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流浪一天  作者: Lotus
第三章
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第三章 二

 二十一

 

 范撞は田庭閑をじっと見ていた。武慶からここまで色んな話をしてきたが、田庭閑は常に真武剣派に属している事を自慢しているようだった。それが今になって「自分は武芸を教えて貰えない」と言い、はっきりとは言わないがまるで真武剣派に見切りをつけようかとでも考えているように思える。

(死んだと思った――)

 賊に襲われて自分の腕の未熟さを思い知った。多分、そういうことだろうが、それならもっと真武剣を修行すれば良い事だ。真武剣派は政治的な駆け引きで大きくなったと噂する者もいるが、はっきり言ってそれはただのやっかみで、実は今の真武剣派の成立には込み入った事情があるのは確かだが、総帥陸皓の武芸が本物で中原を席巻したというのもまた事実である。それでも田庭閑が真武剣派から気持ちが離れかけているとするなら、先程范撞に言っていた「表向きは総帥の弟子」「実際は誰の弟子でもない」という所に田庭閑の特殊な事情があるのだろう。傅朱蓮は田庭閑の揺れている気持ちを察して、「期待には答えられない」と言ったのだ。

「やっぱり、前に言ってた八百人切ったっていうのは北辰の殷総監だったんだ……」

 楊迅が傅朱連を見て言うと、傅朱連は僅かに頷いた。

「お前、殷総監に弟子入りでもするつもりか?」

 暫く黙っていた范撞が田庭閑に話し掛ける。

「まさか。でも、一体どうやって……。西方の街では子供だって殷汪の話は知ってる。まるで英雄伝説のように話すんだぞ。一体、どんな人間ならそんな風になれるんだろうと思ったのさ。誰に習ったとか」

「で、殷総監は教わったんじゃなくて編み出した、と?」

 范撞は傅朱連を見た。

「私が聞いた話ではね」

「どんな奴だ? 最近は会った事あるのか?」

「全然。もう十年も会ってないと思う……普通の、優しい人だった」

「どんなに凄えのか見てみたいな」

「まあ多分会えないわね。方崖から出る事は無いって噂……あ」

「あ?何だ?」

「あーちょっと聞いたんだけど、殷総監かもしれない人が都に行ってたらしいの。もう景北港に帰った様だけど。まあとにかくあの人の武芸が見れたところで何にもならないと思うけどね」

「何で?」

「本当に八百人を相手に出来る武芸があったとして、そんな物が身に付けられると思う?殷汪って人は、本当は人じゃないなんて噂されてるくらいよ?」

「おい」

 不意に田庭閑が言う。見れば部屋の入り口に梁媛が立っていた。

「あら? 媛、どうしたの? どうして此処へ?」

「ん? お前、あの時の……」

 梁媛は少し慌てながら范撞にお辞儀をしてすぐに傅朱蓮の方を向く。

「あの、傅……傅の旦那様が呼んで来るようにと……」

「お父様が? あなたに? よく部屋が分かったわね」

「……探すようにと言われたので」

 傅朱連は溜息をついた。

「全く……お父様は何を考えてるのかしら。媛、御免なさいね。あなたは此処の使用人じゃないんだから。私から言っておくわ。洪小父様も一緒?」

「あ、はい」

「洪! 洪だ! あのクソ爺!」

 范撞が大声を出して楊迅に振り返った。

「確か紅葵さんの車に向かって叫んでたね。洪って」

「そうだそうだ。お前等、どういう関係だ?」

「もしかして、もう洪小父様に「ぶっ飛ばされた」訳? この東淵にまだ数日しか居ないのに?」

 そう言って傅朱連は笑い出した。

「何が可笑しいんだよ?」

「いえ、別に。この子は梁媛。私の妹になったの。あなたをぶっ飛ばした洪小父様はお父様と古い知り合いで、兄弟のようなものね。何度も言ってるけど、咸水からのね」

「ハッ、全くこの東淵って所は……」

「媛、行きましょう」

 傅朱連はそう言ってさっさと部屋を出て行った。

「東淵に住む奴等は皆、身内か?」

「まさか。あ、朱蓮さんの武芸の師匠があの洪ってお爺さんだったりして」

「そうかもな……」

 田庭閑が酒で少し赤くなった顔を両手で撫でた。

 

 

 二十二

 

「なあ、お前、何で真武剣派に入ったんだ?」

 范撞は酒杯を傾けながら田庭閑に尋ねる。田庭閑は椅子の背にもたれて両手をだらりと下げたままの姿勢で范撞を見た。

「入れられたのさ。母親にな」

「嫌だったか?」

「まあな。俺は都で生まれたんだけど遊んでばかりで、母親が鍛え直すとか言い出してな」

「逃げりゃ良かったじゃねえか」

「そんな暇無かったよ。ま、真武剣派に入ればでかい顔出来るだろ? 実際、そんな奴ばかりだったしな。田の家は陸総帥と繋がりがあるんだ。ちょっとは良い思いが出来ると考えたのさ」

「なるほどな。で、どうだった?」

 田庭閑はそこで少し黙り込んで考える。今まで范撞達に自分は真武剣派の高弟だと自慢気に、いや、自慢していたのに急に本心を語るのが流石に恥ずかしく思えた。暫く待って范撞が口を開く。

「真武剣を出ることは可能か?」

「え?」

 田庭閑は目を見張って范撞を見返す。

「まともに武芸を習えないと言うなら、居る意味がねえよ。もっと他に……」

 田庭閑は范撞の言葉に戸惑った。

(真武剣派を出る? 武慶を抜け出す事が出来る?)

「ま、とりあえず今の状況がどうにかならねえと先の事も決められんな」

 

 傅朱蓮が梁媛を連れて向かった部屋には、傅千尽、洪破天、朱不尽の三人が居た。

「洪小父様、いらっしゃい」

 洪破天は頷く。

「朱蓮、お前は此処に来る前の賊の襲撃の時に、何か気付かなかったか?何でもいい。指揮する者を見たか?」

 傅千尽が尋ねる。

「それらしき人間が居たのは見たんだけど、暗くて容姿は分からなかったわ。そうね……小さかった。多分背の丈は低かったと思う。媛より少し大きい位だったかしら」

「それはかなり小柄だな」

 傅千尽が洪破天の方に顔を向ける。

「ある程度当たりを付けんことにはのう。朱不尽殿は本当に景北港に参られるのか?」

「はい。きっと景北港で何か掴めるかと……」

「危険はこの上ないが……」

「実は今回の仕事にあたり、范凱幇主から蔡元峰殿宛てに書簡を用意しております。我等もあの荷には不可解な点があると考えて、まず蔡長老に会う事にしていたのです」

「ほう、蔡殿な。ふむ、そうじゃな。まずは蔡長老に話すのが良いな」

 蔡元峰、蔡長老は長く太乙北辰教の長老を勤めており、長老衆の仲でも性格温厚、表裏の無い人柄と評され、実際そのような人物である。蔡長老の反応を見れば、北辰が関わっているのか、それとも蔡長老とは全く関係の無い所の話なのかが即座に分かると思われた。尤も、蔡長老までもが事件に関わっていれば、その時はもうこちらは絶対絶命であろう。景北港はおろか、東淵等東北部周辺は敵地のど真ん中という事になる。

「しかし、あくまで目立たぬように、じゃ。しかし単独で行動するのも危険じゃのう」

「朱小父様、私も連れて行って。景北港ならある程度は覚えてるし、私も知りたいの」

 傅朱蓮が言うと朱不尽は力なく首を振った。

「いや、一人のほうがいい。少し考えるところもあってな」

「その、考えるところ、と言うのを聞きたいんだがな」

 傅千尽が言う。しかし朱不尽は口を噤んだままだ。

「残った荷はどうする? 持って行くと言うなら一人では無理だろう。大半が失われたとはいえ、車が必要だ」

「荷は……適当に見繕って一部を持って行くさ。どんな物だったか分かれば良い。目録もあるしな」

 それだけ言うと再び黙り込んだ。

 傅千尽は此処に戻ってからの朱不尽の様子に違和感を感じていた。賊に襲われ鏢客の多くを失い、しかも若き朱不尽が自らの鏢局を立ち上げて数十年来その仕事をしくじった事は無いという中での突然の屈辱。その衝撃は如何ばかりであろうか。

 しかしながら、鏢局の全てを失った訳でも無い。まだまだ緑恒の総号も数箇所ある支店も健在だ。朱不尽の率いる鏢局の総勢は百を優に超えているのだ。

 

 

 二十三

 

 陰に籠もる様な朱不尽の様子はずっと変わらず、范撞は苛立ち始めていた。朱不尽の居室となっている部屋の前で、出てきた朱不尽を捉まえる。

「朱さん、どうしちまったんだよ?景北港、行かないのか? ずっと此処で腐ってるつもりなら、俺が行く。いつまでもじっとしてなんか居られねえよ!」

「そうだな、……そろそろお前達は緑恒へ戻るんだ。準備をしろ」

「朱さん!」

「お前はうちの鏢客だ。言う事を聞くんだ」

「……楊迅達はどうすんだ? まだ動けねえよ」

「動けるようになるまで此処に居る。さあ、行って支度をしておけ。魯鏢頭達にも伝えてくれ」

「何だよ! それはあんたのする事だろう! 自分で言えよ!」

 范撞は相変わらず覇気の無い朱不尽の口振りにかっとなり、声を荒げて言うと足を踏み鳴らしながら楊迅の居る部屋まで歩いて行った。

 

「ん? お前は……」

「あっ、クソ爺!」

「何じゃ? まだ機嫌は直っておらんのか」

 途中、洪破天が梁媛と共にやって来る。

「あんたには関係ねえ!」

「ほう、そうか」

 洪破天はそれだけ行ってすれ違って行く。范撞も足早にその場を去ろうとしたが急に足を止めて振り返った。

「なあ、クソ……爺さんよ」

「今度はクソ爺さんか?」

「何でもいい。暇そうだな。ちょっと寄って行けよ。酒もあるぜ」

「何故暇だと思うのじゃ?」

「違うか?」

 洪破天は少し考える振りをしてから、

「暇じゃな」

 そう言って范撞を見る。

「すぐそこだ」

 范撞は近くの部屋に入っていく。洪破天は梁媛を少し見てから手を取ってその部屋へ向かった。洪破天は部屋の奥で横たわっている楊迅をじっと見る。

「派手にやられたそうじゃな」

「ええと……洪さんですね?」

 楊迅は顔だけ向けて尋ねた。

「そうじゃ。儂は洪。洪破天じゃ。お前は?」

「私は楊迅と言います」

「そうか。お前達は?」

 他に居るのは范撞と田庭閑だけだった。二人とも名を告げる。

「座ってくれ」

 范撞が空いている椅子を洪破天と梁媛の二人に差し出すと、洪破天は目に入った酒壷を取って軽く振ってから一緒に置いてあった杯に注ぎ、それを持って椅子に腰を掛ける。梁媛も続いて座った。

「爺さん、俺等の事は殆ど聞いてるんだろ?何か、思うことは無いか? 賊の事とか」

 范撞が洪破天の目を真っ直ぐ見て真剣に尋ねた。

「儂はそんな奴等と関わりは無いがのう」

「あんた、この辺に住んで長いんだろ? 俺達では分からない、何か無いか?」

「ふむ」

 洪破天は額を上に向けて右手で軽く撫でる。

「もし目星が付いたとして、どうする? 攻め込むか?」

 視線を范撞に戻した洪破天はそう言って杯に口を付ける。

「俺達は必ず仇を討つ。だけど、ただ突っ込みたいだけじゃない。計画を練るさ」

「百人以上居ると聞いたが、攻めて来たのがそれだけ居たというだけで、その本拠には一体何人居るか分からんしのう。お前達だけでは何も出来まい。お前達の頭が何か考えておるじゃろう」

「朱さんに会ったか? 今の朱さんはおかしくなってんだ。部屋に籠もってばかりだしな」

「ほう、普段の朱不尽殿はああでは無いのか? 儂は、よくあれで名を上げられたものじゃと思うておったのだが」

「洪さん、朱鏢頭は……その、何て言ったらいいのか……凄く立派な方です。俺は尊敬しています。今は……」

 楊迅は朱不尽の名誉を守る為、洪破天に言う。朱不尽のいつもの泰然自若としている様子や、その静謐さから一見、消極的な印象を持たれるのも解る気がするが、楊迅には朱不尽が困難に直面して退き下がるという様な姿を思い浮かべる事がどうしても出来なかった。

 

 

 二十四

 

「フフ、そうじゃろうのう。恐らくその責任感が強すぎて今は混乱してしまっておるのかもな。いや、案外頭の中で綿密な計画を練っている最中かも知れんぞ」

「だったら良いんだけどな」

「……洪さん、あなたは北辰教徒では無いんですか? 此処の傅さんだって、殷総監と旧知の仲だと聞きました。しかも咸水から一緒に出てきたという……俺達を襲った奴等はまだ何処の者かも分からない。もし北辰の者だったら、あなたは……」

 田庭閑はそう言ってから床を見つめて口を噤んだ。范撞と楊迅は洪破天が口を開くのを待った。

「殷汪の奴は確かに親しい間柄じゃ。しかしそれだけの事。儂は北辰教徒では無い。もしも賊の首領が殷汪であったとて儂には関係が無いのう。儂は襲われてはおらん。安心せい、敵にはならん。同情もしてはおらんがのう」

 洪破天は全くの無表情のまま立ち上がって酒杯を置く。

「媛児よ、帰るぞ」

「はい」

 梁媛が慌てて立ち上がり、その場で少し頭を下げた。ふと楊迅の寝ている寝台を見ると、楊迅は首だけ横を向いていて視線が合う。楊迅が少し微笑んで頷くと、お辞儀なのか下を向いただけなのか、また頭を下げて洪破天の後を追った。

 

「何であんな事言ったんだよ」

 范撞が田庭閑をじろりと見る。

「何かおかしい事言ったか?」

「じゃあ何か? 此処の傅の旦那も、朱蓮も疑ってかかるべきだと?」

「……」

「朱蓮はあの寺で襲われる前に俺達の所に現れたな。あいつが手引きをしたとでも思ってるのか? 今思い返してもあいつに不審なところは無いと思うけどな。考え過ぎだ。真武剣派はどうだ? 疑う余地はあるだろうが。そんな所にお前、帰れるのか? この先お前は一体、何処に行くんだ?」

 田庭閑は顔を上げ、范撞と睨みあった。

「今はとにかく……動かない事には何も分からないよ。俺はまだ動けないけど」

 楊迅が言うと范撞は思い出したように楊迅を見る。

「朱さんは俺達をそろそろ緑恒に戻す気でいる。お前はまだ動けねえから暫く此処にいる事になる。……お前も武慶に帰るように言われるぞ」

 再び田庭閑を見る。

「俺は……帰らない。今度戻ったらもう出られない気がするんだ」

 田庭閑ははっきりと言い切った。范撞と楊迅は驚いて田庭閑を見つめたが、すぐに范撞がニヤリと笑って口を開いた。

「それ、いいな。どうするつもりだ? 何処へ行く?」

「前は北辰、後ろは真武剣派……都なんかに戻ればすぐに見つかるしな」

「なあ、俺と景北港に行ってみないか?」

「俺は逃げると言ってるんだぞ?」

「景北港に俺達を知ってる奴が居ると思うか? もし襲ってきた奴等が北辰の人間だったとしてもいちいち俺達の事なんか覚えてる訳ねえよ。南に帰るより余程良いと思うんだがな」

「お前は賊の事を調べたいんだろう? そんな奴と一緒に居て無事で居られるかどうか怪しいもんだ。……朱鏢頭の命令を無視するつもりか?」

「……そうだ。今はそれより大事な事がある。なあ、行こうぜ。武慶では見られなかった物が見れるかも知れねえぞ? 人もな」

「……考えておく」

「楊迅は此処で傷を治して、緑恒の爺さんの所に戻らなきゃな」

 楊迅は困惑した表情で范撞を見た。

「今は顔を知られてなくてもあちこちで探りを入れてたら気付かれる事にならないかな?」

「ま、上手くやるさ」

「もう少し待った方が良いんじゃないかな? きっと幇主が手を打たれると思うけど。うちの鏢局だけの問題じゃないよ」

「幇会は幇会。俺は俺だ」

「そんな……無茶な」

「お前は自分の傷を治す事だけ考えてろ。お前が治るのが早いか俺達が戻るのが早いかは分からねえが、その頃には鏢局の動ける奴は皆引き上げてるだろう? とりあえずまた此処に顔を出すさ」

「俺はまだ考えて無いぞ」

 田庭閑が言って酒壷に口を付けて啜る。

「さっさと考えろよ。いや、あまり真剣に考えるなよ」

 

 

 

 二十五

 

 傅紫蘭が紅門飯店で馬少風を捉まえて話している。

「ねぇ、お馬さん結局何処まで行ったわけ?」

「三江村の手前だ」

「何それ。半分も行ってないじゃない。そこでやられちゃって逃げて帰って来た訳?」

「……送る荷が無くなった。行っても仕方ない」

「でもお馬さんの仕事は早く終わって帰って来れて良かったじゃない」

「人が何人も死んだ」

「ねえお馬さんは何人やっつけたの?」

「……わからん」

「もう、それくらい覚えてなさいよ。……あ、叔母様が来るわ。行きましょ」

 馬少風が傅紫蘭の見ていた方へ顔を向けると、傅英がこちらに歩いて来る。傅紫蘭はさっさと店を出て行くが、馬少風は傅英と目が合ってしまい流石にその場を直ぐに去ることは出来なかった。

「ねえ少風、あなたからあの子に……兄さんにちゃんと毎日顔を見せる様に言ってやってくれない? あと、嫂さんの所にも。このままじゃあの子ずっとあのままだわ」

 傅英が店の入り口の方に目を遣ると、顔を半分見せて中を覗き込んでいた傅紫蘭がサッと顔を引っ込めた。

「俺が言っても変わらないと思う」

「もうすでに誰が言っても同じになってるわ。何度も言うしかないの。お願いね」

 そう言うと傅英は仕事に戻って行った。

 

「さっと出てこなきゃ。何でこういう時はとろいのよ?」

 馬少風が表に出ると傅紫蘭が口を尖らせて言い、そのまま大通りを先に歩き始めた。相変わらず人が多く、時折、人の間を縫うように歩いていくが、暫く行った所で傅紫蘭が急に足を止めて馬少風に身を寄せた。

「ちょっと、あれ」

 傅紫蘭が前を指差し、馬少風はその先に目を遣った。

「朱鏢頭だ」

 人込みの中を朱不尽が真っ直ぐ前を見据えながら大通りを横切って行く。

「何処行くのかしら? お父様がうちに居るように言ってるんでしょ?」

「別に外に出るなとは言ってない。街から出すなと言われてる」

「でも、誰も傍に付いて居ないじゃないの。逃げるかも」

「逃げる? それはおかしい。何から逃げる?」

「うーん、分からないけど。跡をつけてみましょうよ」

 傅紫蘭が再び歩き出したので馬少風は離れないように付いて歩いた。朱不尽は傅千尽の屋敷から真っ直ぐ大通りに出て来たようで、大通りに曲がらずに真っ直ぐ進んで行く。先は東淵湖だ。

「散歩でもしてるんだろう」

「暢気なもんね。怪我人も居るのに。今、お屋敷は怪我人ばかりなのよ? あんな所に帰ったら本当に気が滅入るわ。いつ出て行ってくれるのかしら?」

「……」

 朱不尽は湖の傍まで来ると岸に沿って歩いている。急ぐ様子も無く、ただぶらぶらと歩を進めていた。今日は風も無く陽に照らされると流石に暑くなってくる。傅紫蘭達は見通しの良いこの湖岸で朱不尽から大きく距離をとって付いて行くが、朱不尽は一向に足を止める気配が無い。

(本当に散歩かも知れない。面白くないわね)

 傅紫蘭がそう思い始めたところで朱不尽が僅かに向きを変えて岸から離れ始める。

「通りに戻るのかしら?」

 物陰に隠れながら進んでいると朱不尽は急に真横に向きを変え、それを見て驚いた傅紫蘭は慌てて近くの立ち木の陰に逃げ込むが、馬少風はのんびりと付いて来る。

「もう、ちゃんと隠れてよ。見つかるでしょ」

 そう言いながら前方を覗き込むと、朱不尽が居ない。

「きっと通りに戻ったんだわ」

 大通りは湖岸と平行しており、傅朱蓮達は先程朱不尽の居た所まで行かずに隠れていた場所から大通りに出た。

「……見えないわね。行ってみましょ」

 街の中心部から外れてこのあたりまで来ると人は少なくなっているが、朱不尽の姿が無い。

「もしかしたら、馬を買うつもりかも知れないわね。ほら、あの先の徐さんの所」

 東淵の北門の手前には徐と言う男が営む宿があるが、そこでは馬も扱っていた。

 

 

 二十六

 

「ちょっと、あまり近づいたら見つかるじゃないの」

「見つかったら何が困る? 此処から出られると困る」

 馬少風は徐の宿屋に向かって真っ直ぐ歩き始め、傅紫蘭もその背後に隠れる様にして付いて行く。

 馬少風が宿の前まで来て中を見るが、朱不尽は見当たらなかった。

「此処じゃないわよ。そっち」

 後ろで傅紫蘭が宿の横を指差した。馬が繋いであるのが見える。二人が宿の横へ回ろうとした丁度その時、栗毛の馬が一頭、大通りに勢い良く躍り出る。二人は驚いて飛び退き、馬上を見れば騎乗しているのは朱不尽であった。

「あっ!」

 傅紫蘭が馬少風の後ろにさっと隠れるが、その様子を朱不尽はしっかりと見ていた。しかしそれもほんの一瞬で、馬の腹を蹴ってそのまますぐ傍の北門を駆け抜けて行く。馬少風は勢い良く地面を蹴って朱不尽を追って飛び出して行った。

(お馬さんから逃げるなんて、他のどんな馬でも出来ないわ)

 残された傅紫蘭は一人、大通りの真ん中で笑い出した。

 

 街道を行き交う者達は皆、驚きの表情で目を見張っていた。疾駆する馬とその横にぴたりと付いて離れない男。そしてそれらは瞬く間に遠くへ飛び去って行く。

「馬殿! お見事な軽功だ! 敬服いたした!」

 朱不尽はそう叫ぶと馬少風に向かって親指を立てて見せた。

「戻ってくれ! あんたを東淵から出すなと言われてる!」

 流石にこの時ばかりは馬少風も珍しく大声を出している。

「ほう、その様な事を千尽が!?」

「そうだ! 行かせる訳にはいかない!」

 暫く朱不尽は馬少風を見つめる。今自分の馬は殆ど全速力で駆けているが、この男、表情は全く変化が無い。大声を張り上げても平気な様子で恐らく抜き去る事も出来るに違いない。

「馬殿! 千尽と出る前に話したのだ! 私は鏢局の責任者だ! あの時の賊の事も調べねばならん! そなた達には世話になってばかりだが、事の真相が掴めればまた、馬殿や超謙殿達にも御助力願いたい! 馬殿! 私は一先ず景北港へ向かうが必ず戻る! 行かせてくれ!」

 朱不尽の目は真剣そのもの、馬少風はじっと朱不尽の視線を受け止めながら暫く黙ったままだったが、ややあって口を開く。

「わかった! 俺は戻ることにする!」

「忝い! 千尽に宜しく伝えてくれ!」

 馬少風が走るのを止めると見る間に二人の距離が開いていく。朱不尽は暫く振り返りながら馬少風が立ち止まるまで見ていたが、前方に向き直るともう一度馬の腹を蹴った。

 朱不尽は出る前に傅千尽には会っていない。隙を見て屋敷を抜け出して来たのだ。先程、「千尽に伝えてくれ」と言ったが、馬少風は何も思わなかったらしく、朱不尽の思った通り単純な男の様だ。朱不尽は景北港目指して夢中で馬を走らせた。

 馬少風が北門まで戻ってくると、傅紫蘭はまだ辺りをうろつきながら待っていた。

「何よ、一人なの? まさか逃げられたんじゃ……」

「逃げては居ない。景北港に行ったんだ。用事だ」

「知らないわよ? お父様絶対怒るに決まってるわ」

「そうだな」

 

「勝手な事を……何故行かせた!」

 傅千尽は予想通り馬少風に向かって叱り付けている。

「超謙! お前見張って無かったのか!?」

「いえ、気を付けては居りましたが……」

 超謙は困惑した表情で項垂れている。

「魯さん。俺達もすぐに追いかけよう。全く……なんで一人じゃなきゃ駄目なんだ? 朱さんの考えてる事が解からねえよ」

 范撞はそう言って魯鏢頭に歩み寄った。

「まだ何も解かっておらんのに皆で動き回っても危険なだけだ。俺達は緑恒に戻るようにと朱鏢頭は言われた。これは命令だ」

「まさか魯さん、本当に戻るのか?朱さん一人にして――」

「范撞! 言う事を聞くんだ!」

「嫌だね! 俺は戻らねえ! 気に食わなけりゃ、俺を除名にでもしてくれよ! 朱さんは戻ってくるつもりでも、戻る事が出来なくなるかも知れねえだろうが! それであんたは平気か!?」

「生意気言うんじゃない! 朱……朱鏢頭はお前と違って常に慎重で冷静だ! お前が行けばきっと邪魔になるだけだ!」

「慎重に冷静に此処まで来て、この様か!」

「きっ、貴様!」

 魯鏢頭の顔が瞬時に真っ赤に染まり凄まじい勢いで拳を繰り出すと、范撞はその拳をまともに喰らって思い切り床に背中を叩きつけられた。

 

 

 二十七

 

 范撞は顔面を片手で押さえながらゆっくりと立ち上がるが、その場に立ったままだった。

「……じゃあな、魯さん。俺は今から鏢局の人間じゃない。勝手にするさ」

 くるりと踵を返して部屋を出ようとすると正面に傅朱蓮が立ち塞がった。

「あなた……本気なの? 本当に朱小父様の事をそんな風に……?」

「どいてくれよ」

「あなた……何様のつもり? 朱小父様は荷の警護もしながらあなた達鏢客の警護もしなきゃならない訳!? 一体鏢客って何する人なのよ!? まるで他人事みたいに……あなたみたいなのが部下に居たらどんな英雄だって何も成し遂げられないわね!」

「ああそうだな! たった今役に立たねえ部下は居なくなったんだ! これでいいだろ!」

 范撞は傅朱蓮を押し退けて部屋を出る。

「十八人も死んだのよ!? 今更あなたが消えたってもう遅いのよ!」

 殆ど叫び声に近い傅朱蓮の言葉が辺りに響く中、范撞はその場を離れた。

 

「范撞、行くんだな?」

 不意に田庭閑が背後から声を掛ける。傅千尽の部屋でのやり取りを聞いていた様だ。

「もう此処に居る理由がねえからな」

「景北港だな?」

 范撞が頷くと、

「俺も行こう」

 田庭閑はそう言って歩き始めた。

「本当に、武慶には……真武剣派を出るってのか?」

「わからん。どうなるかなんて……とにかく今は武慶には戻らない。あんまり言うと気が変わるかも知れないぞ」

「じゃあ、その事は当分忘れよう」

 部屋に入ると楊迅がゆっくりと視線を二人に向ける。

「急だが、俺達は出る。今すぐだ」

 楊迅は意外にも「そうか」と小さく言っただけで後は黙って范撞を見ている。范撞の方は何か言おうと思ったが、何も浮かばない。

「あーじゃあ、……またな」

「范撞。それから田さんも」

「ん?」

「気を付けて。もう少しすれば俺は緑恒に戻れると思う。必ず緑恒へ……」

「親父が勘当してなけりゃな」

 范撞がそう言って笑顔を見せると、楊迅も頬を緩めた。

「田さん。武慶に戻らないと決めたんなら、范撞と一緒に緑恒に来なよ。武慶が近いかも知れないけど真武剣派の人間は誰も来ないよ」

「……こいつと行って無事だったらその時考えるよ」

 楊迅は二人を見て頷く。范撞も頷き返して黙ったまま部屋を出て行き、田庭閑も続いた。楊迅は二人の事はさほど心配はしていなかった。きっと朱不尽を探し出して共に帰ってくると、理由は無いが漠然とそう考えていた。

 

「あの、宜しいんでしょうか? あの二人を出して……」

 超謙が傅千尽に訊く。

「良いも何も、儂等は鏢局の者ではない。儂等がとやかく言う事は無い」

「はぁ」

「朱蓮、怪我人の具合はどうだ? 医者は何と言っている?」

「もう動ける人もいるわ。でも中にはあと一月は寝てないといけない人も居る」

「とにかく儂等は怪我人を預かった。此処で直して緑恒に返さねばならん。魯殿。そなた等は動ける者を連れて先に緑恒へ戻ってもらおうか。残ったものは儂が責任を持って面倒を見る。范幇主に宜しく伝えて欲しい」

「有難う御座います。この御恩は絶対に忘れませぬ」

「待って、お父様。緑恒までは長いわ。道中大丈夫かしら?」

 朱蓮が言うが、魯鏢頭がすぐに口を開く。

「お嬢さん。俺達にはもう奪われる様な物を持っては居らん。怪我人ばかりで、フフ、疫病神すら敬遠するだろうな」

 恐らくもう賊も自分達への興味は失っているだろう。何らかの計画があったとしても、奴等の仕事はあの時にもう成ったと思われる。

「恐らく魯殿の言う通り、賊の方の心配は無かろう。しかし、用心は必要だ。しっかり準備をしてくれ。何か要る物があれば用意する」

「有難う御座います。では私は皆に伝えて参りますので」

 魯鏢頭は深々と頭を下げ、部屋の入り口まで来ると再び振り返ってお辞儀をし、退出した。

 

 

 二十八

 

 范撞と田庭閑は屋敷を出ると紅門飯店を覗いた。中に入って辺りを見回す。

「何だ?」

「あそこだ」

 范撞はそう言って真っ直ぐ客の間を進んでいった。

「ん? あんた誰や?」

 老人二人が飲んでいる席の傍で立ち止まると、一人が振り返って范撞の顔から足まで舐める様に眺めた。

「范。范凱の息子らしい」

 范撞の変わりにもう一人が教える。その老人は洪破天、振り返ったのは狗不死である。

「范撞だ。爺さん、俺は今から景北港に行くんだが」

「朱不尽を追って、か」

「爺さん何でも知ってんだな」

「で? 何だ?」

「いや、どう調べたらいいのか、正直よく分からねえんだ」

 ここで洪破天も振り返る。呆れた様な表情で口が開いている。

「……まあ座れ。飲むなら自分の金で飲め。あれも一緒に行くのか? 二人だけか?」

 洪破天は范撞の後ろで少し離れて立っていた田庭閑に目を遣る。

「まあな」

「おい、お前も座れ」

 洪破天が言うので田庭閑も席に着いた。

「何の話しとんねん? 范凱の息子が何で此処に……」

 狗不死が洪破天に訊くが、「黙れ」とでも言うように腕を持ち上げた。

「お前、見た目は親父とそっくりというに、その計画性の無さは正反対じゃのう」

「親父と知り合いなのか?」

「范凱て千河幇のやろ? 知らん奴探す方が難しいで。ほんま、似とんな」

 狗不死が口を挟む。

「北辰の蔡長老を知っておるか?」

「聞いた事があります。確か都に居たと」

 すぐに田庭閑が答える。洪破天は田庭閑の顔を見た。

「それはかなり昔の話じゃな。朱不尽は奴に会うだろう。そう言うておった」

「その人はどんな人だい?」

「お前等景北港行くんか? あれ、めっちゃ金持ちやで。食うもんに困ったらあいつの所行ったらええねん。恵んでくれるで」

間が空くと狗不死がすかさず入ってくる。

「……朱さんは知り合いなのかな。聞いた事無いなあ」

「お前の親父から蔡に宛てた書簡があると言っておった。恐らく蔡から殷に話を通そうと考えたんじゃろうな」

「范凱幇主と殷総監は近いのですか?」

 田庭閑が洪破天に質問する。

「どういう意味だ?」

 范撞が田庭閑を見る。

「……そのままの意味だ」

「フン、お前のこだわりという訳じゃな。人の繋がりというものは本来曖昧な物じゃ。時の流れにも依る。お前とて変わってゆくのではないか? 敵か味方か……始めからはっきりと決まっておるならこんな楽な事は無いわ」

 洪破天は少し間を置いて再び話し出す。

「二人が直接的に繋がりがあるかどうかは知らぬ。じゃが、共通の知り合いが居る。陶峯というな」

 陶峯といえば太乙北辰教の前教主で故人である。継いで教主となったのは息子で光という。

「親父が北辰教徒だったなんて聞いた事は無いけどな」

「知り合いなら教徒なのか? この狗は真武剣の陸を知っておる。この飲んだくれの爺が真武剣派だと思うか?」

 洪破天が狗不死を指差す。田庭閑は狗老人の顔をまじまじと見つめるが、見覚えは無い。

「おもろない。おもろないわお前等。何の話やねん」

 そう言いながら狗不死が酒をどんどん呷るので、洪破天は酒壷を取り上げる。范撞が鏢局の話を狗不死に聞かせた。

 

「ほーう、そんな事になっとるんか。なあ、儂も行きたなってきたわ。連れてってえな」

 

 

 二十九

 

「あ、あんた本気で言ってんのか?」

「おう、めちゃめちゃ本気や」

「もうすぐにでも行くんだが……」

「儂もすぐ行ける。何もいらんしな。儂、蔡の奴知ってるで。殷総監もなあ。会わせたろか?」

「マジかよ……まあ、俺達二人だけで多少の不安はあったんだけどなあ。あんたは何者なんだ?」

「フン、これを連れて行ったら引っ掻き回されるだけじゃ。やめておけ」

 洪破天が范撞に言う。

「お前はいらん事言わんでええ。儂は顔が広いでえ。絶対役に立つ筈や」

「真武剣派の総帥とはどういったお知り合いですか?」

 田庭閑が尋ねる。

「あれか。あれはな、あいつが真武剣派を再興したっちゅうてわざわざ儂に挨拶に来た位や。儂は最初知らんかったけどな、あいつの方が儂を知っとったんやで」

「再興? 挨拶ってあなたは一体……?」

「お前達、そんな話しとる暇は無かろうが。出るなら早くしたほうが良かろう?」

 洪破天が会話を遮って范撞と田庭閑二人の顔を交互に見た。

「儂も行く! 道中でもっと話したるわ」

「お前正気か? この者達は遊びに行く訳では無い」

「あーまあ、そうだけどよ。まあ爺さんの好きにすればいいんじゃねえか? とにかく、今から出るよ。あんたの名は? 家族は居ないのか?」

「儂は狗や。家族なんておらん。儂は元々この東淵の人間ちゃうねん。遊びに来とるだけや。ほな、宜しゅう」

 狗不死は満面の笑みを浮かべている。

「この爺に合わせて動いておっては、いつまで経っても先に進めんぞ。放っておけ」

 洪破天はそう言って目の前の杯に酒を注いで范撞に差し出す。范撞が一口で飲み干すと洪破天は再び注いで今度は田庭閑の前に置いた。

「まあ、気をつけて行くがよい。生きて戻って来れたら、酒の肴に話を聞かせてもらいたいのう」

「ああ、必ず戻るさ」

 范撞は勢い良く立ち上がる。田庭閑も杯を洪破天に返して頭を下げた。

「江湖を知るには、自分の眼を開いて自分で見ることじゃ。景北港は初めてか?」

「はい」

「ま、物見遊山に参るわけではないからのう、しかし、人を良く見ておくが良い。その背景もな」

 田庭閑は改めて頭を下げると、范撞と共に席を離れて行った。

「ほな行くわ」

 狗不死が洪破天の肩に手を置いて立ち上がる。

「景北港じゃぞ? お前のその感覚は全く理解できんわ」

「絶対おもろい事あるて。楽しみやなあ。ほなな」

 狗不死はまるで近所の飲み屋にでも行こうかという感覚でいる様だ。何を言っても無駄な事は洪破天もよく知っていた。

 

「本当に行くんだな?」

「おう当たり前や。お前達は馬持っとるんか?」

「いや、この先で買えるって聞いたんだが……」

「ほんなら街の外れや。行こか」

 狗不死が先に歩き出す。連れて行けと言っていたがまるで范撞らが狗不死に連れて行って貰うような状況になっている。

「金持ってんねやろな?」

「ああ、大丈夫だ。爺さんは?」

「何とかなる」

(ねえのかよ……)

 暫く歩くと北門が見えてくる。再び景北港を目指してあの門をくぐるのだ。

「傅朱蓮が居たな」

 田庭閑が前を向いたまま范撞に言う。

「……何処に?」

「店を出た時に見た」

「そうか」

「ここや。ここで馬買うて行こ」

 范撞達は黙ったまま狗不死に付いて行った。

 

 

 三十

 

 朱不尽は東淵を出て四日、景北港の一つ手前の市街へと辿り着いていた。地名はすでに景北港と呼ばれる場所なのだが、中心部とはかなり離れており、遠方から来た者は全く別の街と勘違いする事が多いが、朱不尽は何度も景北港まで来ているのでその事は良く知っていた。

 東淵から此処まで殆ど休むことなく進んできたが、流石に馬の方がすぐに走れなくなってしまい、予定より時間が掛かってしまった。朱不尽は通りで見つけた茶舘に入り、出てきた給仕に茶を所望する。辺りは比較的静かで客は老人達が多く、茶を飲みながら穏やかに談笑している。少しすると給仕の男が朱不尽の席に遣ってきて茶を淹れる。

「私は南方から来たのだが、この辺りはとても穏やかな風情がありますな」

 朱不尽はまるで初めて訪れた旅人の様に給仕に話し掛けた。

「こちらは初めてで? ここ景北港は良い処でございますよ。太乙北辰教の本拠ですから、この街には変な悪党も近寄りませんので治安も良いのですよ。教主様の御威光の賜物でございます」

 給仕の男はそう言って朱不尽の表情を確かめるように見ている。

「ほう、それは素晴らしい」

 朱不尽は感心したように頷いて見せた。

「ここへ来る道中で、最近賊が現れて旅の者が何人も殺されたと聞いたのだが……」

「ああ、それは東淵の方でございましょう。あそこは幾つもの街道が交わる所。色んな人間が流れ込んで参りますから。噂はすぐにこの街にも広まりましたが、すぐに方崖……方崖というのは教主様の居られる御山なのですが、そこから賊の討伐隊が出て行きました」

「討伐隊……方崖の精鋭が向かわれたのなら賊はひとたまりも無いでしょうな」

「勿論でございますよ。つい先日、討伐に参られた方々が戻って来られました。賊は一人残らず始末したとか。この太乙北辰教のお膝元で悪事を働くなど、その賊も焼きが回ったのでしょう」

 給仕は自慢気に言い、一人悦に入っている。朱不尽はこの男から他にも色々聞けそうだと考えた。給仕の男の淹れた茶の風味を褒め、

「甘い物が欲しくなったな。何かございますかな?」

 そう言って男を見ると、

「すぐに持ってまいります」

 男はすぐに店の奥へ下がっていった。

(全て討ち取った? どうやって見つけた? あの悪党どもは恐らくすぐにあの場所から引き上げた筈だ。この街の方へ来るとは考えられんが……)

「これはこの辺りで取れる杏ですが、とても甘く疲れがとれますよ」

 男はすぐに戻ってきて朱不尽の前に小さな皿を置いた。干し杏だが色が鮮やかだ。一つ摘んで口に入れる。かなりの肉厚があり、今まで食べた事のある干し杏よりも一層甘く感じられた。

「うん、これは良い」

 給仕の男は満足げに笑みを浮かべる。朱不尽がこの店に入ってから新たな客は無く、すでに居る老人達は相変わらず話し込んでいる。給仕の男は特に忙しくはなさそうだった。

「お聞きしたいのだが」

 朱不尽が顔を上げる。

「はい、何でございましょう?」

「私は昔、北辰教の長老蔡元峰殿にお世話になった事がありましてな。こちらに来た時には寄る様にと言って頂いておったのだが、何せ初めての土地で何も知らぬ。長老方は方崖にお住まいか?」

「おお、蔡長老様のお知り合いの方でございましたか。これは失礼を――」

 男はそう言うと頭を深々と下げたままじっとしている。

「あー、いや、もうかなり昔の話でしてな。知り合いというのも恐れ多い」

「蔡長老様は方崖の麓の市街にお屋敷を構えておられます。大きなお屋敷ですからすぐに分かりますよ。市街の中心部の方に参られましたらその辺りでお聞きになれば分かります」

 朱不尽は頷いた。

 

 

 三十一

 

「しかし、その賊の件、教主様の対応は迅速ですな。周辺の街の状況は常に把握しておられるのかな?」

「それはもう。この周辺の街は勿論、都や武慶の動きまで方崖では分かっておいででございましょう」

「ほう、武慶までも……。真武剣の動きは特に重要なのでしょうな」

「ま、何をしようと教主様はお見通しですよ。今や北辰は敵無しですからね」

 朱不尽は異論は無いという事を示すべく、頬を緩めて少し大袈裟に頷いた。

「賊は物取りだったのかな? ……旅の者達は皆殺されたらしいが、集団で襲うに足る物を持ち歩いておったのだろうか?」

「さぁ? そういえば車を引いて戻っておいででしたねえ。一台だけですが、何でしょうね。南方の方では人が住めなくなるほどに荒れた街などが多いと言うではありませんか。この景北港に逃げて来る者達だったかもしれませんね。この街にはそういう人間が多く流れて来ます。しかし、教主様が手厚く保護して下さる。おお、そうそう、蔡長老様は街で食べる物に困っている者達を集めて施しをなさっておいでです。勿論それも慈悲の御心に満ち溢れた教主様の御意向でございましょう」

 給仕の男はよく喋る。余程「教主様」に心酔している様だ。しかし無理も無い。ここは太乙北辰教の街、教主陶光の街なのだ。

 

 朱不尽は茶館を出て馬に乗ると景北港の市街へと向かうが、馬を走らせる事はしなかった。出来る限り余計な注目を集める事は避けたい。

 先程の集落を出ると、のどかな田園風景が広がり先の北江まで続いている。北江というのはこの大陸に入り込んだ大きな湾であるが、外海と繋がる部分は狭く、一部が海と繋がった巨大な湖のようなものだ。東淵湖よりも遥かに大きく、東淵湖からここまで三つの川で繋がっている。東淵湖より流れ出た大きな川が途中の三江村と呼ばれる場所で三つに別れた後、そのどれもが北江に辿り着く。景北港は古い時代からある北江の港街である。東淵の街から船で景北港まで行く事も可能ではあるが、殆どの者が陸路を使う。その方が遥かに早いからだ。

 市街周辺には水田が多く、この景北港は食料が豊富だと言われている。数百年前、太乙北辰教が興り、その教えに帰依し支えたのは殆どが為政者に虐げられていた百姓達、最下層の民衆だった。徐々に太乙北辰教の組織は変質し、新たに外部からも多くの人間が流れて来たが、やはりその生業は田畑を耕すか、北江に漁に出るかのどちらかが多かった。他所の街で他の商売をしていた者達が少しずつ市街地を拡大していって、景北港は今の姿になっていった。朱不尽が会おうとしている長老蔡元峰も、昔、都で財を成した商人である。

 

(一台の車……しかし……)

 先程の給仕の男が見たという一台の車は鏢局の物と考えてほぼ間違いは無いように思える。問題は「奪い返した」のか、「奪った」のか。そんな事を考えながら進んでいると、同じ道を行く人の数が次第に増え始めてきていた。

 朱不尽は街の中心部までやってきたが、相変わらず静かな佇まいの街並みが続いている。ここ景北港は昔から田舎町と言っても良い程で、みすぼらしいとまではいかないが、東淵と比べると全く垢抜けず見劣りする。そんな風景を見ていると、先程の給仕の男などは都や武慶の様な大きい街を見たことは無いのだろうと思える。真武剣派の本拠、武慶を見たら何と言うだろうか。

 朱不尽は馬を降りて目に留まった通りに面した一軒の店先に居た中年の女に声を掛けた。

「少しお聞きしたいのですが、蔡長老、蔡元峰殿のお屋敷はどちらでしょうか?」

女は振り返ると愛想の良い笑みを浮かた。

「蔡長老様のお屋敷ですか? このまま先に行けばすぐにわかりますよ。この辺りで一番の立派なお屋敷ですから。でも、お忙しい方ですから、すぐお会いになれるかどうかは分かりませんが」

「忝い」

 朱不尽はそう言うと馬には乗らず、引いて通りを先へ歩き始めた。

 

 

 三十二

 

 暫く進んでまた、通りに居た男に声を掛ける。先の道が交差している場所を左手に入って真っ直ぐ行けば大きな屋敷が見えると男は言った。言われたように左に折れて行くと辺りの質素な建物とは明らかに違う大きな屋敷が見えていた。

「こちらは蔡元峰殿のお屋敷かな?」

 朱不尽は丁度屋敷に入ろうとしている少年に声を掛けた。

「ええ、そうですけど……」

「今、此処においでか?」

「……あなた誰ですか?」

 少年は怪しい人物を見る様に朱不尽の全身を眺める。

「私は……」

 一瞬、どう答えるべきか考えてしまった。出鱈目な名前を言ったところで会って貰えるとは思えない。本当の事を言っても会わないと言ったならその時は――

「あの……」

 少年が怪訝な顔で朱不尽の顔を見ていた。

「私は……緑恒千河幇の朱不尽と申す。お取次ぎ願おう」

 朱不尽は少年の目を真っ直ぐ捉え、はっきりと言葉を発した。少年は僅かに頷いた様で、すぐに中へ入っていった。

 辺りを見回すと、屋敷の前も水田が広がり青々とした稲が時折、波打っている。都の商人であった蔡元峰は何を思ってこの田舎にやってきたのだろうか。

「どうぞ中へ」

 先程の少年が現れ、そう言うとすぐに戻っていく。朱不尽は馬を引きながら門をくぐった。

 

 広い屋敷の中を通って角にある一室に入ると、少年はお辞儀をしてから黙ったまま部屋を出て行ってしまった。屋敷の中に入ってから此処まで幾つかの部屋が見えていたが、何処も思ったよりも簡素な造りに地味な色調で、意外な印象を受けた。蔡元峰はどのような人物なのか――昔世話になったという話は全くの出鱈目、朱不尽は一度も会った事は無い。何故、自分に会うのか? 自分の用向きを全く知らないのかそれとも……。

「お待たせ致した。朱不尽殿」

 急に聞こえた声に朱不尽はハッと身を強張らせた。振り返ると男が立っている。確かに顔には皺が刻まれてはいるが、想像していたよりも若々しい精悍な顔つきの男。左右に引き締められた口許にまだ黒々とした髭が蓄えられていた。

「蔡元峰様でございますか。ご高名はかねがね承っておりました。緑恒千河幇の朱不尽と申します」

 朱不尽は拱手し、やや早口で口上を述べると、蔡元峰は相好を崩して中に入ると奥にあった席を朱不尽に勧めた。

「朱不尽殿の名は私も良く承っておりますぞ。千河幇一の好漢といえば、そなたを措いて他に無いとな」

 椅子に腰を下ろすと丁度、若い女性が茶を運んで来た。朱不尽は軽くお辞儀をした後、顔を蔡元峰へ向けると、蔡元峰の方はじっと朱不尽の表情を見つめていた。

「……お一人で来られたか?」

「はい。私一人でございます」

 朱不尽が答えると暫く沈黙が続いたが、蔡元峰は相変わらず視線を朱不尽の目から逸らさない。朱不尽も真っ直ぐに見返している。

「……用件をお聞き致そう」

 朱不尽はじっと蔡元峰を見たまま黙っていたが、ややあって口を開いた。

「私は、一切の覚悟を決めてこちらにやって参りました。是非にもお聞きしたい事がございます」

 蔡元峰は黙って頷く。

「私がはるばるこの景北港へ参ったのは私めの鏢局の仕事があったからでございます。方崖に届ける荷を運んでおりました」

 蔡元峰は口許に手を遣り、髭を撫でながら聞いている。

「……いや、このような説明は要りますまい。三江村に現れた賊を、北辰教の方々が討ち取ったとお聞き致した。まことでございますか」

「そのように聞いている」

 蔡元峰は口だけを動かして答える。とても乾いた、平坦な声だ。

「賊が持っていた荷車は方崖へ?」

「私には分からぬ」

「賊に襲われたのが我々鏢局の荷であるということはご存知ですか?」

 朱不尽は「知っているのだろう?」と詰問したい衝動に駆られたが、ここはぐっと堪えて蔡元峰の返事を待った。

 

 

 三十三

 

 蔡元峰が口を開いた。

「無論、全て把握しておる。ましてや三江村はここから目と鼻の先、その様な所で起きた事すら知らぬ様では、我等の目は節穴だ」

「私は、その賊徒共が何処の誰なのか、突き止めねばなりませぬ。何故我等が襲われたのかを」

「……」

「討ち取った者達の素性は分かったのでしょうか?」

「私が行った訳では無い」

「しかし、蔡長老様ならその事をお聞き及びではないのですか?」

「聞いておらぬ」

 蔡元峰の言葉は先程までと打って変わって鋭く、語気が強くなってきている。決して機嫌が良い様には見えない。

「蔡長老様! どうか、どうかお教え下さい! 我等は十八名もの鏢客を失ってしまったのです。何としても真相を知りたいのです!」

 朱不尽は声を震わせながら訴えかけた。すると蔡元峰は視線を逸らして立ち上がると、部屋をゆっくりと歩き始めた。

「……朱不尽殿。そなた、その奪われた荷はどういった物であったかご存知か?」

「真武剣派総帥から方崖へ。ただそれだけでございます」

 朱不尽は即答した。

「我等もあの荷が何の為の物か見当も付きませんでした。ここに……千河幇幇主范凱様から蔡長老様宛てに書簡を預かっております」

 朱不尽は懐から一通の書簡を取り出した。

「見せて貰おう」

 蔡元峰は書簡を受け取り、立ったままその場で開いた。その内容は、真武剣派から方崖への荷が意図する処が全く不明であり、千河幇としてはその事について関知するものでは無いが、ただ鏢局への一依頼として処理するという事、もし仮に何らかの陰謀の類があった場合に備え、直接方崖へは届けずにまず蔡元峰長老にこの事を伝え、必要であるならば殷汪総監の耳に入れる事も考慮し、事の秘匿には充分に注意が必要であろう、というものであった。

「なるほど。范凱殿は相変わらず思慮深く慎重なお人だ。荷が無事に私の許へ届いておれば……いや、これは朱不尽殿に責任は無い。我等の……」

「どういう事でございますか?」

 朱不尽は半ば身を乗り出して蔡元峰に訊ねる。

「具体的にはどのような品であったか?」

「目録を持って参りました」

 朱不尽が手渡すと、蔡元峰はサッと目を通す。

「預かっても良いかな?」

「結構でございます」

「朱不尽殿」

 蔡元峰は再び朱不尽の前に座る。

「少し時間をくれぬか?そう長くは無い。暫く……この屋敷に留まって欲しい。この件については他で聞いてまわる事も謹んで頂きたい。いや、絶対にならん」

「な、何故ですか?」

 朱不尽は勝手とも思える蔡元峰の物言いに色を作して問い質す。

「朱不尽殿。詳しくはまだ話せぬが、実は我等もこの件について調べておる所でな。もう暫く待ってくれ。この私を信用して欲しい。我等は決してそなたの敵では無い。これだけは……」

 見れば蔡元峰は沈痛な面持ちで眉間に皺を寄せ、手にした范凱の書簡に目を落としている。

「……分かりました。私とて何も得られぬまま戻る訳にはまいりませぬ。真相を掴むまでは留まりましょう。しかし何も出来ないとなれば、蔡長老様から教えて頂くしかありませぬ」

「勿論、もう少し待って貰えれば今分かっている事はお話しする。その後の調べについては、是非そなたにも加わって欲しい」

 再び蔡元峰は立ち上がる。

「宿はもう用意しておられるのか? まだであればこの屋敷に――」

「いえ、まだですが、他で宿をとります」

「……そうか。くどい様だがこの事は今暫く他言無用だ」

 朱不尽は完全に納得出来てはいないが、とりあえず頷いて見せた。

「宿が決まれば手間を掛けさせて済まぬが、この屋敷の者に教えておいてくれ。私は早速出掛けねばならん」

「わかりました」

 朱不尽が先に部屋を出る。蔡元峰はその後姿を見送った後、范凱の書簡と荷の目録を持って足早に立ち去った。

 陽が傾き、通りの何もかもが茜色に染まっている中を朱不尽は馬を引いて歩いていたが、その表情には疲れが見えて足取りは重かった。

 

 

 三十四

 

 一方、東淵を離れて朱不尽を追う范撞達はまだ景北港までの道程を半ばまでしか来ていなかった。

「おい爺さん、金出してやったんだからちょっとは急いでくれよ」

 范撞と田庭閑は並んで先を進んでいるが、狗不死は少し行けば止まり、或いは姿が見えなくなったと思えば暫くしてまた現れるという勝手気ままな旅をしていた。

「東淵よりこっちは長いこと来てへんかったんや。ちゃんと付いて行くて。心配せんかてええ」

 そう言いながらやはり范撞らの後方でのんびりと馬を進めている。

「洪の爺さんが言ってたろ? 放っておいたら良いんじゃないか? 付いて行きたいって言ったんだ。俺達が連れて行かなければいけない訳じゃない」

「まあな」

 二人は再び前を向いた。

「なあ、お前等もし襲撃の下手人が北辰やったら、方崖に乗り込むんか?」

 狗不死はまるで何か察したかのように范撞らの横に並んで話しかけ始める。

「まさか。二人で乗り込んでもあっという間に始末されて終わりだ」

「何故二人だ? 俺は――」

「そうや。今、三人居るやないか。お前等の親分見つけたら四人やな」

 田庭閑は仇討ちなど考えていない、自分は関係無いと言いたかったのだが、狗不死は最後まで聞いては居ない。

「四人ならどうや?」

「二人が四人になったところで、どうやるってんだ?爺さん、方崖には一体何人くらい人間が居るんだ?」

「知らん。知らんけどまあ、そんな多ないんちゃうか? 百もおらんやろ」

「それ本当か? 方崖だぞ?」

「何や、方崖行った事あるんか?」

「ねえけどよ」

「ハハ、方崖なんて狭いとこやで。行きにくい崖の上やしな。そんな仰山、人居られへん」

「でも景北港には教徒が……三万かそこら……」

「景北港だけならそんな居らんやろ」

「とにかく今は、朱さんを探す。それからだな、調べるのは」

「狗さん。あなたは蔡元峰という人の事も、殷総監の事も良くご存知の様ですが、その、どういう関係なんですか?」

 田庭閑が話に加わる。狗不死は少し考えていたがすぐに田庭閑に顔を向けた。

「別に、関係て言う程の事もないなあ。お互い知ってるだけや」

「では、教主は?」

「知ってるで」

「朱鏢頭はまず蔡元峰の所へ行くと言われました。そして殷総監に話を通すと……どういう事かよくわかりませんが、何故教主ではなくて殷総監なのか……」

「おい、爺さんに言ってもそんなこと分かる訳ねえだろ」

「荷の事はともかく、教主と殷総監は違うのですか?」

「違う? どういう意味や?」

「北辰で殷総監は教主に次ぐ人間でしょう? 殷総監に話す事は教主には伝わらない? その二人の関係は一体……?」

「あーまあ、なんちゅうか……」

 狗不死は視線を上に投げて黙っている。

「何だよ爺さん、何かあんのかよ?」

「ちゃうねん。憶測で物言うたらあかんしな。そやなあ、殷ちゅう奴は、元々北辰教徒やないねん」

「ああ、朱蓮に聞いたぜ。えーっと、咸水から旦那と一緒に東淵に来たんだろ? あの洪って爺さんも」

「何や、知っとったんか。ま、よそ者ちゅう訳や」

「よそ者って言ったってもうかなり昔の話だろ? 長い間幹部だって聞いたけどな」

「教主と殷総監は仲はええ筈やで。教主いうてもまだ子供やけどな。お前らよりも若い筈や。多分」

「ふーん。じゃあ取巻きに問題ありか……」

「あれ、殷汪はな、先代が見つけた看板なんや」

 狗不死の言葉に范撞と田庭閑は揃って顔を向ける。

「もう二十年にもなるけど咸水での話はあん時、国中に広まったさかいな。当然、前の教主の陶峯とうほうも知っとったわな。確かにあいつの強さは半端やない。仲間に引き入れたらええ宣伝になるわ。実際、陶峯はようあれを使ってな、敵の奴等は皆逃げていくがな。ほんま、重宝しとった」

 

 

 三十五

 

「確かに昔の話だな。もう今じゃ大規模な衝突も殆どないもんな」

「そうや。先代が死んで息子はまだ幼かった。一応、その息子を教主に据えたけど実際色々とまとめとったんは殷汪や。先代がそう遺言したさかいに長老衆も従わなあかん。殷汪ちゅう奴はほんまはめっちゃ面倒臭がりやねん。真武剣やら敵対しとった奴等とは揉めんようにゆうて徹底したらしい。先代は口より先に剣が出る人間やったけど、それが居らん様になってやっと楽できるっちゅう訳や」

 范撞と田庭閑は初めて聞く太乙北辰教内部の話に、まるで子供の様に胸を高鳴らせながら聞いていた。

「それだな。腕力にモノを言わせるのが好きな幹部連中は面白くないってんだろ?」

「んーまあそやな。それもあるけど……」

「何だよ」

「いや、憶測で物言うたらあかんな」

 狗不死は再びそう言うと口を噤んだ。もう話は終わってしまったようで、范撞はがっかりして田庭閑を見ると、田庭閑は狗不死の方を向いて口を開いたところだった。

「殷総監は教主の後見という事なのでしょうけど、そんな途中で引き入れた様な人物を、何故、前教主は選んだんでしょうね。反発がある事は目に見えてるのに……」

「何や? 北辰教にえらい興味あるんやなぁ。言うたらいつでも入れて貰えるで」

「いや、私は……」

「殷総監に興味があるんだろ? 爺さんは殷総監の武芸の来歴を知ってるか? 誰も詳しく知らねえみたいなんだが」

「お前等は武芸を誰ぞに教えて貰っとるんか? 他所の武芸に懸想なんてしてええこと無いで」

「別に教わってねえよ。こいつは……」

 范撞は田庭閑を指差したが、思わず言葉に詰まった。

「俺はこれから、探す」

 田庭閑が言う。

「探す? 何探すんや?」

「……一人でも江湖で生きていけるように、強くならなければ……」

「ハハッ! 強さか! つよないと生きていけへんか?」

「そりゃあそうでしょう? 俺はもう死んでてもおかしくなかった」

 田庭閑はそう言って手綱を持った手を強く握り締めた。

「……武芸でけへん奴も仰山生きてるがな。自分に見合った生き方があるやろ」

 狗不死は先程までとは違い、低く穏やかな声を出した。

「フン、俺はようやくこの江湖に出る事が出来たんだ。親に守られて生きるなんて格好悪いしな。江湖じゃ弱い奴はさっさとくたばっちまう。そうだろ?」

 范撞が言う。

「お前の親父かて不死身とちゃうで。いずれ誰かて一人になるけどな」

「まずは俺等を襲った奴の事を調べる。仇を討つにしても今の俺達じゃ無理だ。真剣に武芸を習って――」

「真剣? 真剣か。真武剣やな。ハハ」

 狗不死は冗談を言って一人笑っている。范撞は顔を顰めて田庭閑の方を向いた。

「おい、もう少し急ごうぜ。次の街で宿をとろう」

「ああ」

 二人は馬の腹を蹴り、狗不死を措いて駆け出す。それでも狗不死はまだ笑いながらゆっくりと馬を進めていた。


范撞達三人が景北港に入ったのはそれから二日経った夕刻だった。予定ではもっと早く付く筈であったが、結局、狗不死を無視して先を急ぐ事が出来なかった。

「しかし此処は何と言うか、相変わらず地味な街だな。もっとこう……繁華街みたいなのが出来ても良さそうなもんだが」

「初めて来たけど、意外だな」

 范撞と田庭閑が辺りを眺めながらゆっくり進む。田庭閑は正直、少しばかり落胆していた。真武剣派の向こうを張る太乙北辰教の本拠ならばもっと活気に溢れて力強さを感じさせる何か、或いはそれらを誇示するような気風が在るものと思い込んでいたのだ。確かに人も多く賑わいはある様だが、通りを行き交う人々は皆、着飾る事もなく土を付けたままの百姓達が野菜を荷車に山積みにして通りのど真ん中を進んでいたりする。

 

 

 三十六

 

 田庭閑はふと気付いた。

「なあ、此処に武芸者は居ない訳無いよな? この通りには全く、剣を帯びている者が居ないんだが……」

 それを聞いて范撞も辺りを見回したが、確かに剣を持っている者が見当たらなかった。

「なあお前等、今日は何処へ行くんや? もう宿決めたんか?」

 いつの間にか狗不死が二人のすぐ後ろに来ていた。

「まだに決まってんだろ。今さっき着いた処なんだぜ? とりあえず街の中心まで言って宿を決めよう。此処に居る間の拠点だな」

 田庭閑はそれからずっと剣を持つ人間を探したが、一人も見つける事が出来ない。三人は通りを真っ直ぐ進み、適当な所で宿の在りかを通行人に聞いた。街は広く、何処が中心なのかなど全く分からなかった。

 比較的大きいと思われる宿に入ったがやはり此処も飾り立てる事も無く、くすんだ色の室内には粗末な寝台と小さな円卓に椅子、立て付けが悪く音を立てる窓の付いた部屋であった。しかし不潔と言うわけではなくちゃんと清掃はされていた。

「とりあえず何か食うか」

 范撞が言うと田庭閑も頷き、部屋を出た。すでに日は沈んで客も増えてきていた様だが、満席になるような事はまだ無さそうだ。

「ん? 狗の爺さんが来ねえな」

「放っておいても大丈夫だろ。あの人なら何処でも好き勝手に生きていけそうだ」

「お前、一々言う事が大袈裟だな」

「フン」

 愛想の無い若い女が注文を聞きに来たので范撞が酒と料理を二、三品適当に注文する。

「どうする? すぐにでも蔡長老を訪ねるのか?」

「んー朱さんはどうしたんだろうな? いきなり蔡長老に会うのは勇気が要るな。博打みたいなもんだ。まあ行くまでに少し話を聞いてまわった方が良さそうだな。どっかで朱さんがひょっこり現れるかも知れねえし」

「きっと朱鏢頭は自分の素性は隠してるだろうな。朱鏢頭は此処では知られてるのか? 顔とか」

「いや……街の人間に覚えられる程来てねえんじゃねえか? 北辰のある程度上の人間の中には見知った奴が居るかもな」

「俺達も襲われた鏢局とは関係無いという事にしておかないと危ない」

「まあ、言う必要も無いさ。緑恒の朱って人を探すだけだ」

 先程の若い女が酒と料理を運んできたので会話を止めた。女が料理を置いて席を離れて行くと同時に田庭閑と背中合わせに座っていた男が静かに立ち上がった。范撞は僅かに視線を投げたがすぐに戻して食事に取り掛かろうと箸を取ったところで再びハッとなって顔を上げた。男は范撞と田庭閑の席の傍に立って二人の顔を見てから拱手して口を開いた。

「失礼致します。先程、朱鏢頭と仰られたのが聞こえまして。朱不尽様がこの景北港に御光臨なのでしょうか?」

 范撞は黙って田庭閑を見ると顔を上げずに横目で気配を窺う体でじっとしている。

「……御光臨ってあんた、あんたの言う朱鏢頭とやらは何処のお偉方だ?」

 范撞は平静を装い、箸を動かしながら言う。

「緑恒の朱と言われませんでしたか? 緑恒で朱鏢頭といえば千河幇の朱不尽様でございましょう? 私はお会いした事はございませんが機会があれば是非にもお会いしたいと常々願っております」

「うーん、人違いみたいだけどなぁ。朱不尽の名は無論俺も知ってるが、そんなに名が知れ渡っているとはな。あんたは此処の人か? 緑恒に朱は割とある名なんだぜ? 鏢局も大小幾つか在るしな」

 范撞は一度も顔を上げずに男の気配を感じ取りながら箸を進めている。うまくあしらえそうな雰囲気を感じて田庭閑も初めて箸を取った。

「左様でございますか。実は少し前に緑恒の鏢局が賊の集団に襲われるという事件が起きまして、死人もかなり出たようでしてな。お二人のお話が耳に入り、もしや襲われたのは朱不尽様の鏢局では、と思いまして。失礼致しました」

 男はそう言うと再び田庭閑の後ろの席に戻って行った。田庭閑が少し前方に体を傾けて小声で言う。

「聞いてまわるのは止めた方がいいな。賊が北辰と関係ないなら何とも無いけど、もしそうじゃなかったら即、終わりだ」

「……」

 

 

 三十七

 

 范撞は黙って酒を飲みながら先程の男の方を見ていると、一人の客が新たに現れて笑いながら男と言葉を交わした後、男の向かいに腰を下ろした。その者も料理を注文して男と談笑している。范撞は暫くそのまま考え込み、田庭閑は黙々と料理を片付けていた。

 

 丁度その頃、何も出来ないまま宿に籠もっていた朱不尽は蔡元峰の屋敷に呼ばれていた。

「何か分かったのですか?」

「朱不尽殿、今から方崖に参ろうと思うのだがそなたも来てくれ」

「それは……?」

「心配は要らぬ。殷総監に目通り出来る」

 蔡元峰はそう言って朱不尽をじっと見つめる。

「先に……私が聞いておかねばならない事は?」

「そうだな、身を隠しながら行かねばならん」

「見つかればどうなりますかな?」

「今すぐどうこうなるという訳ではなかろうが、良い事は無いな。うむ。全く無い」

「……分かりました」

「よし。それでは早速だが参ろう」

 二人は立ち上がると蔡元峰が先に歩き出し、朱不尽が続いた。ふと朱不尽が蔡元峰の腰に目を遣ると剣などの得物は携えていない。

「蔡殿。武器は持たぬ方が宜しいか?」

「いや、構わぬ。そのままで」

 蔡元峰はそう言って屋敷の裏門へ向かって行く。庭に出て建物の間の細い小道を行くと正面に少し小さな門があり、二人はその門をくぐって裏の路地に出た。

「おっ、やっと来たんか。ほな行こか」

 朱不尽は驚いて声の主を見ると、小さな老人がニコニコと笑って立っている。

「朱不尽殿、こちらをご存知かな? この方は丐幇かいほうの――」

「あっ!」

 朱不尽は思わず驚きの声を上げた。まさかこの場所に丐幇の幇主であった狗老人が居るなど思いも寄らない。丐幇とはこの国土一円に無数に居る乞食、物乞い達が作る組織で幇会の一つであるが、その組織の規模は他とは桁違いの勢力で、この幇会に属する人間を正確に把握することは不可能ではないかと思われる程国中に広がっている。全てが集まって何か事を起こすと言う事は無いが、単純に数を比べるならば此処の太乙北辰教と真武剣派という二大勢力を合わせても到底及ばない。その幇主とはこの国の乞食の元締め、盟主である。この狗不死は数年前にその座を後進に譲っている。尤も、丐幇には中心となる拠点がある訳ではなく、多くても年に一度、主だった者を集める大会を開く事はあるが、基本的に皆、国中に散らばっているので幇主であった狗不死も同じく放浪を続けており、今と全く変わらない。

「く、狗幇主様!」

「幇主ちゃうて。もうただの乞食爺やがな。ん? 幇主の時も乞食爺やったな。ハハ。あんたが朱不尽やな? 今回の件は難儀な事やなぁ」

「はぁ」

「朱不尽殿。実は偶然、狗殿に会ってな。なんでもそなたを追って来られたとか」

「……何故、私を?」

「まぁええがな。儂も行くさかいに一緒に方崖に行ったらええんやゆうてこいつに言うたんや」

 そう言って蔡元峰を指差す。

「私がそなただけ連れて殷総監の許へ行っても、その……うまく話せるかどうか分からぬのでな」

 朱不尽は意味が分からず眉を顰めて蔡元峰を見る。

「殷総監様は気難しい奴やからなぁ。儂なら気楽に喋れるしな」

「気難しくは無いでしょう? まあ、少々変わった感覚をお持ちだが……話の分かる方ですよ。だから范凱幇主も殷総監に話を持っていくように考えられたのだ」

 蔡元峰が狗不死の言葉にすぐに反論し、朱不尽に説明する。

「狗不死様。……今の私には何の力もありませぬ。お力添え感謝いたします。このご恩は――」

「何の力も添えてへんがな。ただ付いて行くだけや。ほれ、はよ行こ」

「では」

 蔡元峰が先に路地を北へ向かって歩き出す。次に朱不尽、そして狗不死が続いた。

 

 

 三十八

 

「しかし、何処からあの方崖へ上がるんです? 警備は相当厳しいのでは?」

「特別警戒が厳しい訳では無いが、まあ、殷総監の居られる場所は比較的手薄だ」

「あれが長いこと警備係させられとった位やしな」

「警備係?」

「殷汪より腕の立つ奴なんて方崖に居らへんしな。先代が自分の近くに住まわせたんがあいつの出世の始まりや。まぁあいつは出世とか興味無いけど生活が楽になるんやからこんなええ事無いわ」

「それでだ。忍び込むと先程言ったが、やはり此処は正面から参ろう。名を伏せるのはそなただけで良い。私は普段からよく殷総監の許へ参っておるし、狗不死殿も正面から行ってもらう。酒の一つでも下げて行けば良い。そなたが酒を下げて狗殿に付いて行くのだ。狗殿のご身分から考えればお付の者が居ったとて不審な事ではないし、狗殿は殷総監と古くからのご友人。その事は方崖に居る皆が知っておるゆえ心配無い。ただ、私が先に参る。その後暫くしてから来て欲しい」

「ほんなら儂等はその辺で一杯引っ掛けて行こか。そこで持って行く酒も買うたらええな」

「狗殿、それは結構ですが、少しばかり量は控えて下され」

 蔡元峰と狗不死は随分と落ち着いて余裕のある表情だが、朱不尽は流石に胸の鼓動が高鳴って仕方が無い。未だ何も知らないままなのだ。路地には明かりが少なく暫く暗い中を、必要は無いのだが若干息を潜めて歩いていた。

 屋敷の裏の路地から少し広い通りに出た所で蔡元峰は狗不死と二、三言葉を交わすと西へと向かい、狗不死は反対へ歩き始めた。

(狗老人は外部の人間だ。何処で俺の事を聞いてきたのか知らんが、これでようやく全てが分かるかもしれん)

 朱不尽は暗がりの中を狗不死に付いて歩いて行く。暫く行くとすぐに「酒」の看板が見つかり、二人は其処へ入った。

 

「あんたの部下は中々の忠義もんやなぁ」

「は?」

 店に入ってすぐの一番入り口に近い席に二人は座り、狗不死は酒を飲んでいたが朱不尽は口を付けるのを控えていた。

「あんたを追いかけて来た奴に付いて来たんや」

「……東淵からですか? 鏢局の者には緑恒へ引き上げるように言って来たのですが」

「さぁ? 来たのは二人やで。一人は范凱の息子らしいわ。もう一人も鏢局のモンやろ」

「范撞……今何処に居るのでしょう?」

「今日着いたばっかりや。流石に疲れて宿で寝てるんと違うか」

 朱不尽の胸中に不安がよぎる。范撞は一旦これと決めると猛進するという性分である。尤もその「決める」ところまで行くのに時間が掛かるのだが、この景北港まで本当に来たという事は、范撞は今その気になっているのだ。旨く立ち回ってくれれば良いが、昔から范撞を良く知っている朱不尽はどうしても安心出来ない。もう一人居るという事だが、いつも一緒に居る楊迅はまだ動けない筈。誰なのか全く分からなかった。

「狗幇……狗不死様、方崖から戻った後、その宿をお教え下さい。放っておくのはその……危険と申しますか……」

「ハハ、あの小僧は危険か。あいつら、あんたを探す言うてたさかい、合流すれば勝手な事はせんやろ。儂もあいつらに「連れて行け」言うて東淵から来たさかいな。付き合ったらなあかん」

 今夜は大人しく宿に居てくれる事を願うのみである。

「あんたもちょっと飲んだらどうや? 緊張か? 呼吸が浅なっとんで」

 そう言われて朱不尽は再び普段より胸の鼓動が高くなっている事に気付き、目を閉じて深呼吸をしてみる。しかし、そんなに簡単には治まりそうもない。

「教主様にも目通りなされるのですか?」

「まあ居ったらそうせな具合悪いわなぁ。けど今日は旨い事に出掛けとるらしい。お供引き連れて狩かなんかに出とるんやろ。西の方に教主の別荘みたいなモンが拵えてあんねん。明日戻るらしい。そやさかい蔡の奴、今日行こう言うたんちゃうか? 教主はともかく、一緒に居る張新いう奴がうるさい奴やねん。全く若造の癖に。あんたより若いで多分。いっつも教主の近くに居るもんやさかい自分も偉なったと勘違いしとんちゃうか。……って、儂の想像やで。今日はそいつも居らんわ。教主に遊び教えとるんはその張新やでなぁ」

 狗不死はそう言って顔を顰めながら不味そうに酒を舐めている。

 

 

 三十九

 

「狗不死様、そろそろ我々も向かったほうが良いのでは?」

「んん? もうかいな。あ、そや、酒買っといてえな。ようけは要らんで。入るときに見せるだけやでな」

「分かりました」

 朱不尽は立ち上がって店の奥に行き、持っていく酒を調達した。

 

 景北港の市街から北の方角に、方崖と呼ばれる切り立った断崖がある。景北港の西から北の方へ山々が街を取り囲むようにそびえており東の北江まで続いているが、街から見て丁度真北にあたる場所に四角く突き出ているのが方崖である。街を見下ろすその崖の上に、教主陶光の住まう紫微宮と呼ばれる宮殿が数百年の昔から建っている。宮殿と言っても方崖の上はそれほど広くは無い為、街にある大きな屋敷を幾つかそのまま移設した様な物で、特別な造りである訳でもない。

 方崖へ上がるには西に少し離れた場所に山へ入る道が作られていて、山の中を大きく迂回して登って行くとやがて紫微宮の背後に出る。無論、その道の入り口には門があり、常に数十名の人間が警備に当たっている。それに加え紫微宮に至るまでの道、その周辺の山林にも多くの人間が配置されていた。

 景北港に何度も来た事のある朱不尽であったが方崖に上がる用事など今まで一度も無かった為、そこへ上がる道が何処なのかも知らず、とにかく黙って狗不死に従って通りを歩いて行った。

 狗不死が門の前に立つと警備の責任者らしき男が慌てて飛び出してきた。

「狗不死様!」

 男が何を喋るのか朱不尽は興味があったが、男は狗不死の名を叫んだ後その場に跪いて黙っている。その名を聞いた周りの者達も慌てて最初に出てきた男の後方にまわり同じように跪いた。警備に就いている人間まで一目で狗不死と気付くという事は、余程この方崖には足を運んでいるのだろう。しかし、丐幇と北辰教がそれほど密接な関係であるとは朱不尽は聴いたことも無かった。

「やめてくれへんか。陶教主がこんなん見たら気ぃ悪するやろが」

「あーいや、教主様は出掛けて居られまして……」

 男は愛想笑いのような緩んだ表情を見せる。

「なんや、居らんのかいな。酒も持ってきたのになぁ」

「ご冗談を……教主様はまだ……」

「酒飲む歳ちゃうてか? そんなことないわ。まあそんならしゃあない、殷総監の顔見ていこか。居るんやろ?」

「はい。総監様は居られます」

「なら、失礼するで」

「あの、こちらの方は……?」

 男が狗不死に言いながらチラッと朱不尽を見る。

「これはうちで使うとる奴や」

 朱不尽は黙ったまま拱手して頭を下げた。

「ではお二人だけですか」

「そや。上がらせてもらうで」

「ハッ」

 跪いている男達の傍を二人は通り過ぎる。朱不尽を不審に思う人間は誰も居ない様である。山を上がっていく道中に居る男達も狗不死に気付くと深々と頭を下げ、通り過ぎていくまでじっと動かなかった。

「簡単やろ? 下手に違う所から忍び込んだりして見つかったらただでは済まんで。上にも守りの人間が仰山待機しとるさかいな」

「……」

 朱不尽が黙ったままなので振り返って朱不尽を見遣る。狗不死は一人頷いて、

「そやな。黙っとった方がええな」

そう言った後、紫微宮に着くまで口を閉じていた。

 

 方崖の頂上、紫微宮の入り口に来ると、狗不死と朱不尽が登ってくるのが見えていたのか、一人の男と侍女らしき女二人が既に待っていて狗不死の姿が見えると表に出て恭しくお辞儀をする。その後男が一歩進み出る。

「ようこそお出で下さいました」

「教主は出かけとる様やな。明日には戻るんか?」

「はい。そのご予定でございます」

「ほんなら、今日は殷総監とこ寄って、また明日にでも出直すわ」

「教主様がお戻りになられましたら、お伝えしておきます」

「まあ、特に用事も無いんやけどな」

「ハハ、教主様は狗不死様とお話されるのをいつも楽しみになさっておいでですよ」

「儂はいっつも阿呆な事ばかり言うとるさかいなぁ。ほんなら頼むわ」

 

 

 四十

 

 狗不死が殷汪の居る建物の方へ行こうとすると、それまで控えていた侍女二人が案内する為に早足で二人の先に立つ。

「ええて。まだ忘れるほど耄碌もうろくしてへん」

 狗不死はそう言って少し大袈裟に二人を振り払うような仕草をしたので、侍女達は慌てて脇へ退いて道を空けた。

 先程入った入り口から少し行った処で通路が分かれており、庭の中を曲がりくねって進む回廊が伸びている。狗不死がそちらに曲がっていくので朱不尽も黙って付いて行く。辺りを見回す余裕も無く、ただ緊張して床を見つめながら歩いていた。

「お、(せい)か。久しぶりやなあ」

 不意に狗不死が声を発したので朱不尽はハッとなって顔を上げた。長い回廊の先に白一色の衣装を纏った少女が立っている。色白で体つきは細く、風が吹けば飛んでしまいそうな程で、何かの病にでも掛かっているのだろうかと思わせる姿である。歳の頃は十代も半ば位だろうか。しかし、何処かとても幼い子供の様な雰囲気で朱不尽は奇妙な感覚を覚えた。その少女は狗不死を見て満面の笑みを浮かべて小走りで駆け寄って来たが、その途中で狗不死の後ろに朱不尽を見つけて即座に足を止めた。その表情は驚いているという訳でも無さそうだが何やら不安げで、両手を胸の前に置いて何かを握り締める様にしている。朱不尽はその手を見るが、何も持っている様には見えない。もぞもぞと手を揉むような仕草だ。

「ん? どないしてん? 何も心配することあらへんぞ?」

 狗不死が優しげな声を出すが、少女の目は朱不尽から一瞬たりとも離れない。狗不死は足を止めずに少女の居る前方に歩いていくので朱不尽も同じように付いて行くと、突然、少女は勢いよく身を翻して回廊の先に駆け出し、あっという間に姿を消してしまった。

「あの……あの方は?」

 朱不尽が狗不死に尋ねる。

「あれは、陶靜とうせいや。教主の妹やで。聞いたこと無いか?」

「あの娘が……」

 教主、陶光とうこうには妹が居り変わった娘らしい、というのは世間に知れ渡っている噂であるが、それ以上の事は何も知らなかった。

「あの娘はほんまええ子やで。ハハ、殷汪の処に逃げ込んだか。儂等も行くのになあ」

 狗不死は笑いながら先へ進んで行く。殷汪という名に再び朱不尽は鼓動を高鳴らせた。

 回廊の先には扉があり、その前で蔡元峰が待っていた。

「やっと来られたか。心配しましたぞ」

「まだそんな経ってへんやろが。総監は居るんか?」

「はい」

 蔡元峰が扉を開き、狗不死が中に入って行く。朱不尽が蔡元峰を見ると頷くだけで動かないので狗不死に続いて部屋へと入る。中は少しばかり薄暗く、僅かに香の匂いを感じる。背後で蔡元峰が扉を閉め、奥へと歩いて行く。

「こちらへ」

 奥の部屋へ入るとすぐ脇に一人の女が跪いており、朱不尽はその気配に気付かずに思わず体を引いた。侍女の様だがその身形は一介の召使いの物とは明らかに違い、煌びやかな装飾の施された衣装に高価そうな髪飾りが微かな光を放っている。三人がその前を通り過ぎると女は何も言わないまま立ち上がり、部屋を出て行った。

 

「総監様、狗不死様が参られました」

 蔡元峰が更に奥に向かって言うと物音が聞こえ、人の気配が近づいて来るのを朱不尽は感じた。

「爺さんの前で「総監様」とか言うな。この爺さん絶対腹の中で笑ってるに違いないからな」

 そう言いながら出てきた男を見た朱不尽は、驚きのあまり顔を強張らせた。

「腹ん中位好きなようにしたってええやろが。ほんまおもろいわ」

 上半身は裸で淡い青色の薄絹を引っ掛けただけのような格好、身の丈は朱不尽と変わらぬ程で、透けて見える上半身はよく鍛えられており引き締まっている。何より――若い。いや、若すぎる。年齢は傅千尽が言うには四十はとうに越え、五十に近づいていると言っていた筈だ。傅千尽らと咸水から出てきたのが二十年近く昔で、その咸水に居た時には妻と子があったと聞いている。にもかかわらず、朱不尽の目の前に立ったこの男はまるで青年――いや、中年に差し掛かっても若々しい者はいくらでも居る。目の前のこの男の若さはそんな程度では無い。ふと、楊迅のまだ少し幼い雰囲気を残した端整な顔を思い浮かべた。歳は殆ど同じと言われればきっと信じてしまうに違いない。

(人ならぬ妖人か……)

 男の表情は全く感情が見えず、訪れた三人の方へ微かな光を帯びた眼で視線を漂わせている。この景北港で聞くことはまず無いが、昨今世間で噂されている太乙北辰教の総監がこの男、人ならぬ妖人と呼ばれる殷汪である。

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