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流浪一天  作者: Lotus
第十四章
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第十四章 十三

 殷汪が何を言っているのか郭斐林には分からなかった。動悸を治めるべく、ゆっくりと気息を整えながら、殷汪を見つめ返す。

 この男はその表情、声に一瞬たりとも熱を帯びた様子を見せる事が無いのはどういうわけか? 先程の激しい応酬の最中でさえも、まるでそれがごく普通の日常の中にて繰り返す何気ない所作であるかのように自分の剣を捌き、かわし、全く感情を見せないまま、不意に攻めてくる。得体の知れない不気味な男だとは聞き及んでいたが、これ程とは――。やはり常識では測れぬ妖人なのか?

「お前達の師は、全てを伝えてはおらん。とりあえず真武剣……と呼んでおくが、その多くが秘されている。お前の兄弟子の白千雲(はくせんうん)が跡を継ぐ事になるんだろうが、今のままでは陸皓の真武剣はそこで潰えよう」

 ここまで聞いてようやく郭斐林は驚きと共にはっきりとした意識を取り戻した。

「師父が真武剣を……隠す?」

 当然、長らく敵対勢力の中枢に居たこの男のいう事を全て真に受けるつもりは無かった。だが確実に、その言葉の中には引っ掛かる部分があった。

(師父は千雲師兄に新たな技を授けると言われた……。新たな創意によるものか、或いはこの男の言う、本来の、師父の剣……?)

 それにしても『多くが』秘されているなどと、その様な事が有り得るだろうか。少なくとも五人の直弟子は永く師父陸皓に仕え、精進して、武林で一目置かれる武侠の徒と成り得た。たゆまぬ努力と、加えて幾分かの才もあったと密かに自負しているが、師から教わった真武剣の威力こそ、その最大の因ではないか。要訣の抜け落ちた剣賦を学んで、何が得られるというのか。自分達が学んできた真武剣派の奥義の数々が、損なわれた剣技であるなど到底納得し得ない。それで今の真武剣派があるものか。

「この秘伝書だが――」

 殷汪は机から紙の束を持ち上げて郭斐林に示す。

「これは持って行くがいい。いや、必ず持ち帰って陸皓に見せるんだ。これは必要な物だ。……俺達にはあまり時が残されてはいない」

「……時?」

「いや、何でもない。これの持ち主の事は――」

 殷汪はそう言って立ち上がると西日の眩しい大きめの窓の傍まで行き、扉を開ける。

「劉さん居るか? 来てくれ」

 窓の外、恐らく中庭だと思われるがそこに居るらしき誰かに話し掛けた。郭斐林は驚いて、

「えっ、劉……さんが此処に?」

 窓から差し込む赤い光の中、殷汪が笑った様に見えた。

 

 程無くして、広間の入り口に現れたのはまぎれもなく武慶の商人、劉建和(りゅうけんわ)であった。旅を続けているせいなのか以前会った時より幾らか痩せ、疲れているように郭斐林には見えた。

 劉建和は、郭斐林が傷を負っているのを見て驚いていたが、郭斐林がゆっくりと会釈をした様子を見て中に入って来た。

「とりあえず、秘伝書は戻ったよ」

 そう言って薄く笑う劉建和だが、そこに喜びの感情は無い様である。郭斐林は頷いたが、

「……まだ全部ではないようですね。残りは恐らく全く違う、別の所でしょう。私は一度武慶に戻り、それからまた徐を追います。ご子息も……」

「すまない。まあ、のんびり行ってくれよ」

 劉建和は既に諦めているのか、そんな事を言った。

「劉さん、この秘伝書――」

 殷汪が秘伝書を手に取るのを見た劉建和は郭斐林に向かい、

「……持って行ってくれ」

「え? でもこれは……」

「あれは、俺には禍の種でしかない。良いんだ。あんた達真武剣派の人間なら、本当の価値も解るだろう? 残りも同じだ。見つかったら持って行ってくれ」

 殷汪が郭斐林の許まで秘伝書を持って歩み寄り、差し出す。郭斐林はそれを暫く眺めてから受け取った。武慶で見た物よりも古く感じ本当に同じ物かという疑念もあったが、師父に見せれば全て解かる事だろう。

「陸皓の手に、直接渡せ。他ではこれを活かせない」

「あなたにどういう意図があるのか解かりませんが、そうさせていただきましょう」

 郭斐林は立ち上がり、再び劉建和を見る。

「これからどうされますか?」

「稟施会に助けられて此処まで来たが、息子はこっちでは無い様だし、一度戻る事になりそうだ。武慶じゃなくて城南だが」

「そうですか。あの……道中、お気をつけて」

「ありがとう。あんたも」

 劉建和は郭斐林が押さえている喉許に目を遣りながら答えた。

 郭斐林はそのまま広間を出て行こうとしたが一度立ち止まって殷汪を振り返る。やはり殆ど表情の無いままの殷汪を見て、そのまま無言で立ち去っていった。

 

 郭斐林が部屋に戻ると、陸豊以下一同は立ち上がってこれを迎えた。

「斐林それは……如何した?」

「師娘! 怪我を?」

 孔秦と呉程青の二人が血相を変えて駆け寄るが郭斐林は手を挙げてこれを制し、

「秘伝書の一部です。確かに、戻って来ました。大師兄、あなたのお知り合いというのは……」

「殷汪に……会ったか」

「はい。これは師父に渡すようにと。持ち主である劉さんも同意しました。大師兄、あの殷どのは何故、これを師父にと言うのでしょう? これが本当に優れているなら自分の物にするのではありませんか?」

「何と言っておった?」

「真武剣は……欠けていると。まるでこれが……その欠けた部分であるかのようにも。これは洪淑華の秘伝。黄龍門ではありませぬか。大師兄。あなたはその意味をご存知なのですか? それ故に……真武剣派を……」

 陸豊は言葉を失った様に黙って何も言わなかった。ただじっと宙を見つめ、必死に何か考え込んでいる。

「師娘……?」

 孔秦が心配そうに郭斐林を窺う。呉程青も同様である。いきなり何の話か理解出来ていないが、郭斐林が傷を負って時折顔を顰めているのを見ると、これは只事ではない。二人の真剣な眼差しに郭斐林はどうにか笑顔を見せ、

「大丈夫よ。私達はこれから武慶に戻りましょう。これを総帥にお渡ししてから、また徐を追うわ。劉さんのご子息と、小絹(しょうけん)も探し出さなければ」

「はい。ですが、暫くお休みになられてその傷を――」

「浅いわ。平気よ」

「あの、北辰の殷総監が生きていたのでしょうか? 今、此処に?」

 呉程青が不安げな表情で訊いた。郭斐林でさえ初めて会ったものを、呉程青ら若い弟子達が殷汪を名を聞く以外に知る筈も無い。殷汪が居るなら、師娘に傷を負わせた者は他に無いと知る。他に誰が、我が派の高弟である師娘を傷つける事が出来ようか。

「秘伝書と我ら真武剣派は何か関係があると殷総監が言ったのですか? 我らを混乱させる為に言ったのでは……?」

 孔秦が言うのを聞いて、郭斐林は弟子達の前で喋るべきではなかったと後悔した。戻ってきた時はその事で頭が一杯で弟子達の事など完全に放念してしまっていたのだ。

「恐らくそうでしょう。惑わされてはいけない。忘れるのよ」

「……ハァ」

 そう言われても、師娘が傷付けられた事実を忘れる事など到底無理な話だった。

 


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