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流浪一天  作者: Lotus
第十四章
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第十四章 四

「ならば、急がねばなるまい」

 陸豊が言うと殷汪は小首を傾げ、

「どうかな。奴らもそう簡単に諦められんだろうから暫くこの辺りで粘るだろう」

 これを聞いた洪破人は慌てて、

「夏さん! あ、いや、殷さん。のんびりしてて他所に行かれたら大変だ。この先はうちの店も無い。足取りも掴めなくなるんだ」

 ようやく此処まで来て掴んだ情報である。すぐにも確かめ、本当にそんな者達が居るのならさっさと捕まえたいところだ。

「だそうだ」

「ならば儂も手を貸そう。まあ相手が二人なら必要無いだろうが、囲むなら多い方が良かろう?」

「もう用事は済んだのか?」

 殷汪はそう言って僅かに楊迅を見た。陸豊も楊迅を振り返り、

「用事という程の事も無い。……儂がもう一度来ておきたかっただけのようなものだ。話すのは此処でなくても出来る事だ。だが、此処の事は、この地の事は覚えておいて貰いたい」

 陸豊の言い含める様な口調に、楊迅は改まって大きく頷いた。

「楊といったな。何か今までに武芸の類を習ったことがあるのか?」

 急に殷汪に訊かれ楊迅は動揺しながらも答える。

「私は安県で育ったので黄龍門の剣術を少しだけ……」

「安県? ……お前は安県の者なのか」

「はい」

 殷汪が陸豊に目を遣り、陸豊は溜息交じりの頷きで応じた。それがどういう意味なのか、楊迅には解らない。安県の出であることに何か問題でもあるのかと訝しむが、それを口に出して二人に問う勇気は無かった。

「入門したのか?」

「いえ、私は――」

「弟子では無かったのだな?」

「ええ、まぁ……」

「家族は、一緒に出てきたのか?」

「いえ、私一人です」

 楊迅は淡々と、落ち着いた声でそう答えた。楊迅は若いがもう子供では無い。一人で生まれ故郷を離れたのは辛い出来事であったに違いないが、その記憶を消し去る事は出来ずともうまく心を整えてきたのだろう。答えた時に感情の揺らぎが微塵も無かった事を、殷汪は意外に思った。

「安県……、安県か」

 殷汪の呟きが気に掛かる楊迅だったが、言葉を発する間を与えては貰えなかった。

「とりあえず俺達は行く。まあゆっくりしていってくれ。かの洪淑華も若い弟子を見て少しは気が紛れよう……。今夜はこの辺りに泊まるのか?」

 陸豊が既に決めてあった宿について教えると殷汪は微かに笑って、

「ならばまた夜にでも。酒でも飲もう」

「ああ。そうしよう」

 また夜に会うとなればこの場に未練など微塵も無いとでもいう様に、殷汪ら一向は先程降ろしたばかりの荷を拾い上げると、再び馬に乗ってさっさと行ってしまった。

 

 本当にまた会えるのか、楊迅は不安になった。偶然にもあの殷汪に会っておきながらこのまま何も言えずにまた行方を眩まされては、今まで散々、彼を追っていた千河幇の皆に何と言えば良いのか。

「偶然か必然か、『人』に分かる筈も無い……。が、天に住まえばこの様な事も可能であるのかのう?」

 陸豊の呟きを、楊迅は理解出来なかった。どうやら陸豊は傍の小さな石碑に向かって言ったらしく、楊迅の返事を待っている気配は無い。

「あの、先生」

「ん?」

「本当にあの、殷さんは……私の師叔(ししゅく)という事になるのでしょうか?」

「それは……まあそう言えぬ事も無いな。確かに我らは同じ、呂州の穆汪威(ぼくおうい)という師に学んだ兄弟であった。それをお前にも伝える。通常の武芸門派であれば師叔と甥弟子で間違っておらぬ」

「穆……」

 楊迅は穆汪威という名を耳にするのは初めてであったが、『殷汪に関係する穆という人物』には思い当たるふしがあった。かつて殷汪の身代わりであった夏天佑が太乙北辰教七星の劉毅(りゅうき)に向かって言った言葉を覚えていたのである。あの時、夏天佑は『穆ご先輩の天棲蛇(てんせいだ)』と言い、それが無くなって殷汪に敵は居なくなったという様な事を口にした筈だった。

 それが無くなったので――敵が居なくなった――? 陸豊と殷汪の師であったという穆汪威という人物と夏天佑の言った穆ご先輩というのは別人なのだろうか、師匠が敵であるというのは変だと楊迅は思い、訊いてみる。

「先生、天棲蛇という何かの名称を聞いた事があるのですが、その穆汪威という方に関係がありますか?」

 すると陸豊は驚いて、

「そのような名を誰から聞いた? 知る者など殆どおらぬ」

 楊迅が先の夏天佑の言葉を伝えると、陸豊はそっと目を閉じ何かを考えているようだったがやがて楊迅に向かって頷いた。

「確かに、汪の技に対抗しうる唯一のものであったと言える。師、穆汪威の編み出した新たな東涼黄龍門の武芸、それを天棲蛇の剣と呼ぶ。いや、呼ぶならば、こうであろうと師が言ったのだ。儂ら兄弟が学び、そしてこれからお前に伝えるのも、師が天棲蛇と呼んだそれなのだ。天棲蛇というのはな、この東涼一帯では洪淑華をいう名でもあるのだ。そうだな……我が師、穆汪威の境地にまで至る事が出来たなら……あの『不敗剣』にも劣るものではないだろう」

 陸豊は本当に愉快そうにフフッと笑い声を洩らし、目を細める。

「先生のご兄弟はその穆ご先輩に学ばれたのですか。殷……師叔も? なのになぜ敵などと……」

「他に武芸を学んだ兄弟は血の繋がった兄が一人と、儂ら同様、師に拾われた弟、汪の二人。しかおらぬ。穆汪威というお人は武芸の師でもあるがその前に、我らの父だった。……汪が昔から望むのはただ一つ。往年の師に、自らが編んだ武術で勝つ事だ。汪の考える当世髄一、武林最強は今も、師、穆汪威なのだ。憎んでいるのではない。師を、父を越えたいというその一心が、今の殷汪を生み出したのだな。師はとうに亡くなってしまわれたが、さて、天棲蛇の剣は再び潰えるだろうか?」

 訊かれて何と答えてよいものやらと楊迅が戸惑うのを見ながら、陸豊は首を振った。

「まだ消えぬ。お前に、伝えるのだからな」

「私に……出来るでしょうか」

 楊迅が不安を覚えるのは当然の事だ。江湖に名高い殷汪や真武剣派を興した陸皓までもが突然、近しい存在となり、陸豊を合わせたその三人だけが受け継いだという先師穆汪威の、洪淑華より繋がる武芸を学ばせて貰える事になってしまったのである。優れた武芸を身に付けたい楊迅には願っても無い事ではあるが、話が出来過ぎではないか。

「さて、出来るかどうかを判って道を決める事などあるか? 何処まで出来るかに挑むのが道であり、人の一生であろう。地を這う蛇が天にも昇ろうかというのだ。出来そうだなどと考える奴は頭がどうかしておるのだ」

 楊迅は今まで何度も殷汪の英雄譚を聞き、武林の至高、最強は彼だろうと漠然と考えていた。だが夏天佑の言によって知った、その『最強』を揺るがすやもしれぬという天棲蛇の剣を、これから学ぶ事となる。あの田庭閑(でんていかん)が聞いたら何と言うだろうかと想像する。

(特に興味が無いふりをするんだろうな。でも、本心では思い切り羨ましがるぞ。田さんも緑恒に来て、一緒に学べば良いんだ。先生が教えると言って下さったのはなにも俺が特別だからじゃないさ)

 


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