第十四章 六
微妙に噛み合わない会話が暫く続くかと思われたその矢先、急に表で馬の嘶きが聞こえ、続いて慌しく宿へと駆け込んでくる人影。それは先に現れた二人の男を見つけるなり大声を張り上げた。
「あいつら、かしらの屋敷まで押し込むつもりだ! すぐ来てくれ!」
急いだからなのか、それとも元からそうなのかは判らないが存分に髪を振り乱してそれらしい慌てっぷりを披露するその男も、先の二人のお仲間のようである。
「かしらに何の用があるというんだ? あの二人をかしらの処へ遣ったのか?」
「秘伝書とやらだ。かしらが見せろって言うもんだから屋敷から何人か来てあの二人を連れてったんだ!」
楊迅と陸豊は当初男達の言っている事がさっぱり分からなかったが、秘伝書という言葉を聞いて幾らか想像する事は出来た。この者達がかしらと仰ぐ人物が居て、秘伝書を見たいと言い、その手下か何かがやって来てその秘伝書を持つ者を連れ帰った。秘伝書を持つ者――おそらくは殷汪らが行方を追う逃亡者――はそれまでこの男達の許に居たようであるが、それが何故かまでは分からない。とにかくその者達が別の場所に移ったので、殷汪や稟施会の洪らもそれを追い、帰って来ないという事なのだろう。
再び男が振り返って陸豊をじっと見たまま黙って思案顔を浮かべている。陸豊はそれを見返しながら、
「何か……問えばよいのかな?」
「……いや、邪魔したな」
男は連れのもう一人に同意を得る事も無く、一人足早に立ち去っていく。連れも何も言わないままその後を追い、結局何だったのかと首を傾げながら陸豊と楊迅は顔を見合わせた。
「海沙党でございますよ」
宿の下男が寄って来て陸豊に耳打ちする。
「海沙? ふむ。聞き覚えはある、が――」
「海沙党というのは確か……千河幇に属している人達だと聞きましたが……」
楊迅が言うと下男が答える。
「ええ、そうです。と申しますか、この辺りで千河幇に与しない集団はおりませぬ。海沙党も一応、商団ですから、千河幇の庇護を受けないと……まあ彼らはそんな事は言いたがらないとは思いますが」
「なるほど、商団か。……それで稟施会がどうのと言うたのだな」
陸豊は納得し、楊迅は頷いて、
「稟施会がこっちに乗り込んできて商売を始めたら、その海沙党には厄介な相手になるんでしょうね。稟施会というのは今凄く勢いのある集団だとか」
「しかし、稟施会と名乗ったのはあの洪という者一人だぞ? そこまで警戒するか? 海沙党の商いは何だ?」
陸豊が下男を振り返って訊ねた。
「もう、何でもやりますよ。元々は海運業を中心にこの辺りで栄えましたが今は殆ど仕事がありません。一時はとても荒れましてね。皆、消えて無くなりそうなところに手を差し伸べて下さったのが緑恒の范凱幇主でして、今はもっぱら陸です。はっきり言って千河幇の仕事を手伝わせてもらって何とか繋いでいるといったところですがね」
「海の仕事が無くなるなどという事があるのか? もう何十年、いや百年以上、この国の海は北辰教が仕切っておるではないか。千河幇もまだ北辰から離れたわけではない。ならば海沙党とやらも変わらず恩恵を受けるのではないのか?」
「漁なんかはしておりますよ。小さな漁港が多いですからね。しかし海沙党の稼業は北との交易が殆どだったんです。相当儲けていたんですが……」
「交易が無くなったわけではあるまい?」
「そうなんですが、その交易自体を全て北辰教が仕切るようになったんですよ。海沙党や同業の者達は交易船を出す事も許されない。いや、出しても良いんですが、北の景北港には入れてもらえないそうです。どうしてそうなったのかは――」
下男は肩を竦めて首を振る。
「いつからだ?」
「もう……何年も前から、ですよ
それから陸豊が口を閉じたままなのを確認してから下男は仕事へと戻っていった。
陸豊が言った、この国の海は太乙北辰教が仕切っている、というのは大袈裟な表現のようだが殆どその通りであり、千河幇など国の東に位置する海に接した地域を縄張りとする勢力を傘下に置いてからはその支配力を一層増した。太乙北辰教の本拠、景北港と南方との交易はかなり大規模で国中に知られていたが、下男の言ったとおり海沙党などの他の商団を締め出し北辰教のみで行うのは手間も金も多く必要になりかなり難しくなる。更には規模が縮小してしまい、旨味が減るのではないかと思われた。
交易は北の北辰教徒の生活にも直結した事業であるし、何より教団の懐を潤す大事な役目がある。止める事はまず考えられない。しかし何故縮小するような事になったのか、それは分からない。
「数年前からというなら汪が……決めた事なのか?」
「先生? 何か仰られましたか?」
陸豊の声は小さく、楊迅が訊く。すると陸豊は手をゆらゆらと振って薄く笑った。
「さて、あいつらは戻って来ぬようだ。少なくとも今夜はな。儂らは休むとしよう」
「……そうですね」
楊迅にとってはまだ、殷汪や稟施会の洪が今、何処でどうなって居ようとも追って駆けつけるほどの関係ではない。今日初めて会ったばかりで当然なのだが、それでもどこか落ち着かない気分を感じていた。あの殷汪という人物について、真偽のほどはどうであれ今までに数多くの事を耳にし、彼を兄と呼ぶ東淵の女性と知り合って話し、彼に助けられたという少女からも話を聞き、これから師と仰ぐ人物は彼の兄であり、彼は間違いなく楊迅の事を『甥弟子になる者』と言った。
(普通、甥弟子と言えば……いや、師叔とか目上じゃなくても同門の身内に何かあれば駆けつけるものじゃないのか? 武林のみならず江湖で義侠を行う者は皆そうするものじゃないか。 まだあまり知らない人だけど……先生が行こうとしないのは……やっぱり『あの殷汪』という人だからだろうか)
夜の静寂に包まれた古宿に、特に何か娯楽がある訳でもない。酒はもう腹に収まっている。ほんの少し思案した後は深い眠りがあるだけだった。
楊迅はこの夜、見知らぬ屋敷で剣を抜き、縦横無尽に飛び回りながら無敵の剣術を振るう男の夢を見た。敵は両手に刀を持ち盛んに振り回していたが無敵の男にはどうやっても届かず、逆に男の一剣によって崩れ去った。まともな敵など居ない。それを無敵という。
朝、早くに楊迅は目を覚ました。そしてすぐに近くで休んでいる筈の陸豊を見て、そのまま大きくその目を見張った。陸豊は既に身体を起こして瞑想しているように見えたがそれはすぐに終わる。楊迅が目を覚ましたのを陸豊は目を閉じたまま気配でもって知ったのだろう。首を廻し、楊迅を見て言う。
「まだ早い。もう少し休んだらどうだ?」
「いえ……」
「儂が早く起きるのは何でもない。年寄りだからだ。瞑想する為に起きたのではない。起きてしまったから瞑想するのだ。何故瞑想なのかといえば、半分眠るような心地で居られるからであって、修養を欲しているのでは断じて無い」
陸豊はそう言いながら笑みを浮かべまた目を閉じた。
「今朝は珍しく心地良い貴重な朝だ。起きるのは惜しい。布団をかぶって、背を丸めてゆっくり自分の呼吸だけを感じておれば良い。そうすれば――また寝られる」
何かの修行の一部かと思われた陸豊の話は特に何でもなかったらしい。再び部屋には静寂が戻る。日の出が近づき暑くなりだすまでにはもう少しありそうだ。
(殷師叔や一緒に居た人たちはどうしたかな? きっと何らかの決着はついてるんだろうな……。あの、殷汪、だもんな……)
楊迅は再び訪れたまどろみの中で、つい先程見た筈の夢の事を思い出していた。