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流浪一天  作者: Lotus
第二章
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第二章 二


 二十一

 

 スッと短く息を吸ったかと思うと突如、傅朱蓮ふしゅれんは立ち上がり弓を引き絞った。范撞はんどうがやって見せたのと全く同じ、目一杯弓が撓っている。しかし狙いが定まっているのかは判らない。すぐさま矢が放たれた。何の羽だろうか、黒い矢羽が一際大きく唸り、山の暗闇目掛けて襲い掛かる。近くにいた数人が音に驚いて振り返った。

「……見えねえけど、どうなった?」

「……動いたわ」

 矢の飛んだ方へ目を凝らしたが、やはり何も見えない。

「シッ!」

 傅朱蓮が今度は更に強く短く息を吸い、宝剣を振り上げた。

「おわっ! 何だ!」

「カンッ」

 何かが宝剣で弾かれた。よく見ると先程傅朱蓮が放った黒い羽の矢が近くに落ちた。

「どうした!?」

 朱不尽しゅふじんが駆け寄る。

「いや、判んねえ、こいつが撃った矢が真っ直ぐ帰って来やがった」

 傅朱蓮は真っ直ぐ山の暗闇を睨んでいた。するとその暗闇で甲高い笛の音が響く。

「何だ?」

 朱不尽らは体を強張らせて剣を構えた。見れば黒尽くめの賊が次々に下がり、塀の上を飛んで戻って行く。笛は退却の合図のようだ。

(やっと退いたか……)

 あっという間に黒尽くめの人間は寺の境内から姿を消した。残ったのは剣を手に半ば呆気に取られている鏢局の人間だけだ。何も落ちていない。あれだけの切り合いをしながら誰も倒れていない。そのおかしな状況に皆戸惑っていた。賊はおそらく再び山へ入って行ったに違いないが、その気配が感じられない。

「皆、荷の周りに集まるのだ!」

 全員剣を抜いたままで荷車の前まで下がる。中には腕や足を押さえている者も居る。

「すぐに怪我人の手当てだ。怪我をした者は寺に入れ。無事なものは続けて警戒しろ」

「朱鏢頭、全く不可解ですね。荷が目的でしょうか?」

 鏢頭が賊の去った方を見ながら言う。他の鏢頭も朱不尽の周りに集まっていた。

「わからん。向こうは誰も荷に近づこうとはしなかったな。」

「数日かけて我等を疲弊させるとか?」

 魯鏢頭が言うと、

「こんな事を続ければ向こうだって疲れるだろうが」

 かい鏢頭がすぐに否定する。

「倍は居て交互に来るかも知れんぞ」

「倍居るなら何故さっき皆来なかった?入れた筈だ」

「様子見かもしれん」

 朱不尽は考え込んだ。死人は一人も出ていない。かなり激しく切り結んでいたにも拘らずだ。「良く防いだ」とも言えるが、どうも敵の方が余裕を持っていた様に思える。こちらの用心棒達もより優れた者を集めてある。しかしながら、最強などとはとても言えない。もしどこかの武林ぶりんの門派、例えば真武剣派しんぶけんはの様な組織が襲ってきたらどうなるか。先程の賊は真武剣派では無いし、盗賊の真似をする事も考えられないが、もしその様な事があれば多分、太刀打ち出来ない。単なる物取りの集団ならば、あれほどまともに遣りあったりはしない。少しでも手間が掛かりそうなら見合わせるのが普通だ。しかもこちらの荷が何なのか判っていない筈で、金銀財宝の山を引っ張っているなら多少犠牲を払ってでも奪おうとするだろうが、実際多少高価な品とはいえ、大量にあるという程でもない。三十人近い人間を使って狙う物とは思えない。

「小父様?」

 傅朱蓮が顔を覗き込んでいる。

「ああ、朱蓮、怪我は……無いな」

「ええ。皆も無事よ」

「田殿はどこかな?」

 朱不尽は田庭閑でんていかんを探して周りを見回した。

「はい。ここに居ます」

 剣を腰に戻して衣服を整えていた田庭閑は朱不尽の許へ来た。

「田殿、我等は長くこの国の東を中心に渡り歩いているが、先程の賊がどの筋の者か見当も付かぬ。田殿は何か気付かなかったかな?」

「いや……わかりませんね。でも、皆同じ剣術を使っていました。見たこと無いものでしたけど、中々のものでしたね。流石に私も少し焦りました」

 朱不尽は黙って田庭閑の言葉に頷く。

 

 

 二十二

 

 改めて休む事も出来ずに空が白み始め、鏢局の用心棒達は皆いつもの配置に付き、出発を待っていた。殆ど寝る事の出来なかった者も多いが、何とか日中に次の街へ入っておきたい。不可解な昨夜の賊の襲撃を考えると予定を繰り上げてでも先へ進み、出来れば街以外で留まることは避けたかった。

「少しばかり強行軍となるが、次は充分休めるように皆、宜しく頼む」

「応!」

 確かに疲れてはいるが、ここで足を緩めてはこの先さらに危険が迫る事になる。それに早く安全な場所で休みたい。皆気合を入れて寺を後にした。

「あー馬乗りてえなあ」

 范撞は前を行く魯鏢頭に聞こえるように言う。

「何を甘えた事言ってるんだ。腰の剣でも股に挟んでおけ」

「笑う元気はねえよ」

「ちゃんと周りを見ておけよ。おそらく様子を探りに来るぞ」

「黒尽くめならすぐ判るのにな」

 皆辺りを見回したが、まだ人も少なく怪しい者は見当たらなかった。

 

 それから数日、何事も起こらなかった。日が沈んでからも進む事が何度かあったが、安全な街中に入るまでは足を止めることは無い。そして不審な事は何も起こらなかった。

「何だか……余計に疲れるね。そりゃあ何かあるほうが大変だけど」

 珍しく楊迅ようじんが溜息混じりに言う。

「結局何だったか判らねえもんな」

「このまま景北港けいほくこうに行ければそれでいいよ。もう面倒は御免だ」

 田庭閑が言う。

「もう一息で東淵とうえんに入れるな。東淵はもう完全に北辰ほくしん教の縄張りみたいなもんだし、流石にあんな集団で襲ってくるような奴らは居ないだろうよ」

「北辰の奴等が襲ってきたんじゃないだろうな? もしそうならこの先もっと……」

 田庭閑はそう言って范撞へ不安そうな顔を向ける。

「北辰教か……もし北辰教が俺等を襲うならあんな半端はしねえだろうな、多分。とっくに荷は全部持って行かれてるさ。そして俺等はもう、生きてはいない……寺すら消えてるかもな。ハハ」

「フン、真武剣派ならば奴等を返り討ちにできる」

「おい、一応俺達千河幇は北辰教と仲良しなんだぜ? ちょっとは考えて物を言えよ」

 魯鏢頭が振り返る。

「田殿、我等は緑恒千河幇りょくこうせんがほうの者であって北辰教徒ではない。しかしこの先誰が聞いておるかわからん。真武剣派として、そなたの自負は結構な事だが、無事に武慶ぶけいに戻りたければ、良く考えてもらいたいな。行く先には北辰教徒数万、真武剣派はそなた一人だ。襲ってきたのは北辰教ではない。東淵に入れば危険はぐっと減ろう。兎に角、余計な災いを招かんようにな」

「……」

 田庭閑は黙った。たった一人で敵陣に乗り込むような不安が今更ながら込み上げてくる。

「ま、お前を売るようなまねはしねえよ。それは保証する。さあさあ行こうぜ」

 范撞が田庭閑の肩に手を置く。

(お前が保証して何になるんだよ……。朱不尽にちゃんと言っておけよ……)

 

「朱鏢頭。この先は如何なさいますか? このまま東淵まで?」

「うむ、仕方が無いな。まだ陽は高いが今日はここで留まる。明日早くに出て一気に東淵を目指すぞ」

 丁度街へ入った所だったがこの先、東淵の街までは何も無い。一先ず休息を入れて、東淵までを止まらずに行く事になった。少なくとも丸二日は進み続ける事になる。

「こりゃ本当に東淵に着いたら一杯出して貰いてえな。紅門こうもんとやらでな」

 范撞は馬に乗っている傅朱蓮をチラッと見上げた。襲われた日以降は傅朱蓮はずっと馬に乗っている。しかし范撞はそれには何も言わなかった。

「そうね、まあお父様に頼んでみてもいいわ」

「おっ、いいねえ」

「俺も久しぶりに酒飲んでぐっすり眠りたいな」

 楊迅も范撞の言葉に賛同した。

 

 

 二十三

 

 緑恒の范凱はんがいの屋敷に早馬が駆け込んで来た。緑恒の街はすでに暑く、馬も人も汗だくになっている。

幇主ほうしゅ! 失礼致します!」

「どうした? えらい慌てようだが……」

「あ、いや、大丈夫です、はい」

「ん? 何を言っているんだ。伝える事があるのか無いのか、はっきりしてくれ」

「あ、ありますあります。朱不尽殿の一行が何者かに襲撃されて……」

「何だと!? 今何処だ!? 大丈夫とはなんだ!」

 范凱は勢い良く立ち上がり、机を押し出すかのように前に身を乗り出した。

「今頃は東淵に入られたと思います。襲われたのは東淵まで五百里か……そこらで」

「朱さんは、荷は無事だったのか!?」

「は、はい。賊は引揚げて、それ、それで東淵に」

「……つまり撃退したということだな?」

「そうですそうです」

范凱は深く溜息を吐くと、後ろに倒れた椅子を戻してゆっくりと腰を下ろした。

「その賊については何か判ったのか?」

「いえ、全く判っておりません。奴等は襲ってきて、そして退いて行きました」

「……もう少し詳しく説明してもらえると有難いねえ」

「鏢局の者と同じくらいの数が来たのですが、襲って来て戦って、何も盗らないまま退きました。あー、朱不尽殿は、もう東淵には無事に行けるから、後になって襲われたと伝われば幇主にご心配をおかけしてはならないので報告しろということで……」

「……そういった趣旨の事を朱さんが言った、そういうことだな?」

「そうですそうです」

「被害は?」

「何もありません」

「何?」

「あー少し怪我をした者は居ましたが、大した怪我ではありません。皆無事です」

「間違い無いな?」

「はい」

「……判った」

「あーでは、これで」

「ご苦労だったな。ゆっくり休んでくれ」

 男は笑顔になって出て行った。

 再び范凱は溜息を付いて机に肘を突き、考えていた。

「……ただの物盗りであろうか?」

 静かに落ち着いた声が范凱に問う。部屋には范凱の他に老人がじっと座って男の報告を聞いていた。

「おそらく。しかし、東淵に近い場所でそんな集団が……? 朱さんは三十名程率いて出たのですが」

「敵味方六十名が戦って無事か……。そのような事があるかな?」

「この国の遥か西方ならいざ知らず、そのような規模の集団で朱さんの鏢局を襲う様な盗賊など……」

 数人のこそ泥の様な者ならいざ知らず、東北に於いて朱不尽の鏢局を襲う集団が殆ど居ないのは、その腕や人望も然る事ながら、最大の要因は、広く太乙北辰教たいいつほくしんきょうが盗賊のような隠れた組織までも強力に支配しているからである。しかし、「盗賊行為は許さない」というのではない。「北辰を差し置いてはならぬ」という事だ。つまり、盗賊行為を行うならば太乙北辰教の公認を得ねばならないのだ。朱不尽は緑恒千河幇の要の一人である。幇主范凱は太乙北辰教の今は亡き前教主と若い頃から親しく、現教主であるその息子は赤子の頃から知っている。幹部達との関係も変わらず良好である。千河幇に仇を成す者は北辰の敵、それは今でも同じ筈だった。

「真武剣はどうかな?」

 老人が再び尋ねる。

「何か企てがあるとすれば」

 范凱は体ごと老人のほうを向いた。

「荷を届けさせる事の方でしょうな。朱さんの荷を襲いながら中途半端に退いたのであれば、少なくとも我等を力で潰そうという事ではない。荷が届く事で何かを狙う……もし何かあるのなら、という仮定の話ですが。どちらにしても、真武剣派とも北辰教とも関わりの無い者達の仕業と見るのが今の所妥当ですな」

「何か手を?」

「いえ、今は特に何も。予め私もある程度の指示を出してあります。ま、朱さんなら心配は要りません」

 老人は窓から差し込む暑い日差しの当たった自分の細い手の甲を擦りながら、黙って見つめている。

 

 

 二十四

 

「御子息が怪我をされておらねば良いが……」

 老人の言葉に范凱は老人の眼を真っ直ぐ見据える。

「あれは今、鏢局の用心棒。自ら身を挺する事が出来ねば、フン、無事で居ようともあれに価値などありませんな」

 老人はじっと范凱を見つめたまま口元を綻ばせ、そして少し上へ視線を投げた。

「前に御子息に言われましてなぁ。働いているようには見えんのにわしは……生き延びている」

「何と! りく殿」

 范凱は立ち上がろうとするのを老人は手を振って制止すると言葉を続けた。

「確かに儂は何もしておらん。ここは居心地が良いしなあ。しかし……本当にこれで良いのかとこの歳になって考えてしまった」

「陸殿、何処かへ……参られるのか?」

「いや、まだ何も考えてはおらんのだが。ハハ、情けないことだ……」

「楊迅は陸殿を先生と呼んでおります。剣の手解きを?」

「手解きと言う程の事はしておらん。ただ、あの子は熱心でな。良い子だ」

 范凱は立ち上がった。

「陸殿。私からもお願い致す。どうか楊迅を導いてやって下さらんか。鏢局の仕事に就いてからというもの、明らかに眼の輝きが変わってきております。緑恒へ戻れば真っ先に陸殿の許へ参るそうですな。鏢局の仕事は危険と隣り合わせだが、あれが江湖こうこの広さを身で感じるにはうってつけ。暫くは続けさせたいが、この先楊迅が剣を志すならば、陸殿の弟子に……いや、正式な師弟では無くとも良いのです。どうかこの緑恒に留まって下さらんか」

 そこまで言って深々と頭を下げた。

「あの子が通ってくれる事は儂も嬉しい。御子息と話すのも面白い。先の事は分からんが、幇主のお許しがあるのならばここに留まりたいと思う」

「陸殿は我が幇の大事な客人だ。何も遠慮は要りませんぞ」

「儂はもう何のしがらみも無い。この老い耄れにも何か仕事があれば使ってもらえると有難い」

「それは心強い。何かあれば是非お願い致す」

 老人は立ち上がった。

「とりあえずは朱不尽殿が無事に戻れることを祈るばかりだな……では失礼致す。」

 老人と范凱は視線を合わせて、小さく頷き合って別れた。

 

 朱不尽達は東淵の街のすぐ手前まで来ていた。小高い丘に挟まれた街道を進むと一気に視界が開け、穏やかな波が打ち寄せる浜が見える。

「おい、これは海か?」

 田庭閑が遥か遠くの水平線を見つめながら言う。田庭閑は海を見たことが無かった。

「いや、違うな。これは東淵湖だ。遥か向こうは海にかなり近いらしいがな。底のどこかが海に繋がってるなんて話も聞くな」

 范撞も遠くを見つめている。手前に見えるのは漁の為の船が何艘も並べてあり、傍には古い小屋のような物が点在している。鄙びた漁村といった感じだ。

「……あれが見ておかねばならない物か?」

「んなわけねえだろ。月だ、月。確かに、こんな所で月なんて見てたら月明かりの中を水に入ってあの世に行きたくなるかもな」

「ちょっと!」

 傅朱蓮が口を挟む。

「馬鹿な事言わないで。ここも東淵湖だけど有名なのはもっと先よ。北のあの山が湖のすぐ傍まで迫っていて崖がずーっと東まで続いているのよ。月夜に船を出すのも良いし、崖に上がっても良いし、岸にある酒楼から月を愛でるのもいいわね。凄く良いお店があるのよ」

「そりゃいいな。荷を届けてからここで一月も待てば東淵の名月が見れそうだな」

「無駄な妄想ね。朱小父様にお尻叩かれなら緑恒に着く頃が一番綺麗じゃないかしら。それにお酒が飲みたいだけでしょ? 見たいのは美人ではなくて?」

「見られる物は見ておかないとな」

「お前等、本当に元気だな。普通じゃない」

 呆れる様にそう言う田庭閑は、時折湖を見る以外はずっと足元に視線を落として重そうな足を運んでいた。

「こいつ、ずっと馬乗ってんだぜ?」

「こいつ? こいつですって? 誰に言ってるのかしら」

 傅朱蓮は范撞を軽く睨んで前方へ馬で駆けて行った。

「おい、楊迅どうした? ずっと黙ってるな」

「俺も、田さんと同意見さ」

「そうだろうそうだろう」

 田庭閑は視線を上げる事無く、大袈裟に頷いて見せた。

 

 

 二十五

 

「小父様、先に行ってお父様に知らせるから、必ず寄って下さいね」

「朱蓮、皆を休ませねばならんし、荷の警備の事もある。またいつかゆっくり訪ねることも出来るだろう。そうだな、帰りには少し寄れるな」

「この東淵の街で一番安全に休める場所は何処かしら? 鏢局の皆さんがゆっくり休めてこれだけの荷をちゃんと守れる屋敷は一箇所しか無いじゃないの。それに東淵まで来て顔を見せないなんてお父様は何て言うかしら? 小父様、絶対に来てくださいね。それに……姐さんが発つまでに一目、小父様の顔を見せてあげて欲しいの」

 朱不尽は考え込んだ。確かに傅朱蓮の父親の屋敷で世話になれればこれほど有難い事は無かった。東淵一の富豪の家だ。警備も半端でない。

紅葵こうきが発つのはもうすぐだろう? 忙しくしているのではないか?」

「どうせお父様は何もしないわ。きっと叔母様が仕切ってるに違いないもの。それにどんなに忙しくなっても家を空にするわけ無いし」

「分かった。取り敢えず挨拶に寄らせてもらおう」

「じゃあ、小父様、後で」

 傅朱蓮は馬の腹を蹴ると、一足先に街へ向かう。朱不尽は後ろの魯鏢頭の所に来た。

「まず傅千尽ふせんじん殿の所へ寄る。向こうの都合が良ければ今夜世話になろうと思う」

「おお、それなら今夜は安心ですな」

「まだ分からんがな」

 再び朱不尽は隊の先頭へ戻って行った。

「魯さん、その傅千尽ってのが大金持ちなのかい?」

 聞いていた范撞が声をかける。

「そうだ。失礼の無いように大人しくしておれよ」

「朱不尽に傅千尽か……ハハ」

「全くお前は……少し口を慎め」

 東淵湖に沿って伸びる街道の先には、もう街が見えてきていた。

 

 ここ東淵から北は避暑地としても知られており、この時期は国中から人が集まって来る。歓楽街は逆に人の熱気の方が強くなる事もあるが、東淵湖の水上から流れ込む柔らかい空気がその熱気を冷ましてくれる。街へ入ると東淵湖を右手に見ながら真っ直ぐ伸びる大通りが何処までも続いているように見える。この大通りを行き交う者の殆どが、他所から来た者達だ。東淵の住人の住まう場所は、大通りの左手、湖と反対側にある山の麓の谷に食い込む様に出来ている静かな集落であり、どこか享楽的な風情を見せる大通り周辺とは対照的だ。

「仕事じゃなけりゃ、こんな楽しい場所は他に無いんだがなあ」

 范撞は通りに面して立ち並ぶ様々な店の中を覗き込みながら歩いている。

「ここの人たちはこんな昼間から遊んでて、余程お金があるのかな」

 楊迅も物珍しそうに辺りを見ていたが、范撞程あからさまに覗いたりはしなかった。

「ここはな、金があって遊びたい奴が来る所さ。ま、夏の間だけだろう。ここの冬はかなり厳しいらしいぜ」

「フン、見ろ。もう酒で潰れてる奴とか居るじゃないか。こんな所に居たら堕落するだけだ」

 田庭閑は侮蔑の眼差しで店の軒先を見ている。男が酔いつぶれて地面に寝転がり、その男に声をかけている店の者らしき女は着物も着崩れて肩も露わである。一体何の店なのか。

「由緒正しい真武剣派の高弟様には刺激が強かろうよ」

 范撞の言葉に田庭閑は耳を貸さなかった。

 荷駄隊は大通りから西に入り、山の方へ進む。大通りの喧騒が嘘の様に辺りは静かで、全く別な街に来た様に思えた。小道の真正面には大きな門があり、左右に純白の真新しそうな塀がかなり長く伸びている。

「……あれが個人の屋敷だって言うのか?でかいにも程があるぜ」

「あんな屋敷、武慶には数え切れんほどあるぞ」

「ここにあるから凄えんじゃねえか」

 まるで巨大な門の方が荷駄隊に迫ってくるようだ。

 

 

 二十六

 

 一行が門まで二十間程までに近づくと、その大きな黒い門扉がゆっくりと開き始めた。二人の男がそれぞれ全身を使って押し開いている。徐々に広がる門の先には真っ赤な扉が幾つも並ぶ朱の建物が見えており、門の黒との取り合わせが珍しく思われる。正面の道を挟むように十数人の男達が整列していた。中央には恰幅の良い中年の男。その後ろには薄い緑の深衣を纏った若い女性が立っていた。整列していた男達の中から一人が歩み出ると、荷駄隊の前に進んだ。先頭にいた朱不尽は馬を降りて拱手する。

「朱不尽様。ようこそお越し下さいました。旦那様は朱蓮お嬢様からの知らせをお聞きになってから、御一行の御到着はまだかまだかと……」

「お前は何をごちゃごちゃと言っておるのだ」

 奥に居た中年の男が門から出てきて朱不尽に挨拶をしている男に言う。傅千尽、この屋敷の主人である。男は脇に追いやられてしまった。

「不尽! お前、この東淵を素通りするつもりだったらしいな! 最早儂如きは歯牙にも掛けんということか?」

「まさか。俺は今任務の最中だ。帰りにでも寄ろうと思っていたのだ」

「ならば尚更であろうが。我等の外に頼りになる者がこの一帯に在るか!? 賊に襲われたそうだな?」

「お父様、こんな所で話してないで中に入りましょう。皆さんは一睡もしていないのよ?」

 傅千尽と共に居た若い女性は傅朱蓮である。剣も弓も携えておらず、の裾が地に付いて今までと全く違う、落ち着いて淑やかな装いである。

「そうだな。さあ入ってくれ。荷の心配は無用だ。我等が責任を持って預かる。超謙ちょうけん!」

「ハッ」

 傅千尽の脇に控えていた男が答えた。

「荷を奥へ入れるんだ」

「ハッ」

 超謙と呼ばれた男は門の中に整列していた者たちに手を上げて合図をすると、一斉に飛び出してきて荷を取り囲んだ。鏢局の用心棒達は思わずたじろいだが、

「荷をお預かりいたします」

 と男達に言われて、皆、朱不尽の方を窺う。

「中に入れる。進め!」

 朱不尽は号令し、屋敷の男達に囲まれながらゆっくりと門の中へ進んでいった。

 傅千尽は一行のもてなしに過剰なまでの気配りを見せた。彼にとってはそれが普通であったのかも知れない。全ては多く居る家人に命じれば良い事だ。鏢局の人間全てに部屋が充てがわれたが、寝具は全て新しい物だった。娘から一行が来る事を聞いてからの僅かの間にここまで用意出来る訳は無く、常にこの状態が保たれているのだろう。すぐに湯を使う事が出来、鏢局の用心棒達の多くはまだ昼間にも拘らずその疲れた体を寝台に投げ出した。

 朱不尽と鏢頭達は荷の警備について、屋敷の用心棒達と話していた。傅千尽の広大な屋敷には数十人の用心棒が雇われている。全員が傅千尽自ら人を見て選ばれた者たちだ。東淵一の富豪であることは周知であり、その資産は相当な物で盗賊の類は食指を動かされるが、事を起こす者はまず居ない。相当な数と手段を用意しなければ、生きて帰るどころか獲物を目にすることすら叶わないのだ。この屋敷の中に居れば、荒れた原野で夜中に荷の警備をする事に比べると、遥かに安全、放って置いても問題ない位である。朱不尽はここの用心棒達の有能さは良く知っていたが、完全に任せきりにするなどという無責任な事は出来ない。念入りに警備の内容を打ち合わせた。

 

 皆、明るいうちから寝たせいか、目覚めたのは深夜だった。しかしこのような時間に出歩く訳にもいかず、部屋に居てぼうっとしていなければならなかった。

「しかしよく寝るなこいつは」

 范撞は田庭閑の方を見て言った。やはりここでも田庭閑は寝台に沈んでいる。しかしいつも大人しく、鼾などはまったく掻かなかった。

「明けたらすぐ出るのかな?」

 楊迅は起きて用意してあった茶を淹れるが、湯はすっかり冷めている。

「そういえば朱さん何も言わなかったな。いつもなら出立の時間とか準備とかうるさいのにな。多分明日はここに居るんじゃねえか? もう今日だな」

「もうここから景北港けいほくこうは近いんだろ?」

「そうだな。七日、八日も掛からんだろうな。賊が襲ってきてくれたお陰でここまで予定より遥かに早く来れたしな」

「楽に来れた訳じゃないよ。あとはのんびり行きたいな。今日街を見れたらいいなあ」

「無理っぽいな。朱さんが許可すると思えねえけど」

「あ、そうだ。傅さん……朱蓮さん、すごく綺麗だったね。あんな格好もするんだな」

「あー、そうだったか? 見てなかった」

「ふーん?」

「流石に朝まで起きてるのは不味いな。昼間に眠くなっちまう。なんとか頑張って寝るとしよう」

「そうだね」

 范撞は再び横になり、楊迅は淹れた茶を飲み干してから寝台に戻った。

 

 

 二十七

 

 朝になると、全員広間に集められた。百人分の席を用意してもまだ余裕のありそうな部屋で、高価な調度品が其処彼処に並んでいるが、どうやら何も統一性などは考えられていないらしく、色調もばらばら、落ち着く為の場所ではなさそうだ。まるで宴席のような食事が載った席が並び、勿論酒もある。まだ陽が昇って大した時間も経っておらず、寝惚け眼を擦っている者も居た。普段なら朝からこんなに食べる事など到底出来ないが、今は皆、極度の空腹を感じていた。

「皆、ゆっくりと休まれたかな?次は腹ごしらえだ。緑恒からここまでまともな食事など無かったのではないかな? 存分に食べてくれ。足りねばいくらでも用意させる。こんな朝っぱらからこれほどの物を用意できるのは此処だけだ。さあさあ、皆座ってくれ。お主達の頭は今、荷を見に行っておるが、もう来るだろう。先に食事を取らせるようにと聞いておる。さあさあ、酒を注ごう」

 部屋に入ってきた傅千尽は一気に喋ると、近くにあった酒壷を手にとって鏢局の者達に近づいてた。まだ誰も席には着いていなかったが、この屋敷の主が酒を注ぐと言うのである。拒否して立ち尽くして居る訳にはいかなかった。周りの者と顔を見合わせながら順に近くの席に座り始めた。数名の侍女達が酒壷を抱えて部屋に入って来た。そして傅千尽と同じように一斉に酒を注ぎ始める。

「料理はなかなか良い物みたいだな。いい香りだ。」

 目の前の食事を見渡していた田庭閑は隣に座った楊迅に小声で話しかけた。

「腹が減ってるから何でも美味しそうに見えるよ」

「そこからが重要だ」

 不意に前から声が聞こえて二人して驚いて顔を上げると、傅千尽が酒壷を携えたまま立っていた。

「うちで出す料理は東淵で一番だ。間違いなく最高だ。お前達は腹が減っておって何でもいいと言うが、不味いもので腹を満たしても命拾いしただけで、如何って事は無い。腹を空かせたままでは、いずれ死ぬ。言わば窮地だな。大抵の者は泥水でも啜る事となろう。しかしお前達は最高の料理で窮地から脱する事が出来る訳だ。運が良いとかそういう事ではない。これは、儂と朱不尽の縁、儂とお前達の縁が最高の物であるからだ。解るか?江湖では人の繋がりが一番重要だ。今まで飯を食う苦労をしたことがあるかな? 極上の縁を多く作る事だ。ただの腹ごしらえでさえも極上の物となる。さぁ、酒を注ごう。これも極上の酒だ」

 驚いた顔のまま聞いていた田庭閑は慌てて酒杯を手にとって前に差し出す。横の楊迅も傅千尽がまだ隣にいるのに酒杯を浮かせた。傅千尽は皆に声を掛けながら次々と酒を注いでいった。

「解った様な解らん様な話だが、あの旦那の言いたい事は解った気がするな」

 楊迅の次に座った范撞が言った。

「……そうだね」

「何だ?」

「縁か……。まだ何も無いかな」

「ハハッ、これからだ」

 范撞はそう言って正面を見つめると、ニヤリと笑った。

 皆、手元の酒杯に酒がなみなみと注がれたが、誰も口をつけていなかった。朱不尽はまだ現れない。空腹のまま目の前の豪華な食事を眺めている。

「さあさあ、皆始めてくれ。朱不尽はもう来るぞ。皆ここに居る間は自由に振舞えば良い。遠慮はいらん」

 朱不尽と魯鏢頭は姿が見えなかったが、他は皆揃っている。解鏢頭が杯を持って立ち上がった。

「お心使いに感謝致します。頂きまする」

 解鏢頭が頭を下げると傅千尽は笑顔で頷いた。解鏢頭が皆の方を見回してから座ると、ようやく皆箸を取って豪華な食事に取り掛かった。

「朱蓮さん、居ないね。まだ寝てるのかな?」

「あいつも俺達とずっと一緒に居たんだから、一睡もしてないしな。久しぶりの我が家なんだろ?寝てるだろうよ」

 范撞は少し小振りの骨付きの鶏肉を次から次へと手掴みで噛り付いて、時折骨をしゃぶっている。

「あ、ちょっと。この肉旨いな。まだあるかい? あったらもう少し持ってきておいてくれ」

 前を通った侍女に声を掛ける。

「見事なまでの厚かましさだな。敬服するよ」

 田庭閑は呆れて言った。

「より厚かましい者が一番腹を膨らませることが出来る。ここはそういう所だろ?」

「でも酒は控えたほうがいいよ。もし朱鏢頭が今日発つなんて言ったら大変だよ」

「分かってるって。ほれ、これ旨いぞ。食ってみろよ」

 酒杯を片手に范撞は楊迅の前の皿を指差した。

 

「またお前、こんな豪勢な……」

 朱不尽が部屋に入ってきて真っ直ぐ傅千尽の許へ行った。一緒に入ってきた魯鏢頭は開いている席を探してさっさと座る。

「ん? 我が屋敷にはこれより粗末な食事は無いぞ? さあ、お前も飲め」

 傅千尽は空けてあった自分の隣の席に朱不尽を座らせて酒を注ぎ始めた。

 

 

 二十八

 

「どうだ? 幇会は。儲かってるか?」

「まあ、普通だろう。一昔前に比べれば平穏そのものだな」

「そうだろうな。何故だと思う?」

「一番大きいのは北辰が大人しくなったせいだろう。昔なら他愛の無いことまで争いの種にしていた感があったが、今は全然態度が違うようだな」

「その通り。北辰教は取り敢えず大人しくなった。ハッ、商売もしやすいし結構な事だ」

「何だ? 心外か?」

「儂は今、結構な事だと言ったんだ。現に儲かってるしな。争いで利を得るなんてのは頭の悪い奴が考える馬鹿な妄想だ。平穏なればこそ金は動く」

「ハハ、北辰の人間が聞けば怒り出しそうだ。お前は今も北辰と近いのだろう?」

「どうだかな。もう、どうでもいいかも知れん……」

 傅千尽は酒杯を胸元に持ったまま宙を見つめる。

「何かあったか?」

「いや、そういう訳ではないが」

「そうだ、肝心な事を忘れていた。紅葵が都へ参るそうだな。これは……めでたい、のか?」

「賭けだな。男子でも産めば凄い事になる。儂等まで貴人の仲間入りという訳だ。何も無ければ……」

「……本心ではあるまいが。紅葵は、お前にとって特別な……」

「もういい。いいんだ。儂は……あいつを売るのだ。金の為に」

 傅千尽は睨むように力を込めて朱不尽を見た。

「フン、俺は信じないからな」

 朱不尽は微かに笑って酒を呷る。酒杯を置くと傅千尽の方を向いた。

「ここだけの話だが、少し聞きたい事がある」

「何だ?」

「我等が今運んでいる荷は、方崖ほうがいへ持っていく」

「朱蓮に聞いた」

「近々方崖で何かあるのか?」

「何かとは?」

「あの荷は恐らく何かの祝いの品の様だ。方崖で祝い事とは?」

「……荷は誰に渡す?」

「ただ方崖へ運べとだけしか言われていない」

「ならば必ず教主の許へ届くな。誰の依頼だ?」

「それは、今は明かせぬ」

「……まあいい。まだ噂だが」

 傅千尽は朱不尽の方へ体を傾けた。

「総監が副教主になるかも知れん」

 朱不尽は眉根を寄せて傅千尽の顔をじっと見つめた。

「総監と副教主、何が違うと聞かれても答えられんが、まあ確かに副教主という肩書きは重い」

「……なるほど。それか。その噂はもうこの辺りでは広まっているのか?」

「いや、この儂だから聞ける、特別な情報だ。だから儂が興味があるのは、お前に依頼した奴の名だ」

「……秘密にして何になるかは解らん。だが、任務なのでな。すまぬ」

「フン、分かっておるわ。お前が緑恒から運んできたと言うからにはそいつは遥か南方に居ながら知っている訳だな。千河幇幇主なら考えられるが、お前がその意図を知らんという事は有り得んよなあ。是非知りたいがその辺は自分で何とかしよう。」

「まだわからんぞ。いん総監への祝いと決まった訳では無い。それに、もしそうなら何故その祝いだと明かさなかったのかも解からぬ」

「それはお前、方崖が公表していないものをお前に言う訳にはいかんだろう」

「……どうも嫌な予感がするんだ」

「もう方崖まで近いんだ。さっさと引き渡せばおさらば出来るだろう。帰りにもうちで旨い酒を飲んで忘れればいいさ」

 傅千尽が箸を取って前の料理をつまんだ。朱不尽は暫く何か考えていたが、急に空腹を思い出して食事に取り掛かった。

 

 

 二十九

 

「小父様、ゆっくり休めたかしら?」

 部屋に傅朱蓮が入ってきて、朱不尽に声を掛けた。

「ああ、久しぶりにぐっすり眠った。そなたには世話になった。礼を言う」

 朱不尽は立ち上がりはしなかったが、膝に手を当てて頭を下げた。

「いいえ。どういたしまして。私は楽しかったわ」

 近くに置いてあった酒壷を取って朱不尽の酒杯に注いだ。

「お前も腹が空いておろう。さあ、座れ」

 傅千尽が言うと、

「あっちが空いてるから。小父様、暫く留まるんでしょ?ごゆっくり」

 朱不尽に言ってから真っ直ぐ范撞達のいる辺りへ行ってしまった。

「なんだあいつは。久しぶりに帰って来たというのに儂には酒も注がんのか。益々生意気になっていきおる」

「ハハ、もう良いではないか。朱蓮は長く旅をしておった様だが、もう充分一人前だ。俺達は道中助けてもらったのだからな」

「大したことなどしておらんだろうが。賊が襲ってきた事も聞いておる」

「心配か?」

「ハッ、心配など。ただ注意せねばならんのは、不用意に敵を作る事だけだ。あいつはまだその辺が理解できておらん」

 酒を注ぎに来た侍女の手から酒壷を取ると自分で注ぎ、勢い良く呷った。

 部屋のあちこちでは時折笑い声が上がる等、皆緊張も解けて酒と料理を楽しんでいた。警護の道中は勿論、緑恒に居る時でもこのような料理にありつける事は滅多に無い。傅千尽が言ったように、本当に幾らでも料理が出せるらしい。殆どの者が自分の気に入った料理を何度も侍女達に頼んでいる。

「どうかしら?ここの料理は」

 傅朱蓮は范撞の許へ来て聞く。その顔は自信有りげに微笑んでいるが、まさか自分が作ったわけではあるまい。

「まあ、俺達が普段食ってる物よりは遥かにいいな。あんたは生まれた頃からこんなもん食ってんのか?」

「私が生まれた頃は貧乏だったって聞いてるけど」

「へえ、一体どうやってここまでになったんだ?」

 傅朱蓮は范撞の隣に座ったが、置いてあった料理は下げさせて酒を持って来させた。

「詳しくは知らないわ。北辰教と仲良しになったんじゃない?」

 おもむろに酒壷を持ち上げて范撞の方に差し出した。范撞も杯を上げて受ける。

「お嬢様なんだな」

「確かに皆私をお嬢様って呼ぶわ。でもここだけよ。旅に出れば誰も何も言わないわ。お嬢様どころか、武器を突きつけられることだってあるもの。余程そっちの方が面白いわよ。そう思わない?」

「そういう時もあるかもしれんが、いつも面白いとは思えそうに無いな」

 今度は范撞が傅朱蓮の前の杯に酒壷を近づけると、傅朱蓮は遠慮せずに杯を取った。

「親父さんは昔からここの人間か?」

「いいえ。よそ者よ。私もね」

「どういう……」

「お父様はまだ赤子の私を連れてこの街に流れてきたのよ。……興味ある?」

「あるな。本当に貧乏人の流れ者がこの街で随一の富豪になったと言うなら」

「面白くないかも知れないわ」

「面白い話が聞きたいんじゃないけどな。知りたいだけだ」

「どうやら傅の旦那は上機嫌の様だ。今聞いてみたらどうだ?」

 田庭閑が急に話に入ってきた。杯を手に立っている。結構飲んで酔っているようだが、顔は青白かった。

「俺如きが直接聞ける訳無いだろうが。朱さんはこの街に来てすぐあんたの親父さんと知り合ったのか?」

 范撞はチラッと田庭閑の顔を見ただけで、すぐに傅朱蓮の方を向いた。

「ここに来てから暫く経ってからだと思う。まあ、充分貧乏だった頃ね。何?朱小父様に聞こうと言うの?」

「かなり親しそうにしてるしな」

「娘の私が居るのに、小父様に聞くの?」

 傅朱蓮は真っ直ぐ范撞の目を見つめている。思わず范撞の方が視線を逸らした。

「あぁ、あんたが知ってるなら、その、聞かせてもらえると、嬉しいな」

「あ、俺も聞いてもいいかな?あの、邪魔はしないから」

 楊迅が二人を交互に見ながら言う。

「フフッ、そんなに畏まって聞くような話は何も無いけど。お父様が昔から何度も何度も言う昔話よ」

 傅朱蓮は腰を浮かせて、楊迅の酒杯にも酒を注いだ。范撞が辺りを見回すと皆飲みながら話に夢中で、まだ料理も運ばれてくる。

 

 

 三十

 

「私は、この東淵の生まれではないの」

 傅朱蓮は范撞と楊迅の方は向かずに前を向いたまま言う。さっき聞いた話だが、二人は黙って話の続きを待った。

「ずっと西、都よりももっと西方の咸水かんすいというところらしいの。知ってる?」

「……一応な。今は何も無い事で有名な所だな。俺は話しに聞いただけだが、あんたは行ったのか?」

「そうね。一度だけね。見るものなんて何も無かったけど。お父様はそこの出なの」

「生き残り……か。あんたも……」

「もう少し頂こうかしら」

 傅朱蓮が酒杯に手を伸ばすとすぐに范撞が酒壷を取った。

「どういう……?」

 楊迅が范撞に小声で聞く。

「お父様の居たその村は今は廃墟なのよ」

 范撞が口を開く前に傅朱蓮が楊迅の質問に答える。

「お前聞いた事無いのか?咸水ってのは小さな村だったが、賊が大挙して襲ってきて跡形も無く潰された。何でその村を襲ったかは知らねえけど。それから何日もしない内に、今度はその賊八百人余りが一夜にして全て殺された。その噂はあっという間に広まったらしいぜ?」

「……知らなかったな」

 楊迅は首を振った。

「村は住めなくなってお父様は同じ村に住んでいた生き残りの二人の人と一緒に国中を転々としたって。赤子の私を連れてね。本当に色んな所に行ったらしいけど、私も居るし大変だったようね。この東淵には叔母が居るの。詳しい事は知らないけど、お父様の小さい頃から離れて暮らしていたらしくて、それでここに来る事にしたんだって」

 范撞は体を傅朱蓮の方に向けて、肩肘をついて反対の手に酒杯を持って聞いている。楊迅は范撞の肩越しに傅朱蓮の方を覗いていた。

「お父様は元々薬を扱う商売をしていたらしいわ。咸水でね。で、こっちに来てからも始めたんだけど、最初は思うようにいかなかったみたい。この辺りは凄く良い薬草も豊富にあるの」

「親父もわざわざこっちから漢方薬を取り寄せたりしてるな」

「でも、中々手に入らなかったって。何せ元手が無いもの。私の叔母様がお勤めしていた屋敷があるんだけど、長い間其処に世話になってたんですって。それから暫くして……北辰教の教主と知り合う縁があったみたい」

「おいおい、一体何したんだ? どうやって教主と知り合う? 前教主だよな?」

 范撞は思わず身を乗り出した。

「勿論そうよ。お父様が、と言うより、お父様の知り合いが教主と親しくなったの。しかもその人は……幹部になった」

「成る程な。天下の太乙北辰教の後ろ盾を得て……アッ、そうか」

 范撞が急に自分の膝を打った。

「その知り合いってのが……そうか」

「ねえ、何?」

 楊迅が一人納得している様子の范撞に聞いた。

「その幹部になったってのが、一人で八百人ばかり切った男なんだよ。北辰教が放って置く訳が無いな」

范撞は傅朱蓮を真っ直ぐ見たまま言った。

「その辺は良く知らないけど、まあ、そういう事なんじゃないかしら」

「つまり、その八百人切ったって人も咸水って所の人で、賊に報復したってこと?」

 楊迅が范撞に訊く。

「まあ、そうだ。親父さんは商売を始めて、向かう所敵無し。街一番の金持ちになったと。成る程なあ」

「どう? 成功物語と呼ぶには余りにも……」

「いや、縁か……」

 范撞は振り返って楊迅を見た。楊迅は范撞の目をチラッと見てから、下を向いて何か考えている。

「あの、朱蓮さんのお母さんは……村で?」

 下を向いたまま楊迅がポツリと呟くように尋ねる。

「おい」

「あ、あの俺は両親は居ないんだ。あ、いや、だから何だって……話なんだけど」

「フフッ、もう、そんな気遣いしてもらわなければいけない歳でもないわ」

 傅朱蓮は笑顔を見せる。

「村を潰した奴等に殺されたの。勿論、私には全く記憶は無いわ。あ、それと聞かれる前に言っておくわ。紅葵姐さんの話は聞いているでしょ? 姐さんは私と血は繋がってないわ。姐さんは孤児だったの。お父様がここに辿り着くまでの間に出会って、連れてきたのよ。私にはそんなこと何も関係ない。今までも、これからも、私の大切な人よ」

 そう言って顔を上げて前を真っ直ぐ前を向いている傅朱蓮の白い横顔に、楊迅は惹き付けられて暫く視線を外せなかった。

 

 

 三十一

 

 鏢局の者達はもう一晩傅千尽の屋敷に留まったが、朱不尽は出立の事は何も言わなかった。庭に面した回廊で、傅千尽と朱不尽の二人が立ち話をしている。庭に数本の百日紅が繁っており、夏のやや強くなった日差しの中、それぞれ白と赤の光を放っていた。

「もう数日居っても充分期限には間に合うだろう。紅葵は明日発つのだ。せめてそれまで待ってくれんか。そうだ。今から会ってやってくれ。儂も店に行く。支度もあるしな。一緒に行こう。それから明日、見送ってやってくれ」

 傅千尽はそう言って朱不尽の腕を掴んだ。

「俺も是非会いたいが、荷を離れる訳には……」

「だからそれは問題ない。おい、超謙は居るか? 少風しょうふうは?」

 近くを通りかかった屋敷の者に傅千尽が訊く。

「超謙殿は先程、鏢局の荷を見に行かれました。馬少風ばしょうふう殿は……紫蘭しらんお嬢様と一緒にお店の方に」

「何? またあいつは邪魔をしに行っておるのか。さっさと帰って来るように言え。……いや、今から儂等も店に行くからいい」

「あの、紫蘭お嬢様は明日の支度のお手伝いに……」

「あれに何が出来ると言うのだ。遊んでおるに違いないわ。おう、そうだ。超謙を呼んできてくれ」

「かしこまりました」

 家人はそそくさと下がって行った。

「俺も邪魔になると思うが」

「なるものか! あれもお前の顔が見られれば喜ぶ。本当は支度などいらんのだ。都に行けば何も不自由など無いわ。向こうが気に入らなければとっとと追い返して貰って結構!」

 その時、魯鏢頭、解鏢頭の二人がやって来た。

「朱鏢頭、出立は……? 皆、準備を気にしております」

「出立はまだ先だぞ。そうだ、街を見て回ってはどうかな?いつもこいつにこき使われて遊ぶ暇も無かろう。おう、そうだ。儂の店は知っておるな? 其処で好きなだけ飲んでもらってもよい。朱不尽の鏢局の者だと店の者に言ってくれ」

 朱不尽よりも先に傅千尽の方が二人に言った。

「……取り敢えず今日の出立は見合わせだ。外出は……もう少し待て。部屋で待機だ」

「お前は相変わらず堅物だな」

「旦那様、お呼びですか」

 そこへ超謙もやって来た。この男、この屋敷の用心棒の頭であるらしい。

「おう、荷の警備は万全だろうな?」

「はい」

 超謙は短く返事をしただけだが、当たり前だと言わんばかりの自信有りげな顔つきだった。

「おぬし、鏢局の出立の時には数人連れて景北港まで同行してもらいたい」

「ハッ」

「おい、どういう……」

 朱不尽は驚いた。

「ここから景北港までの道中には顔馴染みも多い。この者達が一緒に行けばより安全に進めよう。お前を足止めする変わりと言ってはなんだが、協力させてもらう。超謙」

「ハッ」

「その時は少風も連れて行け」

「分かりました」

「鏢局の皆にはまだ留まって貰うからな。頼んだぞ」

「かしこまりました」

 超謙は朱不尽と二人の鏢頭に頭を下げてから、戻って行った。朱不尽は深く溜息をついた。

「わかった。お前の言う通りにしよう。魯鏢頭。交代でならば外へ出てもよい。だが出るものは皆固まって行動するのだ。それで手配を頼む。」

「わかりました」

 魯鏢頭と解鏢頭は何やら笑って話しながら部屋へ戻って行った。

「よし、では行こうか」

 傅千尽が朱不尽に言った。

 

「おい、行くぞ」

「無理だって」

「いいから、お前は俺に引っ付いて黙ってりゃいい。……朱鏢頭!」

 急に呼び止められて驚いた朱不尽が振り返る。聴き慣れた声だったが、聴きなれない言葉遣いだった。見れば范撞が立っており、後ろには楊迅が半ば隠れて見えていた。

 

 

 三十二

 

「朱鏢頭、お供いたします」

「何?」

「お前達か。良いぞ。連れて行ってやろう」

 またも傅千尽が先に答える。

「駄目だ。お前達は部屋で大人しくしているんだ」

「でも先程魯鏢頭に言ってた……仰ったじゃありませんか。出ても良いって」

 范撞は慣れない言葉遣いで言った。傅千尽の前なので部下らしく振舞う事にしたらしい。尤も、ずっと前から部下の筈であるが。

「そうだ。魯鏢頭の指示に従え」

「ああじれったいな。不尽、行くぞ。お前達も来い」

 傅千尽は苛ついて大声で言うと、先に歩き出した。

「わかりました!」

 范撞はサッと朱不尽の脇を抜けて傅千尽を追う。朱不尽が振り返って見ると范撞はまるで傅千尽に身を寄せるようにぴったりと張り付いて歩いている。再び朱不尽が顔を戻せば、楊迅と視線が合った。しかし楊迅は直ぐに目を逸らす。

「……行くぞ」

「……はい」

 朱不尽と楊迅も歩き出した。

 

 強い夏の日差しが街中に降り注いでいるが、緑恒に比べればかなり穏やかに感じられる。とは言っても大通りまで出ると人の熱気で温度が上がる。傅千尽の屋敷の周辺とは全く違い、通りは騒がしかった。朱不尽が何も言わずに歩いているのでもう何も言われないだろうと、范撞は後ろに下がって楊迅に並んだ。

「旨くいったな」

「まあ、運が良かったんだろ?」

「魯鏢頭達と出かけたって紅門なんて入れねえって。さて、どんなもんか見てやるか」

 東淵に入った一昨日の様に辺りを見回しながら傅千尽に付いて歩いていく。暫く行くと通りの左手に一際大きな建物が見えてきた。濃い赤が酷く派手に見えるのは初めて見る者だけだろうか。正面には『紅門飯店こうもんはんてん』と金泥で書かれた大きな扁額が掛かっており、それを見上げると五層に連なった上部がまるで道に迫出しているように感じられた。顔を下に戻せば、正面の開け放たれた入り口はまだ昼にもなっていないが既に人の出入りが多い。意外にも粗末な身形の者達が圧倒的に多かった。傅千尽と朱不尽の二人は全く足を止める事無く中へ入っていく。入り口に近い席に座っていた何人かが傅千尽に気付いた。

「おい、傅の旦那だ」

「そうだな。おっ、一緒に居るのは……」

「知ってるのか?」

「あれは……千河幇の朱不尽殿だな。知らんのか」

「ほう、あれが。名は聞いたことあるな。しかし……あまり良い身形じゃねえな。千河幇の幹部なんだろ?」

「お前が人の身形をとやかく言えるのか?恐らく仕事で来たのであろう。朱不尽殿は鏢局の頭だ」

「へぇ」

 男達は酒を呷りながら眺めていた。傅千尽達はその横を通り過ぎると広間の端にある階段へ真っ直ぐ向かう。見れば反対側にも同じような階段が作られている。范撞達は広間を見渡しながら上って行った。

「広さも凄えけど、この時間からこの客の数も凄えな」

「ここの何が良いんだろうね。安いのかな」

「まあ、高い酒を飲めそうな客は見当たらねえな」

 二階まで来ると、全く雰囲気が違った。それもその筈、客は一人も居ない。一階と違うのは中央部分は円形の吹き抜けとなっており、下を見下ろす事が出来る。それを囲む様に多くの席があるが、誰も座っていない。それに、広間の装飾は明らかに下とは違う高級感が漂っている。楊迅はこのような場所で食事をした事など無く、誰も居ないというのに何故か少し緊張しているのを自分で感じた。

「旦那様」

 不意に声が聞こえる。進む先にはまた階段があり、前に男が拱手しながら立っていた。男は腰に剣を帯びている。

「おう、上に行く」

「ハッ」

 傅千尽は男の横を通り過ぎた所で立ち止まった。

「そうだ。紹介しておこう。これは屋敷に居る超謙の弟でな、せいという。こちらは緑恒千河幇の朱不尽だ」

「ご高名は予々(かねがね)承っております。超靖ちょうせいと申します。お見知り置きを」

 非常に丁寧な物言いで男は恭しく低頭した。

 

 

 三十三

 

 朱不尽が礼を返すのを見るとすぐに傅千尽は階段を上がり始めた。范撞と楊迅の二人は取り敢えず超靖に向かって頭を下げてから後に続いた。

 三つ目の階へ上がると、中央の吹き抜け部分は拡大され、更に上へ伸びる階段には非常に細かな装飾が散りばめられた紅色の欄干があり、その真下は二階の床が見えている。円の外側には幾つかの部屋があるが、見た感じではこの階は更に上へ伸びる階段の踊り場の様だった。外側の部屋の一つから一人の女が出てきた。女はこちらに気付くとその離れた場所でお辞儀をした。

「紅葵は?」

 傅千尽が女に尋ねる。

「こちらに居られます」

 女は即座に答え、今出てきた部屋の方へ腕を伸ばした。そして再び部屋へ戻って行った。

 

 非常に高価である伽羅が生み出す甘い香りが漂う部屋は、通って来た広間や階段の強い紅色は全く無い、至極淡い色使いで統一された落ち着いた場所だった。先に入った傅千尽は何も言わずに正面を見てから横へ身をずらして朱不尽を通した。

「朱不尽様。久しく御無沙汰致しておりました。お許し下さいませ」

 細く美しい声が朱不尽を迎える。正面には若い女が跪き、先程この部屋から出てきた女も後方で倣っている。

「……紅葵。俺にその様な礼はいらぬ。というか、困る。そなたは全く変わっておらんな。」

 朱不尽がそう言って笑いかけると若い女は静かに立ち上がり、真っ直ぐ朱不尽を見て笑みを浮かべた。今は特別着飾ってはいないが、その細く長い蛾眉と口許に控えめに注した紅が何とも麗しい。羽織っている薄絹から薄っすらと浮かぶ肩は華奢ともいえるが決して細過ぎず、全身から柔和な女性らしさが感じられる。傅朱蓮が姐さんと呼んでいるが、殆ど歳は変わらない様に見えた。これが、「紅門の花」である。しかしこの時はまだ普段の装いで、しかも幼い頃から良く知っている朱不尽にみせる顔はとても柔らかく、親しみ易ささえ感じられる。

「不尽は景北港へ向かう途中に寄ったのだ。数日遅れれば会う事は出来なかった……」

 傅紅葵は父の言葉を聞き、静かに頷いた。

「朱不尽様には私が幼い頃から可愛がって頂きました。私は決して……」

「紅葵、頼むからやめてくれ。お前が何処へ行っても関係は変わらん。お前の方はそうはいかんかもしれんが、俺はこれからも国中を渡り歩くんだ。お前の住まう事になる都にも何度も行くだろう。俺から見れば都もこの東淵もさして離れてはおらん」

「そうね……この国は小父様の庭みたいな物ね」

 傅紅葵は幼い頃を思い出したように、改めて懐かしむような眼差しで朱不尽を見ながら言った。

 范撞と楊迅は何も言われないので朱不尽に続いて部屋に入る訳にもいかず、范撞の方は時折入り口を覗いて朱不尽の肩越しに部屋の主の容姿をしきりに頭を動かして窺っていた。

「やめろって。なんかみっともないよ」

「こっちからじゃ殆ど見えないんだぞ? 向こうからだって同じことさ」

「で、見えたの?」

「おう、見えたぞ」

「で?」

「で?」

「だから、評判通り?」

「お前も見てみろ」

 范撞は楊迅に場所を譲って楊迅を押し出した。

「ち、ちょっと」

 部屋の入り口に半分体を乗り出す状態になって楊迅は慌てたが、気付かれなかったかと中のサッと見渡し、その瞬間固まった。傅紅葵が真っ直ぐ自分を見ていたのだ。傅紅葵は少し驚いたような表情で目を見開いて口許に手を遣り、楊迅を見た後、朱不尽の方へ視線を移した。すぐに朱不尽が振り返る。

「ああ、この者はうちの鏢客だ。新米だがな。お前達、騒がずにじっとしておれ」

 入り口を塞ぐ様に立ち尽くしている楊迅の隣に范撞も並んだ。傅紅葵はゆっくりとした動作で丁寧に頭を下げ、同時に二人も釣られる様に礼を返した。

「まあ座れ」

 傅千尽が言い、中の三人は椅子に腰を下ろすと、傅紅葵の傍に付いていた女が部屋を出て行こうとする。范撞と楊迅はやはり何も言われないので入り口の外で脇に下がって女を通す。女は部屋を出たところでチラッと二人を見た後、部屋の扉を静かに閉め、その場を離れていった。范撞と楊迅は話が終わるまで部屋の外で待つ事になった。

「どうだ?感想は」

 范撞が楊迅に訊く。

「……きっと皇帝って人は物凄く徳を積んだ人か、天下一の極悪人に違いないよ。はぁ、あんな綺麗な人がこの世に居るんだね」

「そうだな。もし極悪人の方だったら取り返しに行くか?」

 范撞は笑いながら楊迅を見る。楊迅は考えている。

「冗談に決まってるだろ」

 

 

 三十四

 

「で? その美人とやらを見れたのか?」

 田庭閑は寝台の上で、もう日が暮れようとしているのにまるで眩しい日差しの中に居るかのように目を細めて范撞と楊迅を見ている。

「ああ。しっかり見たぜ。確かにあれは滅多にお目に掛かれないな。今日は薄化粧だったようだが、それで充分な程だ」

 范撞はそう言いながら自分の寝台へ腰を下ろした。

「お前も来れば良かったんだ。惜しい事をしたぞ?」

「ハッ、馬鹿な事を。俺はお前達と違って武林の正統、真武剣派の高弟だ。女に現を抜かす等考えられん事だ」

「ヘッ、そんな寝惚けた様な顔で言っても説得力無いぜ? お前は睡眠欲に取り付かれてる」

「何だと!?」

 田庭閑は范撞を睨んで勢い良く立ち上がったが、同時に范撞は全く気に留めず横になったので田庭閑は短く鼻を鳴らしてまた腰を下ろした。

「ねえ田さん。いつも「高弟」って言うけど、普通の門弟とは違うの?」

 楊迅が尋ねる。殆ど皮肉に聞こえる問いだが、楊迅は至って真面目で、本当に知りたがっている様だ。

「全然違う。俺はな、総帥の直弟子だ。数多く居る門弟の大部分は孫弟子、だから俺は田師叔なのさ」

「何だって!?」

 今度は范撞の方が起き上がった。

「お前、俺達と歳が殆ど一緒なのになんで総帥の弟子なんだよ?俺はまたあの……白?って人の弟子かと思ってたぜ」

「白千風か? 兄弟子だ。まあ俺は末弟子だがな」

「じゃあ総帥から剣を習ってる訳か?」

「……あ、当たり前だろう。これ以上は訊くな」

 田庭閑はそう言って二人に背を向けて横になった。

(まだ寝る気かよ……)

 傅千尽はその夜屋敷に戻らなかった。どうやら傅紅葵はずっと、この屋敷ではなく紅門飯店で暮らしていた様だ。親子水入らずで過ごせる最後の夜になるかもしれない。

 朱不尽は夜遅くに鏢頭達を集めた。

「明日の昼前に出立する事にする。皆充分休めただろう。昼前と言ったが朝にはしっかり準備をしていつでも出られるようにしておいてくれ。俺は 朝、紅門飯店に行かねばならん。皆抜かりないように。魯鏢頭、荷の確認を頼む」

「ハッ」

 朱不尽の指示はすぐに全員に伝えられたが、誰も大して準備する事など無かった。中にはやっと先に進めると喜ぶ者も居る様だ。再び緑恒に戻れるのはまだまだ先だが、既に此処は遠く離れた地だ。家が恋しくなる者が居てもおかしくなかった。

 

「おい、起きろよ」

 翌朝、まだ眠っていた楊迅の肩を范撞が揺する。

「んん、何? 朝?」

「ああ、朝だ。もう出る準備は出来てんだろ?」

「出るのは……昼前だろう?まだ早いんじゃ……」

「もう朱さんは出掛けたぞ。俺達も行こうぜ」

「一体何処へ? 魯さんに怒られるよ」

「大丈夫だって。荷の方も来てから全く動かしてないんだしそのまま出れば良いだけだ。此処の奴に聞いたんだが、今日はあの紅葵って人が街を離れるってんで見物人が集まるらしいんだ。都から迎えの兵も来てるってよ。朱さんはあの人を見送るのに出掛けたんだから、俺達も行って出立するまでは見物できるぜ。今なら魯さん達に見つからずに出られる。ほれ、起きろ」

「……わかったよ」

 楊迅は目を擦りながら寝台の上に起き上がった。内心では楊迅ももう一度、傅紅葵を見たかった。彼女を見られるのはこれが最後だろう。

「おい、あんたもどうだ? ここは武慶じゃないんだ。此処でしか見れないもんは見といた方が良いと思うがな。見識が広がるってもんだ」

「女が見たいだけだろ。何が見識だ」

「別に女だけでもないんだけどな」

 既に田庭閑は起きていた。明らかに今まで寝過ぎだ。

「まあいい。付き合ってやるか」

 田庭閑は立ち上がって剣を手に取った。何処に行くにもまるで何かの儀式のように大仰に剣を持ち上げてから腰に帯びる。武慶を出る時に剣を忘れて来たのは何だったんだと、范撞と楊迅は思っていた。

 

 

 三十五

 

「ちょっと何これ、通れないじゃない」

「……見物人だ」

「フン、お姐様は見世物……見世物なんかじゃないわよ!」

 紅門飯店の前は入り口を何重にも取り囲む様に、街の人間で溢れている。少女と男が店の方までやって来たが、人が一杯で入り口も見えない。少女は整った顔立ちで美しい着物を纏っていたが男の方はあまり良い身形とはいえない。背が高く口が開きっぱなしで冴えない顔、しかも長い。

「お姐様の出立はまだなのに、間抜けな人たちばかりだわ」

 少女は全く周りを気にする事も無くそう言った。幸い誰も聞いていなかった様だ。男の方は何も言わずに人だかりを見ている。

「ハッ!」

 男が振り返ると少女が後ろにあった大きな木の太い幹から伸びている枝の一つにぶら下がっている。

「ちょっとお馬さん、早く!」

 男は駆け寄って眺めた。

「どうする?」

「足掛ける所がないんだから、肩貸してよ!」

 男が真下に入ると少女はお馬さんと呼んだ男の肩に足を掛けて枝によじ登った。

「……紫蘭、それは、まずいと思うが」

「よく見えるわ。よく集まったものねぇ」

 少女は男の言う事は無視して、片手を幹に当てて枝の上に立ち上がった。背の高いこの男が普通に手を伸ばしても届かない高さだ。しかし少女は平気だった。女の子が木登り遊びをするかどうかは別として、この少女はもう十四、五にはなっているだろうか。しかもこのような街の中の木に登って背筋を伸ばして立っている絵は、奇妙なものだった。男は少女を紫蘭と呼んだ。少女は傅千尽の娘で傅朱蓮の妹、傅紫蘭である。

「もういいわよ、お馬さん。飛び降りられるから」

 傅紫蘭が言うと男は幹に持たれかかってまた大勢居る人のほうを眺めていた。

「兵隊が並んでる。……三、四、……五十人は居るわね」

「……道中襲われたら困るからな」

「あんな間抜け面ばかりでちゃんとお姐様を守れるのかしら?私が付いていった方がマシじゃない?」

「……兵隊の方がいいに決まってる」

「フン、私とお馬さんの二人ならどう?」

「……駄目だな」

「いいわ。あの兵隊達の顔を立ててやる事にする。……ねえあんた」

「……ん?」

「お馬さんに言ったんじゃないわ。あんたよ。ねえ」

 傅紫蘭の見ている先、男の後ろに辺りを珍しそうに見ている少女が居た。その少女は急に頭上から降ってきた声に大層驚いたようで、首を縮めた。

「アハハ、そんなに吃驚すること無いじゃないの。あんた見ない顔だけど、噂を聞いて見に来たの?」

 下に居た少女は声のする頭上を恐る恐る見上げて目を見開いた。木の上に女の子が立っている。

「あ、あの、私は……」

 傅紫蘭はニヤリと怪しげな笑みを浮かべる。

「お馬さん、この子も木の上に上げてやって。そっちの枝が空いてるわ」

「……何?」

「ほら早く!」

 男は少女に近寄ると急に腰の辺りを掴んで持ち上げた。少女は驚きの余り思わず目を瞑った。

「……手を上に伸ばすんだ。早くしろ」

 男が命令するので少女は慌てて目の前まで来ている枝にしがみつく。男が少女の足の辺りを枝の上に押し上げると少女は必死で幹に抱きついた。その間、全く声を出さなかった。

「大丈夫よ。ほら、よく見えるでしょ」

 少女の方はそれどころでは無い。少しずつ足を動かしながら位置を確かめてしっかり幹にしがみついている。それに少女は人が大勢居るので見に来ただけで、見るべき物が何なのかすら知らない。しかしこの多くの人々が正面の真っ赤な建物の方を向いているのは分かった。

「私はここの娘なの。私のお姐様が今日都に行くから、街中の人が見に来たってわけ」

「そ、そうなんですか」

 少女は取り敢えずそう答えたが、何が何だか解からなかった。しかしなんとか落ち着いて辺りを見回せるようにはなった。

「お姐様はこの国で一番の美人なのよ。ここからなら少しは見れるわ」

 この少女は傅紫蘭よりは歳下だろうか。木の上に少女二人。群衆の中の数人が時折怪訝な顔をしながら後ろの木の上を振り返っていた。

 

 

 三十六

 

 丁度その頃、范撞達三人も紅門飯店の方までやって来た。鏢局の人間は皆屋敷に居り、隠れる必要も無い。朱不尽が外をうろついている筈も無かった。

「凄えなこの人だかりは。こんだけ人気あったらそりゃあ紅門飯店も儲かるはずだ」

 中には老婦人が幼い子供の手を引いて、人の隙間から前を覗いている。常連客であろう男達が大声で騒いでいた。

「泣くなよ恥ずかしいな! お前の女房が見てたら殺されるぞ!」

「何だと!? 紅葵はこの街の宝だ! 嫁が何と言おうと俺は紅葵を忘れる事は無いぞ!」

「だがこの先は口を慎む事だな。これから紅葵は傅夫人だ。いきなり夫人だぞ?紅葵はすぐに貴妃になるに決まってる。下手な事を言うととっ捕まるからな」

「そんなことは分かっておるわ! おお、紅葵よ……」

「……向こうはお前の事など知らんわ」

「お前は何とも思わんのか!? お前は情も何も無い畜生だ!」

「何だとこの!」

 人が一杯で立っているだけでやっとであるというのに男達は取っ組み合いを始めてしまい、あっという間に騒ぎが周辺に伝播する。范撞達は騒動を眺めながら辺りをうろついたが余り前が見えそうな所は無かった。

「紅葵さんはこの店で何してたんだろう? 昨日見た感じでは普通の料理店だけど。給仕ではないよね」

歩きながら楊迅が言う。

「あの人を給仕に使うなんて勿体無いな。何だろうな。この店、まだ上があるしな。きっとどっかのお偉いさんが来て、舞ったりするんじゃないか? ……何だありゃ?」

「ん?」

 范撞が見ている先に楊迅と田庭閑が視線を移すと、子供二人が木に登っている。しかもどちらも女の子だ。

「……この街の奴は子供から大人まで変わってんな」

「んーまあ今日はお祭りみたいなものだろ?」

「違うだろ! ただ嫁入りがあるだけじゃねえか」

「フン、そのただの嫁入りをわざわざ見に来る緑恒の人間が居るんだからな」

 田庭閑はずっと腕を組んだまま冷やかな目で辺りを見回していた。范撞達が木の近くまで来た時、人だかりの先の方でどよめきが起こった。 

「ちょ、ちょっと何よ! もう出るっていうの!?」

 木の上から見ていた傅紫蘭が慌てた様子で枝から勢い良く飛び降りる。自分の背丈よりも遥かに高かったが、全く平気な様だ。

「ちょっと! どいて!」

 傅紫蘭は前の人だかりに強引に入って行き、すぐに姿が見えなくなる。木の下に居た男もすぐに追いかけて行った。

「何だ? 出てきたか?」

 范撞達は背伸びをして入り口の方を窺うと傅千尽の姿が見える。他には迎えに来た一隊の責任者だろうか、鎧を着ている髭面の大男が入り口から出てきた。

「何だよあの男は。あの格好、もう少し考えろよ」

 楊迅の方は范撞よりも背が低い。見るのに苦労しているようだ。前方では兵士が店の入り口を囲むように整列し、店の前に押し寄せた人々を睨みつけている。

「出てきたか? おっ……」

 范撞は何か言おうとしたが言葉が続かない。楊迅も黙って目を見張っていた。傅紅葵がゆっくりと店の前に姿を見せる。首全体を覆うような高い詰襟に全体がゆったりとした赤の旗袍で身を包み、結上げた髪を眩しく光る金の飾りが包んでいる。やはり白粉の類は殆ど付けていないようだが玉の様に白い顔に鮮やかな紅が浮かんでいる。しかしその姿はすぐに車の陰に隠れてしまった。傅千尽が何か話しかけていたが、その顔には全く表情が無い。

「見えたか?」

 范撞が田庭閑に言った。

「ああ」

「それだけか」

「……まあ、いい女だな」

 田庭閑はそう言った後、楊迅の方に顎をしゃくる。楊迅は背伸びをやめて、まるで前に居る男の背中を見つめるように何か考えていた。范撞は楊迅を僅かに見たが、何も言わずに辺りの人間の反応を窺う様に周りを見渡した。手を合わせて拝んでいる老女まで居るではないか。范撞は笑いが込み上げて来そうなのをなんとか押さえ込む。隣の木の上にもう一人居た事を思い出し、首を回して見上げた。

「どうだ? そこから良く見えたか?」

「わ、わかりません」

 傅紫蘭が居なくなってたった一人木の上に居た少女は、もう周りを見るどころでは無い様だ。降りる手段が無いのだ。涙こそ見せてはいないが、その表情は殆ど泣いていた。

 

 

 三十七

 

「降りられないのかい?」

 楊迅が木の根元まで行って声を掛けた。少女は黙って頷く。

「大体お前、どうやって登った? 足掛ける所も無いのに。飛び上がった……訳じゃねえよな。飛び上がれるなら降りられない訳が無いな」

 范撞は笑って言う。

「うーん、どうしようか? 梯子か何かを――」

「おい! お前達何をしておる!」

 突然背後から怒鳴り声が聞こえ、范撞が驚いて振り返ったところへ物凄い勢いで手が伸びてきて胸倉を掴む。次の瞬間、范撞の体が物凄い力で後方へ弾かれる様に飛んだ。楊迅と田庭閑は驚きの余り動けない。周辺に集まっていた人々の注目を集めたが、一斉に振り返った中の多くは隣同士で何やら小声で話しながらその場を離れて行く。残った者達は興味深々である程度の距離は確保しながらこちらを窺っていた。先程まで范撞が立っていた位置に居たのは白髪の老人で、その枯れたような手が大柄の范撞をいとも簡単に吹っ飛ばしたのだ。

「どうした!? 怪我は無いか!? 何故そのような所に居るのじゃ!?」

 老人は早口で木の上の少女に問う。

「あ、あの、降りられません……」

 少女は相変わらず幹に抱きついたまま、辛うじて老人に届く声で言った。

「消えろ!」

 老人は近くで固まっている楊迅と田庭閑に向かって再び怒鳴り声を上げる。慌てて二人は吹っ飛ばされた范撞の方へ走った。老人は二人を睨んでから軽々と枝に飛び上がる。少女を抱きかかえ、ひらりと再び地に戻った。

「何があったのじゃ? 何故一人で此処へ来た?」

「あの……人が一杯居たので……」

「よいか。これからは一人で出歩いてはならん」

「……はい」

 老人は腰を屈め、少女と話している。

「このクソじじい!」

 老人が声の方を見遣ると范撞が怒りの形相で突進してくる。老人はサッと少女を自らの背後に下がらせると范撞に向かい真っ直ぐ立った。

「その人達は違うんです!」

 少女が叫ぶ。それと同時に范撞は思い切り拳を固めて老人に殴りかかった。しかし老人はその拳をいとも容易く振り払い再び范撞の胸倉を掴む。あっという間だった。今度は飛ばされる事はなかったが、老人は范撞を前に押し遣る。それでも范撞はふらふらと後方へよろけ、危うく尻餅をつくところだった。

「その人達は何も悪い事してません……」

 少女は老人にそう言ったが、かと言ってどう説明すればいいのか分からず混乱していた。

「そうだ! 俺達は何もしちゃいねえ! 此処に来た時には既にその子は木の上だったんだからな! っく……」

 范撞は胸を押さえながらなんとか立っていた。

「俺達は、その子が降りられそうに無かったから手を貸してやろうとしてたんだ! 解かったか!? クソ爺!」

 楊迅が范撞に肩を貸して支える。范撞がこれほど声を荒げるのを見たことが無かった。老人は范撞の方を見ずに少女の前に屈み込んだ。

「そうなのか?」

「はい」

「そうか。ならば良い」

「何が良いんだ! 爺!」

「儂の勘違いじゃ。許せ」

「……そんな謝り方があるか!?」

「どこか怪我でもしたか?お前は体は頑丈そうだ。大したことでは無かろうが」

 少女が慌てて范撞の前に跪いた。

「ごめんなさい! ごめんなさい!」

 少女は額を地面に擦り付けるように頭を下げている

「……お前は悪くねえよ。悪いのはあの爺だ! クソ爺!」

 老人は動かずに范撞を眺める。

「どうすれば良いのじゃ?」

「あんたが叩頭しろ! そしたら許してやらあ!」

「嫌じゃ」

「い、嫌だと?」

「ごめんなさい! 許して下さい!」

 少女だけが必死に范撞に謝っていた。

 

 

 三十八

 

「もうよい」

「あんたが言うな!」

 老人は跪いたままの少女に許へ行き、肩に手をやって立たせた。

「もう痛みはあるまい? 申し訳無い事をした」

 老人は叩頭はしなかったが、真剣な面持ちになり范撞に向かって頭を下げた。范撞の怒りはそう簡単に収まるものでは無かったが、言葉が出てこない。

「おぬし名は何と言う?」

老人が尋ねた。

「俺は……范て言うんだよ!」

「そうか。儂は……」

「知らん! あんたはクソ爺だ! 一生クソ爺と呼んでやる! 目上だろうが老い先が短かろうが関係ねえからな! あんたの名はクソ爺だ!」

 老人はそう捲くし立てた范撞を呆気に取られながら見ていたが、僅かに笑った。

「それで許して貰えるか?」

「あ、ああ許してやるさ! クソ爺……」

 范撞は楊迅の肩から腕を下ろし、横を向いて老人の視線を避けた。

 老人は少女の手を取り、通りに溢れた人々を眺める。

「一体何をしておるのだ? この人だかりは……」

 前を向いたまま言った老人の声は独り言にしては大きかった。楊迅が老人の表情を窺いながら恐る恐る口を開いた。

「そこの紅門飯店の傅紅葵さんが、都へ行かれるんです」

「何? 何をしに参る?」

 老人が勢い良く首を回して睨むように見たので思わず楊迅は一歩後退る。

「詳しくは知りませんが、後宮に入るとか……」

 老人は楊迅の顔を見つめたまま暫く口を開けて固まっている。急に我に返った老人は紅門飯店の前の人だかりへ向かって駆け出したが、少し行ってから引き返して来た。

「来るんじゃ」

 少女の手を掴み、再び歩き出した。

「止めにいくのか? もう遅えよ。ほれ、もう出るぞ。クソ爺」

「黙れ小僧!」

 老人は振り返って范撞を睨みつける。その時、店の前に整列していた兵士達が進み始めた。傅紅葵の乗った車が続き、その後にも兵士が居る。老人は少女の手を引き、ゆっくりと動き始めた車へと近づいていった。

「通してくれ。退いてくれ。おい、退けと言うに!」

 老人は人でごった返す中を強引に進む。引っ張られている少女は、

「ごめんなさい。済みません」

 と繰り返し言っているが、その声は誰の耳にも届いていない。何とか人の壁を通り抜けた老人は車に向かって真っ直ぐ駆け出す。すぐに兵士が三人飛び出してきた。

「下がれ!」

 兵は老人に向かって槍を構えた。

「紅葵! 紅葵よ!」

「おいお前! 下がらんか!」

 更に数人兵士が槍を構えて老人の前に立ち塞がった。老人は槍の先を掴み、離れていく車についている小窓に掛かる白の垂れ絹に向かい叫ぶ。

「紅葵よ! 儂じゃ! 洪じゃ!」

「貴様! 下がらんと容赦せんぞ!」

 じっと前方を見つめている老人には兵士達の怒声は聞こえていない様だ。

「紅葵!」

 車の垂れ絹が白く細い手によって押し上げられ、傅紅葵が顔を覗かせた。そこにはいつもの嫣然とした笑みは無く、眉根を寄せて唇を噛み締めている顔にはただ、悲しみしか無かった。その表情も馬蹄が巻き上げる砂煙によって老人の視界から徐々に消えていく。老人が足を止めて力なく佇んでいるのを見た兵士達は足早に隊に戻って行った。集まった人々もこの別れの最後に皆押し黙って、感慨深げに一行の後姿を見送っていた。

 

「もう戻った方がいいんじゃない?」

 范撞達は黙って老人の様子を眺めていたが、楊迅が思い出した様に范撞と田庭閑に言った。

「そうだな……」

 もう陽が高くなっている。鏢局の一行は昼には出る予定で、朱不尽もすぐに屋敷に戻るに違いない。人だかりは徐々に方々へ散らばり始めている。三人はじっと動かない老人と少女を遠巻きに見ながら、傅千尽の屋敷に向かった。

 

 

 三十九

 

 傅紅葵を迎えに来た一行が紅門飯店を離れて見えなくなった頃にはすでに傅千尽は店の中に戻っていた。

「さ、今日も店は開けるんだからね。皆、仕事しておくれよ」

 表で見送った店の者を引き連れて、中年の女性が店に戻る。紅門飯店の一切を取り仕切る傅英ふえいである。皆店に入るとそれぞれ黙ったまま自分の持ち場に戻って行く。

「千尽は居るか?」

 急に入り口の方から聞こえてきた声に一階にいた全員が顔を向けた。

「あら! こう兄さん久しぶりじゃないの。何処に行ってたの? 心配したんだから」

 傅英は大層驚いて声の主に駆け寄った。入ってきたのは少女を連れた老人、洪破天こうはてんだった。

「少しばかり出ておっただけじゃ。千尽」

 広間をサッと見渡した洪破天は客席に腰を下ろしている傅千尽をすぐに見つけた。傍らには朱不尽が立っていたが、お互い面識は無かった。傅千尽は卓上に伏せるような体勢のまま顔を洪破天に向けて黙っている。

「何故紅葵は都へ行く?」

 少女の手を引いたまま洪破天は傅千尽の傍に立った。傅千尽は全く動かず、少女を見つめたまま黙っている。少女の方は視線を避けるように俯いた。

「俺はそろそろ戻るぞ」

 朱不尽が傅千尽に声を掛けるとすぐに傅千尽は頭を上げる。

「正午までには屋敷に戻る。それまで待っててくれよ。必ずだぞ」

「……わかった。では後でな」

 朱不尽は洪破天に向かって一礼してからその場を離れた。傅千尽は洪破天に視線を戻す。

「とうに嫁に行っておってもおかしくない歳だが?」

「しかし後宮に入れるなど……あのような所、碌な事は無いぞ」

「ほう、後宮に居た事が?」

「ふざけるな!」

「ならば如何すれば良かったんだ!? こっちから嫁にしてくれと頼んではおらん! 差し出せと言うて来たんだぞ!」

「……」

「……あれは賢い娘だ。うまくやっていく筈だ」

 傅千尽は宙を見つめたまま静かにそう言った。

「洪兄、その娘は?」

「……これからこの東淵で共に暮らす。儂の孫じゃ」

 洪破天が天涯孤独の身であることは周知の事実。古くからの知人である傅千尽は洪破天に身内が誰も居ない事を知っている。しかし今はそれ以上訊く事はしなかった。顔を上げた少女を見て微かに微笑んでみせたがすぐに立ち上がる。

「洪兄、また改めて飲もうではないか。黙って街を離れるとはな。色々と聞かせて貰わねばならんな。儂は少し用事があってな、今居た男を知ってるか?」

「いや、知らぬ」

「千河幇の朱不尽だ。景北港へ行く途中に寄ったのだ。……紅葵を知っておるのでな。今日まで引き止めたのだ」

「ほう、あれが。名は聞いておる」

「昼には出るから儂は屋敷に戻る。また夜にでも来てくれ。その娘も連れてな。あの家に夜留守番させるのはどうかと思うぞ」

「家は何とかするわい」

 傅千尽は初めて洪破天に笑顔を見せると、店の奥へ入って行った。

「洪兄さん、飲んでいく? 店は夕刻からだけど」

 すぐ後ろで話を聞いていた傅英が声を掛ける。

「……いや、また来る」

 洪破天はそう言ってさっさと店の外へ出て行く。傅英は洪破天と共に出て行く少女の後姿をじっと眺めていた。

 

 范撞達が屋敷に戻った時、すでに鏢局の荷駄は門の前で整列していた。鏢頭達が集まって何やら話している間に范撞達は部屋に戻る事が出来た。あらかじめ用意しておいた自分達の荷物を背負って庭に出るとすぐに魯鏢頭が三人を見つけた。

「もう朱鏢頭も戻られる筈だ。うろうろせずに此処で待っていろ」

「承知」

 范撞が答えて荷車の隅に腰を下ろした。

 

 

 四十

 

 程なくして朱不尽が屋敷に戻って来た。

「朱鏢頭、準備は全て整っております。いつでも出られます」

 魯鏢頭が報告する。朱不尽は頷くと屋敷の中に入って行った。

「ちょっと休み過ぎたね。また歩き続けるのかと思うと辛いよ」

 楊迅が溜息混じりに言う。

「まあ七日も行けば景北港に着くだろうし、向こうでも少しはもてなして貰えるかも知れんぞ」

「北辰の奴等がなんで俺達をもてなすんだ? ただの荷物運びの一行じゃないか」

 田庭閑が范撞に訊く。

「あー、あんたが真武剣派の人間って知ったらどうかは分からんが、前も言ったが俺達は千河幇だからだ。あっちの外交方針に変更が無けりゃあ、頭を撫でてくれるだろうよ」

「フン、お前達はそれでいいのか? よく我慢できるな。舐められてるんだろうが」

「その辺は俺らなんかが考えても仕方のねぇことだ。千河幇は自分達の商売が順調に出来ればそれでいい。別にこの広い江湖の商い全部を独占したいとも思わんさ。東に来たなら北辰におべんちゃらの一つも言う。西に行ったら、そうだな、あんたと知り合えたしこれからは真武剣派さんも是非とも御贔屓に」

 范撞は真面目な顔で話し始めたが、最後の方は少しふざけて小芝居を入れる。

「そんなどっちつかずな態度では千河幇はこれ以上大きくはなれんな。いずれ真武剣派が武林を制する時が来る。ま、その時まだ千河幇があれば我等がお前達の面倒を見てやってもいいな」

 范撞は立ち上がった。

「本気でそのまま受け取って良いのかな? それが総帥の意向であると……」

 真剣な眼差しで田庭閑を捉える范撞。急に回りに重い空気が流れ込んだように感じられる。田庭閑は慌てた。

「そ、総帥の考えを俺のような下っ端が知るわけなかろうが。そんなどっちつかずの態度では……」

「ハハッ何言ってるんだ? そんな謙遜はいらんだろうが。田師叔」

 范撞は急に真顔を崩してニヤリと笑う。

「俺はお前の師叔じゃない!」

 田庭閑は立ち上がって屋敷に向かって歩き出した。

「何処行くんだよ? ここで待機してろって……」

かわやだ!」

 范撞は楊迅と顔を見合わせて笑った。

 

「不尽、帰りにもちゃんと寄れよ。方崖の様子も聞かせてくれ」

 傅千尽は隊の先頭にいる朱不尽に話しかけている。傍には傅朱蓮も居た。

「小父様、多分この先は心配無いでしょうけど、気をつけてね」

「朱蓮、お前も行くか? どうせうちに居ても暇を持て余すんだろうが。方崖は長く行っておらんだろう」

 傅千尽が言うと、傅朱蓮は少し考える風であったが、首を振った。

「……やめておくわ」

「そうか」

 朱不尽は二人とも目を合わさずに地面を眺めているのが気になったが、それについて今聞くことはしなかった。

「では、そろそろ出る」

 朱不尽が言うと、傅千尽は頷いた。傍に居た超謙に声を掛ける。

「宜しく頼むぞ」

「はい」

 屋敷の用心棒頭の超謙と部下が三人、それと傅紅葵が紅門飯店を出る時に表にいた馬面の男、馬少風の五人が同行する。屋敷の大きな門扉が開かれ、荷駄隊はゆっくりと進み始めた。

「じゃあな」

 傅朱蓮は范撞が丁度真横まで来ると声を掛けた。

「ちゃんと朱小父様の言う事を聞いて、お利巧にしているのよ。帰りにはお菓子をあげるから」

「そりゃあ……ヘッ、楽しみだ」

 二人は顔を見合い、笑って離れた。

 一行が緑恒を離れてから雨に遇う事は殆ど無く、この日も所々薄い雲が漂うだけで街中が眩しい光で溢れている。傅千尽の屋敷の正門を出ると正面には街の向こうにキラキラと光る湖面が僅かに見えていた。荷を届ける期限の七月が来る。朱不尽は残りの行程の計画を何度も頭の中で繰り返していた。


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