第七章 十四
陽は沈んだ。だが西の空はまだ赤い。通りの人通りも変化は無かった。
「あっ、孫さんです」
劉子旦が通りを往く人の中に孫怜が混じっているのを見つけて腰を上げた。
「やれやれ、やっとお帰りか」
樊樂と胡鉄も揃って立ち上がる。樊樂は劉子旦の向いている方向に目を遣ると、すぐに孫怜を見つけることが出来た。孫怜もこちらをじっと見ていたからだ。
孫怜は樊樂と歳が近く四十には届いている筈である。少しばかり細身であるが締まった身体つきで歳の割には若々しく、性格の穏やかな男である。いつも綺麗に髭を剃って精悍な面構えだと樊樂らは記憶しているが、今こちらに歩いてくる孫怜は、不精髭を生やしていた。
「聞いていいか?」
樊樂らのすぐ傍までやって来た孫怜は、三人に視線を配りながら開口一番に質問する。
「何だいきなり」
再会の挨拶は無く、樊樂は苦笑いを浮かべた。
「呉琳は、話をしたか?」
胡鉄、劉子旦の二人は黙ったまま樊樂を見る。樊樂は少し間を置いてから口を開いた。
「いや、何も。何か……あったのか?」
孫怜は答えず、路地へと入って行こうとする。
「俺達も、行っていいか?」
「此処に来たのが俺に会う為だって言うならな」
「他に何がある?」
樊樂らも再び路地に入る。孫怜と共に居れば呉琳も普通に接してくれるのかも知れない。
先頭の孫怜が門をくぐると呉琳が姿を現す。しかし、近付きはしない。すぐ後ろに樊樂らを見つけたからに違いなかった。
孫怜が何も言わないまま家に入ろうとすると、一定の距離を維持するかの様に呉琳は中へと戻って行く。
「いいのか?」
樊樂の問い掛けに、
「ああ」
ただそう言って孫怜は三人を中へ入れる。
「その辺に適当に」
孫怜は手を伸ばして辺りを指し示した。粗末な卓と埃を被った椅子がいくつか積んである。
「ちょっと待っててくれ」
そう言って奥へ入って行った。
三年前に来た時にはこの部屋も綺麗に掃除してあり、常に人が出入りしてここの卓を囲んでいた。『孫の幇会』の者達だった。実際の人数は『幇会』と呼ぶ程では無かったのだが、稟施会の依頼する仕事に関する分野においてそれらを成すのに秀でた人材ばかりが集まっておりその人数に数倍する能力を発揮する集団であった。周維からの信頼も厚く、それは今も変わっていない筈だった。
「樊さん、どうやら孫さんのところは、もう……」
劉子旦が呟いた。
「たった三年だぞ?」
「洪さんがよく言うじゃないですか。『ひと月あれば飢えて死ぬ』」
「ヘッ、その間何もしない馬鹿な奴は居ねえだろうが」
「何も出来ない状況というのもあるんじゃないですか?」
「……うちが放っておいたから、か? あいつは、あいつらはそんな柔い奴らじゃねえよ」
「……」
三人は椅子を取り出して埃を払い腰を降ろしてそのまま黙り込んだ。
(遅いな)
そう思い始めた頃、奥から孫怜の気配が現れる。変わらず無表情のままで戻って来ると薄っすらと埃を被って白くなっている椅子にそのまま腰掛けた。
「呉琳は、どこか具合悪いのか?」
樊樂がまず先に尋ねた。
「分からん」
孫怜はじっと樊樂を見つめて顔を横に振る。
「分からんって何だ?」
「いや、……分かってるんだ。本当はな」
「ん?」
「あいつは、心を病んでしまったんだ」
孫怜の声が小さくなって急に憔悴しきった様な面持ちで俯く。樊樂ら三人がこんな孫怜を見るのは初めての事だった。
「三年前は何とも無かっただろう。何があったんだ」
「特別、何かが起こった訳じゃないんだ。何かあった方がよく分かって、フン、そっちの方が良かった」
樊樂らは孫怜が続けるのを待つ。
「お前達が前に来てから三年経つんだな。その直後からあいつは少しずつ変わり始めていたんだ」
俯きながら話していた孫怜が何かを思い出した様にサッと顔を上げた。
「前の仕事の時は、俺達も色々ヘマをやらかしたな。周の旦那は何か言ってたか?」
「おい、違う違う。勘違いするなよ。俺達が三年仕事を持って来なかったのはそれが原因とかじゃねぇんだよ。大体、こっちには何の問題も無かったんだ。稟施会にはな。周の旦那も、あれからも何か仕事が無いかって気に掛けてたんだよ」
樊樂が身を乗り出して孫怜に言い、胡鉄がそれを引き継ぐ。
「孫さん、本当ですよ。ただ、うちもここのところこっちでの仕事が途絶えてますから我々もこの街へ来る機会がありませんでした」
「怜、本当だ。信じてくれ」
「……そうか。いや、どちらにしても今の状況を招いたのは俺だ」
三年前に稟施会から孫の幇会に依頼した仕事というのは稟施会が手配した品々を都から運んで稟施会に引き渡すという単純なものだったのだが、幇会の仲間であった数人がその一部を持って逃走するという事態が起こった。孫怜はすぐにそれを追って品を取り戻し、無事期限までに仕事を終えたのだが、孫の幇会に綻びが広がり始めたのはそれがきっかけであった。孫怜はその数人を、あっさりと始末したのだ。
当時すでに仕事は減っており幇会の者達の生活にも影響が出始めている頃で、問題を起こした者達は特に借財を抱えて苦しんでいた。だからといってやった行為が許される訳では無いが、『すぐに切って捨てるなどあり得ない』という意見が幇会の仲間内で広がった。
そんな中で次にまた仕事があったなら今までと同様にこなす事が出来たかどうかは疑わしい。しかし、それを最後に仕事は途絶える。
「呉琳がおかしくなっちまう程、……生活に困ってんのか?」
樊樂は乗り出した身を引いて、今度は椅子の背もたれに体を預けた。
「まぁ、それも影響あるだろうな。あれからうちの奴等がばらばらになるのに大して時間は掛からなかった。此処にももう、誰も来ないしな。あいつ……琳にとっても失う物は大きかったんだな。俺達には子も無いし、フフッ、本当に何も、無い」
「でも、それだけであの呉琳さんが……」
劉子旦が呟くと孫怜はゆっくりと視線を向ける。
「俺はあれから何もしなくなった。あいつと話す事さえ少なくなってな。人間の心ってのは、想像以上に早く変化していくものらしい。ずっと一緒に居た俺にだって、あいつの心の全てが分かってる訳じゃない。分からない。……分からないんだよ」