第十四章 十五
暫く梁游国の雑談が止まらなかった。この街の周辺の出来事や噂、海沙党の意外にもわりとあるらしい歴史など、そのどれもがごく平凡な、楊迅にはつまらないものだった。
だがしかし、とも思う。こんな田舎ではそれも当然の事、自分の故郷である安県にある村も殆ど同じ――いや、それ以下だ。話す事はあってもどれも悲惨な一家離散や餓死者の数、暴れまわる盗賊。それに比べればこの街は幸せだ。平穏が溢れている。それだけで梁游国が愉快そうに話す事が出来るのも当然の様にも思えるのだった。とはいうものの――この梁游国という男はどうかしてるのではないか。大勢の配下の死をすっかり忘れているのだろうかと楊迅は眉根を寄せた。
「俺に飯を食わせて、何か裏があるのか? それとも何も思わないのか? 北辰の影響はここまで及んでいないという事か?」
殷汪が梁游国に訊ねた。最近ではもう恐らく太乙北辰教は殷汪を追ってはいないだろうと世間は思っていたが、そのような人物を安易に招き入れるような真似はたとえ小さいとはいえ海沙党という集団の当主として思慮に欠けるのではないかともいえる。
「ハハ! この梁游国、裏も表もありませんぞ。ま、強いて言えば此処、東涼一体は地理的にも千河幇の勢力範囲の奥深く、外の事など殆ど関知せず、ですな」
能天気全開の梁游国の笑みである。
「それでよく商売が出来るな」
「なあに、ご近所相手の小商いですからな」
いくら小商いと言っても配下に数十人の男たちがいるのだからそれなりの規模はあるはずだ。楊迅は前に泊まった宿で聞いた、海沙党の海の仕事の話を思い出していた。顔を上げて梁游国の隣を僅かに盗み見る。そこにはあの曹と名乗った男が席を与えられ、静かに控えていた。
陸豊は一人、黙々と食事を摂っており、楊迅は今まで飲んだことの無い風味の酒のせいで早くも酔い始めていた。といってもまだ少しばかり気分が良くなってきたという段階で、食事が一層旨くなってきたところだ。南方で作られる黄酒の一つであるこの地域の銘酒はそれほど強い酒ではなかったが、それ故に量が進む。緊張もとうに解れ、周りの会話に耳を傾けつつ料理を楽しんだ。
殷汪という人物は、少なくともその振る舞いを見る限りごく普通だった。酒壷と酒杯を抱え、洪破人ら同行してきた男たちに酌をしながら言葉を交わしている。楊迅はその様子を眺めながら、案外そういうものだ、と一人納得していた。噂などというものは勝手に膨らんだり色を変えたりするものだ。武芸天下一と囃される人物が必ずしも恐ろしげな風貌であったり人離れした奇人である必要も無い。ふと、都で殷汪に助けられたと言った東淵の梁媛という娘の事を思い出した。彼女の話では、口数は多くないがとても素晴らしい方だったといたく感激したようで、あの歳の娘の言う素晴らしい方とはどの様な者をいうのかと可笑しく思えたものだが命を助けられたのだからそう思うのも当然だろう。殷汪と出逢った事を目を輝かせながら話す様はまだ幼さの残る少女であるというのにまるで彼こそが私の想い人だといわんばかりで、その様子から察するに当時の殷汪も特に怪しげな印象などは皆無であったに違いない。
(もう老人の仲間入りしそうな歳だっていうのに……)
男達と酒を酌み交わし、時折笑い声を上げながら話している殷汪の若々しい横顔を眺めながら、楊迅も一人、酒杯を傾けていた。
不意に梁游国が手を叩いて芯のある良い音を響かせると、それを合図にまた女達が数人、今度は琴や笙を手に入って来た。最後は何故か喪服の様な白の衣装を纏った、あの綺麗な女だった。彼女は何も持たず、静かに部屋の中央へと進んだ。
「東涼の舞をご覧頂こう」
梁游国が言うと、すぐに楽器が鳴り始めた。眠気を誘うのんびりとした曲調で、水面に落ちて雫が跳ねる、そんな感じの音の粒。その間を縫う様にして、白装束の袖が優雅に舞い始める。
「あれは、小さく、とてもか弱い白蛇なのだ」
ずっと黙っていた陸豊がそう言うのを聞いて楊迅は振り返ったが、陸豊はじっと白装束の女を見つめながら何かを懐かしむ様な眼差しをしていた。
女が手を頭上にかざし、その真っ白な腕が露になる。表情は常に物憂げであり、唇は堅く閉じられている。全く飾り気の無いただ真っ白な姿が静かに踊る。
(これは……舞というより、芝居だろうか)
女は時折、苦悶の表情を見せる。一瞬、顔に輝きが戻った様に見えてもすぐまた憂いに満ち、今にも泣き出しそうにも見えた。
女の動作は一つ一つが何かの場面を表わしているようなのだがそれがどういうものかさっぱり見当もつかない。楊迅は酒による心地良いまどろみの中で、ただぼんやりと舞を見続けた。そんな中、突然太鼓の音が大きく鳴り響く。すると舞っていた女が驚いてばたばたと部屋の隅に隠れるように逃げ出した。何が起きたのかと楊迅は思わず身を乗り出して女を視線で追ってみると、どうやらそれは芝居であるらしく、太鼓の音が小さくなると同時に女はまた舞いながら部屋の中央へと戻ってくる。ふと殷汪を見遣ると、思いがけず真剣な表情でその舞に見入っていた。恐らくこの演目の内容を知っているのだろう。陸豊も同様であった。
太鼓が鳴って女が逃げ出す場面がその後も数回繰り返される。時には滑稽なほど飛び上がったり、或いは転がる様にして逃げる女に楊迅は思わず笑わされたのだが、その内どうも笑っているのは自分だけだと気付くと顔を赤らめて背を丸めた。
「彼女には……直視出来ぬ」
また、陸豊が呟いた。だがはっきりと、楊迅に教える為に言った様だ。
「何を、でしょうか?」
「ここだけを見れば単に愉快な芝居になる。まあ余興には使えよう。しかし本来、これはあまりに悲痛な――別れの場面」
陸豊は言いながらも女から目を離す事は無い。楊迅も改めて女の舞を観察する様に見てみるのだがやはり解からない。
「まさに黄龍が稲妻を呼び起こし天に昇らんとしている。彼女がその龍を見るのはこれが最後なのだが……黒雲を掴むその腕は逞しく、その咆哮は闇をなぎ払い、稲妻は黄金の身体を輝かせているというのに、『その時』を迎えて彼女はただ、怯える事しか出来ぬ。黄龍はどんどん昇って行き、姿が小さくなっていくが、彼女は雷鳴が轟く度に巣穴へ逃げ込むしかないのだ。……畜生の故だ」
「畜生……。彼女が蛇なのですか? 蛇……天棲蛇? 洪淑華でしょうか? 彼女は」
「いかにも。あの白蛇は、黄龍門洪淑華なのだ」
黄龍門の洪淑華と、東涼で聞く洪淑華は違うのだろうかと考えながら、また視線を女に戻す。此処は東涼である。東涼に名を成した大人物であるが故に、今、こうして舞があるのではないのか。虚ろな眼差しに変化した舞う女は、東涼の剣侠洪淑華ではなく、黄龍門時代の洪淑華なのだろうか。
楊迅は天棲蛇という名を聞き及んでからずっと、なぜ洪淑華の事を蛇などと呼ぶのか解からなかった。蛇の舞がこうして存在するという事はこの土地の者は皆、東涼の誇る大女侠を蛇だなどと認めているようだが、黄龍門のあった安県でそのような話は聞いた事がなかった。あちらでは洪淑華という人物の事は殆ど語られなかったし、そもそも百年か二百年かという昔話である。
(洪淑華が黄龍門を飛び出したのは事実だったようだし、彼女を蛇だなんて言ったのはやはり黄龍門の人間か、或いは関わりのある安県の人達だったのだろうか……でもそれならこの東涼でもそんな風に呼ばれるなんておかしいじゃないか)
女の動きは徐々に激しいものに変化し、もはや舞いとは思えぬ程になっていた。今まで閉じられていた薄い赤の唇が熱い息を吐き出しながら震えている。衣装の裾が乱れ、細いふくらはぎが露になっても、女の動きは緩まる事無く、鋭さを増していく。
「剣が無いのが惜しい……。あの娘、相当なものだが……」
陸豊がまるで睨みつける様にして見入っている。
「この舞は本来、剣舞、ということでしょうか?」
「いや、そうではないが――」
「楊、覚えておけよ」
不意に殷汪が言った。
「天棲蛇が降りて来たのかもな」
そう言って愉快そうに笑った。




