第七章 十一
周維らが次の街に入った頃にはもう辺りは暗くなっていた。厚い黒雲が一日中、空を覆っているせいで、時間の感覚が少しおかしくなっている。晴れた日であればまだ充分明るい筈だった。
一行はすぐに宿を見つけ、そこに泊まる事にする。ここから先は暫く荒れた土地が続いており、まともな宿は無い。先の安県の旧市街を越えた次の街までは殆ど廃墟と言って良い集落が点在するだけであり、先程の許たちとは違う本物の賊が跋扈するというこの街道で一番危険な場所となっていた。
「部屋を二つ空けてもらったから、俺達は荷と一緒に四人で休むよ。旦那と劉さん、それから求さんは隣で」
洪破人が宿の者と話をつけて戻って来て言った。
「今日はゆっくり休みましょう。明日から少しばかり強行軍となりますからねぇ」
「とりあえず飯だ。ちょっと酒も欲しいな」
洪破人以下、用心棒組四人は武慶で初めて劉建和と会った時の様に荷物を足元に置いて卓を囲んで座り、隣に周維らも腰を降ろす。すぐに給仕が食事の注文を取りにやって来た。
この先が危険なのは確かだったが、洪破人らはこの街道を何度も行き来しており、特別不安になったりはしない。しかしそれは単なる慣れでもない。この街道での旅というものを熟知しているからで、周維もそう頻繁に出歩く訳ではないが洪破人と他の三人には絶対の信頼を寄せているらしく、懸念を抱くという事は無い様である。
いつも通りに休み、そしてまたいつも通りに準備を整え、着実に目的地に近付いていく。
一方、北へ向かう三騎はまだ走り続けていた。三頭の引き締まった筋肉が拍子を揃えるが如く躍動している。皆同じ艶やかな栗色の毛並みを持ち、素人目にもかなり良い馬である事が分かる。しかしすでにかなりの距離を走り続けており呼吸がかなり荒くなってきていた。
「樊さん! そろそろ休まないか? 樊さん!」
先頭を行く樊樂に胡鉄が声を掛ける。何度か叫んだところでようやく樊樂が気付いて速度を落とした。
「んん? 俺は絶好調だぞ?」
「馬が潰れたらどうするんだ?」
「このくらい大丈夫だろうが。こいつならこのまま武慶まで突っ走れるぞ?」
「そんな馬鹿な! まだまだ先じゃないか。数日は掛かるよ!」
今度は劉子旦が叫ぶように言う。
「お前らそんなに休みたいのか? つっ……仕方ねぇなぁ」
樊樂はそう言いながら前を向く。とりあえず駆ける事は考え直した様だ。
「馬の扱いに気を付ける様にうるさく言われてるんだから。馬草まで指定してくるぐらいだ……」
胡鉄はうんざりした顔で言う。
「んん? 沙の爺さんか? 放っときゃいいんだよ。あの爺さんはこいつらを溺愛してるからな。可愛がりすぎると良くないに決まってる。馬も人もよ」
沙というのは稟施会で馬の世話をしている老人で、城南に限るが馬を育てる事にかけては最高の名人と呼ばれていた。胡鉄が馬を三頭借りに行くと、最高の奴を出してやると言って連れて来たのが、今、三人が乗っている馬だったが、沙老人はその扱いについて何とも細かな指示を出してきたのだ。沙老人の言う事は確かにおかしいところは無く、理に適っていると言えるものばかり。しかし、馬を使うのはいつもの厩舎ではなく旅先である。馬草をこのように配合しろなどと言われてもまず無理というものだ。無論、胡鉄は『分かった』と言って借り出したのであるが。
「こいつらはそんなヤワじゃない」
「樊さんはもう少し気を使っても良いくらいだ。可愛そうにならないかい?」
「何言ってる? 俺とこいつはもはや一心同体だ。その辺の加減はもう熟知してんだよ」
胡鉄と劉子旦は顔を見合わせる。
(この間初めて乗ったんじゃないか。やっと暴れなくなったとこだろ)
仕事熱心だ――と言えば聞こえは良いが、樊樂はとにかく胡鉄らを急かせる。本来、樊樂は落ち着いた性格などでは到底なく、何も無くても何故か動き回っていた。
そんな樊樂のおかげと言うべきか、胡鉄らが思っていたよりも数日早く武慶の街に到達した。しかし馬の方はたまったものではない。樊樂も流石にこれ以上は無理と思ったのか、武慶に入ってすぐ休息を自ら決める。まだ陽は充分に高かった。
「徐ってのはここの人間だったな? まさか戻って来てるなんて事はあるまいな?」
樊樂は辺りを見回しながら言う。三人は馬を降りて牽きながら通りを進んでいた。道中の雨が嘘のように、この武慶は晴れ渡っている。
「ここは真武剣があるから戻ってくるなんてありえないですよ。すぐにとっ捕まっちまう」
「ここでは色々聞いて廻るのは止めた方がいいでしょうね。俺達まで怪しまれる」
劉子旦が言うと樊樂は頷き、
「ああ。長居するつもりは無い。このまま呂州に行くぞ」
「……いつ出ます? 暫く馬を休ませないと。その辺の駄馬だったらまだ此処にも来れてませんよ。いや、それ以前に馬が逝っちまってる」
「あーもう分かってるって! 何処か厩舎があるだろうから探そう」
胡鉄と劉子旦は妙に馬に愛着を持っているらしく何度も何度も樊樂に馬を休ませるよう言い続けていた。それも偏に樊樂の扱いが荒すぎるからで、特に胡鉄は足を止めれば必ず馬の体を擦りながら優しく語り掛けるまでになったのだった。
「此処って特に何もねぇよなぁ? いつも通り過ぎるだけだ」
「真武剣が邪魔ですよね。この街は隅から隅まで奴等が関わってる。旨い商売ネタも無さそうだ。その何とかって言う秘伝書があったって事自体、驚きですよ」
樊樂らは馬を扱う店を見つけ、連れている三頭の面倒を見るように頼み込む。樊樂が少し多めの金を差し出すと店の主人は喜んで引き受けた。
その後、三人は近くにあった小さな飯屋に入った。客は少なく、樊樂は給仕の男に話し掛けて徐という男について訊いてみた。今この街一番の有名人だ、と給仕の男は言い、かつてねぐらにしていたという場所を教えてくれた。
「飯はまぁまぁだな。しっかしこの酒……」
樊樂は声を落として言う。
「此処で作ってる酒だよな? 一体、どうやったらこの味になるんだ?」
顔を顰めながらまた一口啜る。
「無理に飲まなくたっていいじゃないですか。この街の酒は大昔からこういうもんだと有名ですよ」
胡鉄と劉子旦も一応飲んではいるが、明らかに普段より遠慮がちに口を付けている。
「この武慶の人間ですら眉を顰めずには居られないという訳の分からない代物ですからね。まぁ、名物と言えば名物……ですよ」
劉子旦はそう言いながらどうにか杯を干した。
「とりあえず腹は膨れた。出るか。宿も探さにゃならんしな。あと、徐の居た処にも行ってみよう。ん? たしかさっきそこも宿だって言ってたな? そこにするか?」
「まともな所なら良いんですがね」
樊樂らは店を出ると、先程聞いた『環龍』という宿に向かった。そこは比較的大きな通りに面した所にある宿で、容易く見つけることが出来た。汚れた額が入り口の上に掛かっており、『環龍客桟』の文字がなんとか読み取れる。
中に入ると女が三人、揃ってぼんやりした表情で樊樂に視線を向けた。
「あら、お客さんかい? 嬉しいねぇ」
口を開いたのは三人の中で一番歳を喰ってそうで一番化粧の濃い女だった。他の二人はかなり若そうだ。
「あらあら、三人も? ああ、大丈夫さ。ちゃんともう一人、この娘達みたいな若いのをすぐ用意するからねぇ」
女の喋り方は随分間延びしており、体がゆらゆらと小さく揺れている。横の若い娘二人も眠そうな目をこちらに向けていた。