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流浪一天  作者: Lotus
第三章
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第三章 一

 

 一

 

 古びた小さな建物の隅、年季の入ったけやきの椅子に、梁媛りょうえんは一人静かに座っていた。開け放たれた窓の外には特に見るものも無く、少し離れて在る山の緑が時折ざわざわと音を立てる。この東淵の街に来てからというもの、何もすることが無かった。時折、洪破天こうはてんが表に連れ出すことはあったが特に目的も無く、ただ辺りを散歩して帰るだけだ。この日、洪破天は梁媛に家に居るように命じ、一人何処かへ出掛けて行った。何度この小さな家の中を歩き回っただろう。特に目を引く物も無く、何度も同じ椅子に座りなおした。かなり粗末な家で、初めて来た時には少し驚いたが、何故か食べる物は豊富にあった。ほぼ毎日、誰かがやって来て食べ物を置いて行くのだ。しかもそれは野菜等の材料ではなく、出来上がっている手の込んだ料理なのだ。一体どういうことなのか梁媛は不思議に思ったが、何故なのかを洪破天に聞くことは出来なかった。

 梁媛は懐から紫の手巾を取り出し、丁寧に広げていく。その手巾には一対の耳飾が包まれていた。緑色で少し大きめの環が付いている。古い物で細かな傷が無数に付いてくすんでいるが、硬玉で出来ているらしく、非常に高価な物だと洪破天は言った。梁媛は緑のその肌を撫でながら、ここへ来るまでの道中の事を思い返していた。

 

 都から街道へ出た洪破天と夏天佑かてんゆう、そして梁媛の三人は、特に急ぐ事も無く真っ直ぐ東へ向かった。道中、洪破天と夏天佑の二人が交わす会話を、梁媛は殆ど何の話なのか分からなかったが黙って聞いていた。この国の政から通り過ぎていく風物まで、二人の会話は尽きる事無く続く。しかしその殆どが洪破天から切り出していた。

「媛、大丈夫か?」

 時折、夏天佑が梁媛に声を掛ける。

「はい」

「慣れんと尻が腫れるからな」

 夏天佑が笑うと梁媛は頬を染めて俯いてしまう。三人が出会ってもう半月近くになろうとしていたが、今になってまるで人見知りする子供のように夏天佑を気にし始めていた。洪破天と夏天佑の付き合いは二十年近くになるという話は聞いていたが、この二人、どうみても親子以上の年齢差があるように見える。夏天佑は自分の年齢の事を一度も口にしていない。見た感じでは大きく見積もっても三十には届かないだろう。洪破天の方は梁媛にとって祖父と言ってもおかしくはない。しかし夏天佑を父と呼ぶには若く、兄と呼ぶには大きい。それほど口数は多くないが、梁媛には夏天佑の自分に対する振る舞いがとても優しく、そしてとても心地よい柔らかなものに感じられて、その度に不思議な鼓動が胸に響くのだ。

 東淵とうえんまでの行程が半ばまで差し掛かった頃には天候も次第に悪くなっていき、激しい雷雨の中、小さな宿に入った。

「さあ、酒じゃ。ずっとこの天候では気が滅入ってしまうわ」

「昼も飲んでたろう?」

「舐めておっただけじゃ」

「媛、お前も着替えろ。風邪をひくぞ。荷物は持ってきたな?」

「……はい、ここに」

 部屋まで運んできた行李には、まだ一度も袖を通していない買って貰ったばかりの服が入っていた。弟、梁発りょうはつの遺骨を濡らすまいと気を取られていて行李の方は少し雨に打たれていたかもしれない。

わし等が居っては着替えられんわい。さっさと出て酒を飲もう。媛児、着替えたら来い。腹が減ったろう」

 洪破天は手拭で軽く着物を拭いて部屋を出て行く。夏天佑も梁媛に頷いて見せてから続いて出て行った。梁媛は入り口の扉を少し開けて、二人が広間の席に着くのを確認してから新しい服に着替えた。

 

「そういえばおぬし、急用がどうのと言っておったな。何かあったか? 随分ゆっくりとここまで来てしまったが」

 洪破天が訊く。

「まあちょっとな。大急ぎで戻らねばならんということも無い」

「東淵を回って行くことは出来んか」

「無理だな」

方崖ほうがいに行ってからもう永いのう。十年は経っておるな」

「……」

「たまには、東淵にも顔を出さんか」

「ああ」

 暫くして梁媛が二人の許へ来て席に着く。

王喜勝おうきしょうとやらの見立ては、中々のもんじゃのう」

 洪破天は梁媛の新しい装いを見て微笑んだ。

 

 

 二

 

 翌朝には雷も治まり雨は少し弱まったものの、当分止みそうに無かった。洪破天らが言うには東淵に着くまでずっと続くだろうという事だった。夏天佑は突然、信じられない程に驚く事を言った。

 

「ここでお別れだ」

 梁媛は言葉を失ってしまった。洪破天は外の雨を眺めながら溜息をつき、暫く沈黙が続く。夏天佑も雨を眺めた。

「……あの、何処へ?」

 梁媛はか細い声で夏天佑に尋ねる。

「俺も家に帰るんだ」

「フッ、家か」

 洪破天が外を見ながらポツリと言った。

「俺は東淵の人間では無いのでな。もっと北だ。ねぐらに帰るのさ」

 そう言って夏天佑は微かに笑う。梁媛はこのまま三人で東淵という街まで行くものと思い込んでいて、それだけに衝撃が大きかった。梁媛は夏天佑にずっと傍に居て欲しいと思った。しかしとてもそれを口には出来ない。悲しみが襲い、項垂うなだれた。

「方崖……景北港けいほくこうという街じゃ。東淵からはさほど遠くはない。気軽に行ける距離でもないが……。まあ都と東淵に比べれば遥かに近いからのう。また会えるぞ」

 梁媛の悲しげな表情をみた洪破天は声を掛ける。夏天佑は黙ったまま表に出て行った。思わず梁媛は立ち上がり、入り口から夏天佑を探す。

「馬を見に行ったのじゃろう。あいつの荷はまだ部屋じゃ」

「……何故ここで?」

「この先で街道は分かれておる。真っ直ぐ行けば東淵じゃ。北へ向かえば景北港へ行ける。東淵からも行けるが、遠回りになるからのう」

「濡れるのはどうしようもないな。そっちもそれなりの格好をしておいた方がいいぞ」

 夏天佑が戻ってきてそう言いながら部屋に向かう。梁媛は何も言えずにじっと夏天佑の挙動を観察するかのように目で追った。しかし夏天佑の方はその視線を気に留める様子は無い。すぐに部屋から出てきて洪破天と話している。

「覚悟を決めて出ないと、雨季が明けるまでここに居る事になるぞ」

「分かっておる。ま、儂等はぼちぼち行くからのう」

「あの」

 梁媛は二人の傍に駆け寄り、夏天佑の顔を見た。

「あ、ありがとうございました」

「ん?」

「あの、色々と……」

「俺は何もしておらん。爺さんと東淵で達者に暮らせ。あそこは良い所だ」

「おい」

 洪破天が夏天佑を見て顔を顰める。夏天佑は屈んで梁媛の顔を見つめた。

「無事で居ればこの先何度でも会えるだろう。……これを持っていけ。餞別だ」

 夏天佑は懐から紫色の手巾を取り出した。広げると緑の輪っかが二つ、鈍い光を放っている。

「おい、それは……」

 洪破天が驚いて身を乗り出したが、夏天佑は無視している。

「古ぼけてはいるが、これでも中々の品なんだぞ。耳飾りだ。まだしっかりしてるからな、磨きなおせば元の輝きを取り戻せる筈だ」

 再び丁寧に手巾に包むと、梁媛の手を取って持たせる。

「今着けるには大きすぎるが、もっと背が伸びたらきっと良く似合うだろう。楽しみだな」

 夏天佑はそっと手を伸ばして梁媛の耳を軽くつまんだ。梁媛は右手で手巾を胸に掻き抱き、左手を耳元にある夏天佑の手に添え、俯いたまま嗚咽する。

 暫くそうした後、夏天佑はそっと梁媛の頬を撫でてから立ち上がった。

「じゃあそろそろ俺は行く。気を付けてな。暇が出来たら顔を出すことにしよう」

「そうじゃな……そうしてくれ」

 夏天佑が表に向かって歩き出しても、梁媛は顔を上げることが出来なかった。

 

 

 三

 

 梁媛は椅子から立ち上がり、くすんだ耳飾りを外から差し込む光にかざしてみた。細かい傷に乱反射する細かい緑の光を、とても美しいと思う。磨かれた本来の姿がどんなものなのかは知らないが、夏天佑が自分に見せた時と同じ、このままがいいと思っていた。

「媛、媛児や」

 洪破天の声がする。梁媛はまた椅子に座って膝の上で丁寧に二つの玉環を包んでいると、洪破天が部屋に入ってきた。

「昨日行った紅門飯店こうもんはんてんへ行かぬか」

「はい。……でもまたお酒を?」

「あー、いや、そうでは無い」

 辺りに視線を泳がせながら言葉を捜している。

「媛児よ、聞いてくれ」

 洪破天は近くにあった埃を被った木箱を引き寄せて腰を下ろした。

「紅門飯店で話しておった男は傅千尽ふせんじんと言ってな。あれも古くからの付き合いじゃ。歳は離れて居るが、まあ義兄弟というか……でな、紅門飯店の主じゃ。千尽の家族も、店の者も皆身内の様なものじゃ。お前もこれから家族の一員となる。あ、いや、堅苦しい付き合いでは無い。それでじゃ……」

 しきりに頭に手をやり、どうも話すのに苦労している様だ。

「お前はまだまだ若いからのう、本来ならばこれから色々な事を学んで……それだけではないな。こう、遊んだりじゃ。しかし、いつも儂とここに居るだけでは、お前の為にならんと思う。儂は教えるものなど何も無いしのう。千尽がお前を連れて来いと……いや、何と言うか……とりあえずじゃ、この先ここに閉じこもって居っても仕方ない。お前も楽しくないじゃろう? あの店に居れば、儂もいつも行っておるし、さっきも言ったが皆身内の様なもの。安心じゃ……」

 とりあえず洪破天の話はひと段落した様で、じっと梁媛を見ている。

「……そうですね。私も働かなければいけないと思っていたんです。あのお店は大きくて、置いてもらえそうですね」

「働けというのではない。そうではないぞ」

 洪破天は慌てている。

「まあ、お前が働きたいと言うのであれば、それは……それで良いのだが。まだそこまで考えずともよい。お前が此処に来てからまだ皆に引き合わせておらんしのう。おう、そうじゃ。傅千尽には娘がおってな。一番下の娘はお前と歳も近い。儂も孫のように接しておるし、友達に……いや、姉妹じゃな。姉妹じゃ。……媛児、新しい家族に会いに行かぬか?」

 梁媛は少し不安を感じた。まだ殆ど知らない場所で多くの知らない人に会わなければならない。ふと紅門飯店の前の木の上で出会った少女の事を思い出した。気が動転していてあまり覚えていなかったが、確か「ここの娘」と言っていた。きっと紅門飯店の事だ。その事を考えると少しだけ、不安が増した。

「媛?」

「……わかりました。私、行きます」

 梁媛はその不安を顔に出す事無くしっかりと洪破天を見て、まるで意を決するかの様にはっきりと答えたので洪破天はまた慌てた。

「遊びに行くだけじゃぞ。遊びに行くだけじゃ」

 

「洪兄さん、上に行ってくれる? 今日も下は満席よ。あ、ちょっと」

 洪破天と梁媛が紅門飯店に入ると、すぐに傅英ふえいが二人を見つけた。酒壷をいくつも抱えながら手招きしている。

「今ね、嫂さんが来てるのよ。兄さんと朱蓮しゅれんも居るんだけどね。嫂さん、今兄さんと喧嘩しててね」

「何? どうしたんじゃ?」

紅葵こうきの事よ。兄さん、紅葵を出す事を嫂さんに言わずに決めたのよ。それでね」

「何故話さんかったんじゃ。そのような大事を……」

「まあとにかく上で聞いてくれる? 私も後で行くわ」

 傅英は梁媛を見て微笑む。

「梁媛ね? 私は傅英よ。また後でゆっくり話しましょ」

 優しくそう言うと奥の厨房に小走りで入っていった。一階の広間は相変わらず大勢の酔客で溢れている。店の者は皆休む間も無く動き回っていた。

「洪破天様。旦那様は上の左手奥の部屋に居られます」

 二階に上がると此処も殆ど空席は見当たらなかった。今度は店の用心棒の超靖ちょうせいが二人を見つけ、声を掛ける。更に上の階に上がっていく洪破天と梁媛を二階の客達が何やら話しながら見ていた。

 

「洪破天様が参られました」

「おう、洪兄、入ってくれ」

 三階に上がればすぐに侍女が出てきて洪破天らを傅千尽の居る部屋へ案内した。

「洪兄さん、随分久しぶりね。一体何処に行ってたのかしら?」

 部屋に入るとまず口を開いたのは傅婦人、王梨おうり。王梨は傅千尽が東淵に来てから出会った再婚相手で、朱蓮の義理の母、紫蘭しらんの実母である。元々細身の女性だったが、少し見ないうちに更に痩せたように見えた。しかしその身から感じられる気品は変わってはいない。

 

 

 四

 

「ほんの二、三ヶ月見ておらんだけではないか。そなたは……元気か?」

「そうね。少し病んでいるかもしれないわ」

「おい、やめろ!」

 傅千尽が王梨に向かって声を荒げて顔を顰めている。

「耳は悪くなってはいないのよ。良く聞こえます。大きな声を出さずとも」

 王梨は冷やかに言うと顔を背けたがすぐに梁媛の方に視線を向ける。

「可愛らしいお嬢さんね。洪兄さん、色々聞かなくちゃ何が何だかわからないわ」

「ああ、これは梁媛。……出先でまあ偶然と言うか、知り合ってのう。この娘には身寄りが無い。儂も同じじゃからな。連れて帰って来たわけじゃ」

「洪小父様にとって私達は身寄りじゃなくなったのかしら?」

「朱蓮何を言う。あー、媛児よ。紹介しよう」

 洪破天は慌てて言葉を濁して梁媛を前に来るよう促した。三人を簡単に紹介すると、梁媛はその場に深々と頭を下げた。

「梁媛と申します。あ、あの、何でもお申し付け下さい」

「お、お前何を言っておるのだ」

 梁媛は恐縮しきっているのか、頭を下げたまま動かない。洪破天が肩を抱き顔を覗き込むと、梁媛は顔を紅潮させて目を閉じていた。

「媛……」

「媛。あなたは今日から私達の家族になるの。私の妹。そうね、何か手伝って欲しい時には頼み事するかもしれないけど、使用人になる訳じゃないのよ?」

 傅朱蓮が梁媛の腕を取って微笑みかける。

「まだこの街に来て間もないでしょう? 一緒に外へ行かない? 小父様、いいわよね?」

「ああ、勿論じゃ」

「さあ、行きましょ」

 傅朱蓮は梁媛を連れて部屋を出て行った。

 その後、部屋に残った三人は暫く黙ったままだった。王梨が口を開く。

「洪兄さん、あの娘をここに連れてくるのは止めた方がいいんじゃないかしら」

「何を言う。洪兄があの娘を孫にするなら、儂等にとっても家族、娘も同然だ。家族は皆一緒に居るのが良い」

 傅千尽がすぐに反論する。

「紅葵は居なくなったわ。朱蓮も時々帰って来るだけ。私もあの屋敷に戻る気にはなれないわ。一緒になんて居ないじゃないの」

「紅葵も朱蓮ももうとっくに嫁に行く歳だ。仕方の無いことではないか」

「そうね。紅葵は贅沢な暮らしが出来るんだから。朱蓮は少し心配だけれど、ここに閉じこもっていないだけマシね」

 王梨の言葉は十分に含みが込められている。

「いい加減にしろ!」

 傅千尽は怒声を放って立ち上がる。

「待て待て。落ち着かんか」

 洪破天が二人の間に割って入った。

「儂はただ……梁媛を紹介したかっただけじゃ。あの子は此処へ来てからずっと儂と二人きり。皆に親しく接してやってもらえればと……」

「洪兄、分かっておる。あの子は儂の娘だ。何も心配はいらん」

「洪兄さん、目を離しては駄目よ。何年後か、突然他所へ遣られるかも知れないわ」

「な、何だと!」

 王梨の冷やかな言葉に傅千尽は両眼を血走らせ、怒りの余り顔を戦慄かせている。

「やめろ! 梨妹もじゃ。全くおぬしら如何したんじゃ」

 その時、部屋の扉が少し開いた。

「あ、あのう、旦那様」

「何じゃ!」

「そ、そろそろお時間で……」

 男が傅千尽を呼びに来たのだが、覗いた顔が一喝されて顔半分引っ込んだ。

「お忙しい事」

 傅千尽はもう一度王梨を睨んだが、袖を大袈裟に翻して入り口に向かう。

「洪兄、すぐ戻るからな」

 そう言い残して部屋を出て行った。

「洪兄さん、お座りになって。ちゃんとお酒もあるから」

 洪破天は部屋に入ってからずっと立っている。溜息をついて近くの椅子に腰を下ろした。

 

 

 五

 

「梨妹、屋敷には戻らんと言うが、紫蘭が居るではないか。放っておく訳にはいかんじゃろうが」

 王梨は小さく首を振った。

「あの子は父親が大好きだから。それに私のする事には全く興味無いようだし。いずれ朱蓮のように家を出るんじゃないかしらね」

「あれは出て行ったといっても方々を見て回っておるだけじゃろう?現に今も帰って居るではないか」

「そうね。あの子はいいのよ。昔は剣に夢中になったりしてどうなる事かと心配したけれど、運が良かったのかしら。……強い子よ。紫蘭の方はどうなることやら」

「そなたは母親じゃ。母親が家を出るなど……」

「紫蘭だってもう少しすれば嫁に出してもおかしくない歳になるわ。まだまだ子供だけれど」

「何じゃ、千尽と同じ事を言うておるわ」

「……紅葵が、私の全てを受け継いでくれると思っていたの」

 王梨は下を向いて声を落とした。

「私は紅葵を妓女にしたかった訳では無いわ。でも、あの子に教えた舞も、音律も、化粧の仕方に至るまで全て、私が持っていた、ただ一つの生きる為の「技」だった。……でも、普通の人には関係ない物よね。紅葵は才能に溢れていた……私が、彼女をこんな目に……」

 細い手で口元を覆い、声を震わせる。

「それは違うぞ。それと紅葵の後宮入りとは別の話じゃ。紅葵は頭が良い。まあ、最初は大変かもしれんが、うまくやっていくじゃろう」

 洪破天は慰めの言葉が見つからず傅千尽と同じ事を言ったが、後宮がどのような所かなど実のところは分からない。

「洪兄さん」

 不意に王梨が頭を上げて真っ直ぐ洪破天を見る。

「あの子、梁媛を此処に置く位なら、私に下さらない?」

「何?」

「あの子はまだ真っ白なままだわ。器量も良いし。此処に居ても碌な事にならないわよ。私が色々と教えられる事はあると思うの」

「そなた、言うことがさっきと逆……」

「違うわよ。紅葵の二の舞になんか絶対にさせるものですか。剣も持たせないわ。あの子を……ごく普通の女性に育てたいのよ」

「朱蓮や紫蘭は普通じゃないと?」

「そうじゃないけど……あの二人はそれぞれ自分で道を見つけてゆく……」

 王梨は寂しげだ。かつてこの東淵で妓女として名を馳せていた。幼い頃から芸事を仕込まれ、それのみが人生の全てであり、それを誇りに思っていた。自分の生きる「技」であるからだ。傅千尽に嫁ぎ、既に娘が二人。そして紫蘭も生まれた。大きくなった紅葵は義母に憧れた。ただの妓女としての義母にでは無く、その「技」に向かう精神性にである。王梨と紅葵は親子であり、そして師弟となる。王梨にとって血の繋がりが無い娘というのは、かえって良かったのかも知れない。親から子というよりは師から弟子へと「技」が注ぎ込まれる。天賦の才と言うのだろうか、紅葵は最高の弟子となり、その名は東淵に留まらず江湖に広く知れ渡る事となった。そして、王梨は紅葵を失う。王梨が紅葵と向き合っている間に、あとの二人の妹は全く別の道を行こうとしている。紫蘭はまだわからないが、朱蓮の奔放さに憧れているようだ。王梨は突然、一人になってしまった様に感じていた。

「梨妹よ。媛児はまだ此処へ来て間もない。……あの子には弟がおってな。二人で故郷から出てきたのじゃ。苦労の連続じゃ。弟は、もう死んでしもうたが……。働かねばならんと言うておった。しかし儂は少しだけでも、今は楽をさせてやりたい」

「洪兄さんの気持ちはわかるけど、あまり長くなるとあの子の為にも良くないわ」

「わかっておる。しかしとりあえず……」

「とにかく、ここでうちの人に預ける様な事だけは止めて」

「遊びに来るだけじゃ」

 王梨は洪破天に確認するように頷くと立ち上がった。

「私はそろそろ戻るわ。ゆっくりしていらして」

 傅千尽が今の大きな屋敷を作る前に住んでいた、古い小さな屋敷に今は居るという。

「洪兄さん、近いうちに梁媛を連れていらっしゃいな。遊びにね。忘れないで」

 そう言うと王梨は出て行き、部屋には洪破天だけになってしまった。まだ手をつけていなかった酒壷が卓上に置いてある。洪破天は頬杖をついて酒壷を手前に引き寄せた。

 

 

 六

 

 傅朱蓮は梁媛を連れて紅門飯店を出ると人でごった返す大通りを少し歩いてから脇に逸れ、東淵湖の畔に出る。穏やかな波が涼しげな音を立てていた。傅朱蓮は店を出てから脇目も振らずに梁媛を連れて歩いた。

「ちょっと座らない?」

 通りに面した屋敷の裏、放置されている庭石が幾つか転がっていた。二人は腰を下ろして寄せる波を眺めた。

「あの、綺麗な剣ですね」

 梁媛は店を出てきた時から傅朱蓮の腰の宝剣を見ていた。特に凝った装飾があるわけでも無く古い物の様だが鞘もきちんと手入れされていて艶が際立っている。芝居に見られる飾り物のような宝剣ではなくもっと実用的な、良く判らないが優れた物という印象を持った。

「この剣はね。少し地味だけど有名な剣なのよ。あなた剣を触った事ある?」

「少しだけあります。本当に触るだけって感じですけど」

「習ったの?」

「習い始めてすぐに、住んでいた所を離れなければならなくなって……」

 梁媛は真っ直ぐ水平線を見つめながら傅朱蓮に故郷の事を少しだけ話した。

黄龍門おうりゅうもんが無くなってしまったのは本当に惜しいことだわ」

「えっ?無くなった?」

 梁媛の話を聞いた傅朱蓮の、溜息交じりの言葉に梁媛は驚いた。傅朱蓮は小さく頷く。

「今の安県あんけんはとても人の住める所じゃないわ……」

 梁媛は弟の梁発と共に長い旅をして出てきたが、安県で平穏無事に暮らしていたのはそれほど遠い過去の事ではない。洪水で荒れ果てた大地に襲う飢饉、跡形も無く崩れ去った屋敷。今でも目を閉じればくっきりと瞼に浮かぶ。

「洪小父様とはどこで知り合ったの?」

金陽きんようです」

「安県から都まで歩いたのね。都か……洪小父様は何故都に行ったのかしらね。聞いてない?」

「詳しくは聞いてません。か、夏天佑様と仰る方について来たと言っておられました。あの、夏天佑様をご存知ですか?」

 夏天佑の名を出した途端、胸が高鳴る。洪破天と家族同然という傅朱蓮は夏天佑とも親しいのかもしれない。夏天佑は殆ど自分の事を言わなかった。もしかしたら傅朱蓮から色々聞けるかも知れない。

「夏天佑? ……わからないわ。この東淵の人かしらね?」

 梁媛は落胆した。期待は即座に打ち砕かれてしまった。

「……景北港という所の方だそうです」

「そう。洪小父様は知り合いも多いから。いつも方々に出掛けてるのよ。私も人の事は言えないけれど」

 傅朱蓮がそう言って微笑むと、梁媛も釣られて顔が綻んだ。

 

「朱蓮やないか?」

 急に聞こえた声の方へ二人が振り返ると老人が立っていた。

「あら。さん」

「ちゃんと儂を覚えとったか、感激ですなあ」

 粗末な身形の小柄な老人で、腰に小さな籠を下げている。あと、髪と前歯が無い。おどけた様に笑うその顔は皺だらけだ。

「私は若いのよ? 狗さんが私を忘れる方が早いと思うけど。媛、こちらは狗さん。いつも洪小父様と一緒にうちの店でくだを巻くのがこの人の生業なの」

「そうやがな。洪のじじい、大事な仕事をほっぽり出して何処行きおったんや……おっ、こりゃまた別嬪さんやなぁ。どちらさん?」

「洪小父様帰って来てるわよ。この子は梁媛。洪小父様と一緒に暮らしているの。これからは私の妹ね」

「あかんあかん。あんなんとこんな綺麗なお嬢ちゃんが一緒におるやなんて絶対あかん。で、洪の奴は帰ってきたんか。そうかそうか」

「ええ。今店に居るわ。でも一緒にお酒飲みたいなら夜にして頂戴」

「別に飲みたいなんて思ってへんわ。儂が行ったらいっつもあれが居る。きっと今夜も居るんやろなあ。で、媛ちゃんかい?」

「はい。あの、宜しくお願いします」

「ん? 儂は今何をお願いされたんかな?」

「ちょっと、狗さん」

 傅朱蓮が老人を睨みつけ、老人は首を竦める。

「儂はなぁ。狗。狗不死くふしや。『いぬ』やな。死に損ないの狗や。おもろいやろ? 可愛いがったってな」

「はぁ……」

 この狗老人は舌が良く回る。しかも初めて耳にする訛りで一気に捲くし立て、梁媛が驚いている間に話が終わってしまう。

「狗不死って名前は狗さんが自分で言ってるだけよ。そんな名前付ける親居るわけ無いわ。でも他に呼び名が無いから皆「狗さん」て呼ぶのよ」

 

 

 七

 

「で、ほんまに妹になったんか?」

「そうよ。だから、狗さんの孫ね。ちゃんと面倒見てあげてね」

「あかんあかん。お前のお母ちゃんに怒られるがな。儂等が拘ったらまともな娘にならんゆうてな。紫蘭なんかいっつも馬に乗って遊びまわっとるしな」

「馬? ああ、さんね。媛、うちには狗も馬も居るのよ」

 傅朱蓮は笑いながら言うが梁媛は何が面白いのか分からない。犬も馬もその辺でよく目にする。

「こちらが狗さん。あと、家の用心棒に馬さんって人がいるの。紫蘭っていうのは私の妹。あなたより少しだけ年上かな?今日は見てないわね…。いつもどこかに遊びに行ってるんだから。まぁまたいずれ紹介するわ。よく馬さんも辛抱できるもんだわ」

「あいつは今景北港行っとるやろ?骨休めやな」

「景北港、ですか?」

 梁媛が狗老人の言葉に反応する。

「そや。紫蘭のお守りより仕事しとるほうが気が休まるわ。ハハ」

「景北港は遠いのですか?」

「んーどうかしら?歩いて十日ってとこかしらね」

「あの馬公一人なら三日で行きよるんとちゃうか?」

「いくら馬さんでも疲れちゃうわよ。…でも、行けるかもね」

 梁媛は二人の言っている『馬』というのが馬なのか人なのか混乱してきた。

「その夏って言う人も恩人って訳よね。景北港の」

 傅朱連は梁媛を見ながら言う。

「はい」

「狗さん。洪小父様の知り合いで夏っていう人知ってる?夏……」

「夏天佑様です」

「洪の知り合い? ……知らんなぁ。恩人てなんや?」

 傅朱蓮が梁媛から聞いた都での話を掻い摘んで説明する。

「洪の奴、儂に黙って都に遊びに行ったんか。きっと旨い酒飲んで来たんやろうなあ。なんか腹立つな。それにしても……」

 狗老人が梁媛の顔を覗き込んだ。

「お嬢ちゃん、運がええわ。あの爺に助けられるやなんてなあ。あれはな、ほんまはな、人が死にかけとったら止めを刺しに行くような奴やで」

「狗さん! やめて!」

「違うか?」

「……もう行って頂戴」

「ああ、儂が悪かった。儂と洪は何ちゅうかこう……、こんな事言い合って仲良く暮らしとんや。お嬢ちゃん、夏天佑やな。儂が調べたるわ」

「別に調べて貰わなくたって洪小父様に聞けば済むんだから狗さんの手を煩わせるまでもないわ」

「洪の奴、多分言わへんな。儂は奴の事は何でも知っとる。酒飲んだら儂の興味の無い事まで話しまくるんや。夏なんて名前一回も聞いた事無い。余程隠さなあかん何かがあるんやて」

 余程自分の考えに確信があるのか、今までと打って変わって真面目な顔で話す。梁媛はじっと狗老人を見つめて話を聞いていた。

「都に知り合いの方が居られました。さんと仰る方がやっておられる宿にお世話になって…」

「お嬢ちゃん、史なんて都に何人居る思てんねん。そんなん分からんわ」

「もう狗さん。もうちょっと優しく話せないの?」

「あの、総監そうかんと呼ばれる方も居られました」

「……何やて? 総監て何処の総監や」

 狗老人と傅朱蓮が顔を見合わせている。

「お嬢ちゃん。その総監て呼ばれとる奴も夏とやらの知り合いなんか? そいつも都に居ったんか?」

「いえ、その、夏天佑様を総監と呼ぶ方が居られました」

「夏天佑を、かいな」

 またも二人は驚いた表情で顔を見合わせた。

「景北港の奴で『総監』か……。夏天佑なあ」

「媛、どんな人だった? 顔とか……」

 

 

 八

 

 梁媛は二人に夏天佑という人物の事を説明しようとするが、人の容姿をどう言えばいいのか分からずに苦労していた。若そうな人であるという事とどちらかと言うとぶっきら棒な印象、旅人のような出で立ち、少し細身、剣は持っていたが武芸が出来るのかどうかは分からない、史という宿の主人が緊張している様だった、そんなところである。

「朱蓮、なんかおもろなってきたな。いん総監かもしれへんで」

「……あの人が? 都に?」

「でも、洪お爺様が『夏天佑だ』と仰ったのです」

「儂が都に行った話を聞き出したる。なんか分かるやろ。朱蓮、夜に店行くわ。お前さんまたどっか行くんか?」

「んー今の所予定はないわ。暫くゆっくりする」

「そうか。ほんなら、またなあ」

 そう言って句老人は大通りの方へさっさと行ってしまった。梁媛は溜息をついた。

「媛、きっとその人にもまた会えるわ。この街は景北港との繋がりが深いから」

 梁媛には傅朱連の行った繋がりというのがどういう意味なのか良く解らなかった。傅朱蓮は話を続ける。

「この街は人が一杯居るけど、きっとすぐ慣れると思うわ。あの狗さん、変わってるけど良い人よ。店に来る人達もこう、仲間みたいな感じね。家族なの。うちに集まる人間って何故か解らないけれど大抵過去に家族を失ってるの。だからかも知れないわね。やたら家族が増えるの」

 傅朱蓮は笑っている。

「媛、これからはここの人達に頼っていけばいいの。お互い様よ。時間はたっぷりあるわ。一杯話しましょうね」

 梁媛は静かに頷いた。

「もうちょっと先に行って大通りを歩いて帰ろうか」

 傅朱蓮は立ち上がる。梁媛もすぐに立ち上がって一緒に歩き出した。静かな東淵湖とうえんこの畔を眺めながら、梁発が居ればきっとはしゃぎまわっていたに違いないと思った。

 

「あら、何? 洪兄さん一人?」

 紅門飯店、洪破天が一人で酒を飲んでいる部屋に傅英が入ってきた。

「皆、忙しい様じゃな。店はいいのか?」

「ええ、大丈夫。ちょっと用があって出てた郭さんが戻ったから。あの子は朱蓮と外へ出たみたいね」

 傅英はいつも忙しく働いていて、開ければ常に客の溢れるこの店を切り盛りするのは大変な事だが、傅英は皆が感心する程よく動く。いつも他に用が無ければ必ず店に出て殆どの客に声を掛けている。

「梨妹は当分戻る気は無いようじゃ。紫蘭はどうしておる?」

「たまに嫂さんの所に行ってるみたいだけど長居はしないみたいよ? あまり楽しくないって」

「……紅葵か。そんなに入れ込んでおったとはのう」

「普通逆じゃない? 実の娘じゃ無いのよ? まあ、血の繋がりなんてうちでは殆ど関係ないけどね」

「時が経つのを待つしかないのう」

「そうね。でも、紅葵と入れ替わりで梁媛が現れた……きっと嫂さんが放って置かないんじゃないかしら?」

 傅英の言葉に洪破天は驚いた。まるで先程の王梨の話を聞いていたかの様だ。

「何故そう思う?」

「昨日、媛を連れてきたでしょ。あの時、何だか懐かしい気がしたの。ちょっと大人しい感じで顔立ちが整ってて、昔の紅葵みたいって」

「……そうだったかのう?」

 洪破天は傅紅葵の幼い頃に思いを致す。傅千尽らと各地を放浪している時に出会った孤児。やはりあの時も亡くなった孫娘の影を拭えなかった。千尽が連れて行くと言った時、育てられぬと反対した。本心はおそらく自分が紅葵の姿を見るのが辛かったからだ。しかし千尽はどうしても連れて行くのだと言い張り、赤子の朱蓮を背に括り付け、紅葵の手を引いて歩き出す。今でもはっきりと思い出せる。そしてこの東淵で美しく育っていく紅葵を見て羨ましく感じるようになった。千尽と紅葵は本当の親子になったのだ。自分も梁媛をそのようにしたいと考えたのだろうか?

「まだあの子も来たばかりだし何が何だか分からないんじゃない? それに弟を亡くしたって? 暫くは彼女に負担を掛ける事は良くないわ。連れて帰ってきて正解よ。でも、今は兄さんと嫂さんがあんなだから、洪兄さんと一緒に居るのが良いと思うわ。」

 洪破天は頬杖を着いたまま動かない。

「じゃあ仕事に戻るから。朱蓮達もじきに戻るでしょう」

 

 

 九

 

 傅朱蓮と梁媛は店に戻り洪破天と話していると、暫くして店に顔を出した傅紫蘭が部屋へやって来た。梁媛の許へ来ると大きな瞳をくるくると動かしながら眺めている。

「あんただったんだ。お爺ちゃんが拾った子って」

「紫蘭、やめなさい」

 傅朱蓮が眉を顰めてたしなめる。

「いいじゃない。何か違う?」

 傅紫蘭は梁媛に向かって訊ねる。

「いえ、……そうです」

「紅葵小姐様だってそうでしょ? そんな事此処では何でもないわ。私は紫蘭。宜しくね」

「あの、こちらこそ……」

 梁媛が返事し終わるのを待たずに傅紫蘭は出て行こうとする。大して梁媛に興味は無いといった感じである。

「ちょっと、今来たばかりじゃない。洪小父様にも挨拶を……」

「そんな改まって言う事何も無いじゃない。ねえお爺ちゃん?」

「まあ、そうじゃな。……何処へ行くんじゃ?」

「暇で仕方ないわ。お父様がお馬さんを景北港に行かせたから遊べないわ。帰って寝ようかしら」

「あなたねえ、一体幾つになったの? そろそろ叔母様の手伝いでもしたらどう?」

「あら、あたしお父様に叔母様の邪魔をするなって言われてるから。じゃあね」

「ちょっと」

 傅紫蘭は聞こえない風でさっさと部屋を出て行った。いつも馬少風ばしょうふうを引っ張りまわして遊びまわっている傅紫蘭は暇を持て余している。その馬という男は元々用心棒で、いつの間にか傅紫蘭のお守り役にされてしまったが何も言わずにいつも付いて歩いていた。傅千尽はこの末娘が問題を起こさないように馬少風が付いてまわるのを認めていたが、今は朱不尽の鏢局に同行させているので傅紫蘭には余り出歩かぬようきつく命じていた。

「ほんとこの先どうするつもりかしら……。お父様もほったらかしよ」

「馬少風を景北港にやったと? 何がある?」

 傅朱蓮は朱不尽しゅふじんの鏢局の話を洪破天に聞かせた。

「そういえば会ったな。話してはおらんが。そうか、方崖へ……」

「ねえ、こっちも聞きたいんだけど」

 傅朱連はちらっと梁媛を見てから洪破天へ視線を戻す。

「夏って言う人、方崖の人かしら?」

「ん? 誰じゃ?」

「夏、天佑」

 洪破天は額に手を遣って考え込む。

「はて……?」

 洪破天は本当に覚えていない様に見える。梁媛は驚いた。

「あの、都で一緒に居られた、夏天佑様です」

「あ、ああ、そうじゃ。そうじゃな。夏天佑な」

 傅朱蓮はじっと洪破天の目を覗き込んだ。

「つい忘れてしまっておったわい。夏がどうした?」

「どうしたって。その夏って人も媛の恩人なんでしょ。どういう人?」

「どう、と聞かれてものう」

「何か隠さなければいけない事でも?」

「無い無い。夏という知り合いがおって、二人でこの、梁媛達を見つけただけじゃ」

 洪破天は大袈裟に手を振ってから腰を上げた。

「そろそろ帰るか。媛児や」

「洪小父様。……媛にはちゃんと教えてあげてね。あ、それと、狗さんが寂しがってたわよ?」

 笑って言う傅朱蓮に、

「ハッ、あれが寂しがるだと。そんな馬鹿な事があるか」

 洪破天は振り返りもせずにそう言いながら出て行く。梁媛は傅朱連に頭を下げてから急いで付いて行った。

 

 

 十

 

 朱不尽率いる鏢局の荷駄隊は東淵を離れて二日、順調に景北港へと進んでいた。真夏にも拘らず時折心地よい風が通り過ぎ、眠気を催す程である。ここから景北港までは特に難所と呼べる所も無く、暫く丘陵地帯が続いた後は何も無い。

「最近は北辰ほくしんの長老方もあまりお見えになりません。まあ、平和になったと言うんですかね。前はもっと物々しい雰囲気がこの辺の街道にはあったんですが……」

 東淵から同行している傅千尽の屋敷の用心棒、超謙ちょうけんが朱不尽と馬を並べて話している。

「確かに。我等には有難い話かもしれんが」

「いや、そうとも言い切れませぬ。昔は北辰の方々を其処彼処で見受けられましたが、最近はお出でにならなくなって今度は得体の知れないごろつきが増えたのです」

「しかし……どのような者であろうとこの一帯で悪さは出来まい? 北辰の目はあろう?」

「どうなんでしょうねえ。あまり大きな声じゃ言えませんが、前は北辰の人間はこう……鬱陶しい位に北辰の威光を振りかざすというか……最近はそんな者達も減りました。あ、ここだけの話ですよ?」

「ハハ、分かっている。俺も、とてもそんな話を口には出来ん」

「北辰と全く縁の無かった人間も結構流れて来ています」

「ふむ。教主が代わられてもう数年……しかし、長老衆は入れ替わっておらんのだろう?殷総監も居られる。あと……何と言ったかな? 教主に付いている……」

張新ちょうしん様ですかな?」

「おう、そんな名だったな。その者も前教主に仕えておったのだろう?」

「はい。詳しくは存じませぬが前教主様が張新様を教主様の教育係に任じられたとか」

「何故変わり始めたのだろうな?」

「我等には全く見当もつきませぬ」

 朱不尽は太乙北辰教たいいつほくしんきょうの総監が副教主になるかも知れないという傅千尽から聞いた噂話を思い出した。北辰教の長い歴史の中で副教主が居た時代はおそらくあっただろうがそれはかなり前の筈で、長い間副教主という肩書きの人間は居なかった。

 

「傅……朱蓮さん、何処で剣を習ったんだろう?」

 不意に楊迅ようじん范撞はんどうらに話しかけた。

「ん? さあ……何処だろうな」

「一応ちゃんとした基礎はある様だな。我等の剣と似た動きもあったぞ」

 田庭閑でんていかんが言う。

真武剣しんぶけんてのは正式な門弟じゃないと習えねえんだろ?」

「ああ、そうだ」

「ま、何処の何だろうと突き詰めれば似たようなもんになるんだろ」

「素人が分かった風な事を言うな。真武剣は武林ぶりんでただ一つの剣、最高の剣だ。他の門派に真似など出来るか」

「ほーう、どう違うんだよ?」

「……一目瞭然だ。いずれお前達も真武剣の使い手に合えば肝を潰すさ」

「ハハ、お前はまだ使い手じゃないのか? 残念だな」

「……」

「何だよ! そこで何か言い返せよ!」

 范撞は笑っているが、田庭閑は言い返すどころか黙り込んでしまっている。

「まあ、あいつが真武剣に入るなんて想像できねえし、関係ないだろうな」

「凄く綺麗だった……」

 楊迅が呟くのを聞いて范撞は目を丸くした。

「もしかして、惚れたのか?」

「……え? あ、いや、剣術だよ。こう、迷ってないというか、完成してる感じがした。俺なんか全く歯が立たないだろうな」

 楊迅は傅朱蓮が羨ましかった。どのような縁で剣を持つようになったのか分からないが、凄腕の師匠にでも出会ったのだろうか。自分に比べればそれほど歳も違わないのに遥かに優れた腕を持っている。

「嫉妬か?」

「え?」

「女が自分より強いなんて癪に障るよな」

「別にそんな事は……。俺より強い女の人なんて山のように居るさ。それに俺はまだまともに 修行した事もないんだから、弱くて当然さ」

 

 

 十一

 

「お前、習ったこと無かったのか?」

 黙っていた田庭閑が驚いたように楊迅に訊ねる。

「うん、まあ。小さい頃少し教えて貰っただけで」

「俺はてっきり何処かで習ってるものだと思ってた。割と、さまになってたじゃないか。何処で教わったんだ?」

「……田舎だよ。安県って知ってるだろ?」

「黄龍門か……」

緑恒りょくこうに戻ったら爺さんに習うんだろ? 本格的にやりゃあ凄えとこまでいくぜきっと」

 范撞が話に割って入る。

「爺さんて誰だ?」

「居るんだよ。緑恒にも凄え爺さんがな」

「緑恒に? 聞いた事無いな」

りくって爺さんだ。陸……何て言うんだ?」

 范撞は楊迅に顔を向ける。

「それが、聞いた事無いんだ。ただ、陸って言うだけで」

「なんだそりゃ」

「陸……まさか陸豊りくほうとか言うんじゃないだろうな?」

 田庭閑が言う。

「知り合いか?」

「いや、会ったことは無いが……緑恒に居るわけないか」

「ん? さんが戻って来た」

 楊迅は前方に目を凝らした。伊というのは鏢局の先触れの一人で、先行して警戒に当たっている。

 

「朱鏢頭!」

「どうした?」

「先の林の辺りに怪しい者を見ました。男が五人居ます」

「怪しい? どのような?」

「林に入って行ったのですが、山仕事をする様な姿ではありません。皆、剣を帯びていました」

「顔は? 見たか?」

「離れて居りましたので……。旅の装束の様でしたが、剣の他に何も持っていないようでした」

 朱不尽が辺りを見回したので周りの者も同様に目を凝らす。が、近くに異変は無い。

「よし、見てみよう」

 朱不尽が言うと、横にいた超謙が、連れてきた部下を手招きする。

「我等も参ります」

 朱不尽は頷き、後ろに居た王鏢頭に声を掛けると隊を離れた。王鏢頭が他の鏢頭達に朱不尽の指示を伝える。

「魯さん、何だって?」

「物見だ。不審な者が先に居るらしい。周辺を警戒しろ。離れるな」

 

 朱不尽らが先へ進むと街道は右手前方の林のすぐ傍に向かって伸びている。反対側、左手一帯は畑がずっと続いており見通しは良かった。

「朱鏢頭、この先の、道が林に接する辺りです」

 朱不尽は頷いた。

「ゆっくり行くぞ。林を覗かぬ様にな」

 一同は速度を緩めた。先触れの伊が朱不尽の横について進み、超謙らも後に続いた。朱不尽は周囲の景色を眺める様な仕草で時折林にも目を遣るが人の気配はない。先に目を遣ると数軒の民家、酒の看板も見えた。

「とりあえずあそこまで行って止まるぞ」

 再び密かに注意を払いながら進んだが、怪しい者の姿は見えなかった。

「確かに入っていったのですが……奥まで行ったのでしょうか?」

「かもしれん。だが、油断は出来ん」

 朱不尽らは酒の看板の下がった酒店の前に着いて、立ち止まった。

「どうしますか?」

「どうしようもないな。引き返すしか――」

「朱鏢頭! あれを!」

 超謙が突然、声を上げる。皆一斉に来た道を振り返ると、林から街道へ数人の男が現れた。男達は皆一様に黒の覆面をしており装束も黒い。

「くそっ! 戻るぞ!」

「道が塞がれています!」

「突破する!」

 林から姿を現し始めた男達は五人だけではない。あっという間に十数名となって街道を塞ぐように並び、黒い壁が出来上がっている。 

 

 十二

 

「離れるなよ!」

 朱不尽が真っ先に剣を抜くと馬の腹を蹴って駆け出し、超謙と部下達も剣を手に続く。覆面の男達は朱不尽達が迫ってくるのをただ見ているだけで動く気配が無く、剣に手を掛ける者すら居ない。

(どういうつもりだ?)

 朱不尽はその様子を不審に思ったが、速度は落とさない。別働隊が居てすでに隊を襲っている可能性があった。

「止まれ!」

 覆面の男達の後ろから馬に乗った男が二人現れた。どちらも姿は同じ、黒い覆面姿である。

「朱不尽だな! 止まれ!」

 声を発しているのは左側の男だ。布で口が覆われているが凄まじい音量で、辺りに響き渡る。突如、朱不尽の乗った馬が声を恐れたのか立ち止まろうとする。朱不尽は前のめりになりながら投げ出されそうなところをなんとか堪えた。

「お前達、何者だ!? 前に寺で我等を襲ったのもお前達だな!?」

 男達は答えない。黙ったまま腰の剣を抜いた。

「お前等何処の者だ? この地でこのような真似をするとはな! よそ者か!?」

 超謙が剣をまっすぐ突き出して男達に問いただす。しかし馬上の二人の男は互いに顔を見合わせただけで何も言わない。覆面から僅かに覗いた目からは表情は窺い知れなかった。

「まあ少し遊んで行け。千河幇の朱不尽殿」

 先程声を発していた男がゆっくりと馬を降りる。すぐに背後の手下が手綱を取って脇へ寄り、それと同時に道を塞いでいた者達が二手に分かれて道を空ける。

「馬鹿な……。何の意味がある? どけ!」

「意味は無いが、俺達は今、暇でな」

 男は自分の剣を眺めている。

「フン、我等は遊んでいる暇は無い。通してもらう」

「まあ、とにかく馬を降りた方が良いな。おい、お前等、朱不尽殿が馬で通られる時には馬を切って降りていただくのだぞ」

 振り返って部下達に言う。覆面の男達は全く表情を見せないが微かに笑い声を発している様だ。

「奴等を切らぬ事には戻れませぬ。朱不尽殿……」

 超謙が朱不尽の傍に寄って小声で言う。

「駄目だ……多すぎる」

 朱不尽らは一旦引き返して覆面の男から離れる。追ってくる気配は無く、単に朱不尽の足止めが目的の様だ。馬で現れた二人が賊徒の頭目であろうか。それ以外は皆同じ配下の者だろう。馬を降りた男は腕に覚えがありそうだ。もう一人、まだ馬に乗ったままの男も腕が立つと見た方が良い。

「全部で十六名居ります。恐らくあの二人さえ抑えれば後は我等で何とかできると思います」

「こっちは七人だぞ。……俺は何が何でも戻らねばならん。俺はいいが、危険すぎるぞ?」

「こういう時の為に我等は来たのです。確かにいきなり不利な状況ですが、ここで働かねば」

 超謙はそう言うとニヤリと不敵な笑みを浮かべる。

「少風」

「ん?」

 超謙の後ろに居た馬少風が答える。

「我等は今からあの覆面の奴等の所へ切り込む。お前、あの馬に乗った奴と隣をぶらぶら歩いてる男、剣を抜いている奴がいるだろ?あの二人に当たれ」

 先に目を遣ると覆面の男達は全く動いておらず、時折こちらを眺めるだけだ。

「強かったらどうする?」

 馬少風の口調は平坦で、今の状況を理解しているのか疑わしい程だ。

「倒せなくても良い。我等が他の奴に当たっている間、引き付けろ。そうだな……あの馬に乗ってる奴、あれも引き摺り下ろしておくんだ」

「解かった」

「ちょっ、ちょっと待ってくれ」

 朱不尽は慌てた。

「あの二人が一番厄介そうだぞ?いくらこの……馬殿が……」

「朱不尽殿。心配は無用。フフ、面白いものが見れますぞ。あ、朱不尽殿は隙を見て抜けて下され。我等が奴等を引っ掻き回してやりますよ。朱不尽殿は馬で」

「しかし……」

「朱鏢頭。朱鏢頭には何としても隊に戻っていただかねばなりませぬ。私は超謙殿と共に奴等に当たります」

 先触れの伊が言う。その目には強く力が込められていた。

 

 

 十三

 

 他の賊徒の中には腕の立つ者も居るかも知れないが、超謙は殆ど気にしていなかった。とにかく朱不尽を突破させればよく、こちらの倍以上居るとはいえ十六人程度。鏢局の荷駄隊は遠く離れている訳でもない。頃合を見計らって逃げ出し、隊に合流すれば良いと考えた。荷駄隊が無事なのかどうかは分からないが、今それを考えても詮無いことだった。

「少風、これを使え。お前の剣と交換だ」

「ああ」

 超謙が差し出したのは自分の持っていた宝剣で、キラキラと輝き切れ味も良さそうだ。馬少風は受け取り、変わりに古びた軟剣を超謙に手渡した。

「我等も適当なところで隊に戻ります。じゃあ、行くか」

「応」

 超謙は馬少風ら四人の部下に声を掛け、ゆっくりと馬を進ませる。

「無理はするなよ……」

 朱不尽が言う。それ以上何も言えなかった。超謙らの手管がいかほどの物か全く知らないが、何故かこの男達は何も恐れてはいない。一体どのようにして賊に当たるのか興味が湧いた。

 

「どうするね?」

 超謙を先頭に再び覆面の男達に近づくと、先程から剣を手に辺りをぶらついていた男が声を掛ける。超謙が片手を挙げ、その場で馬を降りる。同時に他の五人も馬を降りた。朱不尽は後方で男の挙動をじっと見つめていた。

「折角誘って貰ったんだ。少しばかり遊ばせて貰おうか」

 超謙が剣を体の前に真っ直ぐ立てて男に見せる。

「俺は朱不尽殿に言ったのだが? 出来る事なら名のある奴と遊びたいな」

「じゃあ、これを機会に名を覚えてもらおうか」

 もう一人の馬上の男が下がり、配下の男達が再び横に並んで立ち塞がった。

「先に名を聞いておかんとな。俺の名はきゅう。あんたは何と言う?」

「……馬少風」

「馬少風? どこかで聞いたが……」

「馬少風は俺だぞ」

 馬少風が超謙に言う。

「何? 訳が分からん。ふむ、確かにその馬面の方が名に合ってるな。で? あんたの方は名無しかい?」

 求と名乗った男が超謙に訊ねる。

「あんたが無事で居られたら教えてやろう」

「……俺はいつでもいいぞ。来いよ」

 求が剣を突き出し、切っ先を超謙に向けて構えた。

「さっさと来い。そっちの馬面でもいいぞ」

「伊殿、始まったら俺達から離れん様にな」

 超謙は男を無視するように鏢客の伊に言うと、朱不尽に目を遣り黙って頷く。朱不尽の方も頷き返した。

「おい、もういいのか?」

 馬少風が超謙から受け取った宝剣を振りながら訊く。

「馬に乗った男が後ろに下がったろう? まずはあの求とやらと遊んでやれ。もしカタがついたら他のは放っておいて馬に乗った奴だ。いいな?」

「解った」

「おい何だお前、そんな剣、本当に使えるのか? 怪我するなよ」

 求は構えを解いて馬少風の持った宝剣を見て笑った。馬少風は時折素振りのような仕草をして見せるが、そこには全く型も何も存在しない。まるで子供が棒切れを振り回す様な動きだ。

「お前、構えなくていいのか?」

 馬少風が求に訊く。

「必要になったら構える事にするさ。おい名無し。やるのかやらんのか? 早くしろ」

「……良し、やろうか」

 超謙は微かに笑みを浮かべながら馬少風の背中を軽く叩いた。

 

「おい、やるぞ」

 馬少風が求に声を掛けた瞬間、求が後方によろめいた。超謙の横に居た筈の馬少風が先程まで求の立っていた場所に居る。後ろで見ていた朱不尽は目を見張った。

(な、なんだ!? どうなった!?)

「て、てめぇ……」

 求は鼻から血を流している。手の甲で拭き取るが、すぐにまた流れ出した。周りの覆面の男達が一斉に剣を抜く。求は手を伸ばしてそれを制した。

「ちょっと驚いたが、フン、楽しめそうだな……」

「それは良かったな」

 馬少風が相変わらず低調な声で答えた。

 

 

 十四

 

 求はいきなり剣を真一文字になぎ払うと馬少風は後ろに下がってよける。「見切る」などというようなものではない。体を大きく動かして逃げたのだ。その挙動があまりにも滑稽で、普通なら失笑を買うところだが、覆面の男達は僅かに覗く目を大きく見開いて固まっている。

「お前……お前が馬少風か」

「さっき言った」

 馬少風は宝剣を構える事をしない。時折ぶらぶらと揺らしながらじっと求を見ていた。

「少風、早くしろ!」

 超謙が言うと馬少風は宝剣を振り回し始めた。無茶苦茶に、である。求は剣を正面に突き出して構え、じっと目を凝らしている。

「いくぞ」

 馬少風が言うや否や、宝剣があらゆる向きに回転しながら求に襲い掛かる。その凄まじい迅さは求自身は勿論、超謙ら傅千尽の用心棒を除いた全員が驚愕する。求は声を出す暇も無い。地面に伏せ、転がりながらなんとか宝剣を避けた。馬少風はすぐに向きを変え、求に襲い掛かる。が、相変わらず剣は出鱈目に振り回されているので求はなんとか自分の剣で受け流す事が出来る。

「お、お前何なんだ!」

 ようやく立ち上がって体勢を整えた求が剣を突き返す。今度は馬少風が逃げ回り始めた。求の剣裁きは流れるようで、書の一筆書きの様に連綿と続き、馬少風を追う。

(あの男の剣術は中々の物だ……。一体どこの人間だ?)

 朱不尽は求の手筋を探るべくその剣術に見入っていた。

 求は焦り始めた。剣がこの馬面の男に届かない。無様とも言える馬少風の体裁きが異様に迅く、尋常ではない。暫くそんな状態が続いて、ようやく後ろで見ていた覆面の男達が剣を構えて馬少風を囲み始めた。

「そろそろ俺達もいくぞ。ほれ、あの少風を囲んでおる奴等からだ。一気に行くぞ」

 超謙らが一斉に、馬少風に気を取られて背中を見せている男達に飛び掛かる。瞬く間にあっけなく四人が切り伏せられた。超謙らは息もつかずに残りの覆面の集団に切り込んでゆく。超謙の見立て通り、賊の手下達はそれほど使い手と呼べる者は居らず、次々に倒れていった。

 朱不尽は半ば呆気に取られていた。超謙らがいとも簡単に賊を切り崩してゆく。馬少風などは求の相手をしていたかと思えばいきなり跳躍すると賊の固まっている場所に飛び込んで暴れまわっているのだ。あれを軽功けいこうと呼べるのなら、凄まじい使い手だ。あれを駆使すれば剣は持っているだけでいい。実際に馬少風に突っ込んでいった敵はあっけなく傷付けられていた。

「朱鏢頭、早く!」

 伊が近くに来て叫んだ。朱不尽はハッと我に返り、馬を走らせる。賊の一人が気付いて朱不尽の馬に飛び掛ったが、伊の剣がその体を貫く方が迅かった。

「クソったれめ!」

 求が叫び、超謙に襲い掛かる。超謙は求の繰り出す剣を数手受け流して後方へ跳躍し、求が追いかけようとすると再び上から馬面が舞い降りる。

「……化け物めが!」

「化け物? 俺がか?」

 馬少風は全く息が乱れていない。相変わらず低い平坦な口調で言った。二人の後ろでは超謙と部下が言葉を交わしていた。

「超さんどうする!? そろそろ退くか!?」

「あと二、三人やったらな!」

「どうせなら全部やろう!」

 まだ大して時間は経っていないが十六人いた覆面の男達は求と馬に乗った男以外、たったの四人しか残っていなかった。

「求! もういい!」

 突然新たな声が加わった。ずっと馬に乗ったままの男だ。最初からじっとしたまま動いておらず、先程朱不尽が賊の間を抜けて行った時も、全く動かなかった。

「もう向こうも終わってる。おい、お前達、もう通っていいぞ」

 男がそういうと残った四人の手下達は半ば逃げるように馬上の男の周りに集まった。

「終わるって何がだ? 偉そうな口を聞くじゃないか。フン、本当は自分もやられそうなんで、逃げ帰りたいんだろ?」

 超謙が言うと、

「俺はまだやられてねぇ!!」

 突然、求が咆哮する。さっきまで求と対峙していた馬少風がくるりと踵を返して超謙の傍に歩いて行くが、求はじっと背を見つめながら何も出来なかった。

 

 

 十五

 

「終われるなら、終わった方がいい」

 馬少風が超謙に言う。

「お前は黙っておれ」

 超謙は剣を握り締めたまま男をじっと見据えている。求も男の傍に戻り、双方睨み合うように対峙していたが、男が馬首を翻して林へと走り出すと手下達も続く。求は再び馬に乗って超謙を見た。

「名は何だ?」

 超謙はニヤリと笑い、

「超」

 ただそれだけ言うと剣を腰に戻す。求は馬少風をもう一度眺める。馬少風は腰の剣の位置を気にしていて目は合わなかった。

「フン」

 短く鼻を鳴らして、林の中へと駆けて行った。

「よし、急いで戻るぞ」

 超謙らは馬に戻り、朱不尽の荷駄隊へ向かって走らせた。

 

 街道を戻り荷駄隊の居た場所まで戻ると、超謙らは一様に言葉を失った。車にしっかりと括りつけられていた荷が辺りに散乱し、あちこちで鏢客達が倒れている。中には大量に血を流し、既に死んでいると分かる者も居た。半数以上が地に倒れ、残った者達も傷を負いながら仲間の遺体の傍で呆然と座り込んでいた。

「朱不尽殿は!? 朱不尽殿!」

 超謙らは辺りを見回して叫ぶが、朱不尽の姿が見当たらない。

「おい! しっかりしろ! 朱鏢頭はどうされた!? 戻ってこられただろう!? おい!」

 先触れの伊が地面に座り込んでいる鏢客の肩を揺する。

「朱鏢頭は……奴等を追って……」

 伊は再び辺りを見回すが、皆力なく項垂れてまともに動けそうな者は見当たらない。

「……伊……伊よ……」

 微かな声が聞こえ、伊が振り返ると、顔が真っ赤な鮮血に染まった男が横たわって居り、腕を伸ばしていた。

「か、解鏢頭!」

 伊はすぐさま傍に駆け寄る。見れば解鏢頭は腹を切られており、切り刻まれた衣服に混ざって臓物の一部が見えている。

「……解鏢頭!!」

「伊……荷を……集めろ……まだ残って……朱……戻られる」

「解よ!!」

 魯鏢頭が剣を手にしたまま駆け寄ってくる。その剣はまだどす黒い血がべったりと付いていた。

「解よ! しっかりせい!」

「景北……もうすぐ……だ……魯……」

 解鏢頭は薄っすらと目を開けたまま動かなくなった。

「おお……おお……」

 魯鏢頭は剣を落として解鏢頭に覆い被さるように付したまま、ただ嗚咽するばかりである。

 超謙らと動ける僅かな者達で散乱した荷を集める。どうやら賊は荷の一部を持ち去り、残りは破壊しようとした様で、残っていた物は多くが傷つけられており、無事な物は僅かしか無い。荷車が一台失われ、まともな荷は一台分。残りは多くの遺体を積む事になってしまった。超謙の部下の一人が荷車の下でうずくまっている田庭閑を見つけた。

「おい! お前無事か? 動けるか?」

 田庭閑は自分の剣を抱えて震えている。黙ったまま何度も頷いた。

「動けるなら出て来い。ん? その者は……?」

 田庭閑の傍にもう一人横たわっているのが見えたが、じっとして動かない。

「こ、これは楊迅です。怪我を……」

 田庭閑が震える声で言う。

「生きておるんだな?」

「は、はい」

 田庭閑がもぞもぞと這い出して荷車を動かすと、楊迅が苦しんでいる様子で体を丸めて横たわっていた。

「何処をやられた?」

 超謙の部下は楊迅の押さえている胸元をそっと開けて見ると肩の辺りから腹部にかけて長く袈裟懸けに切られている。辛うじて致命傷になるほどの深さは無かったが、出血も酷く、相当痛みが激しそうだ。

「手を貸せ」

 田庭閑に言って二人がかりで荷車に載せる。すぐ横には遺体が並べられていた。

 

 

 十六

 

 暫くして朱不尽が空になった荷車と共に戻って来た。荷車を引く馬に乗っているのは范撞であった。

「朱鏢頭……」

 魯と王の両鏢頭が駆け寄る。朱不尽を見つめて言葉を待ったが、朱不尽は何も言わずに通り過ぎる。散乱していた荷は殆ど片付けられ、空いた荷車には積み上げられた鏢客達の遺体。

「……この荷車にも並べるんだ」

 そう言って朱不尽は一番上の遺体を大事に抱きかかえると、一緒に戻って来た荷車に寝かせる。魯鏢頭達も続いて遺体を移し始めた。

「解鏢頭……」

 朱不尽は半眼半口の解鏢頭の顔を見つけ、嗚咽を漏らしそうになったがぐっと堪え、その無残に傷ついた体を抱きかかえる。そのまま歩き出すと解鏢頭の腹から溢れた臓物が流れ出すように垂れ下がった。それを見た范撞が急いで走り寄ると、地に届きそうになるところを両手ですくい上げた。

「解さん……俺、絶対……仇を討つから……皆の仇を討つからな!」

 震える手で鮮血に塗れたまだ生暖かい解鏢頭の一部を衣服の中に戻し、朱不尽に寄り添うように荷車まで歩いた。

 

「朱鏢頭……とりあえず東淵に戻りましょう。旦那様なら奴等の事を調べる事が出来ましょう」

 超謙が言うと朱不尽は黙って項垂れた。

「朱さん、そうしよう。奴等を見つけて仇を取るんだよ!」

 范撞が大声で言う。朱不尽は何も言わずに田庭閑の傍に歩いていった。

「田殿」

 田庭閑は急に話し掛けられて思わず体を強張らせ、恐る恐る朱不尽の顔を見た。

「……残った荷は私が景北港へ届ける。その後、武慶へ参り総帥にお目通り願い、お詫び申し上げたい」

「……」

「田殿は皆と共に一先ず東淵に戻り、それから武慶に戻られよ。総帥に全てをご報告して頂きたい。必ずやこの朱不尽、武慶に参上すると……」

「それは……」

「朱さん待ってくれ! 俺達は確かに荷を奪われちまったけど、こんなの普通じゃねぇって! 奴等、百人以上は居たんだぜ!? ただの盗賊じゃない! ぜってえ何か裏があるに決まってんだ! おい田! あいつらこの荷が真武剣のだって知ってた筈だ! だからあんな大挙して来たんだ! そうに決まってる!」

 范撞が一気に捲くし立てる。鏢局の仕事は荷の護衛で、今回完全に失敗した。しかし范撞はすんなりとそれを受け入れる気にはなれなかった。今回の鏢客の数や行程の計画に問題があったとは言えないのだ。賊が何人来るか分からないからといってこの程度の荷の為に何百、何千という人員を用意するなんて事は常識的に考えて有り得ない。確かに荷の一部を奪っていったが殆どが破壊され、恐らく目的は荷をこれ以上進ませないこと、即ち真武剣派の依頼を潰す事に違いない。賊は真武剣派の敵の筈である。真武剣派の敵と言えば太乙北辰教が思い浮かぶが、そこには疑問が残っていた。千河幇に敵対する勢力というのも思いつかない。しかし今のところ朱不尽の言葉には賛同しかねた。これは、真武剣派の持つ因縁の問題だと言いたいのだ。

「朱……朱鏢頭、調べてみませんか? 私も范撞と同じ意見です……。これは……真武剣派に対する敵対行為、私もこのまま戻る訳にはいきません」

 田庭閑はぼそぼそと朱不尽に言う。

「無論、このまま放っておく訳にはいかないが、私は任務に失敗した。まずその事のけじめをつけねばならん」

「ああそうだ! けじめをつけようぜ! 奴等をぶった切って武慶で晒してやりゃあいいさ!!」

「黙れ!」

 朱不尽が声を荒げた。魯鏢頭が范撞を制する。

「今はとにかく落ち着くんだ。ああ、分かってるさ。『落ち着いてられるか』と言うんだろう? 范撞、仇を討つなら慎重にせねば成し遂げることは出来ぬ。まず景北港へ行こうではないか。その真武剣派の敵とは誰か、調べることが出来よう。まず北辰を当ってみよう」

 范撞は拳を握り締めたまま荷車の方へ歩き出す。

「魯鏢頭、おぬしは皆を連れて東淵に戻るんだ。范撞、お前もだ。ここで命を落とした者達をこのままにしておけぬ。超謙殿」

朱不尽は振り返って超謙に声をかける。

 

 

 十七

 

「誠に申し訳ないが、この者達を……お願いしたい」

 朱不尽は並べられた遺体の方にゆっくりと顔を向け、見渡した。

「分かりました。しかしながら、朱不尽殿も一度お戻りになって、改めて景北港に向かって下され。その時は私達も一緒に参ります。どうかお聞き届け頂きたい」

 超謙は最後に語気を強めて朱不尽を見据える。朱不尽が項垂れて視線を逸らすと、超謙はさっとその場を離れて部下に指示をする。部下達がそれぞれ荷車を引く馬に跨って整列させた。

「少風、お前は先に東淵へ戻って旦那様に知らせろ。我等が戻るまで、三日、或いは四日掛かるだろう。道中医者を探して怪我人の処置をする」

「わかった。もう行けばいいのか?」

「ああ。急げ」

 超謙が言うと馬少風はすぐに走り出す。

「お、おい、馬は……」

 馬少風が馬にも乗らずに走り出したのを見て范撞は驚いた。言った時には馬少風はすでに街道を離れて山へ入って行く。

「何処行くんだ?」

「あの山を真っ直ぐ突っ切るのさ。あいつは下が水でも無い限り東淵まで一直線に走る。馬は邪魔だ。あいつが「馬」だがな。明日には東淵に着くさ」

「明日だって!?」

「ああ」

 超謙はそう言って朱不尽の許に戻った。

「朱不尽殿。参りましょう。重傷の者も居ります。一刻も早く」

 朱不尽は険しい表情で考え込んでいたが、黙って頷くと馬に乗った。

「東淵へ戻る!」

 朱不尽の号令に、いつもの勇ましい掛け声は返ってこなかった。

 

 東淵と景北港の街道沿いには比較的街が多く、医者は容易に見つかった。楊迅ら数人の重傷者は処置を施されたが、暫く動かすことは出来ず、周辺の地理にも詳しい超謙の部下が付き添い、他の者は先に東淵に向かう事となった。東淵の街が見えた時には多くの遺体の傷みが酷くなってきて異臭が漂うようになっていた。

 街道の先から騎馬が数騎、真っ直ぐこちらへ向かってくる。

「朱小父様!」

 先頭を走って来たのは傅朱蓮だった。朱不尽の後ろに続く一行を見渡して絶句する。殆どの者が傷を負って足取りも重く、生気が無い。

「うわ……凄い臭い! 鼻が曲がりそうよ」

 そう言って鼻を摘んでいるのは傅紫蘭だ。

「紫蘭黙りなさい! 何故ついてきたの! さっさと戻りなさい!」

 傅朱蓮が珍しく物凄い剣幕で叱りつけると傅紫蘭は驚いて後ろに下がったが、しっかり鼻は摘んだままだった。

「小父様、お医者様も呼んであるから。それから……お父様はお屋敷に亡くなった方を埋葬するって」

「屋敷に? それは……駄目だ。それに、数人ではない。十八名が亡くなった……」

「聞いてるわ。それでも……お父様はお屋敷に埋葬する準備をしてるの。あ、小父様あっちの道を通りましょう」

 一行は大通りを避け、山沿いの小道に入る。

「小姐様、やっぱり先に戻ってるわ。耐えられない」

 傅紫蘭がそう言って一人駆けて行った。

「何しに来やがったんだ! あのクソ餓鬼!」

 范撞が怒りも露わに声を荒立てた。

「御免なさい……本当に御免なさい」

 傅朱蓮がそういって項垂れる。范撞が怒りの目を傅朱蓮に向けると、その頬に涙が伝っているのが見える。

「お、お前に言ったんじゃねえよ……」

 それから屋敷に着くまで誰も口を開かなかった。

 屋敷の門は開け放たれ、表には傅千尽と数人の家人が待っていた。傅千尽は何も言わずに門の方に腕を伸ばして入るよう促す。勇ましく出て行った鏢局の一行は静かな葬列となって、再びこの傅千尽の屋敷の門をくぐった。

 

「不尽。この者たちを速やかに埋葬してやらねばなるまい。この屋敷の西の一角に準備させた」

「……何故、此処に?」

 朱不尽の声は震えている。

「この辺りでは遺体を焼く習慣も無いしな。遺品を残して、土に返してやらぬか。儂が此処で、責任を持って墓守となろう。なあ、……そうさせてくれぬか」

傅千尽は目を僅かに細めて朱不尽を見つめる。

「……すまぬ」

 ここまでずっと耐えてきた朱不尽は、この時初めて嗚咽を漏らして泣き濡れた。

 

 

 十八

 

 傅千尽はすぐに家人に命じてまだ戻っていない重傷の者達を迎えに遣る。先に戻った者達も応急の処置は施してあるため、東淵の医者に経過を見させながら、皆、傅千尽の屋敷で静かに過ごしていた。

 朱不尽は傅千尽と部屋で話している。超謙と馬少風の二人も同席していた。

「ここに来る前に襲ってきたのと同じ奴等だったんだな?」

「ああ、間違いない。数は五倍近く居たがな」

「超謙、何か気付かなかったか?」

「いえ、……何も。皆覆面をしておりまして、着ている物も揃えておりましたが今まで見たこともありません」

 傅千尽は大きく溜息を漏らすと椅子の背にもたれ掛かった。

「……覆面か。お前に見られれば顔がばれる、ということか?」

 そう言って朱不尽を見る。

「どうだろうな。盗賊の類は皆、顔を隠すだろう」

「あ、旦那様、求という男が居ました。自分で名乗ったんです」

「……それだけでは何も分からん」

「ただの手下では無かった様ですが……」

「武芸は?」

「どこの筋の者かは分かりませんが、かなり出来る様でした。ただ、少風が相手をしておりましたので、はっきりとは……」

「馬殿はどこであの武芸を身に付けられた?」

 朱不尽が馬少風に向かって尋ねる。その表情は力無くどこかぼんやりとしている。

「おい不尽、今はそのような事はどうでもよかろう」

「フフッ、あの時、馬殿や超謙殿が本隊に居られたら、奴らを撃退できておったかも知れん。とても俺では……」

「馬鹿なことを! 百を越える相手に誰が立ち向かえる!? おい不尽、しっかりしろ! 今は奴等が何処の誰かを――」

「今はまず武慶に戻ってこの首を差し出すのが先決だな」

「いい加減にしろ!! おい不尽何処へ行く!?」

 朱不尽が立ち上がり部屋を出て行こうとする。

「何処にも行かん。とりあえず、今日はな」

 振り返らずに真っ直ぐ部屋を出て行った。

「……旦那様」

「しばらく不尽から目を離すな。東淵から出してはならん」

「はい」

 超謙は頷くと馬少風と共に席を立った。

 深手を負って隊から離れていた楊迅ら数人が傅千尽の屋敷に戻って来るまで、朱不尽は殆どの時間部屋に籠もっていた。夕刻、にわかに黒雲がたち込め、激しい夕立が地面を叩きつけている。

「朱不尽様、鏢局の方々が戻られました」

 朱不尽の居る部屋の前で侍女が声を掛ける。表に出てみると范撞らが戻って来た者達を抱えて部屋まで運んでいた。楊迅達はまだまだ自分では動けず、暫く安静にしていなければならない。朱不尽は傷ついて床に伏せっている者達の様子を見てまわった。

「不尽、緑恒りょくこうに早馬を出した」

 部屋を出たところで傅千尽が声を掛けた。

「……范幇主の顔を潰す事になってしまったな」

 無表情のまま言う朱不尽を、傅千尽がじっと見据える。

「お前は范幇主がどのようなお人か忘れてしまったのか? 今、そんなに面目が重要か?」

 冷やかにそう言うと傅千尽は踵を返してその場を離れて行った。その時、傅朱蓮が水を汲んだ桶を抱えてやって来た。

「朱蓮、……すまんな」

 朱不尽が力なくそう言うと、傅朱連は淡い笑みを浮かべて首を小さく振り、部屋に入っていった。

 

「お前、大したもんだよ。その傷で無事とはな」

 范撞が楊迅にそう言って笑う。

「……普通、こんな傷、付かないよね。まるで切られるのを待ってたみたいだ」

 楊迅がそう言って胸の辺りを撫でる。しかし手が動かせるだけで殆ど上体は動かせない。傅朱蓮が寝台の傍で濡らした手拭を絞っている。范撞と田庭閑がその後ろの方で壁にもたれ掛かり、その様子を眺めていた。

「楊さん、体を拭くわ」

「え? あ、いや……」

「大人しく言う事を聞いておけよ。この雨の中、外に放り出されても知らねえぞ」

「……自分で」

「どうやって? 動けないのに?」

「手は、手は動くから、なんとかします」

「そう?」

 傅朱連は笑いながら、

「じゃあ、どうしても届きそうに無い足ならいいでしょ?」

 そう言って返事を待たずに手拭で楊迅の足を丁寧に拭いていった。

 

 

 十九

 

「やっぱり、俺は何の役にも立てなかったな……こんな怪我までして」

「まあ、そうだな。でも俺だって同じだ。全く歯が立たなかった」

「それくらいにしておいたら?もう……過ぎた事よ。先の事を考えないと」

 田庭閑がそっと部屋を出て行く。范撞はその姿が見えなくなるまでじっと見ていた。

「あいつ、車の下で震えてたんだってよ。ま、お客さんみたいなもんだし、期待はしてなかったけどな」

「范撞、それは違う!。違うよ! 勝手な事を言うな!」

 楊迅が首だけ動かして范撞の方を向いて睨みつける。

「ん?何だ?」

「田さんは俺を助けてくれたんだよ。最初は俺もまともに戦えたけど、向こうはいくらでも出てきて、段々追い詰められてた。何度も田さんが俺を庇ってくれてたんだ。でもそのうち俺が……この傷を受けて倒れた。なんとか隙を見て俺を隠してくれたんだ。周りの皆はどんどん倒れていくし……もうどうしようも無かったんだ。ずっと震えてたのは……俺さ」

 楊迅は顔を戻して天井を見つめている。

「そうか……そうだったんだな……」

 范撞は体を起こし部屋の外に顔を出して首を回すと、すぐ近くの回廊の欄干にもたれて田庭閑が俯いている。

「うわっ何だよ居たんじゃねえか。……聞いてたか?」

「ああ、何だか聞こえてきたな」

「馬鹿なこと言っちまったな。……すまん」

「俺はな、逃げるのは得意なんだ。自信がある。でも、あの時はやばかった。死んだと思ったよ」

 田庭閑はずっと姿勢を動かさずに欄干にもたれているので腕の辺りが濡れ始めているが、全く気にしていない。范撞は部屋の外に出て壁にもたれる。田庭閑は頬杖をついたまま濡れた庭をぼんやりと見ていた。

「あいつじゃないけど、本当に俺も役立たずだ」

「そうか? じゃあお前の師匠ならあの状況で奴等を追っ払えたとでも言うのか? あ、お前の師匠ならやりそうだな。兄弟弟子ならどうだ? 誰だろうと、どうすることも出来なかっただろうよ」

「……前に俺は総帥の弟子だって言ったろう? 確かに表向きはそうなんだけど、実際は違うんだ。俺は真武剣派に居て、誰の弟子でもないのさ」

「どういう事だ?」

「俺は今以上に強くなることなんて出来ない。だって、修行なんてして無いんだからな。武慶で俺に武芸を教えてくれる人間は一人も居ないんだよ」

「そりゃまた……」

「まあ、関係ない事だな。誰にも」

 范撞は言葉を待ったが、田庭閑はその後、口を開く様子は無い。

「……一体俺達これからどうすりゃいいんだろうな? ここでこうしてるとこのまま寿命を終えちまう様な気がするぜ。何か、こう……何かしなきゃいけない気はするんだけどな」

 傅朱蓮が部屋から出て来た。

「二人とも、何もすること無いでしょ? 休んだら? そうだ、お酒でも持って来るわ。今は何も考えないで飲んで寝るべきよ」

「何だそれ」

「中入って。ほら、濡れるわよ」

 傅朱連は持ってきた桶を抱えて歩いていった。

 

「楊さんはまだ駄目よ。代わりに薬湯をあげるわ。これは甘くしてあるから、美味しいわ」

 傅朱連はちゃんと、楊迅が自分で飲めるように口の細長い水差しも用意していた。

「旨い薬湯だって? 効果あるのか疑わしいな」

「お父様が苦心して作り出したのよ。中々の評判なんだから」

 楊迅が一口飲んでみる。

「ああ、これは良いね。旨いよ。飲んでみる?」

 楊迅は范撞に向かってその薬湯を入れた水差しを差し出す。

「俺はいらね。もう薬は貰ってる」

 范撞はそう言って酒壷の首をつまんで振って見せた。

 

 

 二十

 

「ん? あの子は……」

 田庭閑が酒杯を片手に部屋の外を眺めている。

「今、店の前の木に登っていた子が居たぞ?」

「ん?あれも此処の娘か?」

 范撞も窓の外を眺めたが、誰も見えなかった。

「誰の事言ってるの?」

「あんたの姐さんが都に発つ時に、店の前の木の上に子供が居たんだが、どうやって登ったのか分からねえけど、降りられなくて半泣きだ」

「その子が今、居たの? 紫蘭じゃなくて?」

「違う」

 田庭閑が外を眺めたまま言う。

「知らないお爺さんにぶっ飛ばされたんだよね」

 楊迅がニヤリとしながらそう言うと范撞は顔を顰めた。

「ああ、あのクソ爺な」

「あの爺さんは、武芸が出来るんだろうな。どうやって身に付けたんだろうな、あの爺さん……」

 田庭閑はぼんやりと自分の手の酒杯を撫でながら呟く様に言う。

「あれはだなぁ、俺がちょいと油断してただけで――」

「朱鏢頭はこれからどうするんだろうな」

 田庭閑が今度は顔を上げて范撞を見る。

「何だよ、急に……」

「本当に景北港に行くんだろうか?」

「多分な。俺も行くぞ」

「もし、あの賊が北辰の手の者だったら、危険だぞ? 生きて帰れるのか? 確かに少しばかり荷が残ったが、もう、どうでもいいんじゃないか」

「何だよ。お前んとこの荷だろうが。どうでも良いって……」

「とにかく、朱小父様はちゃんと考えてる筈よ。小父様の指示に従っていればいいのよ」

 傅朱蓮が言う。

「……その朱小父様は部屋に籠もってるんだがな」

「そう簡単にいろいろと考えられる訳無いじゃないの」

「分かってるさ」

 今は皆、多くの鏢客を失ったあの惨劇には触れまいと言葉を選んでいるつもりが、まるで見えない何かに引き摺られる様に気分が沈んでいく。どうしようも無かったんだと自分に何度も言い聞かせる程に、更に自分がその事に囚われて深みにはまっていく様に感じられた。

「さっきちょっと言ったが、真武剣の総帥って、強いんだろうな?」

 范撞が田庭閑を見る。楊迅も視線を向けた。

「そりゃそうだろう。知らないけどな」

「知らないって、おい」

「田さんどうしたの? 何だか、以前と別人みたいな……」

 傅朱蓮が田庭閑の顔を覗きこむように見ると、田庭閑はまた俯く。

「そうだよな。『我が真武剣派は――』って台詞が出ねえしな」

「……虚勢だけでは、死ぬ」

 田庭閑は短くそう言うと、酒を呷った。范撞と傅朱連は顔を見合わせた。

「真武剣が本当に優れた武芸だとして、俺が真武剣派に属していても、俺の腕には関係が無い」

「まあ、そうだろうな。ただ居るだけではな」

「聞いてもいいか?」

 田庭閑が傅朱蓮に言う。

「私? 何かしら?」

「あんたは何処で武芸を習った? それと……前に言ってた、咸水かんすい殷汪いんおう、あんたは会った事があるんだろう? その武芸の来歴を聞いた事が?」

「なんだその殷汪って。殷さんと汪さんの二人組か?」

 范撞が笑って言うと、

「殷汪って北辰教の殷総監かな。汪は名なんだよ。確か」

 楊迅が范撞に言う。

「ああ。咸水って言うから分からなかった」

「……私の武芸は、そうねえ。お父様の知り合いの人に大体のところは教わったわ。弟子って訳じゃないけど。どこかの名のある門派に弟子入りした事も無いの。その教えてくれた人の武芸が何処の物かも聞いたこと無いわ。前にも言った気がするけど……どうして?」

 田庭閑は「そうか」と小さく言っただけでそれ以上は何も言わない。

「あと、殷総監の武芸……あなたの期待には答えられないと思うけれど」

 傅朱連は真っ直ぐ田庭閑を見る。

「私が聞いてるのは、咸水でのあの人の武芸の出処は、あの人の頭の中って事」


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