第十四章 十八
「喬高といえば、千河幇の鏢局を襲ったのが喬高である事はほぼ間違いないようだな。二度襲われた内の、一度目だが」
陸豊が言うと、皆一斉にそちらに顔を向ける。殷汪は首を傾げた。
「何故、喬高が鏢局を襲う? 北辰の命令なのか、九宝寨が襲った――という意味か?」
「背景は全く解かっていない。ただ、一度目の襲撃の折、鏢局の何名かが見ているが、喬高は極端に短躯で姿が特徴的だ。どうもそのような人物が率いている様に見えたという」
「二度目の方には居なかったのか?」
「それがな、一度目と二度目ではどうも違う様なのだ。一度目は緑恒から東淵に向かう道中で何日目かに休んだ古寺で襲われたそうだが、荷は奪われていない。そして双方、一人も死人を出しておらぬ」
ここで陸豊が楊迅の方を振り返ったので楊迅は部屋の隅から数歩進み出た。
「今思うと、あの最初の襲撃は形だけだった、という気がします」
楊迅はその襲撃の現場に居た当事者であり、皆が注目した。
「二度目は……ひどいものでした。後になってですが考えてみると、本当に同じ集団だったのかなと思うんです。二度目の襲撃でも荷を狙う事が第一という訳では無かったようなんですけど、奴らの目的は俺たちを……皆殺しにするつもりだったんじゃないかと……」
楊迅は話しながら、胸の傷跡に違和感を覚え、思わず掌でさすった。目の前で仲間の鏢客達が切り殺されていく様が今でもはっきりと思い出せる。田庭閑と共に荷車の下に逃げ込んで息を殺していたあの時が思い出され、考えるだけで息苦しさが蘇ってくるのである。
「喬高らしい者はその時は居なかったのだな」
「はい。指揮官らしき者が居ましたがその喬高という人とは全く違ったそうです。俺は見なかったけど……」
「喬高様は……死んだと思われている。今、その行方を知る者が居ないからに過ぎないが」
求持星の呟くような小声に、楊迅が恐る恐る訊ねる。
「あなたは……喬高という人の、仲間なのですか? 九宝寨の? では……あ、あの時……」
「俺はかつて九宝寨に居て仲間だった事は確かだ。だがお前達を襲ってなど……いない。あの時は……」
「えっ?」
「俺は離れていた。既に。九宝寨からは……」
求持星の言葉の後には暫く沈黙があった。
殷汪が求持星を振り返る。
「喬高を動かしたのは北辰か九宝寨か、若しくはその白珪山の奴らかも知れないという訳か。いや、結局は劉毅じゃないのか。まあとにかく真相を探りたければ劉毅を捕まえて来るんだな。他に手がかりはあるまい。で?、海沙党はどうする? 此処に来た奴らは俺たちが始末した。それで良しとするか? それとも『山』とやらまで訪ねてみるのか?」
梁游国は大きな溜息と共に首を横に振った。
「さすがに我らではそこまでするのは困難ですな。殷汪さまに仇を討って頂いただけでも良しとしなければ」
意外にも梁游国は言いながら沈痛な面持ちで、悔しさを滲ませながら奥歯を噛み締めている様に楊迅には見えた。殷汪は相変わらずの無表情で、
「千河幇――范凱の耳に入れてみたらどうだ? 鏢局の件とも意外な繋がりがある可能性が出てきたとなれば、また違ってくる。此処では何も出来なくとも范凱ならば――あれは色々と出来る奴だからな」
「儂もそうした方が良いと思う。汪よ。どうだこれから――儂らと共に緑恒へ行かんか? 梁どのも、一緒にな」
陸豊が言うと殷汪は顔を顰めた。
「俺は緑恒に用は無いな。まあ、秘伝書探しは正直なところ興味はかなり薄れた。あんなものを見せられたのではな」
あんな物とは十中八九偽物であろう秘伝書の一部の事である。
「だが人探しは終わっていない」
「……そうだな」
陸豊も溜息をついて下を向いたのを見て、楊迅は慌てた様に、
「皆さんは南から来られたのでは? それならその人探しもこのまま北へ行かれるのでは? そうすれば緑恒へ行く事になりますからその時に――」
「いや、北へは行かん。そうだろう?」
殷汪は稟施会の洪破人を見る。洪破人は頭を掻いて申し訳無さそうにしながら、
「あー、支店に戻って他所を回っている仲間の事も聞いておきたいし、もしかしたら一度城南へ帰って出直しになるかも知れないな」
「師叔!」
突然、楊迅が殷汪の前に進み出るとそう言って膝を折った。言われた殷汪は急に師叔などと言われて怪訝そうな表情を見せる。
「どうか、どうか一度だけでも范幇主にお会いになっていただけませんか? 私たち千河幇の者は鏢局が襲われた一件以来、少しでも手掛かりを得ようと范幇主と共に動いてきました。ですが、喬高という人の名前が出てきただけでそれ以上は――」
「知らんな」
殷汪のあまりに短い一言に、楊迅は顔を上げた。
「范凱に会っても俺には何も言う事は無い。喬高がどこで何をしたのか、何の為なのか、俺は何の関わりも無いし、興味も無い。喬高を探して訊け。本当に死んでいるのか見つからないのなら劉毅だろう。北辰に乗り込むんだな」
「そんな……」
「出来ないのか? 出来ないなら更に何かを知り得たとしてもそこまでだ。忘れるんだな」
「わ、忘れません! あんなこと……忘れられる訳がありません! ……そもそもあの荷は師叔、あなたに届ける為に――」
「……何だ? 俺に渡さねばならない荷を奪われた鏢局の失態を、范凱が謝罪するのか? 俺の方がわざわざそれを聞く為に緑恒を訪ねろと?」
殷汪の冷たい視線が、楊迅の熱くなった顔を突き刺す様に浴びせられる。楊迅は何も言えず床を睨んだまま両の拳を握り締めるしか出来ない。
「あれは俺にじゃない。北辰の総監だった夏天佑への物だろう。名は俺でも中身はあっちだ。夏に言え」
「あの人は死にました!」
「見たのか?」
「見ました。あの人は血を吐いて……倒れて……」
楊迅は夏天佑が劉毅と戦う最中に突然吐血して崩れ落ちる様を鮮明に思い出せる。あの戦いであれほど優勢だった夏天佑があんなに突然事切れてしまうとは――。
「確かに死んでいたか?」
「え……その筈、ですが……。みんなで埋めた――埋葬、というか……」
「みんな、とは?」
「その場に居た……朱鏢頭に――あっ、馬少風さんも居ましたから。東淵の。ご存知ですよね? 馬さんが確認して『死んだ』と」
殷汪はそれを聞くと小さく頷いて、そのまま何か考えているように見えた。
「汪」
陸豊の呼び掛けに殷汪は視線だけを動かす。
「儂からも頼みたい。一度緑恒に来て貰えまいか。范凱どのとてお前が全てを知るなどとは思ってはおらぬ。だが……范凱どのとその周辺、鏢局の者達は苦しんでいるのだ。喬高という名だけではな。我らには喬高という人物が如何なる者か、九宝寨と北辰においてどういった事が行われているのか、喬高の立ち位置とはどの辺りにあったのか、解からぬことばかりだ。何でもいい。いや、ただの想像でも構わんのだ。来てくれればただそれだけで千河幇の沈んだ空気をもう一度かき混ぜる事が出来ると思う。お前に関係ない事だというのは解った。ただの――儂の頼み事だ……」