第十四章 十六
次第に楊迅は女の挙動に引き込まれていく。天棲蛇と聞いて、もはや舞ではなく演武ではないのかと思い始めていたからだった。だが残念な事に楊迅にはまだそれをつぶさに検分する知識が無い。素早く、様々な線を描く女の四肢を、ただ美しく、力強く、垢抜けた、未だ見たことが無かったもの、としか捉えられない。
ただひたすらに目で追い続けていると、不意に女は足を踏み鳴らして直立した。その音の余韻の中、女の衣装の袖がふわりと降りる。女は虚ろな眼差しのまま宙を見つめて動かず、ただ胸の緩やかな曲線が荒い呼吸に合わせて上下していた。
「見事だ!」
そう声を上げたのは、陸豊だった。それを聞いて初めて、女は微笑を取り戻す。そしてそのまま低頭して後ろに下がろうとするのを陸豊が呼び止めた。
女は拒む事無く陸豊の前まで進むと膝を折って座り、改めて丁寧に頭を下げた。陸豊の差し出した酒杯を受け取り、それに口を付ける姿までもが美しく、洗練されている、と楊迅は思う。
「先程の舞は真に素晴らしかった。儂は今まであれほどのものを見た事がない。一体、どなたに師事された?」
陸豊は女の技量にいたく感じ入ったらしく、優しい眼差しを向けながら訊いた。女はその問いに戸惑い少し口ごもる。
「ご存知かどうか……、私の師は唐宜という方でございます。ですが舞や音曲などを本職としていた訳ではなく、様々な雑物などを扱う小さな店を持って商いをされていて、ずっとこの東涼の地で暮らしておりました。もう、亡くなられたのですが……」
「東涼黄龍門とは縁が?」
「ございます」
そう答えた女の目に、にわかに力が宿った様に見えた。
「……そなたも、かな?」
「いえ、師は昔の事をよく話して聞かせて下さいました。師の若い頃はまだ、東涼黄龍門は完全に途絶えてはいなかったようなのです」
「それはいつ頃の事だ? お前の師は剣術を学んだのか?」
殷汪も女に尋ねる。その手は酒杯を離さなかったがこの話には大いに興味を持っているらしく真面目な表情を女に向けていた。
「七、八十年前の事だと思います。師はご自分の年齢を忘れておられたようですが、今もご存命ならば百には届いていたのではないかと。……それと、武術としての剣を学んだ事は無いそうです」
「今の舞、剣を用いた事は?」
「多くはありませんが何度か……」
「師匠が見せたのか?」
「はい」
「では、まだ途絶えてはないのだな。お前がいる限り、東涼黄龍門はある、というわけだ」
殷汪の言葉に女は一瞬驚きはしたものの、その後すぐに表情が晴れ渡る。
「他に何もありませんが、師から教わったものは全て、失ってはならないと心得ております」
楊迅は聞きながら、感動にも似た気持ちで女に見入っていた。この人は全てを受け継いだという自負と、誇りを既に持っているのだ。まだ若いというのにどれほどの修練を積んだのだろうか。自分もいつか同じ様に胸を張れるだろうか。これが師から受け継いだ天棲蛇の剣であると――。そういえば、と東淵の傅朱蓮の事を思い出す。彼女と初めて会った時も似たような感覚を覚えた記憶があった。
同時に新たな疑問も生じた。女の舞が東涼黄龍門であるとは如何なる事か? 剣を持って舞ったならそれはもう東涼黄龍門剣法、すなわち洪淑華の剣術になるのか? もしそうならこれから陸豊に学ぶ天棲蛇の剣をこの女は既に得ており、楊迅にとっては同門の姉弟子とでも呼ぶ存在になってしまう。女のそれは『舞』であり、剣術とは違うのではないか。だが殷汪はあの舞が残る事によって東涼黄龍門は絶えてはいないのだと言う。
(素晴らしかったけど、あれに剣を持ったってやっぱり舞じゃないか。俺は舞が学びたいんじゃない。あれとは違う……はずだ)
「でも、剣術ではありません」
女は言う。楊迅は心を見透かされたかと驚きと焦りを感じて思わず顔を伏せた。だがそれは当然ながら偶然である。女はずっと殷汪の方に顔を向けたままだった。
「師も武芸者ではありませんでした。ただ、この地には洪淑華にまつわる伝承が残っていて、剣術も完全には失われてはいませんでした。恐らく師には洪淑華の物語から剣を排除するなど考えられない事だったのでしょう。縁あって東涼黄龍門の剣術を自らの舞に取り入れる事が叶ったという事を仰っておいででした」
この時、殷汪と陸豊が黙ったままではあったが顔を見合わせるのを楊迅は見た。次に口を開いたのは陸豊だった。
「……そなたの師匠がまだお若い頃だと思うが、この東涼の――詳しい場所は知らぬがこの辺りに住んで東涼黄龍門の剣を学んだ、穆という者が居たはずなのだが、聞いた事は無いかな? その後、呂州へ移り住み、こちらへは戻らなんだが」
「それは……穆汪威さま、でございますね」
「そなた、知っておるのか。いや、そんな筈は無いな。此処を離れた時、そなたはまだ生まれてもおらぬ」
「はい。ですが私は師から常々聞かされておりました。先程の舞はその穆汪威さまのご助力があり、ついに完成したのだと。洪淑華の剣術をただ一人、受け継がれた方なのだそうです」
「なんと……」
陸豊はあまりに驚いたのか口を開けたまま再び殷汪と顔を見合わせた。殷汪はにやりと笑い、
「秘伝書の方は全くの無駄足だったが、そんな物よりはるかに良いものが見つかったな」
「奇縁だのう……」
「東涼の黄龍門が消えかかっているからこそだ。そこに関係する者はもはや数人しか居ない」
「あの、穆汪威さまを知っておられるのでしょうか? お会いになった事が?」
女は陸豊に訊ねた。陸豊ほどの歳ならば直接見知っていてもおかしくはないと女は思ったのだろう。かつて師から聞いていた穆汪威の名はこの女にとっても重要なものである事は間違いない。女の言った事が真実ならば自らの受け継いだ舞の成立に深く関わる事であり、穆汪威もまた、師に等しいと言ってよい。
陸豊はゆっくりと頷きながら、
「穆汪威というお人は――剣の師。それに……我らの父でもあるのだ」
その言葉に、女は手を口許にやって目を丸くした。まさかそれほど近しい存在である人物に会うなど思ってもみなかったことだろう。
「儂とこの者は――呂州で穆汪威の子となった。この命を……拾って下さったのだ。血の繋がりは無いのだがな」
言いながら陸豊は隣の殷汪を指し示したのだが、女がその言葉を素直に受け取ったのか定かではない。殷汪の風体では女よりは幾らか年上といった程度に見えるはずである。赤子で拾われたとしてもその時すでに穆汪威は百を超えていたのではないか。だが女は全く表情を変える事無く理解したとばかりに頷いた。
「名を、聞いてもいいか? いや、我らがまだ名乗っておらんな。俺は殷。特にはどこで何をしている訳でもないが、東涼黄龍門には興味が……大いにあってな。穆汪威との縁により――だな」
続いて陸豊も女に名乗る。此処は梁游国の用意した宴席なのだが正客がどこの誰なのかは知らされなかったようである。女は改めて姿勢を正し、
「私は曹……、曹明梅でございます」
楊迅が顔を上げて梁游国の隣に座っている曹という男を見る。すると向こうも何だと言わんばかりに鋭い眼光を投げてきたので楊迅は慌てて目を逸らし、その視線を宙に彷徨わせるしかなかった。