第六章 二十六
普通なら誰もが北辰の仕業と確信するところを、自分はどうにかその結論を避けられないかと考えていたと言うのである。
傅朱蓮は理解している。北辰教に真っ向から対峙すれば如何な勢力であろうとも無事で済む筈も無く、必ず浅からぬ傷を負う事になろう。范凱は幇主なのだ。全ての判断において慎重にならざるを得ない。
「では……今後はこの件に関して真武剣派が動き出す事になるのでしょうね?」
「今すでに動いているのかもしれませんが、まだそれは僅かなものでしょう。今後は分かりませんが、当分はそう大きく変わらないと思います。我が幇が積極的に動く事はまだ難しい。真武剣派が何らかの動きを見せればそれをきっかけに出来る事が増えるでしょう。情けない話ですが、真武剣派に頼る事になりそうです」
「范幇主、私には何の力もありませんから、引き続き……殷兄さんを探すしかありません」
傅朱蓮は微笑を浮かべて范凱の沈んだ気分を和らげようと試みたが、却って范凱はその表情を歪めた。
「申し訳ない。本来我々の問題であるというのにあなたにそこまでして頂いて、私は己の不甲斐無さに恥じ入るしかありません」
「私は、自分のやりたい事をしているだけです。狗さんも同じ。私は……殷兄さんに会いたいんです」
再び傅朱蓮は范凱に微笑み、ようやく范凱もその表情を和らげた。
「もう、此処を出られるのですかな?」
「狗さんがまた出掛けてしまって……戻ったら出ようかと」
「ハハ、あの狗不死様は実に奔放な方です。あなたでなければ狗不死様を……いや、私如きにはとても口に出来ませぬ。ハハ」
丐幇の前幇主、狗不死を『狗さん』と呼んで対等に口を利く者を范凱は他に知らない。それだけで傅朱蓮は只者ではないと言う事が出来る。
「私もそろそろ緑恒に戻りたいのですが、中々陸総帥のお許しが出ないのですよ。ただ、例の秘伝書を持って逃げた男について我が幇でも調べて欲しいと直々に依頼されたので、そろそろ開放して貰えるとは思いますが」
「洪淑華ご先輩の秘伝書……もし本物なら私も見てみたいものです。女性の身でありながら武林に名を馳せたお方ですから。襄統派も代々女性が継いでおられます。同じ女性だからといって肩を並べたいなどと言うのは痴がましい限りですが、やはり憧れずには居られません」
傅朱蓮は顔を上げて背を伸ばし、前方を見据えている。凛々しく整ったその横顔を見た范凱は眩しそうに目を細めて微笑んだ。
「洪淑華という人物は、出家して仏門に入られた襄統派歴代掌門の方々とは違って剣一本で江湖を渡り歩いた大女侠であったと伝えられています。東涼黄龍門の名を掲げたのは随分歳を重ねた後の事らしいですから、きっと、若い頃はあなたの様な方だったのでしょう」
范凱の言葉に傅朱蓮は慌てた。もし他の人に聞かれていれば、きっと鼻で笑われてしまうに違いない。その辺にいるこの宿の客ですら洪淑華の名は知っているだろう。
「とっ、とんでもありません。私などと……」
顔を赤くして言う傅朱蓮を相変わらず笑顔で見つめる范凱。傅朱蓮の顔は益々紅潮していく。とんでもない話だ。しかし、そう言われて嬉しい気持ちも確かにある。
(そうであったならこれほど嬉しい事は無い。洪淑華という女性の様に、強く生きたい。それが、私の望み――)
「それでは私はそろそろ戻らねばなりません。狗不死様にご挨拶しておきたかったのですが……仕方ありません。どうか宜しくお伝え下され。それから、道中くれぐれもお気をつけて……。是非緑恒へもお越し頂きたい。朱さんや楊迅、それに倅も喜びましょう」
「あっ、……はい。いずれ必ず」
「……倅はあなたとそれほど歳も違わぬというに図体だけがでかくなるばかりで中身は……あなたを見習わせたいものだ」
「ハハ……」
范凱は立ち上がり、傅朱蓮に体を向ける。背筋を伸ばし高々と腕を上げて抱拳してみせる、威厳に満ちた風格の大男。
(フフ、ちょっとこういうの、気分良いかもね)
傅朱蓮は范凱の礼を受けながら平静を装いつつ心の中で呟いた。
狗不死は意外に早く宿へと戻ってきた。丐幇の幇主、休達と会っていたのは確かな様だが、話の内容には一切触れない。普段の狗不死の態度からしてきっと適当に話を聞き流していただけだろうと傅朱蓮は勝手に想像している。
「どないする? もう此処に用は無いな」
「私は元々無かったけど?」
狗不死は首を竦めて唇を突き出す。この丐幇前幇主には『威厳』とかそういった概念は全く無いのかもしれない。
(どういう人生を送ればこういう老人が出来上がるのかしら? 木道長も陸総帥も全く雰囲気が違うけど、面白いものね)
「何や?」
「何でもないわ。狗さん、范幇主が来られたのよ、此処に」
「あぁ、そうか」
傅朱蓮は先程の范凱の話を伝える。狗不死は別段驚く様子もなく聞いていた。
「そら、喧嘩吹っ掛ける様なもんやなぁ。持って来たんが林やなかったらすぐ追いかけて捕まえとるな」
「捕まえてどうするの?」
「そら、誰が持っていけ言うたんか、とか聞くことは色々あるやろ。ま、林を使ったいうだけで怪しいけどな」
「他の人では、真武観になんて怖くて入れないと思うけど。特にあの日は」
「ハハ、そやな」
確かに北辰が真武観に使者を立てるとなれば林汪迦の様によく知られていて、腕の立つ人物でなければならない。そうでなければ全く相手にされないか、若しくはあっさり殺されてしまう可能性が大きい。使者を切るなどという事をするのは北辰教くらいのものだが、自分達が平気で行える事は相手がしてもおかしくないと考えている。適当に選んだ教徒の中の下っ端が消されたところで方崖は痛くも痒くもないに違いないが、わざわざ武慶に遣わすのなら少しくらいの威嚇効果はある方が良いだろう。北辰教の七星、林汪迦は妥当な人選だと言える。
「林……汪迦か。ようあんなん名乗ったなぁ。確かあの名前使い出したん最近や。多分、殷汪が死んでもうたからやで」
「……じゃあ方崖は信じてるのね。死んだって……」
「そうやろな。ん? いや、どやろ? 汪迦やで? 今から汪に会うっちゅう意味かも知れへんで」
「えっ? そういう……意味なの?」
「字ひっくり返してごまかしとるつもりか知れへんけど、『汪に会いたい』言うてんのやろ? あいつ……惚れとったんか?」
「私が知る訳ないでしょ。方崖の事なんか何も……」