第七章 二十一
呉琳が持っているのは確かに短槍なのだが、長さが呉琳の背丈よりも短い。槍には長短あるが長槍といえば大抵大規模な戦において用いられ、少なくとも十五尺程度はあるだろう。短槍と呼ばれる物は十尺程、呉琳の背丈の倍程あってもおかしくは無い。しかし武器というものは使い手によって創意工夫がなされてあらゆる種が存在する。このような極端に短い槍があっても良いわけだが、この長さなら槍の形状ではない方が良いようにも思われた。
「……そうだな。短くて持ち歩くのにも適している。可龍、それを持って行け」
孫怜の言葉に呉琳の表情がぱっと明るくなり、
「さあ、可龍。これはあなたを生かし、仲間を生かし、あなたの侠気の証を立てる為の大切な物よ。肌身離さず大事にするの。いいわね?」
「はい!」
呉琳が大仰にその妙に短い槍を掲げ持つと、可龍は一礼して受け取った。家伝の槍法があっても果たしてそれでその技を使えるのか怪しいが、可龍に文句が無ければそれでいい。呉琳も満足そうに微笑んでいる。何も問題は、無い。
劉子旦が一本の剣を取り上げた。
「じゃあお前は……これが良いな。これは硬剣だ。軟剣だと、とにかく振り回すって言うなら慣れないと扱い難いからな」
「ありがとうございます」
比庸は呉琳から有難く頂戴する事は出来なかったが、劉子旦から受け取るとそれを捧げ持って一礼した。
「あいつら、面白いな」
樊樂がその様子を眺め、胡鉄に笑いながら話し掛ける。
「『礼』ってやつをわきまえてるんでしょ。樊さんには無いけど」
「お前も面白いな」
「……冗談ですよ」
こうして樊樂らは孫怜と呉琳、新たに加わった比庸、可龍を伴って呂州を出る事となった。たった一晩留まっただけであったが胡鉄と劉子旦はちゃんと働いていた。しかしこの街には成果に繋がるものは何も無く、徐の一味とさらわれた子供の影も、秘伝書の類の話も一切無い。ただ、真武剣派の人間が来ていた事だけは知る事が出来た。
このままではこの先も真武剣派の後手に回り続ける事になる、と樊樂も理解している。
「いっその事、奴らが真武剣の手の届き難い、うんと東まで逃げてくれりゃあこっちにも分があるんだが」
「人手が十分にあるならな。しかし時が経てば経つ程、人質が危うい」
樊樂と孫怜が馬を並べて先を進んでいた。孫怜が言葉を続ける。
「その人質の価値がよく分からん。言ったかも知れんが、今も生きているという可能性は……正直なところ、俺は低いと思う」
「怜さん」
孫怜の胸にもたれかかる様にしていた呉琳が顔を上げる。
「何だ?」
「諦めては駄目。私は怜さんがその子達を救い出すと信じてるわ。だって、その光景が見えるんですもの。怜さんならやれる。きっと」
呉琳の顔をこれほど近くで見るのは随分と久しぶりだと孫怜は思った。呉琳も自分と同じでもう中年だが、今話している呉琳は時折少女の様な雰囲気を漂わせ、孫怜を戸惑わせる。しかし孫怜は徐々にではあるが、今の呉琳の状態は必ずしも悪くは無いのではないか? と思い始めていた。呉琳が言うほど自分が優れた人物だなどとは到底思えなかったが自分を信じ続ける妻はいとおしく、長く燻り続けた自分の体の中から何かしら新たな気のようなものが勃然と沸き起こって来るのを確かに感じていた。
子供達を救う――。全く知らない子供ではあるが、我ら夫婦が子を救う。ふとそんな言葉が頭に思い浮かんで孫怜は思わず笑みを浮かべた。
「そうだな。やろう」
呂州以北の大地にもようやく春の息吹きが感じられる様になり、柔らかい陽の光が徐々に体を温めていく。街道を進み都に近づけば近づく程、人々の暮らしが活気付いていく様子が手に取る様に分かる。しかしそれはこの国というものがいかに弱っているかを示していた。都周辺から少し出ればそこからは離れれば離れるほど、街の活力は薄れ大地までもが荒廃しているのである。
治安は悪化し、人々は生まれ住んだ土地を捨てて移動する。何処へ向かうかといえばやはり金陽の都であったり、武慶や緑恒の様な比較的大きく治安の良い街である。孫怜の住んでいた呂州という土地は、武慶などに比べると流浪の民にはあまり魅力が感じられないらしく、他所から来て住み着く者はあまり居なかった。此処まで来たならもう少し辛い旅を何とか持ち堪えて都、金陽へ――と考える。
都までもが荒れ果て人が離散する様な事になれば、もうこの国は終わりである。しかしまだその様な気配は無い。外から押し寄せるのは何も難民だけという訳ではなく、玉石混淆、清濁併せ呑むといった具合で、とにかく人と物が集中し始めていた。
武慶、緑恒といった、都から離れていても未だ活気を保ち続けている街はそう多くは無いが、幾らか点在している。他の寂れていく土地との違いに思いを巡らせば、まず思い当たるのは――これに尽きると言えなくも無いが――国中に名の知れた組織が存在している事である。武慶なら真武剣派、緑恒なら緑恒千河幇。特に治安維持という点で力を発揮し、武慶は真武剣派が治める街、と言われる程であった。武慶をそこまで言うのは言い過ぎの感があるのだが、『まさしくその通り!』と誰もが膝を打つであろう土地が存在する。この国の東北の端、景北港である。
太乙北辰教の街である景北港は、教徒三、四万人――正式な組織の構成員としての数だが正式に把握されていない――に加え、準教徒――これは景北港に住まう全ての住民二十数万人――の街で、完全に太乙北辰教が作り上げた街である。そこに『官』の姿は見られない。この景北港は都から遠く離れた地に在って栄え続ける街の中でも例外中の例外であった。
「その徐とやらは何処の生まれだとか、縁の深い土地があるのかとか、まだ分かってないんだな?」
孫怜と樊樂は話し続けている。
「ああ、まだな。全く小物すぎて扱うのが大変だぜ。堂々と都を歩いてても気付かれないかも知れん」
「都は真武剣派があるだろう。武慶に居たんだからその辺は分かってるだろうから近づかないな。逃げるなら東、そこから北か南かは分からないが、東淵、景北港辺りは都合の良い場所だな」
「一人や二人ならそうだろうが、十数人のごろつきがぞろぞろ歩ける場所でもないだろう? 特に景北港はな。北辰教徒の警戒が凄いんじゃないか?」
「というより、徐が教徒に襲われて秘伝書盗られるかもな、ハハ」
樊樂は笑うが孫怜は真剣な面持ちで徐の行動を推察する。
「秘伝書を売るか……。しかし、高く売れるかな? 景北港で買い手といえばやはり方崖の連中だろう? 話を持ちかけた途端に徐が殺されかねん。教徒の中で是非手に入れて方崖に献上したいって奴を探すとしても……やはり話はすぐに方崖に届くな。『それ奪え!』って事になりそうだ。フッ、徐とやらの身が心配になってきたぞ」
眉を顰めて宙を睨む様であった孫怜が頬を緩めた。
しかし事は相変わらず深刻である。可能性が高いと思っていた徐の東への逃亡もかなり危険な道の様で、秘伝書と子供二人を奪っていったからには、当分の間、息災であって貰わねば困る。徐が窮すれば共に居るであろう子供達に未来は無いのだ。
「もう周の旦那が手を打ってるさ。徐についても分かってくる筈だ。とりあえず都の稟施会と連絡を密にすればこっちにも情報は流れて来る」
樊樂が言うと孫怜は頷いた。樊樂の話から察するに周維はもう城南に戻っている頃である。このまま堯家村へ呉琳を連れて行き、そこから都へ向かえば、着いた頃には都の稟施会に何らかの知らせが入っているかも知れない。
遥か南の端の街ではあるが、恐らく今頃そこから周維は国中を見渡していることだろう――と、孫怜は思った。