范撞と楊迅が脇を抱え、一同は暗がりの中を傅千尽の屋敷へと向かった。
十五
屋敷に向かう途中、傅千尽が男に話しかける。
「怪我をしておるのか?」
「……違う。結局、俺では……駄目だった」
男は下を向いたまま、か細い声で言う。
「何の事だ?」
「これはな、殷の編み出した内功の功夫を教わったんや。何年も経ってからどうもうまく制御出来ん様になったらしいわ。儂が見てみたけど、けったいな内力が暴走しとる」
狗不死が説明する。
「教わったって……殷兄さんから直接教わったの?」
「そうやろな。他のモンに分かるかいな」
暫く間が空いて、范撞が傅朱蓮を見る。
「なぁ、なんで「殷兄さん」なんだ? 親父殿と変わらん歳なんだろ?」
「それは……小父様って呼ぶにはちょっとね。でも、もう長く会ってないから今度会ったらもう小父様かもしれないわ」
「お……嬢さん、安心しろ。殷……殷の兄貴は全く変わってない。ちょっと……皺くらいは増えたろうが、あんたが兄さんと呼んでも……お、おかしくない」
傅朱蓮は男をじっと見つめ、その後は何か考え込む様に黙ったまま歩いていた。
「この男の素性は、ここにおる馬少風の方が詳しかろう」
傅千尽の屋敷に着くと寝台のある部屋に男を連れて行き、少々狭い部屋であったが一緒に来た者は皆、洪破天の話を聞くために集まった。
「少風が? 何故だ?」
傅千尽が洪破天に尋ねる。
「何故と聞かれてものう。昔から知った仲じゃろう」
洪破天は横になって体を丸めている男に顔を向ける。
「馬、少風か……あいつは此処に……居るのか……」
「ならば少風を呼ぶとしよう」
「もう遅いし、此処に戻ってるわね。馬さんを呼んで来るわ」
傅朱蓮が部屋を出て行った。その間に洪破天が男の腕を取って脈を見ている。
「どや? おかしいやろ? これが殷の内功か?」
「危ないのう。下手に手は出せんな。どのように気の流れを制御するのか?うむ……」
「殷……兄貴はただ……背を丸めてただ……気息を整える事だけに集中しろと……」
「それだけかいな? んなアホなことあるかいな。そんな簡単な……」
「そうすれば……楽になったんだ、最初、最初は……。今はもう……効かない」
「別にそれは鍛錬の法ではない。具合が悪くなった時の処置じゃ。奴が考え出した功夫じゃ。他の者に理解できる筈も無い」
洪破天が狗不死に言う。
「あれの内功は誰一人真似できるモンちゃうしなぁ。なんでそんなモン教わったんや……」
男は眉間に皺を寄せて細く息を吐いていた。
范撞は田庭閑に小声で話しかける。
「あんな事になると分かってても、殷って奴に教わりたいか?」
「まさか。あの男が教わったのには何か事情があるんだろう?あの男、本当に殷汪の技がモノになると思ってたんだろうか? 教えた殷汪も自分と同じ技があの男にも出来ると? 技って言うのかどうか知らないけど。あの男、何歳かな?」
「さぁ? でも多分、ただ若返る為の内功とは思えないんだよな。多分、副作用みたいなもんじゃないか?」
「何故だ?」
「朱蓮は内功の作用で衰えるのが遅いって言ってたけど、さっきあの男は殷汪は皺は増えたかもしれないけどそんなに変わってねえみたいな事言った。朱さんが狗の爺さんから聞いたって話では、あの男は確実に若返ってるってよ。顔が変わっていってるらしい。おまけに体調に異変をきたしてる。殷汪って奴の内功の功夫とあの男のとでは、多分違う」
十六
「馬さんが来たわ」
傅朱蓮が部屋に戻って来ると、続いて馬少風が黙ったまま入って来た。人が集まっているのに驚き、部屋を見回して誰が居るのかを確認している。
「少風、こっちに来い」
傅千尽が手招きして、奥の寝台の傍に呼び寄せる。
「おぬし、この男を覚えておるじゃろう?」
洪破天が言うと馬少風は寝台に横たわる男に顔を寄せ、すぐに直立の姿勢に戻った。
「覚えている」
「……馬か。か、変わらんな。まだ俺の……顔が判るか?」
「判る」
男は横目で馬少風を見上げ、馬少風の方はじっと顔を見たまま黙っている。傅千尽はじれったくなり大声を出す。
「少風、この者は誰だ?」
「これは、夏」
「夏? 夏何だ? お前とどういう関係だ?」
「夏天佑」
「えっ」
その時寝台の周りに集まる一同の後ろで、小さく驚きの声が発せられたが、傅千尽達は気付かなかった。
「同郷だ。俺が此処に来るまで、生まれ育った呂州にある小さい町で暮らしていた。この男も同じ町に居た」
「それが何故殷汪と名乗る? 殷汪とどういう関係なんだ?」
「殷汪? これは夏だ」
「……洪兄、説明してくれ」
傅千尽は洪破天の方に向き直って尋ねる。洪破天はまるで顔を洗うように両手で顔を撫でてから溜息をついた。
「フン、皆大袈裟じゃ。別に大それた謎がある訳でも何でもないわ」
「殷汪は儂にとっても兄弟同然だ! 儂はずっと方崖にいるのがその殷汪だと思っていたんだぞ? 方崖に行ってからもう十年にもなろうというのに一度も顔を見せぬ。儂は……北辰の総監になってもう儂等の事など気にも掛けん様になったのかと正直、腹を立てていたのだ! だが総監は殷汪では無かった。ならば、儂等の知る殷汪は今何処に居る!?」
洪破天は苦しそうな男を見つめながらまた溜息をつく。
「景北港の筈じゃ。会いに行った事は無い。この男、夏天佑は殷が自分の身代わりに方崖に連れて行った男でのう」
「身代わり?」
「そうじゃ。考えてもみよ。あの殷が北辰の幹部、しかも総監など望んでなると思うか? 陶峯が呼び寄せた時は、まぁ、手を貸す程度のつもりであったろう。総監にしたのは陶峯じゃが、一年もせんうちに殷は北辰から抜け出す事を考え始めた。その後、陶峯が病で亡くなった後、まず陶峯の息子の世話役でしかなかった張新という男を正式に新教主の補佐役に据えた。自分は出来る限り表に出ずとも良い様にのう。張新という男、どうやら中々の野心家らしいが、殷には好都合じゃ。そして教徒に対しては私闘を厳しく禁じた。自分が方崖を出るまで対外的な揉め事を徹底的に回避する為じゃ。そうしてその間に、もう一人の自分を作っておく……」
洪破天はぼんやりと男を眺め、また顔を撫でた。
「もう一人の自分……この者は全く似ておらんが」
傅千尽も男に目を遣る。黙って聞いていた狗不死が口を開く。
「今の顔はもうおかしな内功の作用かなんか知らんけど、別人みたいに変わっとる。ほんでも儂は総監になったばかりの殷汪、つまりほんまモンの殷汪も見とる訳や。思い返してみても、どこで入れ替わったんかさっぱり分からん」
「おぬしはいつも方崖に行っておった訳ではなかろうが」
「まぁ、そやな。そん頃はまだ丐幇の面倒見とったさかいな」
十七
洪破天達の後ろで、傅朱蓮は梁媛の肩を抱いて顔を覗き込んだ。
「媛? 大丈夫?」
「どうした?」
楊迅も傍によって梁媛に尋ねた。
「あの人じゃない……違います。夏天佑様では……」
「確か、あなたが都で会ったのが洪小父様と夏天佑って人だったわね」
「……はい」
梁媛は寝台の男から目を逸らさずにじっと見つめながら答えた。唇を震わせ、少し混乱している様子である。
「洪小父様。媛が都で会ったのは……小父様と一緒に居たのは誰?」
傅朱蓮の問いに洪破天は振り返り、傅朱蓮に支えられた梁媛を見て目を伏せた。
「媛児や。その……勿論この男とは違う。あの男は……本当の名は殷汪というのじゃ」
「殷……」
「お前を騙すとかそういう事では無い。知っている奴は知っているが、殷汪という名はあの時伏せておったのじゃ。だから――」
「殷汪様とおっしゃるのですね。本当のお名前を知ることが出来て私、嬉しいです」
梁媛はようやく僅かに微笑んで見せる。洪破天を責めるとかそんな気は更々無かった。
「なるほどなぁ。この夏天佑は方崖に入って殷汪になった。で、代わりに殷汪は夏天佑を名乗っとる訳やな」
「……そういう訳でも無いが、まあ都ではそういう事になったんじゃ」
「い、今も殷兄貴……は都に……?」
男が声を搾り出す。
「いや、こっちに戻ったのは春頃じゃ。途中で別れ、奴は景北港へ行った。確か……何か急用が出来たと言っておったが、その頃方崖で何かあったか?」
「……春、か。いや、何も無かった……と思う」
「とにかく、景北港へ戻る、と言っていた。それ以降は知らぬ」
「何で景北港なんや? 折角入れ替わったのに何年も近くに居るなんておかしいやないか」
「そんな事、儂は知らん。儂が知っておる事はこれで全部じゃ」
暫く沈黙が続く。それぞれが何か考え込むように押し黙っていた。
「不尽、お前達鏢局の者はすぐにでも此処を離れた方がいいな。方崖の連中はこの夏という男を捜しておるのだろうが、お前が会いに来た事も知っておるのだろう。出来るだけ早く緑恒へ……」
「そうじゃな。此処へは確実に来る。もう迫っておるやもしれぬ。これが方崖を飛び出したのと鏢局は関係無い事じゃ。一緒に居ってはあらぬ疑いを招く。もう疑われておるやも知れぬがのう」
傅千尽と洪破天は二人とも朱不尽の方を向いて言った。
「……この、夏殿が此処に居たら、お前達はどうなる?」
朱不尽が傅千尽に聞き返すと、洪破天が話に割って入る。
「よいか。これはもう夏では無い。殷汪じゃ。入れ替わって以来、ずっと殷総監なんじゃからのう。方崖の者も用があるのは本物の殷ではなく方崖で暴れて逃げてきた、この「殷汪」じゃ。今、殷汪はこの男だけじゃ。死ぬまでな」
「なんや、ややこしいな。……儂等かて一緒に居ったらまずいやないか?」
「そうじゃな。千尽、お前の言った通り「殷汪」は方崖に行ってから一度たりともこの東淵には帰ってきておらぬ。儂等の繋がりは絶たれておるのじゃ。儂等も、関係無いぞ」
傅千尽は「関係無い」という洪破天の言葉に顔を顰めた。しかし、確かにこの男は本当の殷汪では無いうえに、北辰の追っ手が迫っているとなれば、洪破天の言う様に振舞わねばとんでもない災いが自分だけでなく家族まで及ぶ事になる。寝台の上で苦しんでいるこの男を捨てなければならないかも知れないという状況になってしまっているのである。
「でも……それじゃあ」
傅朱蓮が声を上げる。
「この人は、どうするの? 苦しんでるのに……」
十八
「狗不死様、景北港から此処までは夏殿も馬で?」
朱不尽が狗不死に顔を向けた。
「えらい難儀したで。まぁなんとか馬にしがみ付く位は出来るしなぁ」
「ならば……我々がこの夏殿を連れて此処を離れましょう」
「この男を連れて……?」
傅千尽は眉を顰めて朱不尽を見る。
「どうするつもりだ?」
「夏殿が此処に居るのはまずいのだろう? 我等も同じ。どちらも離れねばならぬなら一緒に行けば良かろう。夏殿は……一人では無理だ」
「それはそうだが……」
傅千尽は声を落として朱不尽に身を寄せた。
「この男、もうそれほど持たぬのではないか? 例え殷汪が此処に居ったとしてもどうにもならぬだろう。緑恒にすら辿り着けぬやも知れん」
「ではどうすれば良いというのだ? 何処かへ置き去りにでもするのか? とにかく、我等が連れてゆく。別にこの夏殿に対する義理でも何でもない。俺が此処を離れるのは俺の為。夏殿が此処を離れるのはお前達の為だ。千尽、随分と世話になった。礼を言う」
「何を言う」
「范撞、楊迅。準備が出来次第、此処を経つぞ。すぐに準備をしろ」
朱不尽が范撞達の方へ振り返って命令する。
「俺は此処に着いた時のままだしな。すぐにでも出られるぜ」
范撞が答える。
「楊迅、李と方の二人にも伝えろ。二人とももう体は良いのだな?」
「はい。二人とも回復しています。伝えてきます」
楊迅はそう答えてすぐに部屋を出て行った。二人とは大怪我で楊迅と一緒にこの傅千尽の屋敷で養生していた鏢客である。
「狗不死様。夏殿の馬は今何処に?」
「あっそうや。店の前、紅門の前に繋いだままや。すっかり忘れとったわ。儂の乗ってきた馬もや」
「じゃあ、俺が行って持ってくる」
「頼む」
范撞は朱不尽に言うと部屋を出て紅門飯店に向かう。田庭閑も黙ったまま後に続いた。
「不尽、帰るまでにもう一度酒でも酌み交わしたかったが……」
鏢局の者達は暗く静まりかえっている屋敷の門前に集まっている。傅千尽が朱不尽に声を掛ける。
「フ……これが最後でもあるまいが。まあ、暫く此処には来れぬだろうが」
「儂等のほうがお前を頼って緑恒へ行かねばならぬかもしれんな」
「そうならないのが一番だが、もしもそうなれば、遠慮はいらん。歓迎しよう」
朱不尽はそう言ってニヤリと笑って見せた。
楊迅が洪破天の傍に立っている梁媛に近づいた。
「随分世話になったね。ありがとう」
「いえ、私は何も……もう痛みませんか?」
「うん。もう心配ない。他の二人ももう大丈夫だから」
楊迅と一緒に居た二人の鏢客も口々に梁媛に礼を述べる。梁媛は小さく頷いてそのまま俯いてしまった。
「お前達、とんでもない目に会ったな」
洪破天が話しかける。
「いや、まあ、鏢局という家業はこういうものでしょう。私はまだ未熟だったのです」
「ならば……まだ続けるのじゃな?」
「それは……正直分かりません。でも、逃げる事だけはしたくない。緑恒に戻ったらもっと修行するつもりです。武芸は勿論ですが、何ていうかこう……精神的にも強くならなければ」
十九
「それは簡単な事ではないが、お前達はまだ若いからのう。今回の件は確かに悲劇には違いない。じゃが、生き延びた。忘れてはならぬが拘るのもどうかのう。自分をどのように成長させるのか、常に冷静に見定めながら精進するが良かろう」
洪破天はいつもの酒の入っている時と違い、じっと楊迅の目を見据えながら言った。
「おい、解さん達に会ってから行こう」
范撞が後ろから楊迅達に呼びかける。楊迅達は洪破天に一礼すると范撞と田庭閑についてその場を離れ、傅朱蓮もその後に続く。洪破天と梁媛はその後姿を見送った。
傅千尽の屋敷の広大な庭の一角に、新たに移植された木々に囲まれた場所がある。庭の中をうねるように流れる小川がそこへも引き込んであり、小さな橋まで作られていた。
「これは、桃か」
范撞が傍の木の幹に触れて言うと、先を歩いていた朱不尽と傅千尽が振り返る。
「そうだな。これだけあれば春はさぞ賑やかになるだろうな」
「これは実が生るのか?」
「この品種は実も取れる」
傅千尽は范撞の横に来て桃の枝を見上げた。
「本来ならそろそろ実が取れる時期だが、移したばかりだからな。ここは特に良い土を入れさせた。春には美しい花が咲き、来年初秋には良い実が取れるだろう」
「花の観賞用はすぐに手に入るけど、実の生るものをこれだけ集めるのは大変だったのよ」
傅朱蓮も傍に立ち、范撞に言った。
「春だけでは寂しいではないか。此処に葬った者達は故郷から遠く離れた場所できっと嘆いておろう。まだ他の木を植える余地もあるからな。他にも植えれば良い」
「千尽、此処に居る者は皆、お前に感謝している筈だ。我等鏢客はいつ何処で体を刻まれて山野に晒されるか分からぬ。このような立派な墓所に葬られるなど考えられぬ。俺が皆に代わって礼を言おう。この通りだ」
朱不尽は傅千尽に対して深々と頭を下げる。
「このくらいの事は何でもない事だ。このくらいしか……」
傅千尽はそう言うと、先に木々に囲まれた墓所に入って行った。
傅朱蓮が脇にある燈篭に火を入れると、正面に並んだ墓標が浮かび上がる。范撞らが見慣れている南方の大きく石を積み上げた共同の墓所とは違い、子供の背丈程の墓石が綺麗に並べられていた。
「十八も並ぶと……」
楊迅は呟くように言うが、すぐに言葉に詰まる。朱不尽は一つ一つを手で撫でながらゆっくりと歩いた。
「范撞?」
楊迅がふと范撞に目を遣ると俯いて手で口元を覆っている。泣いているのか、初めて見る范撞の姿だった。
「きっと戻ってくる。仇を討つために、きっと……」
「うん。必ず」
「はよ出た方がええな。儂も行きたいんやけどなぁ」
再び戻った朱不尽に狗不死が言う。狗不死は勘違いしていたとはいえ長く殷汪を名乗っていた夏天佑と親しく付き合っており、この男がこの先どうなるのか心配していない訳では無いのだが、北辰の追手は必ず朱不尽達に追いつくだろうと読んでいる。今以上に北辰に目を付けられるのは避けたかった。
「狗不死様、お気を付け下さい。北辰は既に……」
「ああ、わかっとる」
朱不尽は後方に居る夏天佑の元に歩み寄る。
「夏殿、そろそろ出発致す。よろしいな?」
「……それはいいが、多分ついては……行けんだろうな。遅れたら、捨て置いてくれ」
「……」
朱不尽は何も言わず振り返ると、すぐ後ろに田庭閑が立っていた。
二十
「どうした?」
「朱鏢頭、私は緑恒へは戻りません」
「何?」
「……思うところがありまして、ここから都へ向かおうかと」
「都へ? そなた一人でか? 武慶へは?」
「……まぁ」
田庭閑は言葉を濁す。
「私は戻ったらすぐにでも武慶へ陸総帥に会いに行かねばならぬ。……報告と謝罪の為にな。そなたが居らねば何と言えば良い?」
「総帥は私の事はそれほど気には掛けておられないでしょう」
「そのような事……」
「あの時、賊に襲われたあの時に、逃げて行方知れずという事にして頂けませんか?」
朱不尽は考え込んだ。確かにそう言えば納得出来ない事も無い。
「范撞! 楊迅!」
朱不尽は二人を呼び寄せる。
「田殿は我等とは行かず都へ向かうと言う。何か言うことがあるか?」
田庭閑は何故朱不尽は范撞達にそんな事を聞くのか分からなかった。黙って下を向いている。
「一人でか? 大丈夫……だよな。朱さん、心配無いんじゃないか? 都は実家があるんだったな。いいんじゃねえか?」
范撞は朱不尽に事も無げに言う。
「田さん……前にも言ったけど、何かあったら緑恒へ……」
「ああ、……ありがとう」
范撞と楊迅の言葉を聞き、田庭閑は唇を噛み締めて不意に溢れそうになった涙を堪える。朱不尽は改まって田庭閑と話したことは無い。范撞達の様子を見て頷いた。
「解った。そなたは逃げて行方不明。本当にそれで良いのだな?」
「逃げたって……。田、お前は逃げてなんか無い。これから逃げる訳でも無い。ちゃんと俺達は知ってるからな。俺は……お前が羨ましいぜ。きっとまた会おうぜ」
「ああ」
范撞が田庭閑の肩に手を置いて小さく揺すった。
「あの、この剣、お返しします」
田庭閑は腰から外した長剣を朱不尽に差し出す。
「ん? ああ、いや、持って行くがいい。そなたの剣は武慶の家に置いたままではないか。安物だが無いよりマシであろう? これも一緒に持って行け。餞別だ」
朱不尽は懐を探り、小さな粒を幾つか取り出す。見れば小粒の馬蹄銀だが結構な量がある。
「うお! 朱さん太っ腹だな。もっといい剣も買えるかもな」
范撞がそう言って笑い、楊迅もつられた。
「朱鏢頭……」
「そろそろ我等は出る。そなたは景北港でも出歩いておらぬし、まぁ北辰の者が来ても大丈夫だろう。改めて出立すればいい」
「はい」
「よし、では行こうか。范撞、夏殿を馬に」
「ああ」
范撞と楊迅が夏天佑を立たせて馬へ乗せる。夏天佑はとりあえず手綱を手に取ったが背を丸め、馬の首にしがみ付いている様にも見える。
朱不尽は傅千尽達と言葉を交わし、狗不死、洪破天にも挨拶を済ませると馬に乗った。
「準備は抜かりないな?」
「ああ、大丈夫だ」
洪破天が夏天佑に話しかける。
「夏よ……」
「……自業自得だな。でも、方崖で少しはいい思いも出来たんだ。誰も恨んだりしてない……殷兄貴にはもう会えないな……もし兄貴に会ったら、俺……感謝していたと伝えてくれ」
「……感謝、か」
夏天佑は頷く。
「ああ。出来ることなら、本当に兄貴の弟子になりたかった……今更言っても仕方ないな」
洪破天は何も言わずに夏天佑の手を掴んでいた。