第七章 十二
「此処は……宿か?」
樊樂が尋ねると、
「ああ、そうさ。泊まって行くなら、一晩中この娘達を付けてあげるからねぇ。うちは他所みたいにケチじゃないんだ。フフ、帰りたくなくなる事請け合いだよ」
そこまで言って女はようやく立ち上がる。
「今すぐでも構わないよ? 丁度今、この娘達も体が空いたところだからねぇ。どっちがいい? フフ……先にもう一人呼んで来た方がいいね。それから選んでおくれよ。ほら、酒をお出しするんだよ」
女はどうやら此処を仕切る立場の人間の様だ。呂律の怪しい状態で娘達に指示を始めるが、どうもまともに伝わっていない様で、二人の娘は動こうとしない。胸元まで露になった体をくねらせながら、微笑むと言うよりはにやついている。目も半分閉じかかっていた。
胡鉄が樊樂に耳打ちする。
「樊さん、阿芙蓉(阿片)か何かじゃないですか? 匂います」
「一体何処から手に入れてんだ? 是非教えて貰いたいものだな……なぁ、姐さん。遊んで行きたいのは山々なんだが、ちと忙しくてな。此処に、徐って奴居るかい?」
聞かずとも知っているのだが、樊樂は何も知らない態を装い女に尋ねた。すると女の緩んでいた口元がすっと引き締まった。
「……あんたら、何処の誰なんだい? そんな奴は此処には居ないよ。この街の人間は皆知ってる筈なんだけどねぇ。何か用なのかい?」
口調はそれほど変化していないが、その眼差しは先程とはうって変わって警戒するかの様に鋭くなっている。
「徐を知ってるんだな? 俺は古い知り合いでな。遠方から来たんだが何でも徐の奴が大変な事に巻き込まれたとかどうとか聞いてよ。それで寄ったんだ。この街には居ないのか?」
「フン、巻き込まれただって? 誰が言ったのさ? あいつが騒ぎを起こしてとんずらしたのさ。ずっと此処に居たんだけどねぇ、全く……いい迷惑だよ。真武剣派の奴等があいつを追いかけててねぇ。何度も来て商売の邪魔はするし、おまけに此処を潰すとまで言い出してさ。私は置いてやってただけなんだ。何も人様に迷惑なんか掛けちゃいないんだ」
女が話しながら不機嫌さを増していくのが手に取るように分かる。目に留まる物全てを睨みつけている。
「ふうん、そうかい。じゃあ、あいつは今何処に居るか分からない訳だな?」
「当り前じゃないか。フン、私が知るもんか!」
「姐さん、そんなに怒らないで。楽しく遊びましょうよ……フフ」
若い女が弛緩しきった四肢を気味が悪くなる程不自然にくねらせて言葉を発する。明らかにただ酒に酔っているのでは無い事が分かる。
「……なかなか楽しい遊びしてんだな。何処から手に入れる?」
樊樂は若い娘二人に目を遣る。完全に中毒を起こすところまで来ている様だ。
「んん欲しいの? 楽しいよぅ? あげようか?」
虚ろな目とだらしなく開いた真っ赤な唇。一人が突然よろけながら立ち上がり、樊樂の許まで来るとその胸にしなだれかかる。娘の肩に辛うじて掛かっていた着物は完全に肘まで落ち、前方に大きく迫り出した二つの白い乳房が樊樂を押した。
「ほら、手をお出しなさいな」
娘は樊樂の左の手首を掴み、前に回す。そのまま少し前屈みになったかと思えば着物の裾をはだけ、掴んだ手をそのままするりと腿の間に滑り込ませた。
「フフ、此処かも」
「ほう、こんな処に?」
樊樂は表情を変えず娘を見下ろしながら言い、自ら手を更に奥へと進める。
「……どう? あるかしら? そこはよく探さないと分からないわ」
「……無い様だな。何処だ?」
「んん、じゃあねぇ、此処は?」
娘は空いた方の手を胸元に持って行きその細い指を自らの乳房に這わせながら、樊樂を見上げた。
「ん? そこか?」
樊樂がそう言ってそこに手を伸ばそうとした時、急にその腕が後方に引っ張られた。
「樊さん! 何やってるんですか!」
「ん? 何だお前らまだ居たのか?」
「当り前でしょう! 徐は居所は分からない。もう出ましょう」
「なあに、あなた、あんな男が好み? この人おかしいんじゃない?」
樊樂に密着したままの娘は後ろで顔を顰めている胡鉄を眺める。相変わらず締まりの無い空いた口から赤い舌をちらつかせる娘の方が、どう見てもまともではなかった。
「この広い江湖にはそんな男も居るんだよ」
「樊さん!」
「冗談だろ。怒るなよ。お娘ちゃん、おじさんはもう行かなきゃならねぇんだ。楽しい遊びはまた今度な」
樊樂は娘のずり落ちた着物を肩に戻す。
此処の主らしき女――歳を喰った方の――が言う。
「うちの『商品』に触れた以上はお代を頂かなくちゃならないんだけどねぇ。まぁ、勘弁してあげるよ」
「……まさかこうやって客集めてるのか? 危ねぇ……引っかかるところだったぜ」
「もう引っかかってたでしょうが」
胡鉄が唇を尖らせて呟く。
「あいつ、何処行っちまったんだろうなぁ……やれやれ」
樊樂が少し大きめの声で、それでも独り言の様に言う。すると女は数歩近付いて来てから、
「あんた達、本当に徐の連れだって言うなら、見つけたら何処に居るのか知らせておくれよ。でももし違うなら――」
サッと樊樂の後ろの二人にも目を遣る。
「徐に近付かない方が良いと思うねぇ。……殺されるよ?」
少し、ほんの少しではあったが樊樂らは沈黙し、女はくすくすと笑う。
「大丈夫だ。あいつは俺達にはそんな真似しねえよ」
「そうかい? フフ、じゃあ良いんだけどねぇ」
「じゃあな。邪魔したな。続きを楽しんでくれ」
樊樂ら三人が外へ出ようとすると、先程の娘が呼び止める。
「本当に要らないのぉ? フン、ほんとはこれが欲しいくせに」
振り返って見ると娘はいつの間にか腰の帯を解いており、白く細い腰を撫で上げるとやがてその手は胸の二つの隆起を更に押し出す様にして鷲掴みにする。
首から下だけ眺めていれば、実際に行動するかは別として聖人君子か余程の変人でもない限りその若く艶かしい姿態の女を抱きたいと思わない男は居ないに違いない。しかも向こうから誘うのだ。ここが怪しい店でなかったなら拒む理由も見当たらない。あったとしても即座にそんなものは捨ててしまうだろう。
しかし、娘の顔――目をぎょろつかせ頬を痙攣させて歪んだ真っ赤な口――に、樊樂らは揃って眉を顰めた。
「若くて気の毒ですけど、もう、駄目ですね。この娘……」
劉子旦が樊樂に小声で言い、胡鉄も頷いている。樊樂は娘に笑いかけ、
「次、俺が一人で此処に来た時には宜しく頼むな」
「ケッ! もう来ないつもりだろっ! 徐に殺されて、殺されて……死ねっ! ヒヒッ」
殆ど全裸のこの娘は、もはや人ならぬモノになってしまったかの様に奇妙な笑い声を上げたかと思えば宙を見つめて立ち尽くし、そして停止した。
「やはり西方か?」
樊樂が言うと、後ろを行く劉子旦が答える。
「恐らく。南方からは阿芙蓉は入って来ていません。うちでも扱った事は無い筈ですから。相当値が張る筈ですけど、何処から手に入れているのか興味はありますね」
「……全部かき集めて、焼いちまうに限るな。あの娘、まともなら随分器量が良さそうだったが」
「ああなってはもう……どうしようもありません」