第十四章 十一
郭斐林は腰の曲がった小さな老女の後ろに立ち、眼前の扉に神経を集中させた。先程まで居た部屋からはそう遠くない別の広間で、大声を上げれば必ず陸豊らの耳に届くことだろう。無論、そんな事をするつもりは全く無いが、この扉の向こうがどんな場所でどんな者達が待ち構えているのか、未だ分からない。此処の主、梁游国が「これが秘伝書だ、持っていけ」とでも言ってくれるのであればこれほど楽な事は無いのだが。
扉の向こう側に、気配は無かった。少なくとも大勢が自分を待ち構えているのでは無さそうだ。だがこの老女は「一人で来い」と確かに言った。誰かが、何かを、企んでいるとみて間違いは無いだろう。殆ど無名の、梁とかいう田舎者が自分を相手に何を企むのか? そんなものを恐れる郭斐林ではないと、胸を張った。丁度その時、
「お連れ致しました」
老女が声を発する。中に居る誰かに、だろう。弱々しく更に頭を下げる老女。そして中からは何か反応があったとは思えなかったが静かにゆっくりと扉を開いていく。
中は眩しかった。強い西日が差込み、埃っぽい空間が広がっているだけの殆ど何も置かれていない部屋だった。老女は中に入ろうとはせず、扉を開けるとすぐにまた小さくお辞儀をして後退り、そのまま離れていく。郭斐林はそれを見ることなく中の様子を窺う事に専念していた。
誰かが、居る――そう感じる。と同時に郭斐林は静かに中へと進んだ。待っていたのはたった一人だったからだ。正面奥にぽつんと小さな机が置かれていて、その奥に人が座っているのが見えた。梁游国ではなかった。もっと若い、男だった。
男は郭斐林を一瞬見遣って、それから何やら手に持っていたらしき物を机の前にゆっくりと置いた。
(あれは……もしかしてあれが秘伝書?)
郭斐林はその置かれた物と男を交互に、注意深く見つめる。そして突然、身体を引き攣らせて立ち止まった。
「かなり久しぶりだが……覚えているようだな」
男の落ち着いた声とは対照的に、郭斐林は傍目にも判るほどうろたえた。左手は既に腰の長剣を掴んでいたが、右手は抜くべきか否かを決めかねて身体の前で震えていた。
(何故この人が此処に居る!)
「俺も覚えている。といってもお前はまだ小娘で奇声を上げながら剣を振り回していたのを見かけただけだが……数十年前、武慶でのことだ」
自分よりも若そうに見えるこの男がその容貌に似合わず遠い昔を懐かしんで目を細めながらそう言えるのは、これが『あの殷汪』に他ならないからである。真武剣派の同志を数多く傷つけた、太乙北辰教の殷汪――。
(師父の言うとおり死んでなどいなかった! 秘伝書を……横取りするつもりか!)
「まあ、慌てるな。真武剣はもっと、こう――堂々としているべきだろう?」
これが挑発でなくして何であろうか。だが確かに今の自分は血が沸いたかの様な興奮と緊張を抑えられないでいる。郭斐林の震える右の指先が己の剣の柄に触れる。
「この秘伝書、確かに一部のみの様だが、とりあえず無事だ。俺には読めないし確認のしようも無いんだが」
殷汪は言いながら自らが取り出して置いた紙の束の一番上を捲り、顔の前にかざす様にして眺めた。郭斐林が武慶で見た、劉馳方という少年が持っていた書物とは状態がかなり違い、綴じられてもいない、まさに古書らしきその一部であった。持ち去った賊たちがどの様な扱いをしていたのか知らないが、残りもこのまま時が経てばこれと同様、徐々に形を失っていずれ紙屑同然となるのは必至であろう。
「あ、あなたは、それをどうするつもりですか? それは武慶の劉という商人の物――」
「お前はこれをその者に返してやるのか? 直接か? それとも一旦、真武観へ持ち帰るのか?」
殷汪の視線は秘伝書に書かれているであろう文字から離れない。読めないというのは嘘かと思える程、念入りに、字を追っている様だ。郭斐林は大きく、だが極めて静かに息を吐き中途半端な構えのまま固まっていた上体をゆっくりと起こして背筋を伸ばした。そこで再び殷汪が視線を上げ、改めて視線を真っ直ぐに交える事となった。
「あなたも、その秘伝書を手に入れたい一人という訳ですか。……奪ってでも?」
「お前は欲しくないのか? お前の師父は欲しいだろうな」
「師父が何故そんな物を欲しがるというのです! 師父には、我ら真武剣派には全く価値の無い物です!」
「お前は……全くもって素直な、良い弟子だな。お前の兄弟弟子達も皆、とても良い」
そう言って殷汪が見せた微かな笑みがまるで子の成長を喜ぶ慈父のものであるように見え、それが自分よりも若い男――容貌のみ、であるが――が見せた事に言いようの無い不気味さを感じさせ、郭斐林は悪寒の様な震えが全身に走るのを感じた。
郭斐林は今までこれほど間近で殷汪という人物を見た事は無かった。かつての太乙北辰教との闘争の間、殷汪は度々北辰教徒を従えて真武剣派とまみえた。だが常に殷汪は配下の後方に居て文字通り姿を見せているだけであり、剣を抜いた殷汪を見ていない。兄弟子である白千雲などは殷汪にかなりの近くまで迫ったと聞いているが、やはりまともに剣を交えるまでに至らなかったという。そんな状況から、殷汪の武芸の程は大した事無いのではという憶測が真武剣派の弟子たちの間で広まったが、師である陸皓の殷汪に対する注意深さや、清稜派の木傀風ら武林の名立たる領袖たちの殷汪に対する評価を耳にすると、その不敗神話は簡単に一蹴出来るものではなかった。
純粋に剣に拠るものか、或いはこの、老いを知らぬ体という面妖な『術』の様なものを実現可能にする不可思議な功夫に、かの不敗剣は拠っているのか、郭斐林は初めて殷汪を凝視しながら改めて疑問を深めていった。
「それだけ、お前達の師父は罪深い」
「罪……?」
郭斐林は殷汪が不意に言った言葉を聞き間違えたのかと思った。
「陸皓は、お前が持ち帰ったこれをなんとか自分の物にするだろう。この紙切れの束は持ち主に返すんだろうがな。中身の事だ」
「だから何故! 我らは真武剣派! 師父が創始された真武剣以外に興味など――!」
郭斐林はほとんど無意識の内に、腰の長剣を勢い良く抜いていた。攻撃に移るためではなく、ただ、その長剣を真武剣に見立てて掲げて見せたのである。それを見た殷汪は僅かに眉を顰め、
「この紙切れは、洪淑華の剣だ。お前のその真武剣、抗えるか?」
次の瞬間、殷汪の紙を掴んでいた腕が瞬時に伸びる。洪淑華の秘伝が記されているというみすぼらしい紙切れが空を切り裂く音と共に郭斐林の喉元めがけて飛びかかった。
郭斐林の目はしっかりと捕らえている。殷汪が放った一枚の紙切れはもはや先程までのそれではない。まるで薄く延ばした鉄の板に変わったかのように重々しい唸り声を上げ、その鋭い先端が刃物の様に光を放っている様にも見えた。殷汪の指から注ぎ込まれた内力が薄く弱々しかった紙の隅々まで満ち、今や郭斐林の身を傷付けるのに充分な能力を得たのである。この洪淑華の秘伝書一枚がこの広間の端から端まで飛ぶのに、一瞬の瞬き程度の時があった。
郭斐林は長剣でこれを受ける事はせず、袖を巻いてかわす。これもまた一瞬である。そして後方を振り返る。『洪淑華の剣』は郭斐林の居た背後の壁に突き刺さり、程無くして力を失い壁に垂れ下がった。
「あなたがお望みなら……それを持ち主に返す為なら、たとえあなたが相手でもこの真武剣派郭斐林、退く事はありません!」
郭斐林は自らの長剣を身体の中央で真っ直ぐ突き出して構え、初めて、殷汪と剣でもって対峙する。真武剣こそ最上であるという自負がある。目の前の殷汪がたとえ数百手、数千手を繰り出そうとも真武剣ならその全てに対応出来る。老総帥陸皓の編み出した数多の剣技は己の中に生きているのだ。全て数十年かけて身体に滲みこませてきたものであり、真武剣派の中でも数少ない、陸皓の直弟子のみが至る境地。それをこの殷汪に見せつけてやりたかった。
「……お前のその気概を、一度、陸皓に見せてやりたいものだ」
呟く様に言った殷汪の指が、ゆっくりと秘伝書の二枚目をつまみ上げていた。