第十四章 二十一
とりあえず街と呼んでも差し支えない程度に人の行き交う処まで降りてきたのは既に夕刻。空から地上に至る全てが赤く見える頃だった。先を行く娘は全く迷う様子も無く、一軒の民家らしき処へと進んでいく。後に続く荷を担いだ少女は足も震え、もはや真っ直ぐに歩く事も出来ないほど疲れ果てていた。
娘がその古びた建物の前に立つと同時、正面の扉がガタガタと音を立てて開かれ、中から一人の老人が姿を現す。その老人はまず娘を見遣ったがすぐに後ろの少女へと視線を移し、それから怪訝そうな表情を浮かべた。
娘は老人の脇を抜けて中へと入っていく。老人は、ふらつきながら後に続こうとする少女が中に入るまで、相変わらず眉間に皺を寄せつつも待っていた。
老人はかなり細く、真っ白なあごひげに、同じく真っ白な長い眉を顔の両脇に垂らしており、よく絵に描かれる仙人の様な風貌である。あまり美しくはなかったがかなり年季の入った真っ白な袍に黒の細い帯を巻いていた。
「この暑さだからもしかしたらここまでたどり着けないんじゃないかと心配しましたよ」
娘は老人に向かってそう言うと微笑んだ。その顔はやはり若く、可愛らしい。少女と話している時に時折見せる、険のある形相とは似ても似つかない。そしていつになく声も柔らかく、丁寧な物言いである。
「確かにこの炎天下ではそこいらの酒では命を縮めてしまう。これほど長く、素面で居ったのは久しぶりじゃ」
「あら、それは何より」
この家には住人の気配はなく、手入れもあまりされていないようではあったが、廃屋という程でもなく、此処が一体、何だったのか少女には窺い知ることは出来ない。そんな事よりもまず腰を落ち着ける事が大事であった。背にあった荷物を床に落とし、その上に崩れ落ちるように覆いかぶさった。老人と娘はその様子を僅かに見ただけで、手近にあった椅子を引いて二人揃って腰掛ける。
「何か分かりましたか?」
「ああ、稟施会じゃな。それと……殷汪がおったのう」
「やはり。そうですか。で、お会いに?」
「いや、向こうは気づいてはおらぬ――と思う」
「あら、それは勿体ない事。もう長らく顔を合わせてないのでは?」
「まあ、そうじゃな。しかし向こうも困ろう。何を話せば良い? 儂も困る。何を話せば良い?」
娘は老人のおかしな物言いにフッと鼻を鳴らして笑った。
「そういうものですか」
「そういうものじゃ」
まだ荒い息を落ち着けるべくじっとしている少女であったが、二人の会話を聞き漏らすまいと意識はそちらへと集中している。『山の人間が待っている』というような事を娘が言っていた様に記憶していたが、もしこの老人がそうであったなら何故この人はあんな丁寧な話し方なのだろうか。老人は娘を『お嬢』と呼んだ。香主様の娘だから、というなら成程、至極当然だ。そして老人は『山』の人間なのだろう。しかし――このお嬢様が山の人間に対してこのような物言いをする事など今まで一度も聞いた事など無い。父親程も年の離れていそうな男達に向かってさえも常に命令口調だったではないか。少女はこの老人を見たのは今日が初めてでありどういう関係の者なのかは知らなかった。『山』ではきっと数少ない、この偉そうな娘に対等にものが言える人物なのだろうと考えた。
「そなた、名は?」
不意に老人に話し掛けられ、少女は驚いて跳ね起きる。
「そうびっくりせぬとも良かろう? 名を訊いたまで」
「私……私は、李……といいます」
「武慶の、李小絹じゃな」
少女は目を見張り、顔を強張らせる。老人はその様子を一瞥しただけでそれ以上何も問う事は無かった。
「どうか内密に願いますよ」
娘が言うと老人は頷いていた。
(やっぱり『山』の人なんだ。私を知っている)
少女、李小絹は老人をじっと見ていた。武慶の街から連れ去られた自分を知っていて騒がないのは、あの悪人たちから助けてくれた『山』の者達だけだ。今、江湖では真武剣派は勿論の事、連れ去られた自分と秘伝書で騒ぎになっているらしいという事は聞き及んでいた。
(もう、もういいのに……)
「で、嬋よ。次はどうする。秘伝書とやらは。儂はもう解放してもらえるのかな?」
「そうですね。欲を言えばあの人に会って貰いたかったのですけど。穆さんなら他の者には出来ない話も出るのでは、と――」
「……もし話したとしても昔話しか出来まい。儂は一切武芸も、武林に関するもの全てを理解しておらぬ。儂はあの者達とは全く別の人生を歩んできたのじゃ」
「昔話でも良かったではないですか」
「うーん、やはり何を言えば良いのか判らぬのう。そなたはどうじゃな?」
「私も同じかも知れませんね。時が、経ち過ぎた――」
李小絹には何の話か解らなかったが、老人は名は穆であり、山の人間が皆、『お嬢』と呼ぶこの娘は嬋という名であるという事を、今、初めて知った。
「私ももう戻りますよ。これ以上は必要ありませんから。穆さんにはお手間を取らせてしまって」
「なあに、儂もこちらに来たのは久しぶりであったしのう、アレの顔も見たし、まあ、良かった。これという酒にありつけなんだのが残念じゃのう」
「またうちにいつでもお寄り下さいな」
「分かった。それではまたのう」
老人は立ち上がり、李小絹を一瞥して後、あっさりとそのまま出て行ってしまった。あまりに急であったので李小絹は戸惑った。
「あの、もう良いんですか? 今の話で何が解ったんですか? あの人は今から何処に?」
娘は苛ついた様子を見せながら立ち上がって声を荒げる。
「うるさいよお前は。次から次と。今お前が訊いた全ての事はお前が知る必要は無い。お前は自分を何だと思っている? いいか。黙っていられないのなら今此処で斬って捨てていくからね」
「そっ、そんな事、香主様が――」
「黙れ!」
娘は李小絹に迫り、その細い首を片手で掴んで締め上げる。
「フン、香主様、香主様と唱えておれば私がお前に手を出せないと思っているのか。お前の様な嫌らしい小娘は見た事が無い。なんの能も無い餓鬼のくせに口だけは一人前気取りだね。此処で殺すか、真武剣派に突き出すか、どっちがいい?」
首を絞められて答える事の出来ない李小絹は、呻きながらも首を横に振る。
「武慶に戻るのも嫌だというのか?」
娘は李小絹を首を掴んだまま床に放り投げた。李小絹は喉を抑えながら激しく咳き込んでいる。
「いいか。お前が助けてもらったという『香主様』とやらは、お前を憐れんだわけじゃない。ただ、何か使い道は無いかと思っただけさ。無ければ、即座に殺すよ。わざわざ武慶に送り届けたりもしない。面倒だからね」
「う、嘘です。香主様はそんな方では――」
「だったら」
娘は再び李小絹の前に来るとしゃがみこんでその胸倉を掴む。そして不気味な笑みを浮かべた。
「山に帰ったら、その香主様とやらに私が行った事を全て告げ口するんだね。そしてその香主様を私の前に連れてきて、うんと叱ってもらうが良い。それだけではお前の気が治まらないか? 私を殺してくれる様に頼んだって構わないよ。フ、お前の優しい香主様はきっと聞いてくれるんだろうね」