第六章 二十八
そんな郭斐林の懸念をよそに劉建和は笑顔を見せて言う。
「ハハ、もう徐は見つかったかなんて言う気は無いから安心してくれ。それに真武剣派にまかせっきりにする気も無いんだ」
「……劉さん、どこかへ出掛けられるのですか?」
郭斐林は劉建和に一瞥をくれるなり問い掛ける。劉建和の装いは明らかに普段着ではなくどこか遠方へ向かう旅人の様で、黒の短衣とコ(※ズボン)という出で立ちに背には包みを負っている。革の脚絆が目に留まる。上は割と質素な装いだが足元だけは上質な物の様であり結わえてある紐がきらきらと小さな光りを放っていた。
「可笑しいかい? 俺は行商人だからこれが普通なんだが」
劉建和は郭斐林が目立つ脚絆を見ていた事など気付いていない。
「武慶を離れるのですか?」
「ああ。何せ家には俺一人しか居ないんでね。息子も居ない。全部真武剣派にお任せして大人しく待っているという訳にはいかないしな。それに、外へ出ていた方が気が晴れる」
「……私達ももうすぐ息子さんの捜索に向かいます。我が派は全力を尽くして徐を追います」
郭斐林は言葉に力を込める。無論、本気であり、一気に方を付けて真武剣派の面目を改めなければならなかった。そして真武剣派が本気になればそれは容易だと考えている。
「宜しく頼む。俺は南に向かうつもりだ。徐がどっちに向かったのかは分からんが、知り合いが南方の情報に詳しいから少しばかり世話になろうと思ってな。それで暫く此処を離れる事にしたんだが、まあ恐らくあんたらが先に徐を見つける方が早いとは思う。……もし息子が無事で居たならその時は、宜しく頼みたい。秘伝書も預ける」
真武剣派が徐を捕まえて秘伝書と劉建和の息子劉馳方、それから李小絹を取り戻した時には劉建和はこの武慶に戻っていないかも知れないので、息子と秘伝書は真武剣派に預けたいという要請であった。
「分かりました」
「秘伝書はともかく、息子が無事でいる可能性は低いだろうな……」
劉建和はそう呟いたが、その顔はとても落ち着いている。きっと劉馳方が消えた時からその事は何度も何度も考えたのだろう。徐が劉建碩を殺して秘伝書を奪った時に劉馳方と李小絹に見られ、二人とも連れ去ったに違いない。徐には手下の様な男達が大勢付いているから子供二人を連れ去るのは難しい事では無かった筈だ。
『何故殺さなかったのか』という疑問もある。劉建碩と同様に殺してしまえば騒ぐ子供二人を抱えて逃亡などという困難を避ける事が出来た筈なのだが、徐が何を考えたかなど全く知る由も無かった。徐が平気で人を殺める人間だったかどうかも分からない。あの見る者を不安にさせる大きく窪んだ眼窩の奥に潜む光りは得体が知れない。
兎に角、劉馳方と李小絹の死体は見つかって居ないし、連れ去られたと思って間違い無い。ただ、徐が二人を連れて逃亡したなら、この武慶から離れれば離れる程、時間が経てば経つ程、足手纏いの子供を生かしておく意味が分からなくなってくる。
「今はただ、無事を祈るしかありません」
郭斐林も同様に考えている。李小絹が無事にこの屋敷に戻る可能性は低いかもしれない。
「なぁ、陸総帥は秘伝書に目を通したのか?」
「……その筈です。真武観に届けましたから」
郭斐林は沈痛な面持ちで目を伏せる。もうその件には触れないで――そう念じる。
「陸総帥には解ったのかな? あれが本物かどうか……。もし秘伝書が戻ったら、じっくりと陸総帥に中身を吟味して貰いたいんだ。頼んでも良いかな?」
郭斐林は少しばかり驚きの表情で劉建和を見つめる。この男はどうやら勝手に見た事を責めるつもりはない様だ。
「陸総帥が武林に於いて最も、あらゆる武芸に造詣が深いと言われている事は知っている。陸総帥に解らないなら誰にも理解出来ないという事だろう? 俺が武芸の秘伝書を持っていてもなんとか叩き売るくらいの事しか考えられないしな。本物かどうか、じっくり確かめて貰いたいんだ。本物なら買ってくれるとなお有難いな」
劉建和は笑い、郭斐林はその言葉と表情に安堵した。
「まあ、そんな訳で、宜しく頼む」
「南、ですか。今、南方の地はどこも荒れ果てていると聞いています。徐が暫く身を隠すには良いのかも知れませんね」
「どうだろうな。俺はあまり近付いた事は無いが、かなり質の悪い賊が無数に居るらしいな。フッ、徐が無事で居られればいいがな」
近年起こった大規模な洪水と飢饉は国の南部に集中していた。最も酷かったのは比較的大きな街だった安県とその周辺で、ほぼ壊滅状態と言える。都から南下する大街道が武慶を抜け安県を通って更に南に伸びている為、安県でも街道沿いの地域は徐々に人が戻り始めた様だがそこに居つくのは街道を往く人々を相手に商売をする者だけで、その他の地域は未だに土地が荒れて耕す事も容易ではなかった。都はそれらを殆ど放置しており無法地帯と呼んでもおかしくは無く、良からぬ輩が徒党を組んで旅人を襲い始めるのは当然の様に考えられた。
「城南に向かう。あそこまで行けばそれほど危険では無いらしくてね。都もあそこだけは押さえておきたいんだろう。役人もかなり送り込まれているそうだし、元々あそこには強力な組織がある。自警団の様なものが発達しているらしい」
「城南……稟施会ですか」
「ああ。俺はそこが国外との交易を仕切っている組織、位しか知らないんだが、何か知ってるかい?」
どんな組織にも表裏が多少なりともあるものだ。交易を行う組織というのは広く一般に知られている情報だが、真武剣派ならば人やその動きを別の視点から見るのではないかと劉建和は思っている。武林の他の門派なら活動の分野がまるっきり違い、あまり興味を持たないかも知れないが、真武剣派は、陸皓は、違う筈だ。
「特に不審な点は無いのではありませんか? 少なくとも私の耳には何も入ってきていません」
郭斐林の表情は至って普段と変わりなく、多分正直な答えだろう。武慶と城南はかなりの距離があり、それに稟施会は武芸の門派ではない。意外に真武剣派もそれほど注目はしていないという事だろうか。ただ郭斐林が聞いていないというだけかも知れないが。
「知り合いが城南の人間なんでね。付いていって色々見てこようと思った訳だ。それにあそこでは国内の様々な情報が仕入れられるという。うちの息子や此処の――」
「李小絹です」
「そう、その娘の名は出ないかも知れないが、秘伝書の噂くらいは分かるだろうと言ってる。ま、国の端だからどんなにその稟施会が凄くても情報は遅れるだろうが、徐が南へ向かう可能性もある訳だから、行ってみる価値はある」
「そうですか。我が派も私の兄弟子である杜越原が南方を当たる手筈になっています。道中は危険が多いでしょうから、宜しければ杜師兄と共に――」
「いや、いい。好きにさせて貰いたい」
劉建和は掌を郭斐林に突き出して強く拒む。
「とりあえず、秘伝書と息子の事を頼みに来ただけだ。……宜しく頼む。人を待たせてあるので、失礼する」
郭斐林は頷いた。
「承知致しました」
劉建和は頷き返してから踵を返し、早足で部屋を去って行った。
正直なところ、郭斐林の願いは李小絹を無事に取り戻す事で、秘伝書の事はあまり考えていなかった。劉馳方は李小絹が無事ならきっと一緒に居るだろう。『ついで』とまでは言わないが、それで問題は無い筈だ。
弟子達の『小絹を救い出したい』という気持ちは強い。武慶を離れる準備はもう出来ていた。
白千風の屋敷を出た劉建和はその足で知り合いの薩という男が営む小さな居酒屋へと向かった。
真武剣派の英雄大会の間この武慶は晴天に恵まれていたが、次第に増えてきた灰色の雲が空を覆い隠し始めている。