第十四章 五
小さな石碑の前は再び陸豊と楊迅の二人だけとなり、暫く陸豊の話は続いたが先師穆汪威の話は陸豊にとっても遠い昔の話で、楊迅がすんなり理解出来るものではなかった。確かな事は、これから習う武芸は間違いなく東涼黄龍門の流れを汲み、しかしそれを東涼黄龍門と呼ぶにあたわず、『穆汪威の天棲蛇剣』であるという事のみ。それ以外、自分からは改まって話すような事は何も無い、と陸豊は告げた。
「あとの二人はどうか知らぬがな。それぞれ思うところもあろう。汪とは話せそうだが……もう一人、真武剣派総帥と話せる機会があれば良いが、当分は無理だろう。そもそもあちらは話せる立場ではない。今はな。とにかく、そのような背景を持ったものである事を理解しておくことだ」
とんでもない話だった。そのような剣に縁するなど未だ信じ難い。腑に落ちないという以前に飲み込めても居ない楊迅の表情を見て陸豊は笑った。
「そんな事よりも中身が肝心だな。ハハ、他は忘れようとも構わぬ」
そうは言われても、これほど興味を引かれる話が他にあろうか? 陸老兄弟には更に弟が居てそれがあの殷汪だなどと、人に言って信じて貰えるとは到底思えない。陸豊は武慶を去って久しいが、陸皓と殷汪の関係は真武剣派と太乙北辰教という二大勢力の対立の構図に等しいと言っても良い筈であった。それが実は兄弟の間柄であるとは驚きである。だがこの陸豊はそれを何でもないという様に淡々と語る。事実、何でもない事なのだ。ただ、他には誰も知る者が殆ど居なかったというだけの――。
その後、陸豊と楊迅はその場を離れたが、特に見るものがある訳でもないこの片田舎では暇を持て余すばかりで、結局自然と足は宿へと向いていた。しかしこの東涼一帯は他所とは違って飢饉や疫病の類によって土地が荒れたりもせず、のどかで、緑の鮮やかな山野は楊迅の目を楽しませた。此処には楊迅の遠い故郷である安県に似た風景が広がっていた。
「かの洪淑華が安県を離れて此処へ落ち着いたのはやはり似たような土地だったからでしょう」
戻った二人を迎え入れた宿の下人はそんな事を言った。
「偶然、知った者に会ってな。ここを教えたのだが……来たかな? 男ばかり――」
「四名、居られました」
楊迅が陸豊の言葉を継ぐ。するとその下人は何度も頷いた。
「来られましたよ。でもすぐに出られましたが。あ、お泊まりにはなるようです」
殷汪ら四人は件の逃亡者らを探しに出たのだろう。行き先を知らぬのに追っても仕方あるまいと、陸豊と楊迅の二人は確保しておいた部屋に入った。とはいっても他に客の気配は無く、今夜は自分達と殷汪らを合わせた六名だけかも知れない。
その後、少し早めの夕食を摂り、何をするでもなく辺りをぶらついたりしながら過ごしていたが、一向に殷汪らが戻らない。それからすっかり日が暮れて月明かりが照らし出す道の先を眺めてみても、やはり彼らの戻る気配は無かった。
「あの者達が手間取るような事があろうか? ならば相手は中々のやり手とみえる」
宿の薄暗い灯りの下で陸豊と楊迅は共に酒杯を手に話している。
「逃げられて追っているのかも知れません。このまま此処から遠く離れてしまうなんて事は……?」
「無いとは言えぬな」
もしそうならあの殷汪を再び見失ってしまう事になる。それは困ると楊迅は思ったが、では追いましょう、とも言えずにいた。そもそも此処からどの方角に行ったのかも分からない。
「北に行けば此処よりは大きい街があります。そこに行けば多少は遊んでいけますしね……」
下人の言葉に陸豊は首を捻る。
「儂らはそこを通って此処へ来た訳だが、ちと遠くないか? 確かに此処へ戻ると言うておったのではないのか?」
「まあ少し遅くなるかも知れないとは言っておられましたし、じき戻られましょう」
その後、下男がそう言い残して下がってから数刻、ようやく表に人の気配が現れた。外は闇夜で何も見えなかったがその物音を聞いて、やっと帰ったかと思いながら陸豊らは酒杯に口を付けるが、そこへ姿を現したのは全く見知らぬ、険しい顔をして睨む様に中を見渡す二人の男だった。
客は陸豊と楊迅の他には無い。男達はゆっくりと歩を進めながら二人の席へと近づいてくるが、楊迅は緊張の面持ちで視線を逸らし、陸豊の方は少なくとも見た目は気にも留めていないといった体で酒を呷っていた。その真正面に男二人が立つ。
あまり良い身形とは言えない、旅の者ではなくどうやらこの地元の人間らしい中年の男二人。一人は背丈ほどある棒を持ち、むき出しの肩と腕の盛り上がった筋肉を披露せんとばかりに力を込めている様に見える。もう一人も似た衣服で筋骨隆々なのは同じだが、得物らしきものは手にしていなかった。腰にも見当たらない。尤も、武林には暗器の類を主たる得物とする者も少なからずおり、この男が本当に丸腰であるのか否かは不明である。
陸豊が持っていた酒杯を静かに置く。
「何かな?」
「稟施会か?」
陸豊と男の一人の口から同時に言葉が発せられ、互いを打ち消した。陸豊が眉を顰めて首を傾げて見せると、男がもう一度口を開いた。
「稟施会か?」
「稟施会?」
鸚鵡返しで応じる陸豊をじっと見つめた男はその後楊迅の方にも目を向けてその形を観察する様に視線を動かしている。思わず表情を隠す様に俯いてしまった楊迅は稟施会という言葉について思い返した。
(そういえば、あの殷……殷師叔と一緒に居た人が稟施会って言ってたな。稟施会って確か商売人の集まりの筈だけど……何だろう? 敵対してるのかな? でも稟施会なんてこっちじゃ殆ど聞かないけど)
「稟施会の人間が、あんたらと接触した。そうだろう? 仲間なのか、と問うたつもりだ」
少しばかり変な物言いをする無手の男はそう言って静かに反応を待つ。だが陸豊は改めて首を傾げた。
「我らは商売人でもないし、稟施会など知らぬが」
「洪という男に、昼間会っていたようだが? 海の傍の、洪淑華の碑の前で」
「あー……」
陸豊はようやく思い出して得心したとばかりに大きく頷いて見せた。
「あれは偶然会った儂の身内が連れていた者。知らぬ者だ。我々は緑恒の人間でまだ来たばかりだが会うなど思ってもおらなんだ。儂の身内というのは稟施会ではない筈だが……儂の説明は解るかな?」
「……何を話した? あんたの身内の事はいい。稟施会の洪という者は何を言った?」
「何を? ふむ、名乗ったな。稟施会の洪――?」
陸豊が楊迅を見る。
「洪破人と名乗られましたが」
「洪……破人というのか?」
楊迅の言葉に男はすぐさま反応し、もう一人と顔を見合わせた。陸豊はその二人を交互に見ながら、
「おぬしらもその者を知っている訳ではないのだな? だがその名に何かを感じると?」
「来た目的は何だ。わざわざ此処へ来た理由は」
「知らんと言うておろう? そんなに知りたければ此処で待つが良い。昼に会った者達はとりあえず此処へ戻って来る事になっておる。何か予定を変えねばならん事態が起きておらねばな」
「此処に戻って……あんたらと合流し、何をする? 或いは何処へ行く?」
「儂らもあの者達も全く別の旅をする者よ。儂らも、あの者も、此処で何をする? 寝るだけだ。此処は宿だ。当然であろう?」