第十四章 七
相変わらず、すこぶる良い天気であり、陽が昇るや地面はじりじりと音をたてながら焼けていくようだった。再び暮れるまで、ずっとこのままだ。だからといって涼しくなる夕暮れを待って何もしないなどありえない。陸豊が目を細めて、光が満ちて輝いている外を眺めて言った。
「追いかけてみるか……。せっかく近くにあるというのだ」
それだけで、楊迅には充分理解出来る。追うのは帰ってこない殷汪らと、秘伝書だ。もう無関係ではない、我らの祖師洪淑華の秘伝――未だ何も学んでいない楊迅だが早くもそんな風に秘伝書の事を思っていた。
「海沙党の当主のお屋敷、ですか?」
陸豊は宿の者に海沙党の主がいる屋敷について訊ね、ほんの少し言葉を交わしただけでおおよその見当がついたのかすぐさま出立の用意を始めた。男二人の気まま旅でたいして荷も持っていない。行き先は他所の街でもうこの宿には戻らない。そのまま、陸豊と楊迅は熱せられた空気の中に意を決して出て行った。
緑恒からの長旅である。当然、馬を使うが彼らとて人と同じ、特別暑さに強い訳ではなかった。多めに休憩をしながら進み、目的の街に入ったのは夕暮れの少し前だった。まだ涼しくなどなってはいない。街に入り馬を降りるが楊迅はなんとかふらつかず歩くのに精一杯というところまで疲れ果てていた。
数日前にも来た街だ。海に面していて港があるらしいが、前に来た時も、そして今も近くに海がありそうな気配は無い。此処は比較的大きく、賑やかな街だった。前は何も気に留めず通っただけであったが、今度はじっくりと行き交う人を観察する事となった。殷汪とその仲間を探す為である。だが人は多く、もしまだこの辺りをうろついていたとしてもそう簡単には見つけられそうも無い。そう思いながら歩いていた。
通りの真ん中で、陸豊が不意に足を止める。大勢の人間が流れるように進むその真ん中で、である。その場に立ち尽くし、真っ直ぐ前を向いている陸豊の視線を、楊迅は追う。するとそこには馬を牽いた婦人が立っており、陸豊同様に驚いた表情を見せたまま立ち止まっていた。
「こちらではなかった……か?」
陸豊はそういって後ろを振り返る。その動作も、声も明らかに不自然だった。
「……先生?」
陸豊を追おうとするその時だった。まだかなり離れて立っていたはずの婦人が楊迅の視界にまさに飛び込んできた。駆けたのか、跳んだのかは解からない。とにかくすぐ傍に迫っていた。
「陸大師兄!」
婦人は陸豊の背に向かって、確かにそう呼び掛けた。
「陸大師兄ですね? お待ちになって!」
陸豊はやや俯いて振り返る。
「弟子の前でそう呼ぶのは具合が悪いとは思わんか?」
陸豊の言葉に、今度は婦人が後ろを振り返る。そこには二人、若い男女が控えていた。 楊迅はその二人を見て驚いた。
(いつの間に、そこにいるんだろう? 歳は見た感じ俺とあまり変わらないようだけど、どっちも俺なんかより随分立派だ。何処の人達だろう?)
「陸師伯にお目通り致します」
若い男の方がよく通る声でそう言い、隣の若い女と完全に挙動を揃えて抱拳し、挨拶をした。二人の面持ちも、所作も、そしてそれが綺麗に揃っている様も、全てが垢抜けている。楊迅はそう感じて暫くその若者二人に見惚れていた。
今度は若い女の方が口を開いた。
「私達も幾らかは成長しましたから、口も堅くなりました。陸師伯、私達を覚えておいでですか?」
若い女の口調は先程の態度とは一転してくだけた感じとなり、表情も柔らかい。会えて本当に嬉しい、そんな感じだ。陸豊は目を細め、若い二人を眺めて頷いた。
「ああ。覚えているとも。そろそろ千風を超えそうか?」
「まさか! とんでもありません」
若い男が笑いながらも落ち着いた声でそう返した。
「秦はとりあえず師父の背丈は超えそうですわ」
婦人も笑顔を見せて陸豊に言う。それから改まって陸豊をじっと見つめた。
「お元気そうですね。安心しました」
「斐林、そなたもな。武慶は皆、達者か?」
「はい。総帥も……」
「そうか。それは、良い……」
そんな会話の間、楊迅は陸豊の傍らで何も解からず、何も言えずじっとしているだけだった。婦人が楊迅に視線を遣り、陸豊がそれに気付いてようやく双方紹介する。楊迅はまたしてもただ驚くばかりである。婦人は真武剣派の郭斐林。楊迅でさえも既に聞き及んでいる、武林では高名な人物といって良い。後ろの二人も真武剣派の高弟、白千風の弟子、男は孔秦、女は呉程青と名乗った。
楊迅は白千風なら知っている。鏢局の仕事で荷を受け取りに武慶へ行った時、出迎えたのが白千風であった。
(真武剣派というのは皆、こうなんだな。身形も良いし、やっぱり威厳がある。若い弟子でさえも、もういかにも名門の子弟という感じじゃないか。自信に満ちてる)
若い弟子二人を眺めつつ、楊迅は感心した。と同時に、同世代でありながら遅れをとってしまっている己が恥ずかしいと感じた。環境も、周りの人間も全く違う中で生きてきたのだから今此処で比べても無意味だが、若い楊迅はどうしてもそんな事を考えてしまう。
「このような処までやって来たのは……やはり武慶で盗まれたという秘伝書か?」
訊くまでも無く真武剣派である郭斐林が弟子まで連れてやって来たのはそれ以外有り得ないと陸豊は踏んでいたが、それでも一応訊いておく。
「ええ。盗って逃げた者達は途中で仲違いでもしたらしくて、秘伝書の一部を持つ者がこちらに来たと掴んだものですから。秘伝書は此処、東涼の物だから有り得ない話じゃないと思って。それで今、その秘伝書の一部がこの街に居る人物の処にあるらしいんです。盗んだ者と今持っているという人物がどう関係するのかはまだ解らないけど」
郭斐林の言葉を聞いても、陸豊は頷くでもなく、無言のままだった。すると郭斐林は陸豊の表情を探る様にじっと見つめてから言った。
「あの、陸大師兄に是非お聞きしたい事があるのです。本当は聞いて良いものか迷ってはいるのですが――」
「斐林、とりあえず、此処は具合が悪い。これが倒れてしまう」
陸豊は郭斐林の言葉を遮って、楊迅を指差した。もう全身が汗だくでちょっと押せばふらついて本当に倒れてしまいそうな楊迅がそこに居た。そろそろ夕暮れが近くなったというのに街中の熱気は冷める気配を見せない。
「ハハ……すみません」
楊迅は掌で顔を拭うが、玉の様な汗を顔中に拡げただけだった。見れば陸豊も、真武剣派の三人もたいして汗をかいている様子が無い。涼しげとまでは言えないまでも、どうやらこの暑さの中で一日立ち尽くしていても平気そうである。
(情け無いなぁ……俺は)
楊迅は陸豊に促されて近くの茶屋の軒先に出来た日陰に入る。熱い空気から逃れる事は出来ないが、一つ深い呼吸をしてようやく体が少し落ち着いたようだった。
「入って中でひと休みしましょう。陸大師兄、お急ぎでなければ是非……もっと、お話をさせて下さいませんか?」
「それは構わん……が、さすがにもう大師兄というのはやめてくれぬか。儂はもう、真武剣派ではない。陸皓の弟子ではないのだ」
師であり、一門の総帥である陸皓を、陸豊は呼び捨てにする。しかし郭斐林は不快に思うことは無かった。自分達と陸豊は違う。師父と陸豊の関係は、自分達他の弟子とは全く違うのだ。
郭斐林は柔らかな微笑を浮かべたまま、陸豊に頷いて見せた。