第七章 二十
「例えば、俺だ」
孫怜はそう言うとニヤリと笑った。
「何だよ。今回の件に関係しそうな奴が、つまり手を出して来そうな奴の名が出るかと思えば……。そりゃあ俺だって見てみたい。読めるんならな」
「もう手は出てる。真武剣派総帥、陸皓だよ。それから、弟の陸豊。まあそっちは積極的に手に入れようとまではしないかもしれない。……いや、わからんな。物が物だけに……」
「陸皓はもう見たってよ。で、劉建和って人に返したんだ。お前の言う様に興味があったんなら全部書き写したか、或いは思っていたより大した事無かったか、だな」
「かもな」
「弟って何だ? 真武剣を離れた陸豊も関係があるのか? 何処に居る?」
「さぁ、何処かは知らんが、あの兄弟は洪淑華の武芸に縁がある」
樊樂が急に真顔になり、孫怜を見つめる。
「お前、何故そんな事を知ってるんだ? 真武剣と近い訳でもないだろう?」
孫怜が真武剣派に近いなど、樊樂は今まで一度もそんな気配を感じた事は無かった。真武剣派の総帥が他派の武芸に縁があるとなれば武林に話が広まらない筈が無い。そんな話が広まっていないという事は、それが事実ならば総帥陸皓と陸豊、当人達が秘している事になる。では孫怜はどのようにしてそれを知ったのか? それを思えばとても信じられる話ではなかった。
「その二人だけではないからだ。他にも何人か……その内の一人と俺は、俺達は縁があったんだ」
「誰だ? 俺は知ってるか?」
「いや、昔この呂州に居た人だがお前は知らないだろうな。殷って人だ」
「ふん……知らねぇな」
樊樂はそう言いながらも記憶を辿る。昔、此処で孫怜と居た頃にそんな人物は見たことも聞いたことも無かった。
「あのう」
可龍が遠慮がちに口を開いた。
「もしかして、あの殷汪って人の事ですか?」
「ん? お前、知ってるのか?」
「殷汪だって!?」
孫怜と樊樂の言葉が重なった。樊樂は眼を目一杯見開いて孫怜を見た。
「殷汪って北辰の殷汪か?」
「……亡くなったそうだな」
孫怜は呟いてから、
「可龍、何故知ってる?」
「あの、幼い頃よく父に聞かされました。『咸水の英雄殷汪はこの街の出だ』と。私もずっと憧れてました」
「私も、私も聞きました」
比庸も会話に加わろうと慌てながら可龍の言葉に頷いている。
「何ぃ? 俺はそんな事聞いたこと無いぞ。本当かそれ」
樊樂は納得がいかない様子で首を捻っている。孫怜がそれを見て笑い出した。
「ハハ、当然だ。殷さんが『英雄』なんて呼ばれる様になるのはお前が此処を出てから後の事だ。お前が城南に行ったのはこの若いの二人がまだ赤ん坊くらいの時だな? その頃、殷さんは咸水に移り住んでそれから後に百槍寨の奴らが村を襲った」
「そうだったのか……」
樊樂はようやく理解し、今度は感心したように頷いている。
「孫さんがあの殷総監とお知り合いだとは……。先程、『俺達』と仰いましたね? 殷総監と縁のあったという他の方は……」
劉子旦が尋ねると、
「さすが、樊樂組の軍師どのだ。よく聞いてるな。ハハ」
孫怜は愉快そうに笑ってから樊樂を見る。しかし樊樂は何の事か気付かなかった。
「さぁ、怜さん、行きましょう!」
不意に呉琳の声が家中に響き、皆一斉に奥を見ると、呉琳が微笑みながら姿を現した。「こうしている間にも、さらわれた子供達が辛い思いをしているのよ? 私達で助け出しましょう! 私達にしか出来ないわ」
呉琳はそう言ってまっすぐ孫怜を見る。最初に反応したのは若い二人だった。二人ともさっと立ち上がり、呉琳に向かって抱拳する。
「呉幇主のご命令だ。行くか」
孫怜が笑いながら言うと、比庸と可龍の気合いの籠もった返事がすぐさま返ってくる。
「こういうのは苦手なんだがなぁ」
樊樂らも笑って立ち上がった。孫怜の家の前に朝陽が差し込み始め、出立には良い頃合である。
「孫さん、話の続きをまた聞かせて下さい」
劉子旦は孫怜と殷汪の関わりに興味があるようで、子供の様に目を輝かせていた。
「古い話だからな。結構忘れてるかもな」
「馬はどうする? 若いの二人増えたからな。もっと大人数なら二手に分かれるところだが、これだけだ。それにただの人探しじゃないから皆一緒に居た方が良いな」
孫怜が家の裏から一頭の馬を牽いて来たが、此処に居るのはその一頭だけである。
「確か、どちらか馬に乗れたな?」
孫怜は若者二人を交互に見ながら言うと、比庸が進み出た。
「はい。私が乗れます。前も私が可龍を乗せました」
「前って、三年前か?」
樊樂が尋ねると比庸は「はい!」とまた大声で答える。
「お前ら……もっと楽にしろよ。お前らは良いかも知れんがこっちが疲れる」
「はぁ」
「若者ってこういうものじゃないの。樊さんもそんな時期があったでしょう?」
呉琳がそう言いながら笑う。樊樂はその姿を思わずじっと見てしまった。
どこから見ても昔と変わらない、あの呉琳だった。昔のように『樊さん』と自分を呼ぶ。そんな当たり前の事がとても貴重な出来事の様に思えて胸の奥から嬉しさや楽しさの様な何かが込み上げて来るのを、樊樂は確かに感じた。
「樊さん、馬はうちが用意すればいいよな? 孫さん、馬を買える処は?」
胡鉄は樊樂に一応尋ねるが形だけの確認で、樊樂の返事を待つ事はなかった。
「ああ、では街を出る前に寄ろう。比庸と可龍はそれまで歩け」
「はい!」
「若いなぁ」
樊樂も自分の馬に戻ろうとすると呉琳が呼び止める。
「樊さん。昨日、剣を渡したでしょ? この子達に渡してあげて」
「おう、子旦。剣だ」
劉子旦が剣の束を肩から下ろしながら、
「お前達、使えるのか?」
「あ、その……振るくらいは……」
「ハハッ! 『振る』って何だよ」
比庸の小声の返事を耳にした樊樂が仰け反るほど笑う。習っていなくても振る事は誰でも出来るに違いない。だが己の身に迫り来る危機に対して手を振るよりはましである。
「可龍、お前は確か家伝の槍法があるとか言っていたな?」
劉子旦が広げた十四本の武器を手にとって眺めている可龍に孫怜が訊く。
「槍? 槍ならあるはずよ。確か……」
呉琳が自分の集めた武器を覗き込んだ。
「いや、槍は……」
劉子旦が遠慮がちに呉琳に声を掛けるが、呉琳はそれを無視して探す。
「ほら、これよ」
剣よりは長い得物を一本手に取って呉琳は孫怜を振り返った。
「琳……それは――」
「確かに! そいつは正真正銘、槍だ。怜、見たこと無いのか? ハハ」
樊樂が孫怜の言葉を遮る様に大声を出した。