第十四章 十七
長い間、陸豊らはこの曹という女と語らい続け、宴の席は夜遅くまで続いていた。楊迅は襲ってくる眠気と戦いながら、話を聞き漏らすまいと頑張ってはいたが、ついには耐えられなくなり座ったまま眠り込んでしまった。
「此処の暑さには慣れておらんからな。特に何をした訳でもないが、疲れておるのだろう」
陸豊が言うと曹明梅は楊迅の首を思い切り曲げて項垂れるような寝姿を見遣って微笑んだ。
「此処でお休みになれるように店の者に言って参りましょうか?」
「いや、……さすがに此処では、な。まあ何とかして連れて帰る」
楊迅の様な若者が一夜を過ごすには幾らか具合の悪い店である事は間違いなく、陸豊はそう言って断った。
「あんたはこの店の者じゃないのか?」
殷汪が訊く。相当に酒が入っているらしく、話し方が少々間延びしていた。だが顔色には微塵も変化が見られなかった。
「違います。ですが時折、このような席がある時には呼んでいただくのです。舞を披露出来る機会はそう多くはありませんから」
「そうか。いつかまた機会があれば今度は剣舞を見たいものだが」
「剣は……恥ずかしながらとてもお見せ出来るほどのものにはなっておりません。あれだけは全く師の足元にも及ばず、自分の未熟さが恨めしく――」
「それほど、違うか」
曹明梅は殷汪を真っ直ぐ見据え、頷く。
「剣を帯びてこの舞に挑むならば、この身はすなわち『真の天棲蛇』と化すに同じ。今、この時代に誰か成し得る者がありましょうか」
「さて、どうかな。有り得ぬ事と思うか? 穆汪威があり、唐宜があった。『東涼天棲蛇』は復活の兆しが見えてきたようにも思うがな」
殷汪が師、唐宜の名を挙げて言ったその言葉を、曹明梅は驚きと共に感激をもって聞いた。
曹明梅と陸豊、殷汪らの話は尽きる様子が無いが、さすがに他の者達は酒と料理をたらふく腹に納め、楊迅同様、もはやまともに座り続ける事も困難なほどで、ようやくこの宴席はお開きとなった。曹明梅はずっと姿勢を崩す事無く、再び丁寧に礼を施して、いとまを告げた。
店から出る際、梁游国が殷汪の傍まで寄って来ると怪しげな笑みを向けた。
「先程の娘、いや娘と呼ぶには少々薹がたっておりますが、お気に召しましたかな?」
殷汪は少しばかり考えてから、
「そうだな。大いに気に入った。あれはまだ独り身か?」
「それがまた惜しいことに左様でございますな。あれの芸は天下一品。器量も悪くない。ああ、まったくもって惜しい」
梁游国の物言いはわざとらしく、下卑た薄笑いは消えなかった。
「惜しいか。だがそこらのつまらん男に嫁いでしまう事の方が惜しい。いや、不幸だな」
「まこと! まことですな。あれに見合う者などそうは居りますまい!」
「近くに住んでいるのか?」
「近いですぞ! いつでもご案内させていただきましょう。すぐ、参られますかな?」
「そんな事より、後ろに気をつけろ。今にも飛び掛かってきそうな目をした奴がお前を狙ってるぞ」
梁游国が驚いて勢いよく後ろを振り返るとそこには海沙党の配下である曹が厳しい顔つきをして立っていた。
「早く屋敷に戻って皆様にお休みいただいた方が宜しいかと」
「わかっておるわ! まったく……お前がそんな事だから明梅が未だに独りなのだぞ!」
曹はその言葉には全く反応する様子も見せず、踵を返して暗がりの中を一人行ってしまった。
「あの者は?」
「あれはうちの者で曹伯と申して曹明梅の兄でしてな」
「ほう、兄妹か。ならば――結構な事だ」
「は?」
「あの曹明梅は貴重な存在だ。あの兄が居れば問題は起こるまい」
「はあ……」
「改めて俺が言う事でもなかろうが――あの娘、どうか大事にしてやってくれ」
楊迅が目覚めたのは翌朝、既に日差しがきつくなり始めていて、いかに酒が残っていようとこれ以上眠る事は許さないと言わんばかりの熱気が辺りを包んでいた。幸いな事に楊迅の頭は痛んでいなかったが良い目覚めとは言えなかった。どうやってこの海沙党の屋敷まで戻ったのかも記憶に無い。何気に辺りを見回すと部屋に居るのは自分一人だけであったので陸豊は何処へ行ったのかと慌てて部屋を飛び出した。丁度通り掛かった屋敷の者に訊ねると、皆集まっているという事だったので何事かと不安を覚え、急いでその部屋まで案内してもらった。
「では下手人はやはり秘伝書を追って遥々やって来た余所者であったと?」
そう言った梁游国と、あの曹という男、それから恐らく海沙党の人間であろう数人、そして殷汪、陸豊、稟施会の者達が広間に顔を揃えていた。楊迅が身を屈めるようにしながら中へ入ると陸豊が振り返って微かに微笑んだが、他の者はちらと楊迅の姿を認めただけでそれ以上興味を示す者は居なかった。
「ほぼ間違いなく、白珪山から来た者達だ。一応……城南の稟施会に押し入って来た者達の仲間ということになる」
今喋っているのは殷汪や稟施会と共にやって来た求持星である。だが楊迅はその名を思い出すまでに暫く時を要した。
「しかし武慶に近いとは……。儂が武慶に居る間もその様な話は聞いた事も無い」
陸豊が言うと、劉建和も頷いて、
「あの辺りを通ったのは数え切れない程だ。でも聞いた事が無い。あんな処にそんな賊など果たして居られるものだろうか。あの白珪山を根城にするとは……」
白珪山という山の事は楊迅もよく耳にして知っている。古来霊山として信仰を集めている、この国を東西に横切る大きな山脈だが、その連なる峰々あまりに長大で、単に白珪山と言っただけではどの地方の白珪山の事なのか不明なほどである。どうやら話はその白珪山に巣くう賊についての様であるが、神仙が住まうとも妖怪の棲家とも言われ、一度分け入れば生きて出られないと恐れられるその美しい山に人間の集団が居を構えているなどという信じ難い内容のようだった。
武慶を拠点にしながら方々で商いをしている劉建和はとても信じられないといった表情でしきりに首を捻っていた。
「特に武慶から都までの道中は官吏の目も行き届いているし、真武剣派もある。この国では恐らく一番治安の良い街道だと思う……。しかし要は山賊という事では? 街道で物取りをしていないなら、一体何をして糧を得るのだろうか……?」
隣の洪破人も口を開く。
「城南では倚天剣、こっちでは秘伝書。旅人を片っ端から襲うんじゃなくて国中に散らばるお宝を手に入れて金にするという事じゃないのか?」
「いや、城南とは多分、別だ」
求持星がそう言って皆を見回した。
「『山』から来たというのは同じなんだが……城南で倚天剣を奪いに来たのは九宝寨寨主、劉毅様に近い者達――」
「そういえばそんな話をしてたな。九宝寨と白珪山の奴らは仲良しって訳か? 或いは九宝寨の別働隊みたいなものか?」
洪破人の問いにまたしても求持星は首を振った。
「全くの別の集団だ。どういう縁かは知らないが劉毅様とその『山』にいる集団を率いる人物は近年になって何らかの繋がりを持った。まあ、盗賊同士だからな。時には互いに手を貸し合って……喬高様も……」
求持星の声は次第に小さくなっていき、ついには途絶えてしまった。