第十四章 九
「とにかく来てもらおうか。すぐにだ」
一呼吸置いて再び口を開こうとした郭斐林を遮るように、この曹という男は掌をかざして言った。
「真武剣派相手に力ずくで、など考えてはいない。出来もしないがな。だが来てもらわねば困る。あんたの方もこんな処まで来たのに詳しい話を聞けなければ、困るだろう?」
曹はそれだけ言うと一人歩き出して店の外に向かうが、後ろに控えていた者達は動かず、郭斐林らが曹の後に続くのを待っている。
「真武剣派ではないが、儂も行って良いか?」
陸豊が曹の背中に向かって訊ねると、曹は振り返り、
「やはりあんたもあの忌々しい秘伝書と関係しているそうだな。当然、来てもらう」
「誰がそんな事を言ったのだ?」
陸豊が訊き返しても曹は答えず再び歩き出す。
「……大師兄も秘伝書を?」
郭斐林はこんな田舎まで来て偶然に陸豊と再会したわけだが、その陸豊が此処で何をしているのかなど考えてもみなかった。ましてや秘伝書との繋がりなど全く思いがけない事である。
「いや、儂は秘伝書と関係があって此処へ来たのではない。ただ、儂の……知り合いがそれを探す者に手を貸しているようでな」
「探す者? それは……?」
郭斐林は不安を覚えた。他にも探す者が居るとすればそれは自分達にとってほぼ間違いなく邪魔者、競争相手の様なものではないのか。秘伝書の元の持ち主と、探している真武剣派、それ以外に秘伝書を追う正当な理由を持ち合わせている者が居るとは思えなかった。
秘伝書の事は既に江湖に広く知れ渡っている。あわよくば物にせんと企む者がいてもおかしくは無いが、はたして陸豊はその知り合いとやらを手伝っているのだろうか。もしそうであったなら――などと考えていると益々不安が募る。
「武慶の劉という者に会った。秘伝書の持ち主だそうだな? おそらくこの辺りまで来ておる筈なのだが……」
「劉さんが? 武慶の劉建和という商人ですが、こんな処まで?」
「ああ、そうだ。劉建和。稟施会の者が同行しておる。城南のな」
「稟施会、ですか……」
郭斐林らが動くのを待っていた曹の手下達が苛立った様子で周りを取り囲むように近づいてくる。郭斐林は陸豊に頷いて見せると、
「とりあえず参りましょう。元々訪ねるつもりでしたから。案内してくれるのだから願っても無いことだわ」
真武剣派高弟郭斐林には海沙党など臆するようなものではない。そこには余裕の笑みがあった。
秘伝書を奪っていったのは武慶に居た無頼の輩、しかも取るに足らぬごろつき達である。海沙党などというこの者達はおそらく、くだらぬ事でその者達と揉めたあげくにあろうことか命の取り合いにまでなってしまったという、そんな程度の事であろう。秘伝書がもたらした禍などと大袈裟な――と、郭斐林は思った。そんな者達の喧嘩など児戯に等しく、命のやり取りに至るなど愚かしい事この上ない。未だ事が治まっておらぬのであれば自分が双方を大人しくさせねばなるまい。前を行く曹とやらの背中を眺めつつ、郭斐林の算段は続く。
そんな郭斐林を、後ろを行く楊迅が時折視線を遣って眺めていた。
(怖いものなんて何も無いって感じだな)
微かに笑みを浮かべたような口許に前方を射る様な眼差し。気息は充分に満ち足りているようだ。並々ならぬ技量と気迫を備えた郭斐林であるが、未だ未熟な楊迅にはそれをつぶさに感じ取る事はまだ出来ない。
(真武剣派の何番目か――凄い人には違いないけど、陸先生と比べたらやっぱり下なのかな? 殷……師叔とはどれくらい――)
それなりに歴史のありそうな古い屋敷に辿り着き、曹を先頭に足を止める事無く中へと向かう。陸豊と郭斐林の様子には特に変化も無く堂々としたものだが、楊迅はそこがどんな場所なのか内心不安で仕方が無かった。
広い庭の中ほどに人が集まっている。その者達は何かを取り囲むように輪を作って並んでいた。騒いではいなかったがどこか興奮冷めやらぬ顔を見合わせながら言葉を交わしている。
曹はその輪に近づいてから後ろを振り返り郭斐林を見たが何も言わず、郭斐林が足を止めると曹は再び前を向いて一人の男に近づき何やら耳打ちをする。その男の程度の良い身形と落ち着いた佇まいから、この屋敷の主、集団の頭目であろうと思われた。
程度の良い身形といってもあくまでこの屋敷にいる他の者達に比べて、という意味であり、歳は陸豊に近いか或いは少々若いかといったところ、そのわりに鋭い眼光や逞しい体躯などは多くの男達を束ねる頭領らしかったが、自身の見栄えというものについては頓着しない性質の様で、少なくなった髪の毛や奔放に伸びた髭は自由気ままな向きで風が吹くのに身を委ねていた。
「ほう、あんたが有名な真武剣の郭か」
あまりに礼を欠いた第一声であったのは非常事態であるからだろうか。この場にいる者達が取り囲んでいたものがどうやら数人の遺体であることが、陸豊の後ろに居る楊迅にも見てとれた。
「お初にお目にかかりますわ。いかにも私は真武剣派の郭。貴方は……海沙党のご当主?」
言葉を返した郭斐林は不快感を抱いたようでこんな相手に礼など要らぬとでも思ったのだろうか、言葉遣いとその表情は明らかに海沙党当主とやらを下に見ている。
「陸豊どのの事は存じ上げている」
当主は郭斐林を無視して陸豊に向かい正対すると背筋を伸ばし抱拳して見せた。それはどうみても郭斐林など洟も引っ掛けないという体の演技であり、見た目に似合わず子供じみた行為であった。
海沙党当主は梁游国と名乗り、陸豊を緑恒で見かけた事を告げた。
「千河幇は我らが盟主。緑恒へは度々出向いて范幇主にも会っている」
そう言ってから袖を翻すと大股で歩き出す。脇に立っていた曹が陸豊らに、続いて屋敷に入るよう促した。
「武慶で奪われた秘伝書が現れたとか?」
広間へと通された郭斐林の不躾な第一声に、当主梁游国はフンと鼻を鳴らした。
「天下の真武剣が方々に人を遣って未だ辿り着かぬとはな。それだけでもあの賊めらは大したものだ」
梁游国は吐き捨てるように言い、郭斐林を睨みつけた。いきなりの険悪な雰囲気に陸豊が口を挟む。
「この街に秘伝書を持った者達が現れたらしいという事だけは聞いて知っておるのだが、それだけでしてな。何がどうなっておるのか順を追って教えていただけぬか? 表の遺体は?」
「聞いてくれるか陸豊どの」
梁游国は陸豊に体ごと向き直ると弱りきった表情を見せ、郭斐林には『お前は知らぬ』という体である。
(いい歳して子供みたいな人だな? これで当主だというんだから……)
黙って控えている楊迅にはその様子が可笑しくてたまらなかった。
「あの賊めら、他の賊に追われておったのだ。秘伝書を横取りせんとする奴らだ。最初、秘伝書を持っておった武慶から来た賊を我らが捕まえたのだ。それを此処まで連れて来たのだが……あろうことかそいつらを追う別の賊が襲ってきてのう」
「この、屋敷を襲ってきたと言われるか? そちらの賊は一体、どれほどの数が?」
「儂が見たのは三人だが、多分それだけだ。そのたった三人に……十五人が殺された」
十五人、という数に一同は驚いた。表の数人の遺体、被害はあれだけではなかったのである。