第七章 五
殺は何も答えない。その時、街道の先から新たに二騎、樊の馬と同じ飾りを付けた馬が駆けて来た。
「おや、……皆揃って、城南でも何かあったんですかねぇ?」
周維はそちらに目を移して言う。殺も振り返って眺めると持っていた剣をその場に落とした。
「……降参だ。好きにしろ」
「行って構わないんだけどな。追う程暇じゃないんだ。この後もあんたがまだうちの荷を狙うってんなら話は別だが……」
洪も剣を腰の鞘に戻す。殺は初めて口尻を僅かに上げ、微かに笑う。
「諦める。あの剣を俺が手に入れるなど、元々在り得ない話だった……」
「手に入れたとしても、方崖には持って行かなかったのではないですか? あなたは中々の剣の腕をお持ちですが、もっとあなたの事が知りたいですねぇ。興味が沸いてきましたよ。『好きにしろ』と仰ったのだから、言う事を聞いて貰いましょうか。雨に打たれ続けて体が冷えてきました。この先で休む事にしましたから、あなたも付き合って下さい。いいですね?」
周維が殺にそう言うと、洪と石が顔を見合わせて肩を竦める。『旦那』の興味はいつでも何処でも、対象が何であっても不意に湧き出すのだ。殺は折角、諦めると言ったのに再びその気になってしまうかも知れない。しかし、洪も石も、他の誰も周維に異を唱えた経験が無かった。
殺も目を見開いて周維を見つめたが、何も言わず小さく頷いた。
「おお? 旦那?」
駆けて来た二騎が周維を見つけて足を止め、馬上の男は揃って樊と同じ反応を見せる。
「三人で来たのですか?」
周維が二人を見上げて訊く。
「はい。旦那、実は……」
「あなた方の話も、屋根のある所で聞かせて貰いますよ。洪さん、行きましょうか。殺さん、……本当の名は何ですか? まさか本当に殺という訳ではないのでしょう? 教えて下さい」
殺の返事は皆が思うよりも速かった。
「俺は求、求持星だ。別にもう殺で良いんだけどな」
「では求さん。私の後ろに乗って下さい。この馬に」
「おいおい、旦那、それは――」
洪が慌てて周維を遮る。この求持星という男は今しがた自分達を襲った賊なのだ。周維のこの感覚は流石に洪も理解出来ない。そして求持星も洪と同じ気持ちだった。
「あんたが来いと言うなら、大人しく付いて行く。本当だ。だが馬は遠慮したい」
周維は求持星をじっと見つめてから、
「私は、あなたを疑ったり恐れたりしませんよ。では、付いてきて下さい」
一行は皆それぞれ自分の馬に乗り、洪と周維が先頭に立つ。荷がそれに続き、その後ろに今しがた合流した樊と後の二人が付く。
石が黙って馬上から求持星を見降ろしている。暫く見合ってから求持星が歩き出すと、石がその後ろに付いた。
暫く行って小さい川に掛かった古びた橋を渡ると、その先に民家が点在していた。どこもしっかり戸が閉まっていて人の姿は見えない。更に先へ進むと街道に面した場所に古い廟の様な建物があり、旅人らしき者が十数人くらいだろうか、壊れかけた軒の下で雨宿りをしている。
「ひどい雨ですなぁ。当分止みそうにない。どこから来なすった?」
「とりあえず休息です。武慶からですが出てすぐにこの雨ですから。もう何日になるか……」
周維は話しかけてきた老人に答えながら馬を降り、被っていた笠を取って雫を払う。随分長い間雨に打たれていたのでその内側まで濡れていた。
他の者達も続いて馬を降りるが廟の外に雨が避けられる場所はそれほど無く、馬には引き続き濡れていて貰わねばならなかった。馬から荷を降ろして並べ、洪が中身を確認している。
「一度全部出して乾かしたいが、当分先になるなぁ。旦那、とりあえず中に入るかい? 腰を下ろすくらいは出来るぜ?」
「そうですね。少し休みましょう」
「中はもう結構人が居ますよ。皆入れるかな? でかい荷物ですなぁ」
先程の老人が言う。横には一組の夫婦と、じゃれ合う幼い子供が二人。時折、老人の足に絡み付いているが、孫なのだろうか。一家で何処かへ向かうのだろう。老人達もそれなりの荷物を大事そうに抱えていた。
「旦那、大丈夫そうだ。入ろう」
先に中を見てきた樊が周維に言い、洪らが四つの荷を中へ運んでいく。
「求さんも、どうぞ中へ」
周維が求に手招きをして微笑む。求は黙って従うがやはり戸惑いを隠せない。これから自分をどう扱うつもりなのか? 剣を抜いたのだ。洪という男が剣など全く扱えない素人であったなら恐らく――切っていただろう。何事も無かったかのように自分に接する周維と、それに文句も言わず従う、僅かな時間ではあったが剣を交えた洪。警戒らしき事をしているのは後ろにいる石とかいう者だけに見えた。ただ見ているだけではあるが。
その石は、求持星が僅かに足を止めている間にその脇を抜けてさっさと先に廟の中へと進んで行った。
この廟の様に雨を避けて旅人が集まる事の出来る場所はこの周辺には殆ど無く、此処には多くの者達が押しかけて来ている。それぞれ車座になって話す声がそれほど広くは無い廟の内部で響き、騒がしかった。
片隅に四つの大きな包みを寄せ、その周りを囲むように周維達も腰を下ろす。周りの先客達は少しだけこちらに視線を向けたが、特に気に留める風でもなくまた自分達の話に戻った。
此処には何も無かった。何かを祀る廟であったのは確かな様で正面には祭壇らしき物があるが、肝心の神像なり何なりの対象物が見当たらない。何かがあったであろう場所がぽっかりと空き、かなり以前からこの廟は主の居ない空き家であった様だ。
「ここは、俺の聞いた話では黄龍門の開祖……梅……、なんとかって人が祀られていたらしいんだ」
洪が皆に向かって説明する。
「梅慈心……か」
劉建和が言うと、
「おう、それそれ。……『それ』って言うのは流石に不遜だな。その梅ご先輩だ」
「面白いですねぇ。梅磁心という方は元々出家の身。それが滅後に祀られる事になるなど、ご本人が知ったらどう言うでしょうね」
周維は穏やかな笑みを絶やさず、言いながら皆を見回して反応を確かめるかの様だ。
「ここはもうかなり古いだろう? 人物を祀っていたなら像があった筈だが朽ちたとかそういう感じでも無さそうだ。持って行かれたか」
劉建和が廟の奥や天井に目を遣りながら言う。
「そうですねぇ。出来が良ければ売れますね。この近辺では無理ですが。此処はもう安県に近いし梅磁心は信仰の対象になるほどです。その像の出処等にも目が行きますから捌き難いでしょう。劉さんなら、どうします? かなりの値打ち物だったとして」
「俺なら……触らないな。盗み出して売るという事自体、まぁ俺には縁の無い話だ。一応表向きは道義上……そういう事にしておくが、正直、そんな大掛かりで危険な商いは俺如きには無理だよ。……稟施会ならすぐに捌けるかい? 国外に売るか?」
「おいおい、人聞きの悪い事を言わんでくれよ。稟施会だってそんな事しやしねぇよ」
劉建和の言葉に樊が口を尖らせて答える。
「ハハ、そういう事になってますねぇ。手に入れる方法はともかく、その後なら色々方法はありますね」