第六章 十八
武林にある優れた技というものは、拮抗していなければならない――。
武林の先達の残した言葉にある通り。否、そうならねばならぬというよりも、必然的にそうなってしまうのだ。永い年月を経て作り上げられる様々な技は、無限に強さを増すなど考えられない。そしてそうでなくては困る。己の存在を危うくする程の強さが他にあるなど認めては生きていられない。その存在を強制的に忘れ去らない限り。遠くに追いやらない限り。自らの欲望から益々思考が乖離していく。しかし無理やりにでも、それら相容れぬ考えを、継接ぎだらけだろうが不恰好だろうが、なんとか、繋ぐ。
現実はなんとも拙い。なんとも覚束ない。欲望が隠せない。澄ました顔をして君子然と理想を語っている間に貪欲な盗人が、力を、知を、かっさらっていく。己が名も無い欲望の塊ならば、何も隠す必要は無い。敵も同じ。ただ力の応酬を繰り返すのみ。ついこの間までそれを繰り返してきた。だがいつまでも続けている訳にはいかない。我が派が最も優れていなければならない。上手い方法があるはずだ。
力で、秩序を――。
「あんたが来るんだな?」
「……え?」
「あんたが、返しに来るんだな?」
「……必ず」
郭斐林は徐のしつこい問いかけに少々苛立ったが面には出さない。
「なら、それでいいだろう。ここには証人が一杯居る。安心だな」
徐は劉老人に言った。
「……フン、儂がこうして来なければ返すつもりは無かったんじゃろうが。日が暮れるまでに儂の屋敷に持って来い。よいな?」
「分かりました」
この武慶で郭斐林らを相手にこのような物言いをする者は殆ど居ない。誰もが陸皓とその弟子達を敬い、中には総帥陸皓のみならず「郭斐林様」と両手を合わす年寄りすら居る程である。しかし、常識的に考えれば真武剣派を拝む年寄りが特殊なのであって、劉老人の振る舞いは至って普通なのだろう。眉を顰めてこの光景を眺める者があっても、面と向かって「無礼な」とは言える者は居ない。
「話は終わった。行こう」
徐がそう言って引き上げようとする。それからほんの数歩行ってから郭斐林を振り返る。
「劉さんの屋敷はまぁでかい方だが、あまり大勢で押しかけたら入れないぜ? 一冊の書物を持ってくるだけだ。あんた一人で十分だな」
徐が再び歩き出すと取り巻きの男達もぞろぞろと続き、表へ出て行った。
「ほんまにあったんか。見たいなぁ」
狗不死はまるで菓子をねだる子供の様に郭斐林に言う。
「かなり痛んでいますし、書かれている文字も読めないものばかりで、本物かどうかは疑わしい物です。我が師が目を通しましたがやはり――」
郭斐林は言葉を濁す。陸皓が中身を理解したのか全く分からなかったのかは知らない。
「師妹、何故そのような物を……」
杜越原が怪訝な面持ちで郭斐林に訊ねると、
「後でお話いたします。私は師父の許へ戻らないと……。皆様、お騒がせして申し訳ありませんでした」
郭斐林はそう言ってさっさと奥へ戻ってしまった。
「あんたは知らんかったんか?」
郭斐林の後を追って行こうとする杜越原に狗不死が声を掛けた。
「はい。最近の事であれば、私は武慶には居りませんので……」
「何で此処にあるんやろなぁ?」
「狗不死様、私は何も……」
「そうか」
広間では何事も無かったように客達が酒杯を手に語らっている。劉老人達は広間まで押し入って騒いでいった訳ではなく、客の多くは広間の外の出来事には気付いていない。しかし、ほんの数人でも耳に入れた以上遠からず話は広まり、真武観に留まってはいまい。劉老人と真武剣派の秘伝書を巡る遣り取りもだが、突如武林に姿を現した東涼黄龍門洪淑華の秘伝書の中身についても然り。話は大いに膨らんで武林を駆け巡る事になるだろう。
「随分久しぶりのおもろそうな話やな。もうこんなん出尽くした思っとったけどなぁ」
狗不死達は范凱の席まで戻る。范凱は木傀風と話していた。
「陸が持っとるんやて」
「ほう」
「すぐ返す言うてたけど、怪しいなぁ」
「おぬし、少しは口を慎んだらどうだ? ここが何処か忘れておるのか?」
木傀風は呆れた様に言って溜息をつく。
「そやけどなぁ、偶然やろか? あんたも知っとるやろが。黄龍門と陸やで?」
「また古い話を持ち出しおって。その話は儂の居らぬ処でしてくれんか」
「……ほんまはごっつい興味あるくせに」
「知らぬ」
木傀風は狗不死の言葉を拒絶する。しかし特に機嫌を損ねた風でもなく、のんびりと酒に手を伸ばした。
范凱と傅朱蓮には何の話か想像もつかなかったが、木傀風がしたくないと言う話を訊ねる訳にもいかず、少しの間沈黙が続いたが范凱が傅朱蓮に話しかけた。
「東淵からこちらに参られたのなら、緑恒を通られたのではございませんかな?」
「……はい。ご挨拶に立ち寄らせて頂こうかとも考えたのですが、突然お伺いしてご迷惑をお掛けしてはいけませんし……あの、狗さんがこの英雄大会に――」
「儂かいな! 何でやねんな。儂、何遍も寄っていこ言うたやないか。そら、幇主様に挨拶するんは面倒臭いけど鏢局くらいどうっちゅう事無い言うてなぁ」
「ハハ、迷惑などとんでもない。今は特に忙しいという事もありません。また機会があれば是非お寄り下され。朱不尽、朱さんになら気兼ねも要りますまい」
「有難うございます」
「そや。あんたの息子元気か?」
「え? ああ、お蔭様で元気にしております。それだけが取り柄でございますゆえ。東淵から景北港まで狗不死様にご同行頂いたとか」
「あーもう、そんな話ええねんて。いらん。息子が元気で良かったなぁっちゅう話や。なぁ?」
狗不死は急に傅朱蓮へ顔を向ける。
「え?」
「話聞いてへん――」
「あ、楊さん……とかも、お変わりなく?」
傅朱蓮は少し慌てたように、狗不死を無視して范凱に訊ねた。
「楊……楊迅ですかな?あれが一番元気かもしれませんな。東淵より戻ってからずっと、剣の修練に明け暮れて居るようです」
「楊……ああ、あれか。大怪我しとった奴やな」
「すぐに手当てして頂いたおかげで――」
「ああ終わり。その話終わりや。やめや」
范凱がまたも堅苦しい礼を述べ始めるのを狗不死が即座に遮る。
「おぬしに言ったのではなかろうが……」
木傀風が手の酒杯を眺めながら呟いた。