第七章 八
樊樂は更に顔を顰める。
「やりにくいな……。真武剣は秘伝書も手に入れたがってるんだよな?」
周維はその言葉を聞くと、フッと鼻から息を洩らして嘲笑する。
「彼等は何としても手に入れなければならないんですよ。そうでなければ真武剣の面目は丸潰れとなる」
樊樂が首を傾げるが、周維はそれ以上説明しようとはしない。真武剣派が躍起になっているという事が分かれば良かった。
「俺達も秘伝書を手に入れたがってると知ったら面倒な事になるんだな」
「そうですねぇ。ましてや稟施会の者だなんて知れたら向こうも黙っては居ないでしょう。何処に持っていって売り捌くか、知れたものではない。ハハ」
「樊」
周維が笑っている隙に洪破人がすかさず口を開いた。
「秘伝書はどうでもいい訳じゃない。それも劉さんの物なんだ」
「……なるほどな。旦那、多分まだ武慶よりこっちではその話は出てない。ここに来るまで一応、蘇を追うのに色々当たってみたが、そういった話をする奴は居なかったからな。秘伝書なんてもんの噂が流れてりゃあすぐに聞こえてくる筈だ」
樊樂はほんの少し、劉建和を見ただけだった。
「ええ。しかし秘伝書の話が出るのは徐が秘伝書を処分しようとしたその後ですよ。それまでは隠し続けるでしょうし、今の段階では『子供を二人連れた不審な集団』を探す以外にありません。或いは『連れていた』――」
劉建和は周維の言葉を聞いて俯く。
(子供を『連れていた』集団は、その子供をどうしたのか? ただ逃がしたりはしないだろう。息子は、馳方達は逃げ出すという事があるだろうか?)
劉建和は首を振る。
(あれにそんな事が出来る筈が無い……。真武剣派の娘も今から弟子入りしようかというまだ幼い子だ。徐からは、逃れられない……)
「範囲は? どこまで拡げる?」
「そうですね。とりあえず――」
劉建和は周維と樊樂らが話す声が徐々に遠くなっていく様に感じた。一番の当事者である自分には何の術も無く、ただ呆然と立ち尽くす様な感覚。周維が居なければ、今頃自分はまだ武慶で屋敷に籠もっていただろう。憮然としたまま成り行きを見ているだけか、或いは真武剣派の人間を見る度に全ての責任を彼等に押し付け、憤慨しだすか。
周維は何故自分を助けようとしているのかという疑問が浮かんでくる。いや、助けようとしている訳ではないのかも知れない。周維は、というより稟施会が、秘伝書に興味を持ったのかとも考えた。あの倚天剣を法外な値段で容易く買い付ける程だ。秘伝書が本物なら『それも欲しくなった』と言い出しても不思議は無い。
(くれてやればいい)
劉建和はそう思っている。何せ自分は一度もその秘伝書とやらを見ていない。父、劉建碩が持っている間もその存在を全く知らなかったのだ。最初から無かったも同じである。金に換えるのも難儀な代物だ。秘伝書などどうなったって構わない。
しかしながら、『最初から無かった』物の為に息子がさらわれるなどという事に納得できる筈も無く、劉建和は頭を抱えてしまう。
「あんた、東涼と関係が?」
求持星の声が聞こえた。劉建和はゆっくりと顔を上げ、そちらを見る。
「いや、全く。何の秘伝だと聞かれても、全く分からない。見た事もないんだから」
劉建和は力なく微かに笑う。求持星はその様子をじっと見つめ、やがて口を開く。
「東涼黄龍門の武芸を調べている人が居てな。そのものを直接調べている訳じゃ無くて洪淑華の縁者についてなんだが、今も居るかも知れないって話だ」
劉建和は首を傾げる。
(縁者? 既に無い東涼黄龍門に繋がる人間が今も? 親父はそこから……秘伝書を手に入れたのだろうか……?)
「縁者とは?」
樊樂と話していた周維の耳は求持星の言葉もしっかり聞いていたのだろう。すぐに周維は反応した。
「さぁ? 俺は知らない」
求持星はそう言っただけで目を伏せる。
「調べているのは北辰の人ですね。あなたの上役か何か……」
周維は求持星から目を離さない。反応を窺う様にじっと見ていると、求持星も再び顔を上げて見返した。
「あんたは何でも知っている様だな。俺が何か言う必要はあるまい」
若干吐き捨てる様に言う。はっきり言わずに『知っているんですよ』という様な事をほのめかす周維の態度には、確かに誰でも不愉快になるだろう。
周維は真顔で言う。
「求さん。あなたには今後を決めて頂かなければならないのですよ。この後、あなたはどうしますか? 倚天を手に入れろと命じた誰かの許に帰りますか?」
「俺は命じられてなどいない」
求持星は周維を睨んでいる。しかし周維はにやっと笑うだけだ。
「倚天の在りかを探れという事でしたかな? 或いは……行き着く先を……? 求さん。どうか全てを教えてもらえませんか? そのかわりに……」
「……かわり?」
「あなたの知っている事を私に教えて頂けたなら、城南へあなたをお連れしましょう」
「フン、城南はそんなに良い所なのか?」
求持星には周維の言葉の意味が分からない。『自分達に襲い掛かったお前を生かしておいてやる』というだけならば大した価値は無い、と求持星は考えている。
(殺してもらって構わない――)
そう、心に呟く。
他の者達にも何の話をしているのか分からない。周維は突然現れた求持星の事を良く知っている様な口振りだが、普通に考えてそんな事は在り得ないと思われる。剣を持って自分達を狙った求持星を見て懐かしげに声を掛けるという事も無かった。北辰がどうのと最初に言い出したのは求持星だが、それは倚天剣を狙う理由として挙げた出鱈目だと誰もが感じた。それ以外には彼自身の事を知り得るような話はまだしていない。
ただ、洪破人や樊樂らの稟施会の者達は黙って周維が話すのを待っている。周維は他の者には全く知り得ない事柄について信じられない程詳しかったりする事が往々にしてあるからだ。
「求さん。もしあなたがまた元の場所に戻ったとしてそこがあなたにとって良い場所でないのなら、そんな所は放っておけば良いのです。私に何が分かるのかと問われる前に言っておきましょうか。あなたは九宝寨の求持星、そうですね?」
うっ、と呻く様な声が聞こえた様に思えた。一瞬、求持星は身じろぎをしたのだ。その場の全員が求持星を注視している。
「更に言いますと、私は稟施会の周維ですよ? あなたも聞いた事があったのではないですか? 『御山』を知っています。中々の太い繋がりが、ねぇ」
「何だ? それは」
質問を挟んだのは樊樂だった。
「ハハ、私の秘密です。皆には内緒の話ですよ。しかし求さんはご存知な筈だ。どうですか、求さん?」
「……俺如きが知らされる様な話じゃない」
求持星は床を見つめ、膝の上に乗せた拳を握り締めている。周維はそれを見て再び笑った。