第十四章 十四
郭斐林は俯いたまま何も言わない陸豊をじっと見てから、
「大師兄、……我々はこれからすぐに武慶へ戻ります」
「斐林、すまぬ」
陸豊に言えたのはこれだけだった。郭斐林にもこの事はそう簡単に説明出来るようなものではないのだろうと解かっている。遠い過去からの、複雑にもつれた、そして自分達では容易に立ち入ることの出来ない因縁が、この人たちにはあるに違いないと――。
だが、真武剣派の属する者は皆、それを知る権利がある。真武剣とは何か、という根本の問題そのものだからだ。師、陸皓に問わねばなるまい。そして陸豊からもいずれはっきりと聞かせてもらわねばならなかった。
「大師兄、また……会えますね?」
「ああ」
「ではまた、その時に……」
陸豊の返事は声にならず、頷くだけだった。
郭斐林が喉許を押さえつつも陸豊に対して辞去の礼をとったので孔秦と呉程青は師娘が本当に今から発つものと知り、慌てて陸豊に正対して郭斐林に倣った。そして郭斐林を先頭に部屋を出て行く。孔秦が去り際に一度振り返って楊迅を見た。楊迅が気付き慌てて小さく頭を下げると、孔秦は僅かに口許を綻ばせ、それから出て行った。
別の広間で、梁游国が何故か満面の笑みを浮かべていた。そこには殷汪をはじめ、洪淑華の碑の前で出会った人達も揃っていた。楊迅は陸豊に従い中へと進む。
「何故、斐林を傷つけたのだ」
陸豊が開口一番、殷汪に向かって問う。怒りと呼ぶ程ではなかったが語気は強かった。
「何故か……。傷つけようとは思っていなかった。だが傷つけまいとも思っていなかった。ちょいと遣りあう事になったのは、まあそんな雰囲気になっただけだ。何故、傷ついたのか、という問いなら簡単だな」
腕の差か、と楊迅は思った。あんな人でもやはりこの殷汪という人とははっきりと差がつくのか――。
「秘伝書は渡すつもりだったのだろう? ただ差し出せば良いだけではないか」
「ただ、持って帰るだけでは困る。少しばかり、説明をな。いや、違うか。……中を見たか?」
「見ておらぬ」
「まあ偽物だ」
「偽物? それは確かなのか?」
間髪入れずに驚いてそう訊いたのは陸豊ではなく稟施会の洪破人だった。一緒に取り返しに行っていた筈だがまだ真偽を確かめてはいなかった様である。
「俺達には読めない文字――本当に文字なのか知らんが、その種類が少な過ぎるし、同じ文字を不自然なほど繰り返し多用している。あれで何が表せるのか疑問だな。それからあれはまだ新しい方だ。洪淑華の時代ではあるまい」
「後の代に書かれた物かも知れぬではないか」
今度は陸豊が言う。殷汪は笑った。
「あんたも少しは見るだろうと思ってたんだがな。……悪かったな」
「……良いわ。見れずともな。儂の頭にはまだ、ある」
「……そうだな」
暫く間が空いたその時、言葉が途切れるのをずっと見計らっていたのか梁游国がいきなり声を張り上げた。
「それでは! 殷汪どの、陸豊どの。思いがけずも武林に名高き英雄であられるお二人が我が屋敷を訪れて下さったのはまさに天の導きに違いない。この梁游国は感激いたしておりますぞ。今日は我が人生で最良の日だ。今宵はお二人を歓迎して酒宴を用意いたそう。暫くご逗留いただくのも良いな! 何も無い田舎だが、此処は海のものが極上だ! ハハ!」
梁游国は至極上機嫌の様だが、仲間が多く死んだというのにその日を最良と呼ぶなんてどうかしてる、と楊迅は眉を顰めた。同時に、海と聞いてそういえば海沙党というのだったなと思い出した。
「もう用は済んだ」
殷汪がさも興味の無さそうに言うが、梁游国はそう簡単には引き下がらない。なんとか今晩の酒宴だけでも、と食い下がった。もうじき陽も落ちる。殷汪らも、陸豊と楊迅も今夜の宿は用意しておらず、梁游国は千河幇の客分である陸豊をもてなさない訳には、と時折、千河幇の范凱の名を持ち出しては必死に説得し、そしてなんとか一晩だけでも留める事に成功していた。殷汪が同意したのはただ陸豊と久しぶりに再会してからまだゆっくり話が出来ていないので付き合うという事の様である。他の洪破人ら同行の者達はただ黙って殷汪に従うだけ、といった感じだった。
その酒宴というのは梁游国の屋敷ではなく、その近くの酒楼で行われるらしかった。それも当然だろう。死人が出たその当日に同じ屋敷で宴席などできる筈も無い。梁游国は配下の者達に何と言うのか。仲間を埋葬した者達は、あの殷汪が来ているのだからやむをえない事だと納得するのだろうか。ただ、秘伝書を取り戻してきたという事は、殺された者達の仇は討ったという事にはなるのだろう。
夜、一行が連れて行かれたのは、垢抜けない、だが大きさだけは意外にも立派な酒楼の様だった。だが中に入れば香がきつく壁一面の濃い赤が目に痛い、何とも派手な建物である。
「何だ此処は。女郎屋か?」
洪破人が隣を歩いていた求持星に小声で耳打ちする。
「そんなところだろう。こんな場所以外、明かりらしい明かりも無い田舎町だ。まともな店など期待するだけ無駄だな」
そんな会話など無論聞いてはいない梁游国は威勢良く店の主を呼ぶ。出て来たのは太った中年の女主人、準備は既に整っているようで、これ以上無い程の笑みを浮かべて甲高い声を張り上げ、一行を中へと誘う。視線を上げれば二階から派手な衣装を肩に引っ掛けただけの様にも見える遊女達が数名、笑いながらも新しい客を値踏みするかのように見下ろしていた。客らしい男も幾らか見えたが、とても繁盛している様には見えない。中に入ると尚更、この建物の古さが目立っていた。
二階に上がり、先程遊女が居た場所とは別の、宴会用であろう少し大き目の部屋に入る。流石にそこはそれなりに手入れされて綺麗に整っていた。
「此処は見た目は悪いが、料理も良いし、酒にもこだわっておりましてな。うちの者達も贔屓にしているのだ。ささ、早速始めましょうぞ」
上座に席は二つ。殷汪と陸豊の為に用意したのだろう。あとは適当に座る事となる。
「そちらのお若いのは――」
梁游国が楊迅を見て言うと、殷汪が自分の席の円座に腰を下ろしながら、
「そちらの陸先生のお弟子さまだ」
「おお、それはそれは。ならばこちらへ」
梁游国はそう言って陸豊の傍を勧める。楊迅は大いに戸惑ってしまったが、弟子というのも間違ってはいない。恐縮しながらもその席に着いた。その真向かいは梁游国である。 皆が席に着くのを見計らって女達が酒と料理を運んできた。なるほど、主な食材は海の物が主で、自慢の料理らしい。特に宴の開始の音頭があるわけでもなく、真っ先に注がれたばかりの酒を呷ったのは殷汪だった。
銘々に食事を始める中、楊迅は陸豊が食事に手を付けるまでじっと待っていると、女が酒杯を抱えたまま目の前で止まり、じっとこちらの様子を窺ってくるので思わず俯いて視線を逸らす。
(酒ならもう入ってるじゃないか。俺に構わず行ってくれよ)
「腹が減っておろう。我らも頂こう」
陸豊の言うのが聞こえたので、ちらと視線を上げて見てみると女と目が合ってしまい、女は笑った。入って来る時に見た遊女達とは明らかに違い、年の頃は自分と同じか或いは少し上か、若くて綺麗で、優しい笑みだった。
「確かに、これは良いな」
そう言って料理をつつく殷汪を横目に見つつ、楊迅は自分の杯にゆっくり手を伸ばした。