第十四章 二十二
「あなたこそ……香主様に甘えて好き勝手しているだけじゃない!」
李小絹が叫ぶ。このお嬢様の事は怖くて仕方がない。だが、もう我慢の限界だった。
『山』から遠く離れたこの場所には助けてくれる者は無い。本当にいよいよ殺されるかもしれない。もっと大声で叫べばあの老人が戻って来てくれるだろうか。戻って来てもやはりこのお嬢様を止める事は無いのかもしれない――そう思いながらも目の前の娘を睨み付けるのを止める事が出来なかった。
すると娘は急に表情を変え、溜息交じりに首を振った。
「ハ……悪かったね。なんだかお前が可哀そうになってきたよ。山に帰ったらお前を、『お前の大好きな香主様』に会わせてやろうじゃないか」
「えっ? あの……」
「お前をこれからどうするか決めてもらうとしよう。何か仕事にありつければもう、私に連れまわされずに済むんだよ?」
娘の話し方はどこか芝居がかって冗談のようにも聞こえ、どうも信用出来ない。だが、まだ会った事も無い、自分を救ってくれた香主様に早く会いたくて仕方がなかった。
「本当……ですね?」
「ああ」
先程まで怒りのあまり涙を浮かべていた李小絹も一転して表情を輝かせる。
「私は、香主様に剣術を――、いえ、武芸を教わりたいんです。私を助けてくれた山の人たちはすごく強かった。あんな奴らじゃ相手にもならない程に……。全て香主様に授けられた武芸だと教えてくれました。私も、強くなりたい……」
「ハ、香主と聞けば良く喋る。それなら武慶に戻ればいいだろう? 真武剣で十分じゃないか」
「真武剣なんて……香主様の武芸は真武剣よりも上ですよね?」
真武剣派への弟子入りが目前だった李小絹であったが、賊徒によって武慶から連れ去られてしまいその望みは叶わなかった。だが、今はもうそんな事はどうでも良くなっていた。
真武剣派の弟子たちが鍛錬に励む様子を夢中になって見てきたが、彼らが命を張って本当の闘いをするところを見た事はない。当然である。弟子たちが繰り返す真武剣の型は、まだあまりよく分かっていない李小絹には何となくその美しさや力強さを感じさせたが、本物の強さというものを実感させるには足りなかったのだ。そう考える様になったのも不本意ながら武慶の外に連れ出され、本物の、命のやり取りを目の前で見せつけられた為であった。
あの恐ろしく、殺してやりたい程憎い男達が、急に現れた香主様の使い達によって次々に息絶えていく。彼らが両手に下げた二本の得物が真っ赤な血で濡れて光を放っていた。彼らは確かな腕を持ち、何者にも侵されない強さを持っている。そう、あれが、あれこそが本当の強さなのだと李小絹は思うようになっていた。
「まともに剣も持った事が無いおまえがもう武芸の高低深浅を測ろうというのか。全く救いようがないね。まあいい。何を学ぶか決める前にあっさり死んでしまわないように気を付けることだ。さて――今晩は此処で寝るんだよ。獣か盗賊か、まあ何か来るかもしれないが朝まで無事で居られたら、山に帰るからね」
娘はそう言って立ち上がると外に出て行こうとする。
「えっ、何処へ?」
「朝になったらお前がまだ生きているか見に来る。お前は此処でじっとしているんだ」
「え……私一人で?」
娘は答えず、そのまま出て行ってしまった。
暫く呆然とする李小絹であったが、慌てた様にこの古びた家屋を見回した。娘は本当に朝まで戻って来ないかもしれず、じっとして身を隠していなければたった一晩とはいえ危険極まりない。
(絶対に、朝まで無事でいなければ)
李小絹は床に放ったままであった荷を抱え上げると、このさほど広くない部屋の中を歩き回った。
夜の間、人の気配は感じられなかったが、どこからともなく聞こえてくる不気味な獣の声が李小絹を震えさせた。闇が深くなるほどに恐ろしくなったが、昼間の疲れが全く抜けていないせいか強烈な眠気に襲われ、床の上に倒れ込む様にして眠ったまま朝を迎えた。
顔を顰めながらうっすらと瞼を開くと、金糸の細かい刺繍が施された可愛らしい赤の靴が見える。ハッとなって顔を起こすとそこにはいつの間にか帰って来ていた娘が椅子に座り、じっとこちらを眺めていた。出て行った時と全く同じ姿であり、何処でどう過ごしていたのかは分らない。
「フ、お前のその寝姿を見た時には死んでるのかと思ったけど、お前は……そう簡単には終わらないようだね」
「何が何でも……山に戻りますから」
李小絹は己の首筋に手を遣りながら答えた。
武慶に居る時からとにかく早く弟子入りして武芸を習いたいと、そればかりを考える毎日だった。真武剣派の高弟、白千風の屋敷に給仕として働いていたが、言いつけられるのは雑用ばかりでうんざりしていた。給仕の仕事にも多くの知識と経験が必要になってくるわけだが李小絹にはそんなものはまったくの無駄、そんな事を学ぶ時間が無意味だと思っていた。
延々とただの荷物運びをさせるこんな娘の居る『山』にもそれが無いとは言い切れないが、それでも真武剣派とは全く異なる姿形をした集団の中でやっと自らの求めるものに図らずも近づくことが出来たのではないかと感じている。
「……家族は? 武慶に帰って一目でも会いたいとは思わないのか?」
娘の問いに、ふと考える表情を見せる李小絹だったが、少しの間を置いて、
「思いません」
と、乾いた声で答えた。娘を急かすつもりなのか重い荷物を勢いよく背に負うと、じっと娘を見つめて出立を待つ。
「……ならば、さっさと帰るとしよう」
娘が立ち上がる。帰るにもまた辛い旅が暫く続くのは分かっている。だが李小絹はそれを聞いて、久しぶりの笑顔で頷いた。
この旅の目的は何だったのか、李小絹にはさっぱり解らなかった。遥か東のこの地までやってきて初めて、武慶で己と共に持ち去られた秘伝書らしきものの噂を耳にしたのだが、あの老人に何かを依頼していたという事は、この嬋という娘は山を出る時から秘伝書を追うつもりだったのだろうと今になって気付く。それにしてはただの遊山であるかの様な、目的地の定まらない旅だった。意味もなく深い山に分け入ってみたり、急に思い直してまた向きを変える。軽くない荷を負わされている李小絹にはたまったものではない。ひたすらに虐められている様なものである。そしてあの老人と会い、どうやら秘伝書にかなり近づいたらしかったのだが、急に興味を失ったかの様に、山へ帰るという。訳が解らないが帰るというなら李小絹にとっては願っても無い事である。
しかしこのただならぬ娘と共に行動している内に、李小絹は気付き始める。この常に高飛車な物言いをするお嬢様は、何処へ行こうとも、誰に会おうとも、怖じず、不安や恐れといった感情を微塵も感じることが無いらしい。そして驚くという事が無い。何かに焦る事も無い。まだ若い娘であるというのにその様はまるで彼女の中の何かが壊れているかのようで、異様にまで感じられた。
娘は何らかの得物を帯びている様子は無い。何故、山の者達はこの『お嬢様』が一人でこんなに遠くまで出歩く事を放っておくのか? 香主様の娘ならば護衛くらい居て当然なのではないか。李小絹はまた、自分が救われた時の事を思い出す。山の者達は皆、凄腕だった。二、三人でもついていればかなり安全に旅が出来るだろう。今までのところはおかしな輩に絡まれたりすることも皆無であったが、こんな事を続けさせていては危険極まりない。
(香主様はこの事をご存じなの? 仮に秘伝書の件を娘に命じたとしてもたった一人でやらせる? そんなはず無い。きっとこの人が勝手に出てきたに違いない。だから秘伝書の事もあんなにあっさり諦めるんだわ)
前を行く娘は手にした木の枝を振りながらなにやら鼻唄交じりに歩いている。やはりどこをどう見ても、良家に育ったわがまま放題のお嬢様にしか見えなかった。
第十五章に続く