第六章 十九
酒宴は長く続いていたが、依然、陸皓の姿は無い。変わりに白千雲ら弟子達が時折広間に顔を出して客の相手をする。そろそろ陽が傾き始め、窓からやや赤みを帯びた光が差し込む。
表は昼間程ではなくなったがまだ多くの人が居て、地べたに座って何やら話し込んでいる人の輪が幾つも出来ていた。
「お、爺さんまだ居たのか」
広場の隅でたった一人、塀にもたれて座っている老人を武大が見つけ、声を掛けた。老人は椀を大事そうに両手で抱えていた。
「なんだ爺さん、まだ酒あるのか?」
真武剣派の振舞い酒はもう随分前に無くなって終わっている。かなりの量を用意していたようだったが、広場一杯に集まった群衆に酒を遠慮する者など居る筈も無く、早いうちに全て飲み干されてしまった。それでも椀に一杯ずつは行き届いた様である。
武大が老人の持つ椀を覗き込むと、まだ椀の半分は残っている。
「そんなに時間掛けて、さすがの銘酒もくたびれないか?」
「そんな事は無いが……それは構わん。儂も酔うておるからのう」
老人はゆっくりと喋りながら上体を揺らす。酔っているとは思えない程顔は青白い。
「しかし、あれでは少なすぎるわ。飲み直さないとな」
「これは五杯目。ぜんぶ赤じゃ」
老人はそう言って気持ち良さそうに顔を綻ばす。
「五杯? 五杯だと?」
「うむ。五杯じゃ。これはきついからのう。酔うには十分。時間を潰すにも十分じゃな。ハハ」
「ハハ、じゃないだろう。五回並んだのか? あの赤い甕なんてすぐ無くなったではないか。あの間に五回だと?」
「上手くやらねば。上手くのう。あんたも飲んだではないか。どうじゃ?」
「んー、そうだな。確かに高級な酒の様だったが……正直言って分からん。不味い酒はすぐ分かるが、美味過ぎるのも良く分からんな。ハハ、いや折角、爺さんに飲ませて貰っておいて済まんな」
「良い。この手の白酒は修練を要す。そう簡単に口には出来んからのう、ほれ、これを飲みなされ。今日はこれでしまいじゃ」
老人が酒の残った椀を差し出す。
「いや、遠慮しとくよ。爺さんのだろうが。儂はその辺の安酒で我慢するさ」
「いいから飲みなされ。もうこれだけじゃ。儂はちゃんと腹に納めたからのう」
老人は押し付けるように椀を武大に手渡す。
「そうか? では頂くか」
武大は椀に残った酒を半分程口に含み、眉を顰める。
「……やはりきついな」
「もうそれだけじゃ。悪酔いしたくても出来んよ」
「なんだか、こう……体に良さそうだよな。ハハ」
「そうとも。何とも楽しい薬じゃ。だから死ぬまでやめられぬ」
老人はそう言ってゆっくりと立ち上がる。細く骨ばった手で尻や足元の埃を掃う。武大は残りを一気に飲み干した。
「う……爺さん、あんた名は? 儂は武。武大だ」
「儂は、穆」
「この辺の……じゃなかったな」
「生まれは呂州じゃ。しかし若い頃に家を出てからは根無し草。そろそろ枯れかけておるがのう」
「そうか……。是非またいつか酒をご教授頂きたいな」
「嬉しい事を言うてくれるのう」
「清稜山に木の爺さんを連れて帰ったら、またこっちに出てきて久しぶりにこの中原を回ろうと思ってる。方々の酒を飲み比べるのも良いな。ま、最も不味いのは此処で決まりだけどな」
「では、達者で行きなされ。またいずれお会い致そう」
「爺さんも元気でな」
老人はにっこりと笑みを浮かべて武大に頷いて見せ、纏った袍の袖を棚引かせながら去って行く。
江湖は広く、ただ旅をすると言っても隅々まで巡ろうとすれば急いても一年以上、じっくり各地の風物を愛でる旅となれば必ず数年を要す。こんな広い場所では時と場所を約束でもしない限り偶然再び会うなどまず期待出来ない。
(あの爺さん、もうかなりの歳だが……、もしまた会えるとすれば、奇跡というやつだな)
まだ夕暮れの前ではあったが広間での宴会は一先ずお開きとなり、客達はそれぞれ宿や真武剣派が用意した宿泊の為の屋敷へと引き上げて行った。真武観の庭を開放して招待客以外の者を入れるのはこの日だけだが、招待客達は時間の許す限り長く逗留することが出来る。特に陸皓と個人的にも親しい間柄の客達は陸皓の要請に応えて留まる事になる。総帥陸皓はこの英雄大会の間も忙しくしているらしく、なかなか古い友人達とゆっくり語らう時間が持てない様子だった。
郭斐林は木傀風と共に自らの屋敷に戻った。武大や常施慧らは何処かへ行っているらしく姿は見ていない。
「斐林、少し横になっても良いかな? 何もせずに昼間から酒ばかりで体がもたぬよ」
「そんなに召し上がられました? 道長様、此処を我が家と思って好きにお使い頂けば結構です。師から、特に道長様とはまだ話すことが山ほどあるから絶対帰してはならんとの厳命を仰せつかっておりますから、当分此処でゆっくりしていって頂かなければ」
「うん」
郭斐林は普段からは想像も出来ない程無邪気で心の底から楽しさが溢れ出ている子供の様な笑顔を見せた。周りに誰も居ないせいもある。しかしそれよりも相手が木傀風だからであろう。近年はあまり会えなくなっていたが昔は良く遊んで貰った記憶がある。木傀風は幼い頃から清稜山で修行していたが、一時中原に出て各地を廻っていた時期があり、丁度その頃、十代だった郭斐林は真武剣派に入門した。木傀風はすでに陸皓と親しく接しており、陸皓の弟子達を可愛がった。郭斐林達にとって陸皓は父も同然である。しかし、それ以上に「師」だった。単なる親子ならあるであろう親密さというものが子供心には感じられず、その代わりという事でもないが木傀風は武慶に来る度に郭斐林らを遊びに連れ出した。木傀風が何時までも武慶に留まって居られる訳も無く、またそう頻繁にも来られなかったが、その短い間木傀風は「父」であった。
「昼間来ていた商人の所へ行くのだろう?」
「……はい」
郭斐林の顔から笑みが即座に消える。
「急いだ方がいいのう。儂は休ませて貰うとしよう」
「はい。それでは」
郭斐林は礼をして木傀風と別れた。
木傀風は秘伝書の話をどう思っただろうかと想いを巡らせながら、郭斐林は少し急いで部屋に戻る。
「小絹は戻っているかしら? 呼んで頂戴。急いで」
下男にそう告げて待っていると、直ぐに李小絹が郭斐林の許にやって来た。
「奥様――」
「小絹、劉さんの、あの子の家は知ってるわね?」
「え? あ、はい」
「今から行くから一緒に来て案内して頂戴。何も要らないわ。そのままで」
「分かりました」