第六章 二十五
一変して真剣な表情に戻った木傀風は郭斐林の目を真っ直ぐに見て言う。
「この事は一切、他に知られぬ様にな。言うまでも無い事だが名立たる一門の弟子、とりわけそなたの様に総帥の直弟子が他所の武芸を漁っておるなどと噂になればただでは済まぬ」
「それは充分に承知致しております。それに……我が師の武芸と全く無関係ではないのではと……」
郭斐林は木傀風の様子を窺う。
(ほう……)
木傀風は郭斐林の読みに少し驚いていたが面には微塵も出してはいなかった。
木傀風は翌日に陸皓に会いに行き、その後武慶を出る事になった。
「儂はまたこの中原に戻る事にしておる。山で仕事を済ませてからのう」
この武慶に来るとは言っていないが、恐らくまた顔を出すに違いない。すぐに清稜山に戻るという申し出で最初は驚いたが、再び会える日はそう遠くないだろうと考えて郭斐林は納得した。山での仕事というのはきっと清稜派の掌門の責を弟子に渡すという事に違いない。木傀風には董仰、董杢という二人の弟子がある。兄弟揃って人品に優れ、今ではそれぞれが多くの弟子を教えている。どちらも木傀風の跡目に相応しい人物だと目されているが、ここはおそらく順当に兄の董仰が次の掌門、董道長と呼ばれる事になるだろう。
それにしても木傀風は今まで全く清稜派掌門を弟子に渡すなど考えていないかのように振舞っていたのに、突然そんな事を言い出したのは本当に狗不死のせいだろうか? 昔の様に江湖を気侭に旅してみたくなったのだろうか? もしそうなら、木傀風は本当に自らの年齢、体の事を気にしだしたのかもしれない。無限に生きる人間など居る筈もないが、郭斐林は木傀風との古い思い出を振り返り感慨に浸るのだった。
真武観から程近くにある宿の一室で、傅朱蓮は狗不死が戻るのを待っている。真武観を最初に訪れてから狗不死は丐幇の現幇主である休達から『話を聞いてくれ』と付き纏われ、適当にあしらっては逃げ続けていたのだが、武慶を離れるまでに一度はちゃんと会ってやろうと言い出して出掛けて行った。
この宿は英雄大会の初日、人が最も多かった時だが当然部屋は空いていなかった。それを狗不死は無理やり一部屋自分達の為に用意させたのだった。一体何を言ったのかは知らないが、普通では考えられない。傅朱蓮は只々呆れるばかりであった。狗不死という老人の出鱈目っぷりと何故かそれを受け入れてしまう人を、いや、江湖をであろうか。
傅朱蓮は何度もこの武慶を出ようと狗不死に訴えていたが『今日は誰々に会ってくる』と言って中々此処を離れようとしなかった。傅朱蓮は基本的に旅をする時は一人であり、狗不死をおいて行こうかとも考えたが、今回の旅は今までと違うものにしなければならない。一人では今までと同じだ。狗不死には各地に人脈と自分には無い土地に関する知識がある。人探しの手掛かりが一人の時よりも掴みやすくなるだろう。そう考えて待っていたのだ。ようやく狗不死が『そろそろ行くか』と言い出して傅朱蓮は喜んだが、朝、『達に会ってくる』と言いまた出てしまった。昼までに戻れば今日この武慶を離れられるが、遅くなれば明日だ。傅朱蓮は頬杖をついてぼんやりと窓の外を眺めていた。
「失礼します。あのー、狗様?」
部屋の外から狗不死に呼びかける声。宿の者だ。
「……居ませんよ。出ています」
傅朱蓮は同じ体勢のまま扉の向こうに答える。
「あっ、あのーお客様でして。范と申される方が来られておりますが……」
「えっ? 范……あ、行きます。下?」
「ええ。下でお待ちになっておられます」
「分かりました。すぐ行きますから」
傅朱蓮はすぐに立ち上がり、壁に掛かったあまり綺麗とは言えない鏡を覗き込んでから部屋を出た。部屋を出てすぐの所から下の様子が窺える。入り口の近くに立つ大男。范凱だった。
「もしや、もう出立されたのではないかと思っておりました」
范凱はそう言って優しい眼差しを傅朱蓮に向ける。傍に立てば圧倒されそうな大きな体躯だが、いつも落ち着いた低い声と柔らかい微笑を浮かべている。無論、何があってもこの顔で居られる訳では無いだろう。千河幇で幇主をしているのだから険しい表情も、それに怒る時もあるだろう。怒りが爆発したら一体どんな風になるだろうか? 慣れた者でなければ腰を抜かして慌てふためくだろうか? 怒り狂った范凱を見てみたい気もするが、それは絶対に自分ではなく他人が怒られている様子をどこかからそっと覗き見るという状況でなくてはならない。
「傅さん、どうなされた?」
范凱が傅朱蓮をじっと見ている。傅朱蓮も范凱をじっと見つめている。范凱に呼び掛けられ、はっと我に返った。
「えっ、いえ、何でもありません」
「もう聞いておられるかも知れませんが、一応、お話しておかねばならない事があって来たのです」
范凱は真剣な面持ちだった。
傅朱蓮と范凱は宿の一階に並んでいる卓に着いた。周りには他の客も居たが疎らだ。范凱が周りを一瞥してから話し始める。
「真武観での英雄大会の初日、北辰の林玉賦が……今は林汪迦ですね。あの者が教主からの祝いの品と称して持参した数点の箱、あれの一部はうちのヒョウ局が真武剣派に方崖に運ぶよう依頼された品であったそうです」
傅朱蓮は目を見開いて再び范凱を見つめたが、言葉が咄嗟に出ない。范凱は続ける。
「陸総帥に呼ばれましてね。『これは我が派を挑発しているのだ』と――。総帥は落ち着いていましたが、恐らく放っておく気は無いでしょう。今すぐにどうこうするという訳ではないでしょうが……例の東涼の秘伝とやらが思わぬ大事になってきている様ですから」
「ではこれで……北辰の仕業である事がはっきりしたのですね?」
「その品が元々真武剣派の物であったという認識が教主には無かった、と言うことも出来ます。林が真武観に現れたのは本当に陶教主の指示であったのかという疑問もあります。しかし――」
范凱は少し間を置いてから、ゆっくりと息を吐き出す。
「フッ、私は北辰と対峙する事を心のどこかで恐れていたのです。近年は穏やかになったとは言うものの、やはり北辰教というのは何をするか分からない危険な存在に違いない。私は今の陶教主が幼い頃から知っているので、彼自身が危険なのでは無い事は良く分かっています。しかし今の北辰を動かすのは教主を取り囲むようにして方崖に居る幹部達なのです。前教主を崇拝していた長老衆はやはり過激な人物揃い。陶教主はきっと太乙北辰教が江湖に覇を唱えるという父の悲願を受け継ぐようにと言われ続けている筈です。前教主が亡くなったからといって、北辰全体の意思はきっと大人しくなどなっていないのです」
傅朱蓮は神妙にして范凱の話を聞いている。北辰に関する話を身近に感じてしまうのはやはり自分が東淵の人間で北辰に近い生活を送ってきたからだろうか。しかし傅の家は北辰教徒ではなく、そのように振舞った事も無い。北辰の本拠に近い場所に住まうというだけで自分もその一員である様な本来望んでいない感覚と、朱不尽の鏢局を襲ったのが北辰教徒でほぼ間違いないという現実が相まって、何とも言えない嫌な気分が胸中に湧き上がってくる。
「賊を仕留めて荷を奪い返したというのなら、真武剣派にそっくり返すのが普通で、その賊が何者であったのか、知らせるべきだったのです。それをしないという時点で、疑いようが無かった。私としたことが、何とも情けない……」