第六章 十六
余りにも謙った范凱の口上に傅朱蓮はすっかり面食らってしまい、何と言って良いやら声を出せずに居る。
「そんなん言うたら話しにくいやないか。そんくらいにしとけ。ほれ、朱蓮も座りぃな」
狗不死の横にも椅子が用意されたが初対面の范凱の前に狗不死と共に腰を下ろすのは憚られ、傅朱蓮は立ったままで居た。
「お掛け下され」
范凱が勧めるので傅朱蓮は黙ったまま会釈をして腰を下ろす。范凱はそれを見てから席に着いた。
「朱不尽からよくよく伺っております。傅千尽どの、あなたのお父上と朱不尽は永い付き合いだそうですね。お父上は真に友誼に厚いお方。鏢局の者達から傅家の皆様の話を聞く度に私は目頭を熱くしております」
「大袈裟やなぁ」
「偽りではございません」
范凱は傅朱蓮が知る中でも一、二を争う程の逞しい体躯を持つ大男である。武林に名立たる幇会の主であるその男がこれほど丁寧な言葉遣いでまだ若いほんの小娘に対して礼を尽くし、その態度は誠意に満ちている。傅朱蓮は戸惑いつつも何か心地よい、安心感の様なものを感じていた。
「あれからもう結構経ったけど、何か分かったんか?」
狗不死は持参した酒を范凱の酒杯に注ぐ。范凱は慌てたように腕を伸ばそうとしたが狗不死はすでに范凱の酒杯を手に取って注いでいた。
「儂ら、暫く東淵に居ったけど特に何も無かったなぁ」
「朱不尽から聞きましたが、何でも東淵から緑恒へ戻る時に方崖から逃げ出した男を伴って出たとか。追手が皆様の所へ行っているやも知れぬと心配しておりました」
「おう、来たがな。誰や思う? なんとわざわざ張新の奴が自らお出ましや」
傅朱蓮が狗不死の袖を捕まえる。
「ちょっと狗さん、声が大きいわ」
それから范凱が自分を注視している事に気付き、
「あの、この話はまだあまり知られない方が……」
傅朱蓮の言葉に范凱は頷いた。
「まぁ別に何も起きんかったけどな」
狗不死の声はほんの少し小さくなっていた。
「殷汪知らんか? 言うてきただけや。なんせ殷汪の知り合いで想い付くんは傅千尽と洪破天、この二人だけやろ。儂も他には知らん」
「そうですか。張新が……」
「あいつだけやのうて、劉毅とかその辺も駆り出したらしいで。見てへんけど」
「あの、さっき居た林玉賦も」
傅朱蓮が付け加える。
「ああ、見たんか。朱蓮はあいつらよう知っとんか?」
「知ってるって程じゃないわ。ほんの一、二度会った事があるだけ」
「ずっと考えておりました」
范凱が切り出す。
「我等の鏢局の件と殷汪が方崖を出た事に何か繋がりがあるのか――。張新は恐らく、鏢局を襲った賊が北辰と関わりがあるのではないか――と我々が考えるであろうと理解している筈です。張新自ら東淵まで来たという事は、自分は関わりが無いので傅千尽どのに会うのは何でも無いという事を示しているようにも思えますが、これはどちらとも取れます。それが本当ならそうしても構わない。嘘であったなら欺く為にそうする。とりあえず今の時点では繋げて考える事の出来る様な事柄は何も見つかっておりませぬ。残念ながら、八方塞がりの状態」
「范幇主様」
傅朱蓮が口を開く。
「方崖から逃げた男は、その、殷総監ではなかったのですが、それは――」
「存じております。しかし世間では殷汪が方崖を出奔して、そして死んだという事になっていますから、そのままにして置く方が都合が良いでしょう。これからその「殷汪」を探し出すには。今はまだ手掛かりが何も見つかっておりませぬが」
「何で探す? 鏢局とはとりあえず関係無いんやろ?」
「それが、私にもはっきりとした理由は述べられませぬ。ただ漠然と、方崖を良く知っている筈の殷汪に手を借りられれば何か打開策が見つけられるやも知れぬという淡い期待なのです。私も永く会っておりませんが、知らぬ仲という程でもありませぬ。見つかったとしても手を貸してくれるとは限りませんが」
「きっと殷兄さんには面倒な話……」
傅朱蓮が呟く。
「確かに。関わりを絶ちたいが故に身代わりを置くまでして方崖を離れたのですから」
丁度その時、木傀風が范凱の席に近付いてきた。
「何やら話しこんでおるなぁ」
「木道長様」
范凱が立ち上がって迎える。
「うん。随分久しぶりだな。またこうしてまみえる事が出来ようとは、嬉しいことだ」
「道長様にそう仰って頂けるとは光栄にございます」
「それはそうと、そなたらは方々の噂話にも随分と明るかろう?」
木傀風は范凱と狗不死、傅朱蓮を見てから言った。
「何や急に」
「東涼黄龍門の秘伝とは?」
「ん? 何やそれ」
「この真武観にはその様な物があるらしい。今此処に、奪った秘伝書を返せと息巻いておる者が来ておってな」
「ほう」
「此処の者が応対しておるが、その者はこの武慶に住まう商人だと申しておる」
「東涼黄龍門の秘伝書……初めて聞きますな」
范凱が首を捻っている。
東涼はこの国の東の海に程近い街で、緑恒千河幇の勢力範囲に含まれていた。東涼の黄龍門はその始祖、洪淑華の時代が最盛期でありそれ以降は徐々に衰退の一途を辿り、今から数十年前に潰えてしまう。後年には、東涼黄龍門がその名を知らしめたのは偏に始祖、洪淑華の卓越した技量に依るものであり、武芸そのものは特筆すべき物ではないとされた。
「で? 陸皓が見つけてぶん取った言うとる訳やな?」
「ちょっと狗さん、やめて」
「ちょっと見てくるわ」
狗不死は早速立ち上がると木傀風が指差した方へ歩いて行く。
「……っ、ちょっと」
傅朱蓮が声を掛けるが狗不死は取り合わずさっさと行ってしまう。
「申し訳ありません。失礼致します」
傅朱蓮は木傀風と范凱に会釈をしてから狗不死の後を追う。木傀風がさっきまで狗不死が座っていた椅子に腰を下ろした。
「駄々っ子に手を焼く母親のようだのう。これほど手の掛かる子供は居るまいが」
「ハハ……」
范凱は傅朱蓮の後姿を見送ってから座った。
真武観正面の入り口までやって来ると、外の歓声が聞こえてくる。集まった群衆達は酒を振舞われて上機嫌の様である。しかし、建物の入り口から少し入った所にはこの真武観の人間に囲まれて声を荒げている老人が居た。