第六章 十五
林汪迦が進んでいくと、自ずと道が出来てゆく。その中を来た時と同じ様にゆっくりと歩く。人々はその様子を眺めながら近くの者達とひそひそと言葉を交わしていた。
「二度と来るな!」
群衆のざわめきの中からそんな言葉が聞こえた。前庭の中央あたりまで来ていた林汪迦は声と同時にピタリと足を止める。ほぼ同時に連なって歩いていた黒装束の男達も止まった。林汪迦が声のした方へ顔を向ける。笑っていた。
「誰が言ったのか分からないとでも? この場に何千、何万居ようとも私には分かるんですよ? ……あなた」
林汪迦の視線は揺らがない。身に覚えの無い者達は一斉にその視線を避ける。見えない何かに押されていく様に人の波が割れていき、林汪迦の真正面には若い男が一人。射竦められたその男は震えていた。
「あなたの望みはしかと聞いたわ。多分また来るけれど」
林汪迦はその男に軽く会釈をして再び門の方へ向かって歩き出す。群衆は黙り込んでその様子を見つめ、やがて太乙北辰教の一行は門の外へ消えていった。
「……何だったんだ? あの箱、どうなった?」
「そりゃあ、あれだ。あの女、大人しく渡していけば良いものを事も有ろうに白千雲様に内功でちょっかいを出したのさ」
「おめぇ何で分かる?」
「あれくらい見ていれば分かろうが」
「へぇそうか。で、どうなったんだ?」
「全く……それくらい分からんでどうする? 白千雲様の勝ちに決まってる。あの女、白千雲様の重厚な内力の攻めに面食らって身を引いたのさ。白千雲様の凄まじい内功の力にあんな箱が耐えられる訳が無い。お前も見たとおり、木っ端微塵よ。七星だか何だか知らんが命拾いしたって事だ」
「凄ぇな」
「さすが、白千雲様よ」
「凄ぇな」
白千雲らは林汪迦の残していった品と書簡を持って陸皓の傍に戻り、それらを持ったまま建物の奥へ入っていく。陸皓が再び目の前の群衆を見渡した。
「永きに渡り我々と北辰教は闘争を続け、多くの血が流されてきた。今だ仇を持つ者も多い。とても重要な事じゃ。しかしながら良く考えねばならぬ。忌まわしい歴史を繰り返すべきか否か――。とても拭い切れぬ無念があるのも事実。此度の英雄大会には多くの武林の名士達が集って下された。この良い機会によくよくこの事を論じ合いたいと思うが、如何であろう?」
陸皓の言葉は程々に多過ぎず。思慮が浅く血気に逸りがちな者達の感情の高まりを一時とは言えども散じるには十分であった。群衆の反応はただ雄叫びの様な声だけで、否とも応とも取れるが、陸皓は再び両の掌を群衆に向けて掲げ、しばらくしてから振り返って建物の中へと入って行く。脇に並んでいた各派の来賓達も続いた。
酒宴の用意が整っている広間に来賓達が戻って来ると、皆それぞれ席に案内されて早速祝杯があげられた。改めて真武剣派総帥である陸皓の挨拶を受け、その後皆思い思いに酒を飲みながら歓談する。陸皓は最初の一杯だけを口にして直ぐにその場を中座していた。
来賓の席の最も上手には木傀風が座り、隣には急に現れた狗不死の席が用意してあった。丐幇の前幇主という身分が江湖に於いてどれほど高いものかを表しているが、総帥陸皓と古い付き合いだという意味合いも含まれている。
狗不死の次の席に傅朱蓮が案内されたのは異例であった。陸皓とは面識も無い。傍目には狗不死の付き人の様にも見えなくもないが、それならば木傀風や狗不死と同様の席が与えられる筈もない。傅朱蓮は何度も案内した下女に確認したが、この席で間違いないという事だった。
木傀風と狗不死の処へ次々と他の客達が挨拶にやって来る。傅朱蓮は隣でその様子を眺めながら、面白いと思った。人々はまず木傀風の前に立って何やら声を掛け、それに対して木傀風はまるで慈父の如き面持ちで言葉少なに応じている。それからその客は隣に居る狗不死の処へ来る。狗不死は満面の笑みを浮かべてその客が口を開くより先に喋り掛け、時には自分も立ち上がってその客の肩を叩きながら声を出して笑っている。
(なんて陽気な……ジジイ)
そんな事を心の中で呟いて笑いが込み上げてきた傅朱蓮は慌てて袖を持ち上げて口元を隠す。
(ジジイ……か。今の声は絶対、あの范さんね)
隠した口元の笑みは暫く消えなかった。
「朱蓮、行こか」
「え?」
「范幇主やがな。ほれ見てみいな。肩身狭そうにしとるがな。それでも儂より遥かに肩幅あるけどな」
范凱は自らの席に着いて何やら考え事をしながらじっとしている。今日まであまり緑恒千河幇と接点の無かった者も多く、幇主范凱が居るこの酒席は誼を結ぶ貴重な機会である。酒宴が始まった直後は大勢の客達が范凱の許へ挨拶に行っていた様だが、その後はあまり近寄る者は無かった。
狗不死が自分の席に置いて確保していた酒壷を引っ掴んで范凱の方へと歩いて行く。傅朱蓮は慌てて席を立ちその後を追った。
自分の席に真っ直ぐ近付いてくる人間の気配を感じ取ってその方へ目を向けた范凱はすぐに立ち上がった。
「これは狗不死様」
拱手して迎える范凱。狗不死は手をひらひらと顔の前で揺らした。
「ご挨拶もせず申し訳ございませぬ。我が幇の朱不尽に助力頂き、何を差し置いても狗不死様に――」
「ええんやて。別に儂も行ったからっちゅうて何の得も無かったがな。まぁ座ろ」
狗不死は面倒臭そうに范凱の言葉を遮って、近くに居た下女に椅子を持って来るように言った。
直ぐに用意された椅子に腰を下ろした狗不死は早速喋り始める。
「さっき、林に見られたか?」
「ハハ……。しっかり私を見ましたから、気付いたでしょうな」
「ええんか? まぁええわな、此処に来とるんもすぐ知られるしな」
「はい。その事については最早気にしてはおりません。失礼、こちらの方は……」
范凱は狗不死の斜め後ろに立っていた傅朱蓮に目を遣っている。
「あんたらにとっては儂なんかよりずっと大事な恩人やでぇ? 聞いてへんか? これが東淵の傅朱蓮や」
「お……おお」
傅朱蓮の名を聞いた范凱はすぐさま再び立ち上がる。
「あなたが……そうとは知らず私めの非礼、何卒お許し下され」
范凱は腰を折って深々と頭を下げる。范凱の様な一際目立つ大男が若い娘に頭を下げている姿は周囲の注目を集めた。
「あ、あの……」
「本来ならば私めが東淵に参りお詫びせねばならぬところでございます。傅家の皆様にご助力賜らねば鏢局はどうなっていたか知れませぬ。傅千尽どの、並びに傅家の皆様の義気に我等千河幇悉く感服致しております。命を落とした鏢客を東淵の地で懇ろに葬って頂いたと聞きましてその遺族達もいたく感激し、傅千尽様にお礼を述べに参りたいと申し出ております。必ずや東淵に参ります。このご恩に報いねば私共は畜生にも劣りましょう」