表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
流浪一天  作者: Lotus
第十四章
245/257

第十四章 十二

 郭斐林は震えていた。恐怖があることは否定出来ない。だが武者ぶるいでもある。これほど自分を警戒させ、緊張させ、胸高鳴らせる相手と対峙したことがあっただろうか。そしてもしこれに勝ち得たならば真武剣の名声は再び武林に轟くだろう。久しく隠れてはいたものの、殷汪の名は今までいささかも傷ついた事は無いのだ。それを、自分が討つ。『郭斐林』の名が武林を駆け巡る。表に洩れ出ない様に細心の注意を払ってきた己の武芸者としての欲望が、確かに今、心の奥底から湧き上がり、溢れ出そうとしていた。

 剣先をゆっくりと下方へと移し、殷汪の視線の動きを観察する。すると意外にも殷汪はその剣先に釣られる様に視線を動かし、郭斐林の表情を見ていない。更に剣を寝かせて別の構えへと変えてみる。だがやはり殷汪はそれを視線で追う。紙切れを持った手は机に置いたまま、まるで剣に見とれて心ここにあらずといった様子である。これを隙とみるか、こちらを惑わせる策か、どうにも測りかねる。

(この男の武芸が真っ当なものであるはずが無い。信じるべきはこの――真武剣のみ!)

 郭斐林の右足が前に出た次の瞬間床が大きな音を破裂させ、同時に郭斐林の身体は宙に舞い上がった。長剣の鋭い突きが寸分の狂いも無く殷汪の顔面に迫る。すると殷汪はその剣突から顔を守るかの様に持っていた秘伝書の一枚を掲げた。ただの紙一枚である。容易く突き破り剣は殷汪を貫くことができる筈だったが郭斐林は思わず剣を退いてしまう。取り返すべき品を傷つける訳にはいかなかった。

「良い盾をお持ちですこと」

 退いて充分間合いを確保した後、郭斐林は忌々しげに殷汪を睨みながら言う。殷汪は笑って、

「真武剣では洪淑華を破れまい?」

「どうかしら?」

 平静を装って答えた郭斐林だが、その腹は怒りで一杯になっている。

(洪淑華など……私の敵ではない!)

 怒りに任せて再び踏み込もうとした郭斐林だが、数歩進んで後ぴたりと動きを止め、そしてそのままじっと構えを崩さずに殷汪を見つめる。

(秘伝書を盾にされてはこちらから攻めて向こうが防ぐ形はどう考えても不利だわ。攻めて来させればあの秘伝書を武器代わりにしたとしても動いてさえいれば隙が見えてくるはず)

「何だ?」

 殷汪が訝しんで訊くと郭斐林はわざと大袈裟に真武剣の型を用いながら改めて剣を構え直した。

「……洪淑華の剣とやらは、真武剣を破る事が出来ると? そこに書いてある事がどんなに素晴らしいものだとしてもあなたは未だ読めてもいないのでしょう? まさか触れただけで修得が可能とでも? それこそまさに邪法。確かに『妖人殷汪』に相応しいですが、でもそんなまやかし、真武剣に通用するとは思えない。まあ、不敗剣と呼ばれながら真武剣を下した事の無いあなたがその突然現れた洪淑華の秘伝にすがりたくなる気持ちは、理解出来なくもないけれど」

 充分に煽ったつもりではあった。だがそれ故に郭斐林の表情は硬く、殷汪から一時たりとも視線が外せない。突然襲い掛かられたら非常に危険な速さを相手が持っている事を理解しているからだ。郭斐林の頬を、汗が伝う。

 殷汪が真武剣を相手にして勝った事が無いというのは事実だった。ここでいう真武剣とは総帥陸皓と五人の直弟子達を指す。それより下の代ともなれば幾ら殷汪が手にかけようが遥かに格下であり自慢するどころか逆に非難の対象となろう。詭弁と言われればそれまでだが、郭斐林ら陸皓の直弟子はいずれも殷汪と剣を交えた事が一度も無いのである。総帥陸皓については弟子の郭斐林の知らぬ遠い過去まで遡れば或いはあったのかも知れない。しかし長らく武林に身を置き様々な伝聞を耳にしてきた郭斐林は、師、陸皓が殷汪に敗れた過去を持つなど聞いた事が無い。もしその様な事があったなら今の武林における真武剣派の地位はあっただろうか。人の口に戸は立てられないというが、闘争を繰り広げてきた武林なら尚更の事、真武剣派は存在すら出来なかった事だろう。

「もし陸皓と俺が遣り合う事になったら――」

 殷汪がまた、手に持つ秘伝書の一枚を光に透かすようにして持ち上げる。

「奴は真武剣など使うまい」

 そう言うと同時、何の前触れも無く再び手の一枚を郭斐林に向けて放ち、それを追う様に跳躍した。

 郭斐林は万全の体制で警戒しており間を置かず素早い退き足を見せ、反撃に備えて息を蓄える。殷汪も速度を緩める事無く迫ってくる。その手の指先にはまた別の、いつの間に持ったのか判らないがもう一枚、鋼の様に尖った紙が挟まれていた。秘伝書だからと気に掛ける余裕は、今度は無い。郭斐林は迷う事無く先に襲って来た秘伝書の一枚を切り裂くべく鋭い音を立てて長剣を振り下ろす。しかし届かなかった。殷汪の手を離れた筈のその一枚は突然、剣を避ける様に戻った様に見えた。目の前に、足を止めた殷汪が郭斐林に対して初めて身構えており、両手に一枚ずつの、『得物』を持っていた。

「文字は少ない。気にするな」

 殷汪が両の腕を勢い良く振り下ろすと再び郭斐林に襲い掛かった。迫ってくる風圧のせいなのか、郭斐林は顔を顰めると今度は退く事も出来ずに慌てて長剣を出して殷汪を近づかせまいとするが、秘伝書の紙切れがそれを難なく防いでしまう。既に郭斐林には驚いたり迷ったりする暇はない。一気呵成に自らの得意とする真武剣の技を連綿と繰り出し、それを最高の防御とする。そうする内になんとか体勢を整え剣にも勢いが増してくるが、殷汪はその全てを手にした紙切れで受け、払い、もはや剣同士で戦うも同じという攻防となった。

 時折、殷汪の持つ紙が衣服を掠めるとその度に郭斐林は焦った。明らかに紙によって切り裂かれているのである。その紙を相手に数十合切り結び、それでも向こうは無傷のままである。

(何か細工が?)

 殷汪の衣服の、恐らく袖であろうがバタバタと風を切る音を聞いた。だがどの様な動きをしたのかまでは見えていない。次の瞬間、殷汪は今までの細かく素早い手から一転、振り下ろしていた右手を思い切り全身を使って大きく跳ね上げた。無論、手の先には唸りを上げる秘伝書がある。不意を突かれた郭斐林は大きく仰け反ってこれをかわそうとするが間に合わず、喉元に鋭い痛みを感じると同時に目を細めて狭くなった視界に、血が舞うのを見た。

 

 郭斐林は突如、恐怖に襲われた。一気に力が抜けて思わず長剣を取り落とし、両手で喉に触れながら膝から崩れ落ちた。

 声も出せず、ハッ、ハッと短い呼吸を繰り返す郭斐林は目を思い切り見開き、正面に立つ殷汪を焦点の合わなくなった瞳で見続ける。

(私は、この、程度で、終わるのか……。まともに、戦う事も、出来ずに? この男……)

 両手は赤く染まっている。見ただけで意識が遠のいていくのが分かった。

 殷汪は背を向けて奥の机の方へと帰って行き、手にしていた二枚の紙を元の位置に積み重ねる。一瞬、風をはらんで膨らみ、そして静かに一束の秘伝書へと姿を変えた。

「今にも死にそうな顔をしてるな」

 殷汪の顔には冷笑が浮かんでいる。だが一切の闘争心を失ってしまった郭斐林が反応することは無い。

「その程度の傷で人は死なないと思うが。だが傷付けた事は詫びよう」

 これを聞いて郭斐林は改めて喉を確かめてみると、痛みはあるもののあまり深い傷ではない事が分かる。すぐさま懐から手巾を取り出して喉にあてがった。

(結局、私は負けた。技の優劣以前に、私はこの人の相手ではなかった……。無様な……)

 郭斐林は、正直なところ仮に敗れるにしてもここまで早く勝負が決するとは思っていなかった。武林に名立たる真武剣派で、総帥の弟子五人の内の一人である。長い修行の歳月は三十年余りを過ぎようとしている。天下一の名手といえども、もはやそれほど遠い存在では無いのではないか――そんな気さえもしていたのだ。だがこの男、殷汪には、通用するどころか、遊びにもならなかっただろう。戦いが瞬く間に終息した今も、激しい攻めを受けているような感覚が止まず未だ震えが抑えられなかった。

 殷汪は椅子に腰を下ろして、穏やかな口調で郭斐林に語りかける。

「陸皓の本懐の剣を真武剣と呼ぶなら、お前達弟子の剣は欠けた真武剣。腕の差という意味じゃない。お前と俺の差は、陸皓の真武剣と、お前と兄弟弟子に授けられた欠けた真武剣の差に等しいんだ」

 


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ