第六章 二十三
「范凱どの」
陸皓が范凱に体を向ける。
「まったく情け無い事じゃ。我が派は方々からわざわざ人を招いて恥を晒した様なもの。真武剣派など、この程度のものであったという訳じゃ。……范凱どの、恥を忍んで范凱幇主にお力をお借りしたい」
「……何でございましょう?」
范凱は一瞬、眉を顰めたが、すぐに取り繕って怪訝そうな表情を消した。
「この徐という者、秘伝書をどうするつもりか知らぬが、もし……東に逃げれば我等は動きにくくなるであろうのう」
(東? 我が幇か? ……北辰か)
「東方についてはやはり我等はまだまだ疎いと言わざるを得んでのう。北へ向かうかも知れぬし、或いは東涼へ還るやも知れぬな。巡り合わせは異なもの。范凱どののお手を煩わせる訳にはいかぬが、いやなに、少しばかり気に留めておいて貰えれば有難いのう。東涼の秘伝書をのう」
(……我らに手伝わせてすでにお互い気脈を通じていると知らしめる為か)
「どうかお願い出来ぬかのう?」
「……分かりました。その男、いや、集団でしたかな? 欲の為に人の命まで奪う様な輩を追うのは当然の事。私もこの話を耳にした以上、見過ごす訳には参りませぬ」
「有難い事じゃ。范凱どの……有難い」
陸皓はそう言って笑う。范凱も合わせて頬を緩めたが、何か、やや重苦しいものを胸の内に感じていた。
暫く范凱を交えてこの件について話し、その後陸皓と白千雲だけを残して他は部屋を辞去した。
「……奴等の手に渡るでしょうか?」
「さて……他に買い手が見つかるかのう? まともな者は手は出すまい」
「しかし、今までに繋がりは無かったようですが」
「徐とやらが賢ければ、まず北じゃろう。国の外では無駄じゃな。ただの紙くずに過ぎん」
「……范凱どのはまったく抵抗する様子はありませぬな」
「フ……しかし、これ以上は危うい。あの男はただの大男では無い事は確かじゃ。慎重にな」
「はい」
「では儂は客の相手をしてこようかのう。あまりこの件に執着されるのは困りもんじゃ」
「狗不死様が色々聞きたがって居られる様ですが」
「あれか……さすがに奴は厄介だのう。どうやらまたすぐ何処かへ行くとか言うておったし、そうじゃな、奴にも頼んでおくとしよう。あれは単純じゃが……。千雲、お前は何も言うな? あれをうまく扱える者はこの江湖にごく僅かしかおらんでのう」
「ハハ、心得ております。……師父、狗不死様に同行している東淵の傅家の娘にはお会いになられましたか?」
「逆であろう? 狗があの娘についてまわっておるのじゃ。初めて会うたが、少しばかり変わった娘じゃのう。フン、幼い頃から洪破天だの殷汪だの、それに狗不死か。あれらと付き合っておればまあまともにはなるまい。お前は会うた事があるのか?」
「あの娘、襄統の悌秀師太とも親しいようです。至東山を訪れた折、あの娘が暫く客分として滞在しておりました」
「ほう……。あの若さでのう。何をしておるのじゃろうな?」
「……今、狗不死様と共に旅をしていると申しておりましたが、どうやら人探しの様です。それを范凱どのと話しておりました」。
「フン、殷汪であろう? ……そう簡単には見つかるまいて」
「……殷汪は、生きていると?」
「当り前じゃ! お前は知らんじゃろうが、あれは、死なぬ。まだじゃ……」
白千雲はそう呟く陸皓を見つめたが、一体何故そう思うのかがどうも分からない。陸皓が口にしない過去をどうにか知る事は出来ないものかと、思案していた。
数日間、真武剣派は自ら呼び寄せた遠来の客をもてなしてきたが、徐々に客の方が気を使い始め、早々と帰って行く者が増えてきた。真武剣派は随分気を使って例の秘伝書や劉建碩に関わる話題を避けるが、特に追求したいと思っている訳では無い客の方がその雰囲気に気が重くなる様だった。勿論、中には疑いの気持ちを抱いてすぐに武慶を離れた者もあったが、それらはまだ真武剣派が憂慮する程影響力を持った者達ではなかった。
庭に木傀風が居たのを見かけた郭斐林は暫くその様子を眺めてから自分も庭に降りた。
「道長様」
木傀風はすぐに振り返り、頷いた。
「うん」
「この庭も冬は寂しいものです。特に今年は一段と寒いのでこの様な有様。恥ずかしながら私共は季節の花や木々に疎くてこのようなみすぼらしい庭になってしまいます」
すっかり葉の落ちた木々を眺めている木傀風の傍らに立ち、郭斐林ははにかんだ。
「どうかのう? この木はみすぼらしいか? 儂には一年の内で最もこの命が力を増している様に思えるがのう。木や花というものは強いものだ。命を脅かす苦難の中に常にその身を晒しておるが、必ず毎年色を付けて我等を和ませてくれる。人ではこうはいかぬ」
木傀風は幹に手を触れて、目を細めている。そして固さを確かめるかのように指に力を込める。
「儂の手の方が枯れかかっておるのう」
「まさか……そのような事は――」
「斐林、世話になった。我等もそろそろ山へ戻ろうと思う」
「えっ? もう……」
「そなたもこれから忙しくなるのだろう? そうゆっくりもして居られまい」
郭斐林は顔を伏せる。徐を追わねばならないのだ。自分達の浅はかな行いが問題となり、更には木傀風にまで気を使わせてしまう事になろうとは。郭斐林は俯いたまま、拳を握り締めた。
「あの男は儂も顔は覚えておる。施慧も、武大達もな。帰りに見つけたら捕まえて連れて来よう。見つけたら、のう」
「……道長様、申し訳ございません」
「何を謝る事がある? そう気に病むな。暫く陸の許を離れて自由に出来るのだろう? 良いではないか」
木傀風は笑っている。郭斐林は一緒に笑うわけにはいかないのだが、頬が緩んで苦笑いとなった。
「儂ももう一度、この江湖を見て廻っておきたいのだ。動けぬ様になるまでにのう。それには……しておかねばならぬ事があるしな。帰りは真っ直ぐ清稜に帰るつもりでいる」
「それでは……道長様は……」
木傀風はニヤリと笑い、顔の皺が一層深くなった。
「全く……儂は死ぬまで清稜派をまとめていくつもりであったがのう、狗のせいじゃ」
「狗不死様?」
「あれは早々と丐幇幇主の名を後進に渡して、好き勝手ばかりしておる。全くもって……羨ましい」
そう言って口をひん曲げる木傀風に、思わず郭斐林は吹き出してしまう。
今の若い世代から見ればこの武林の長老はどちらかと言うと生真面目な人物として通っている。それは、特別派手な事を好む訳ではない木傀風があまり目立ってはいないというだけなのだが、木傀風と同世代、或いは郭斐林の様に昔からよく知っている者にはその人物評は当たらない。そんな目立たない人間がこの武林に名を轟かせるなどというのは矛盾している。木傀風や陸皓、狗不死らは歳が近く、この三人は現在、紛れも無くこの武林の重鎮と言える。狗不死の言動が『重鎮』らしいか? というと多少疑問に思えるが、木傀風と陸皓の名が並ぶとすれば、必ず狗不死の名も挙がるのだ。時が経つに連れて徐々に老人が孫に語る昔話になりつつあるが、いずれも若い時に国中を旅しながら自らを鍛え、未だその身の在りかが定まらないという時に、その名を成したのである。