第七章 十九
「孫さん。呉琳さんを待たせているのでは? そろそろ戻らないと」
胡鉄が言うと、樊樂が目の前の酒杯を勢いよく呷った。これで注文の品はすべて腹の中に収まった。
「俺達も行って大丈夫か? 会ってみないと分からんか」
「……おそらく大丈夫だとは思う。昨夜あれから琳と随分話してな。お前達の名もちゃんと覚えていた。稟施会が仕事を依頼してきたという事も理解してる。昨日は一時的なものかと思ったが、あいつはもうちゃんと俺がお前達と共に仕事に出ると分かってるんだ。堯家村に行くというのも二人で話し合って決めた」
孫怜は真剣な眼差しだが頬には一切の緊張もなく、昨日とは違う。
(ああ、少しは愁いを払う事が出来たんだな)
樊樂らは孫怜の表情を読み取り自然と緩やかな笑顔となった。
食事を済ませ、早々と僅かな荷物をまとめて宿を出た樊樂らは孫怜と共に再び呉琳の待つ家へと向かった。宿に持ってきていた呉琳が集めたらしい十四本の武器の方が自分達の荷よりかさばっている。『私が持ちましょう』と劉子旦がまとめて縛り肩に下げた。
朝早くから田畑に出て働く者が多いこの街は、日中は市街地が比較的静かである。まだ朝早い事もあってひんやりとした空気が通りを満たしていた。
孫怜の家の門を入ると、そこに二人の若者が立っていた。随分くたびれた野良着で体を包み、まだ肌寒い中を腕を組んで小刻みに体を動かしていたが、入って来た孫怜を見るなり二人並んで孫怜と正対した。
「お前達……」
若者二人は何か言いたそうにはするものの言葉が出ないといった様子で視線を逸らす。僅かな沈黙の間に、呉琳の声が割って入ってきた。
「ほら、あなた達入りなさい。あら、怜さん、戻ったのね」
呉琳の装いが旅の装束に変わっている。表情も明るく、樊樂におびえる様に行ってしまった昨日とは全く別人であった。
「あの」
若者の一人が孫怜に向かって言う。
「呉琳さんに聞きました。……仕事、ですか?」
「怜さん、私が呼んできたのよ。他は誰も居なかったけど、この二人はちゃんと待ってたのよ。中々見所があるわ」
「そうか。ありがとう」
孫怜は呉琳に向かって微笑みかけてから、若者の方を向いた。
「……まだ、俺と行くのか?」
「あー、その顔見覚えがあるぞ。名は聞いたことがあったかな?」
孫怜の後ろに居る樊樂が辺りに響く大きな声で割り込む。明らかに酒によって気分が高揚しているらしかった。
「樊さん!」
胡鉄が腕を引っ張って、黙ってくれという様に首を振った。
「比庸です」
「私は、可龍といいます」
二人の若者は樊樂に向かって名乗る。どちらも似たような背格好でこれといった特徴も無さそうである。まるでお揃いのぼろの野良着に、他には何も持っていない。覚えるまでは名を取り違えそうだ。
「あの、俺達」
比庸という若者が孫怜に言った。
「ずっと話してたんです。もし、孫さんが何かする時には、俺達も一緒に行こうって」
可龍が続ける。
「三年前の最後の仕事、俺達はあれが最初の仕事でしたから、何も分からなくって……。あの後、先輩の皆さんが、その……幇会はもう終わりだからって……それで……」
「何言ってるのかよく分からんだろうが。もっとはっきり物を言えよ」
樊樂が再び大声を出す。
「樊さん! ちょっと黙って!」
胡鉄も負けじと声を張り上げて今度は樊樂の体を自分の後ろへと追いやる。樊樂は口をへの字に曲げて引き下がった。
孫怜は微かに微笑みながら若者二人を眺める。
「何故『終わった』のか聞いてないのか?」
「俺達! 幇会を裏切る様な真似は絶対しません! だから孫さんに付いていきます!」
「俺もです!」
比庸と可龍、二人とも同じ様に拳を握り締めて叫んだ。孫怜は幇会を裏切った人間を殺した。それは当然であり、自分達は絶対に裏切らないから関係ない話だ――おそらくそういう事なのだろう。粗末な身なりからしてかなり生活に困窮している様だ。生活を支える術は殆ど尽きかけているに違いなかった。
「確か、お前達は家族が無かったな」
孫怜は三年前の記憶を辿った。当時『孫の幇会』にこの二人が入る事を認めたのは自分である。その時に二人の事は調べてあった。
「はい。だからずっと二人で居ました」
呉琳が若者二人のそばまで来ると、比庸の方に手を置く。
「怜さん。この子達はきっと役に立つわ。二人ともまだ若いから、怜さんと一緒に居ればきっと立派な侠客に育っていく筈よ。後継の若者を鍛える事も考えないとね」
孫怜や樊樂からみればやはり呉琳の感覚はやや飛躍している気がして、何も知らないであろうこの若者二人がどう思うのか? 説明が必要か? などと考えてしまうが、その二人は何もおかしく感じてはいないらしく、決意の程を孫怜に見せんとまるで睨み付けるかの様に孫怜を見つめていた。
孫怜は呉琳に向かって大きく頷いてみせた。
「今回は荷の輸送とは違う。お前達にも説明しておかないとな。中へ入ろう」
孫怜が言うと、若者二人はお互いの顔を見やって目を輝かせ、また孫怜に顔を戻して「はい!」と叫んだ。
再び孫怜と樊樂が仕事の内容を説明する。複雑な事は何も無く、比庸、可龍の二人もすんなりと理解出来た。その後、樊樂が一言付け足す。
「洪淑華の遺した秘伝書だっていうんだから、お宝だぞ?」
「何だと?」
ここへきて説明する側である孫怜が驚きの声を上げた。武芸の秘伝書と聞いていただけでそれ以上は孫怜も聞いていなかった。そういった類の書物は真贋を別にすれば珍しくも無いのである。実際、多く出回っているのだ。
「ん?」
「洪淑華か? 東涼の」
「言わなかったか?」
「……それは、真筆か?」
「さぁー、どうだろうな。でもよ、洪淑華の武芸ってあまりぱっとしないんだろ? 確かに俺達も餓鬼の頃から名前を知ってる程の江湖のご先輩だ。そんな人が遺した物ってだけで価値があるとは思うんだが、それ以上は――」
「分かっているのはその後の東涼黄龍門がぱっとしない、というだけだ。それでも……喉から手が出る程欲しがる奴は、居るんだ」
孫怜は「絶対だ」という様に真剣な面持ちである。
「ほう、知ってるのか? 洪淑華の秘伝書が是が非でも手に入れたいって奴を?」
「確かに誰でも欲しがるって訳ではないだろうが、ある一部の人間にとってはきっと、最重要な書物だろうな。真筆ならばな」
孫怜はそう言って暫く宙を見つめて考えている。奥で何かやっている呉琳を除き、この場に居る若者二人を含む全員が孫怜の次の言葉を黙って待った。