第六章 二十二
「……息子はまだ帰ってない」
「小絹もです」
「……」
沈黙が流れる。郭斐林も劉建和も同じ事を考えていた。
(まだ戻らないのは、巻き込まれた……)
「劉さん」
郭斐林が一歩進み出る。
「この状況では、私が最もこの事件に近いのは確か。しかしながら、この所業、私共では断じてございません」
「フッ」
劉建和は小さく笑った。
「今のところ、俺もそう思ってるんだ。実は、その秘伝書とやらが消えた」
郭斐林は僅かに眉を顰めたが、既に予想していた事だ。秘伝書を奪う為――。
「それから、この街のごろつき共も結構な数が消えたよ」
「えっ?」
「今日、真武観に爺さんと一緒に乗り込んだ奴等さ。あんた、見たかい?」
「……徐という男ですね」
「その取り巻きとな」
「それでは……」
「普通に考えれば、そうだな。奴等としか思えん。だが――」
「これでは余りにもあからさま過ぎる、と、今話していた所なんですよ」
劉建和の言葉を引き継ぐように、傍らに居た男が不意に口を開いた。
「私はこちらの劉さんの知人で、周維と申します。真武剣派の高弟であられる郭斐林様にお目に掛かれて光栄です」
郭斐林は急に話しに入って来た男を一通り眺めて、軽く会釈をした。
「まずは真武剣派はどうか? と考えました。真武観にまで乗り込んだのですから、真武剣派の皆様はさぞかし気分を害されたことでしょう」
周維は閉じた扇子を手許で弄びながら、郭斐林を見つめて話す。
「しかしながら、これも短絡な発想ですね。お許し下さい。とにかく犯人が誰であれ、この凶行を隠しもしないとは、まったく意外な事です。あの徐という男は、先ほどお役人が確認に行かれましたがすぐに姿を消した様です。『自分が盗った』と言っている様なものですよ。あの男、そんなにあの秘伝書が欲しかったんでしょうか? 奪うにしても、もう少し計画を練っても良さそうなものです」
周維はやはり郭斐林から目を離さない。口では徐が疑わしいと言いつつ、その目は真武剣派の容疑は消えた訳ではないと言っている。
「計画が稚拙でぼろを出した、という様な状況ではありませんからこれは……逆に複雑な何かがあるのでしょうか?」
(何故、それを私に聞く?)
郭斐林は不快に思いながらも表情には全く出さずに、
「私共はまずうちの李小絹を探します。きっと息子さんと一緒の筈です。それから、徐を追う手配を致します」
「それは、助かるな。真武剣が人を出してくれれば俺が方々を訪ねて廻るよりも遥かに効率が良い」
劉建和はそう言って、再び寝台の傍に腰を下ろした。普通に話している様だが、やはりどこか力が入らない、そんな様子である。
「真武剣派は必ず、全力で徐を見つけ出します」
郭斐林の力の籠もったこの宣言に、ただ、薄く笑うだけであった。
郭斐林は孔秦らに、まず屋敷に戻って他の弟子達と李小絹を探す様に命じ、それから一人で徐がねぐらにしている環龍客桟へと向かった。
この環龍客桟の正面には常に数人の男がたむろしていたのだが、やはり今は見当たらない。中に入ると女が一人、店番の様にして座っていたがそれ以外は誰も居らず、宿の主人である紅玉麗も姿が見えない。女は『居ない、知らない』を繰り返すばかりで埒が明かなかった。
すぐに李小絹の捜索が開始された。李小絹は殆どの弟子達と親しく、弟子達は次々に李小絹の居そうな場所、好んでいる場所を挙げて捜索に向かうものの一向にその行方は知れない。皆、慣れない寒さの中、武慶中を探しまわるが、夜も更けて来た頃、どうやらこの街には居そうに無いと思い始めていた。
「小絹、小絹が……」
呉程青は涙を見せて呟く。普段泣き顔など一切見せる事の無い呉程青だが、夜を徹して探し廻って疲れ果て、ただ李小絹の名を呼んでさめざめと泣き続けていた。
「皆、もう休め。まだ我が派の英雄大会は終わってはおらぬからな、そちらに支障があってはならん」
郭斐林と他数名はまだ戻ってはいなかったが、白千風は先に戻った弟子達を部屋に集めて言う。弟子達は疲れきった様子で肩を落としてうなだれていた。李小絹はまだ正式な弟子では無いが誰もが妹の様に思い接してきた。このまま放っておくわけにはいかない。しかし今は英雄大会を疎かに出来ないのだ。弟子達も良く分かっていた。真武剣派にとってこの件はあきらかに失態である。しかも武林の名立たる名士をこの武慶に招待している今、このような事が起きるなど、下手をすれば体面を失いかねない。『秘伝書を借りた』という事だけでもすでに問題がある。それに加えて劉建碩の死は痛恨の極みであろう。一体、武林にどのような話が広まる事になるのか、想像するに難くない。
郭斐林が屋敷に戻って来たのは、弟子達が自室に戻ってから随分後だった。
「兄さん、私の責任です。……御免なさい」
沈痛な面持ちで詫びる郭斐林の肩に白千風はそっと手を置く。郭斐林は目を閉じて俯いた。
「師父に、何とお詫びすれば……」
「お前のせいではない。あの秘伝書を借りると言ったのはこの私だ。私が軽率だったのだ。……あの娘、小絹の事は私が師父にご報告する。……師妹、心配するな。明日も真武観だ。少しでも休んでおこう」
「総帥がお呼びでございます」
真武観で客と話していた郭斐林は陸皓に呼ばれ、総帥の部屋へ向かった。
「郭斐林が参りました」
「入れ」
郭斐林に命じたその声は白千雲のものだった。
中に入ると、白千雲、杜越原、白千風の三人と、何故か緑恒千河幇幇主の范凱が居た。正面には陸皓が、黙ったまま郭斐林をじっと見つめている。郭斐林はすぐにでも陸皓に詫びようと考えていたが、部外者である范凱も居る為、躊躇していた。すると陸皓が話し始める。意外にも優しい声だった。
「斐林、何としても徐と申す男を見つけ出して劉殿の品を取り戻さねばのう」
「は、はい!」
「お前はその男を知っておるのか?」
「あ、いえ、環龍にたむろするならず者で、顔は何度か見かけて覚えておりました」
「人相書きを用意せよ。この英雄大会の後、お前達は……この武慶に居る必要は無い」
「えっ?」
郭斐林は驚いて思わず声をあげる。
「師妹、可能な限り迅速にこの件は終わらせねばならん。すでに都の常源には知らせを出した。都だけでなくその周辺でも東涼黄龍の秘伝書の噂が無いか調べるようにな。私もこちらが片付き次第、すぐ戻る。全てを尽くして徐を追う」
白千雲が言うと、杜越原、白千風も頷いた。杜越原は前日まで一切を知らなかったが、つい今しがた説明を聞いたところだった。