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流浪一天  作者: Lotus
第十四章
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第十四章 二十

 楊迅らが東涼の地を離れてひと月余り過ぎた頃か、相変わらずの炎天下に焼かれるこの南方の地であったが、その風景は一年で最も鮮やかさを増して全ての色が濃く、輝いていた。鋭く尖った幾つもの頂きが真っ青な空を切り裂かんばかりに連なってそびえ立つ、古来、遼山(りょうざん)と呼ばれてきたその山へと至る深い森の中を、強い日差しを避けながら降りて来る人影が二つ、あった。

 東涼の西方、安県との丁度中間あたりに位置するこの山は周辺に大きな街は無く、そこかしこにひっそりとある深い谷に小さな集落が点在する以外は人の気配を殆ど感じる事の無い、まさに秘境であった。数百年、或いは数千年にも及ぶだろうか、此処が全くその姿を変えないわけはただ一つ、余りにも険しく、余りにも広大であるが故である。人々の欲望を湧き立たせる類の物も見当たらず、ただ、そこにあり続けるのみ。

 木々の合間を縫うように進む二人はどちらも女で、若く、姉妹のようにも見える。後ろを歩くのはまだ幼い顔立ちを残す少女で、遅れそうになりながらも急いでついていく。その少女を時折振り返りながら不機嫌そうな顔を見せる娘。濃い緑の衣服に大きめの笠を頭に乗せ、真夏の強い日差しに目を細めたその顔は玉の様な若い娘のものでありながら、その佇まいは随分と大人びているようにも見えた。

「驢馬でも買ってくるんだった。お前より何倍も役に立つ」

 その顔からは想像出来ない程の、乾いた、そして冷ややかな言葉だった。この娘に持たされているのか何やら荷を背負っている後ろの少女は、すみません、と掠れた声を出した。それを聞いたかどうか判らないが娘はまた歩きだす。

 かなりの悪路だった。だが娘の足取りは軽く、全く疲れた様子はなかった。旅の装束ではあるがそれは街の若い娘が好みそうなものであり、明らかにその体つきも地元の田畑で足腰を鍛えられた田舎娘とは違うようである。既にかなり長く森の中を歩いている筈だがその健脚ぶりは少々不自然なほどで、それに比べて後ろでふらついている少女のほうは果たして生きて此処を抜けられるのかといった疲労困憊ぶりであった。

「せっかく久しぶりに出てきたのに、遊びにも行けやしない」

「……ついて来いと言ったのはあなたじゃないですか」

「そうだ。まったくどうかしていた」

「……香主(こうしゅ)様のお叱りを受けなければいいけど」

「なに?」

 娘は後ろを振り返り、口を尖らせていた少女を睨みつけた。少女も不満を洩らすくらいは出来るようで必ずしもひたすら従順な召使といった類の者ではない様である。一人呟く様な声ではあったが娘に聞かれないように声をひそめた様子も無い。

「あの秘伝書を取り返して持ち帰るのが香主様のご意向なのでは?」

「誰がそんな事を言った? 私は聞いた覚えもない」

 娘は眉間に深い皺を作り、益々不機嫌そうである。

「でもこのすぐ近くで秘伝書が奪われたんですよ? 仲間も殺されたのを知りながら放って置くなんて香主様がお知りになられたら――」

「なかま! 仲間だと? ハ! お前のか?」

 娘は目を丸くして吐き捨てるように言った。にこやかに笑えば美少女と呼んでも差支えのないその表情を思い切り歪ませながら、少女を馬鹿に仕切ったかの視線を向けている。そんな娘の態度を見てさすがに腹を立てたのか少女は語気を強めて甲高い声を発した。

「あなたは違うんですか! あなたも『山』の住人ではないですか!」

「フン、この暑さで頭をやられてしまったのか。私にそんな口を利くとはね」

 娘は意外にもまだ冷静さを保っている様で、一瞬は少女を睨み付けたものの再び先を歩き始める。少女の方は興奮冷めやらぬ険しい表情でしばらく立ち尽くして娘の背中を睨んでいたが、やがて自分の背にある荷物を担ぎ直すと娘の後を追って歩き出した。

 森の中は日陰が多いものの朝から休みなく蓄積され続ける熱が少女の全身から汗を吹き出させている。額や顎をしきりに拭いながら歯を食いしばって歩を進めていた。

 娘が歩きながら、背後についてくる少女に言う。

「お前は……まだ見た事もない『香主』の何を知っている? お前が『山』に上がったのもついこの間じゃないか。いつから仲間になった? お前の様な子供を仲間に入れるはずがないだろう」

「……香主様は私を拾って下さいました」

「拾った物は持ち主に返さななければ。お前の持ち主は誰だ?」

「……香主様です。これからは」

「ハ、香主、香主と、見た事も話した事も無いものを、何故そう懐くのか解らない。今までお前の面倒を見てきた者達をそうもきっぱり捨てられるとは……」

「好きで出てきた訳じゃありませんから。まだ……死ぬつもりもありません」

 娘は一度振り返ると、苛立った表情を少女に向け、またすぐに顔を戻した。

「あの碌でもない与太者どもがお前を生かしておいた意味が解らない。手も付けていないとは。フン、本当のところは誰にも解りはしないけどね。お前以外に」

 少女は黙り込んで唇を噛む。俯き、ただ足だけを動かし続ける。そんな気配を背中に感じながら娘は小さくため息をついたのだが、少女は知る由もない。

「……もうひと月程になる。秘伝書を奪って行った者など、とうに何処かへ行ってしまっている。奪って、奪われて、あの秘伝書も気の毒な事だ。己に中身など無い事はあの秘伝書自身が嫌というほど知っておろうが、勝手に目をつけられて追い回される羽目になったのだから」

「中身が無い? そんな筈ありません。あれには確かに――」

「お前は見たのだな」

「見ました。何も解りませんでしたけど……」

「とりあえず出来ることは何もない。このまま帰るだけだ。その前に私の代わりに働いてくれている者に話を聞いてからね」

「『山』の人ですか?」

「他に私の言う事をきく者など居るものか。さ、急ぐんだよ」

 娘はそう言って進む速度を上げた。

「あの」

「何だ? 此処に残るのか?」

「あなたは……『香主様』のお嬢さん……なのですか?」

「なぜそれを今、此処で訊く?」

 娘は淡々と応え、振り向く事もしない。被った笠を片手で支えながら、前方の眩しい景色に目を細めている。

「誰も、あなたが何者なのか教えてはくれませんでした。でもあなたは山で、自由で……」

「好き勝手しているという意味か?」

「みんな、あなたには丁寧な接し方を――」

「ていねい! 丁寧か! あれがか? ハ、あれが山の長たる香主の娘に対する扱いか。まったく……」

「香主様は、どのような方ですか? 何故、私を助けて下さったのでしょうか……」

「解らない。全く解らないね。お前に何か価値を見出したのか。まさか。どうかしていたのだな」

「あなたはあまり、香主様を……実の娘だから他人には解らない何か――」

「変な期待はするものじゃない。お前を拾ったのは、フン、腹の足しにするつもりだっただけかも知れないからね。若いほど肉が柔らかい」

 娘は口元を歪めた怪しい笑みを見せ、少女を盗み見る様な視線を背後に送る。少女は思わず喉を鳴らしたが、

「悪い冗談は止めてください!」

「冗談かどうかは会ってみなければ判らないじゃないか。……まあ、いつか……会う時が来るかも知れない。いや、腹が減った時か?」

 まだ会えない、と娘は言っている様だ。簡単には会ってもらえないのは、自分がまだ仲間ではなく他所者だからなのか、と、少女は落胆した。

 


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