第六章 二十七
傅朱蓮は考え込む。殷汪も林汪迦も方崖に居た。そこで二人に何があったのかなど全く窺い知れない。親しかった殷汪がどのような生活をしていたのかさえ分からないのだ。林汪迦ととても親しくしていたとしてもおかしくはない。
(あっ、殷兄さんはもう随分前にあの夏って人と入れ替わってたじゃないの。あの人の方が方崖に長く居たのだから林汪迦と親しかったのはあの人の可能性が高い。そうよ、きっとそうだわ)
ふと別の考えが頭に浮かぶ。
(殷兄さんが方崖に短い間しか居なかったのなら、私達は殷兄さんを見つけてどうすればいいのかしら? 今の方崖の事なんて全く知らないかも知れないのに……)
「ん? どないしたんや?」
「狗さん。私達、殷兄さんを見つけて何が出来るのかしら? 方崖の人達は鏢局を襲ったのが自分達でも、本当は全く関係無くても、『知らない』としか言わないんじゃないの?」
「んー、そやなぁ。方崖に乗り込んでほんまに知らんのかどうかはっきりさせなあかん。張新捕まえてな。殷なら出来そうやで?」
狗不死は事も無げに言うが、実際方崖に乗り込んで張新に問い質すなど、今の所あまり現実的ではない。乗り込むというのは『攻め入る』のと変わらないのだ。
「つまり、無理やり張新って人を捕まえるって事よね? 方崖で。……殷兄さんに切り込んでもらうって?」
傅朱蓮は言ってから深い溜息を漏らして俯いた。結局自分も、殷汪に期待するところはそういう事なのだ。勿論、殷汪が方崖に僅かしか居なかったとしても何らかの繋がりが今でもあって情報を得ている可能性もあるし、自分達よりも殷汪の方が詳しいであろう北辰の人物や決して方崖の外に出ることは無い内部にある『何か』を手掛かりにする事も出来るかも知れない。それでも――やはり殷汪といえば不敗の武芸なのだ。そんな人物が見方に居ればこれほど心強い事は無い。方崖に行けば抵抗があるだろう。そこは教主の居城でありかなりの手錬が守っている。とても自分達では太刀打ち出来そうに無い。しかし、殷汪ならどうだろう? 全てを切り伏せるのではないか? 咸水の時の様に――。
方崖を自らの意思で離れた殷汪を再びあの地に向かわせるなど、出来る事だろうか? 傅朱蓮は考えながら力無く首を横に振った。
「私達は殷兄さんを使いたいから、探すのね……。私は、殷兄さんを……」
「朱蓮」
狗不死が穏やかな声で呼びかける。
「長いこと会ってへんやないか。会いたいんやろ? 殷に。そんでええ。そんでええんや。いっぺんに全部考えてもしゃあない。殷は『物』と違う。なんか考えるがな。口もあるんや。何か言うがな。話すことは一杯あるんやろ?」
傅朱蓮が顔を上げると狗不死は笑う。顔中が皺だらけで前歯だけが無い口元を薄く開いたこの顔はたやすく人を笑わせる事が出来る。傅朱蓮はもう見飽きる程見てきたが、それでも頬を緩めずには居られない。
「ほれ、早よ行こ。ちょっと寄り道が長なったけどな。せっかく木道長に会うたのに、もっと話を聞き出したら良かったなぁ」
「そうね。多分私の知らない殷兄さんの話、まだまだご存知なんでしょうね」
「さっき聞いてきたんやけど、もう此処を発ったらしいで。もっとゆっくりしてったらええのにな」
「えっ、そうなの? でも木道長様よ? きっと『私達』よりずーっとお忙しいに決まってるじゃない」
「んん? 儂等も忙しいでぇ。ほれ、さっさと行かんと」
「私は今日半日ずっと狗さんを待ってるだけだったのよ? いつでもどうぞ。本当にもう良いの?」
「あっ、そや」
狗不死はまた何かを思い出した様で、傅朱蓮は再び溜息を洩らす事になる。
「……まだ何かある訳? 狗さん、これじゃあいつまで経っても――」
「ちゃうがな。出る時にちょっと寄って行きたいとこあるんや。ほれ、真武観に怒鳴り込んできたあの爺さんとこや」
二人はその後すぐに荷物をまとめ、宿を後にする。傅朱蓮と狗不死の二人旅は、どちらも旅には慣れていて大形な準備も何も無く、狗不死が妙な物に興味を抱いて足を止めない限りは順調に進んでいた。狗不死が真武剣派の英雄大会の事を口にした時、傅朱蓮は(何て間の悪い)と観念するしか無かった。人があれだけ集まっているというだけでも狗不死が放って置く筈が無い。しかし今となっては来て良かったと傅朱蓮は思う。計らずも范凱と木傀風に会う事が出来たのだ。どうせならもっとじっくり話をしたかったが、自分の如きは一介の娘に過ぎない。真武観の宴席に上がれたのも狗不死と共に居たからというだけで、これ以上は望むべくも無かった。
「爺さん、気の毒になぁ。下手人捕まえて懲らしめなあかん」
狗不死はそんな事を言いながら馬を進めている。向かっているのは洪淑華の秘伝書らしいという書の持ち主だった劉老人の屋敷だ。傅朱蓮が『家を知っているのか』と聞くと、すでにしっかり誰かから聞いておいた様で、迷う様子も無く進んで行く。狗不死が言うには全くのいい加減な寄り道などはしておらず、出来るだけ無駄を無くした寄り道を心掛けているそうだが、他人にはどちらでも同じに思える。兎に角、それが狗不死の江湖の歩き方という訳だ。
しかしながら、どうやら今回は明らかに無駄足になってしまった様である。劉建碩の屋敷まで来たものの誰も居らず、近くを通りかかった住人が言うには朝の内に出掛けて行ったらしい。
「何の用だったの?」
傅朱蓮が狗不死に訊ねる。
「いや、秘伝書奪っていった男っちゅうんは、真武観に爺さんと一緒に来た奴らしいんや。親しかったんならよう知っとるやろし、まぁ色々聞いとこかなぁ思てな」
「顔、覚えてるの?」
「何人も居ったしなぁ。どれやろ?」
「私は全然覚えてないわ。一人も」
「ま、ええわ」
狗不死はあっさりと諦めて自分の馬の手綱を取る。
「どっかで秘伝書の噂でもあったら何とか辿れるやろ」
「なるほどね。秘伝書を取り戻して読んでから真武剣派に返して恩も売れるって訳ね?」
「何で真武剣やねん。此処に返すんやで? 爺さんの息子も此処に居るっちゅう話や」
「じゃあ、お礼が貰えるのね?」
「……朱蓮、人の気持ちを無駄にしたらあかんで? 有難く受け取っとく。そんでええんや」
まだ下手人が誰なのかも知らないというのに狗不死は大真面目に話している。
(ああ、また狗さんを誘惑して旅の邪魔をする奴が現れたのね……。真武剣派がもう追ってる筈だけど、さっさと捕まえて欲しいものだわ)
傅朱蓮も馬に乗る。ずっと以前、東淵を初めて出た時から共に旅をしてきた愛馬、飛雪。もう若くは無い馬だが、どうやら今回はかなりの距離を歩いてもらう事になりそうだ。
「じゃあ、もう良いのね?」
「ええで。行こ」
二人は劉建碩の屋敷を後にして、街の西門へと向かう。次は何処の町と決めている訳ではないが、武慶を出て暫く行けば自然に決まるだろう。
暫く西へ向かう。景北港から遠く離れた地。離れれば離れるほど殷兄さんに会えそうな気がする――傅朱蓮の期待も西に行けば行くほど高まっていく。
傅朱蓮と狗不死が武慶の西門を出た丁度その頃、真武剣派、白千風の屋敷を劉建和が訪れていた。白千風は屋敷には居らず、最初に応対した弟子は郭斐林の処へ劉建和を案内した。
「劉さん?」
突然訪れた劉建和に郭斐林は何かあったのかと不安になった。