第十四章 十九
殷汪は今一度、求持星を振り返り、
「俺よりもこの――」
「行かない」
求持星の言葉は早かった。緑恒へは絶対に行かないという決意表明であるらしい。
「稟施会に頼まれて行動している。目的は達していない。この洪どのが戻るというなら戻る」
洪破人がまた頭を掻いた。
「あー……すまないな。こっちにはこっちの事情があって……。でも殷さんは行ってくれてもいいぜ?」
「何故そうなる?」
殷汪は眉根を寄せて洪破人に訊いた。殷汪とて求持星に同じく、稟施会の周維から秘伝書と劉建和の息子探しに同行するよう頼まれて今此処に居るのである。今更好きにしていいなどと言い出すのはおかしな事だった。だが洪破人は適当な事を言ったのではなく、周維の意図を幾らか理解していた。
(旦那の本当の目的はこの殷さんを再び武林の真ん中に戻す事だ。今度は稟施会という蜘蛛の糸を繋いでおいて――。見失いさえしなければ大丈夫だ)
「殷さん。俺達稟施会の連中は頻繁に連絡を取り合わなけりゃならないんだ。特に今は。戻るのはただそれだけの為だ。殷さんだけでも先に行ってくれるとありがたい。勿論、そのまま何処かに雲隠れなんてのは困るが……。うちの樊樂、覚えてるよな? あいつら今、都を出て東に向かってるらしい。もう結構進んでるかもな。何も無けりゃ北からこっちへ来る事になるだろうから会うかもしれない。まあ、とりあえず稟施会の仕事の事を覚えていてくれりゃあこっちからまた動くさ。その時は逃げないでいてくれよ」
殷汪は黙って聞いていたがどうも釈然としない様子で、
「そんな事なら城南の開墾を続けていた方が良かったな。後で周維に文句を言われても知らんからな。……まあいい。何もなければとっとと城南に帰るさ」
「ありがとうございます!」
今度は楊迅が間髪入れずに叫ぶ様に言った。殷汪はまだ緑恒に行くとは言ってないが今のこの雰囲気を逃してはならない。いかな殷汪といえど陸豊からも頼まれて先程の様に切り捨てるような拒否も出来ないだろうと期待した。そして案の定、楊迅を見る殷汪の表情はあまり機嫌が良さそうでは無かった。
「ま、陸老師兄の顔を立ててやるかな」
「ハ、師兄か。お前がそう呼ぶのを初めて聞いた気がするな」
陸豊が言えば殷汪は首を傾げて見せる。
「初めて言ったからな。これが――俺を師叔と呼んでいる内はそうなんだろう?」
殷汪は楊迅を指して言った。
梁游国も陸豊らと共に緑恒へと向かう事になったようだが海沙党からは他に誰も同行する者は無かった。あの曹という男の姿も見えない。
「大勢で押しかけて范幇主にご迷惑をお掛けするわけにもまいらぬ故」
淡々と言って、あとは黙って陸豊なり殷汪なりの出立の号令をただ待つようにしてじっと佇んでいる。一応の旅支度はしたらしく背には何やら小さな荷が括り付けてある。最初に見た時には海沙党の主らしい雰囲気を持ち合わせていた様にも思えたのだが今は別人の様であるのが楊迅には不思議に思えた。
(この人もなかなか変な人だな。中身がよく見えないというか……)
「緑恒へは何度か来られた事が? 范幇主は師叔とは何度か会った事があると仰っておられましたが」
楊迅は何かと殷汪に話しかけていた。北へと進み始めた一行だったが、殷汪はずっと黙って殆ど喋らず、それは陸豊に対しても同様であった。単に機嫌が悪いという風でもなく、ただ何か考え事を続けている様にも見えた。
「ああ」
殷汪は短くそう答えるのみでまた黙り込んでしまう。楊迅は、そうですか、と心の中で呟いてまた前を向いた。
海沙党は梁游国以外、誰も同行しなかったが馬を用意してくれていた。陸豊とはずっと歩いて来たので帰りは随分と楽な旅となったのは有難かった。
「安県へは……戻って無いのか?」
突然、殷汪の方から声を掛けてきた。楊迅は驚いてつい今しがた聞いた筈の殷汪の言葉を胸の内で復唱し、それから口を開く。
「はい。初めて出て来てから、一度も」
「もう、何も、無いか」
「私と関わりのあるものは、もう何もありません」
「そうか」
前はもう少し感傷的にもなったものなのに、と、楊迅は淡々と答えた己の胸中の変化を、なんとも不思議で、なんとも残念にも思った。そんなに昔の話でもない。緑恒に辿り着き、千河幇という居場所を見つけて、そこがあまりにも心地良い場所だったからなのだろうか。
「あの、安県はよくご存知なのですか? お二人とも――」
殷汪と、それから陸豊にも視線を向ける。二人して安県という地名に何やら思うところがある様に話していたようであったが――。
「いや、特には……無いな」
殷汪が答え、陸豊は何も言わずに楊迅を見て僅かに頷いただけであった。
「そう、ですか。あ、師叔は梁媛をご存知なんですよね? 今は東淵に居る――あの子も安県から来たと」
「そう……だな」
殷汪は前を向いたままである。
「私が怪我をして傅千尽さまのところに居た時、いろいろと世話をしてくれたんです。師叔の話を聞かせてくれました。それはもう毎日の様に」
「都で会った時の事をか? ほんの数日、共に居ただけなんだがな」
表情を変えず、感情も感じさせない殷汪の横顔だった。
「命の恩人だと」
「洪破天という爺さんが、な」
「お会いしました。東淵で。大事な娘さんなんですね。今は……」
「お前は歳が近いのか?」
「いえ、私の方が幾つか上ですよ。六つか七つ……私はそんなに幼く見えますか?」
「あの娘、幼く見えたか?」
「あーどうでしょう、随分としっかりした子だったから幼いと言う程では――」
「俺や洪の爺さんから見れば孫のようなものだ。お前もな」
殷汪はここで微かに笑った様だったがあまりはっきりとしない横顔のままだった。
(そうだよな。あの娘がいくら想いを寄せたってこっちは容姿はどうあれ歳に差があり過ぎる。まだ俺の方が――って何考えてるんだ俺は)
「東淵に居るが――」
殷汪の顔がようやく楊迅の方を向く。笑みは見当たらなかった。
「同郷で歳も近ければ貴重な『縁』というものだぞ。あれは、美しい娘になるだろう。何とかしてもう一度会いに行ってみるといいな。爺さんが邪魔だが」
冗談の様な事を真顔で言う。楊迅は慌てて、
「彼女は師叔にお会いしたいと……。すごく、その、師叔の事を……」
「子供だぞ? これから色んな奴と出逢って、そんなものは驚くほどあっさり忘れる。そういうものだ。これからお前が出逢ってこい」
「東淵ですから……」
「緑恒と東淵など遠いものか。走って行け」
「はあ」
また沈黙である。いくらでも一人、もの思いに耽る事が出来た。