第十四章 三
男は楊迅をじっと見ながら、無言だった。全くの無表情に見え、楊迅はただ、すみませんと小さく言って縮こまった。暫くして、
「そうだな。北辰教で総監をしていた男も夏天佑という。俺の名は殷。フッ、こっちはただの、流浪人だ」
(殷! この人があの殷汪なのか! この人が、本物――)
夏天佑と名乗っていた殷――それはまさしくかの殷汪しか有り得ない。楊迅は東淵で傅朱蓮から聞き、鏢局が襲われた際に受けた傷の養生の為に傅家の屋敷に留まっていた折に世話をしてくれた梁媛という少女からも――彼女は本当の名を知らなかったが――都で夏天佑を名乗った殷汪の話は聞いている。何より夏天佑本人にも会っているのである。ついに本物を見る事が出来たと楊迅は胸を高鳴らせた。
初めて見る殷汪の一番の印象はやはり、若い、という事だ。聞いた数々の話から推測するに殷汪は此処に居る陸豊とは近い歳の筈で、そろそろ還暦を迎えるという歳でなければならない。その若さは、『人じゃない』という噂にも思わず首肯してしまう程だと楊迅は感じた。
ふと夏天佑の顔が思い出され目の前の殷汪と比べてみるが、替え玉に用いるほどには似ていると思えない。殷汪の容姿は年齢との乖離そのものは別としてごく自然であり、夏天佑の異常をきたした若返りの法とは無縁にも見える。実際あの時の夏天佑は病を押して戦ったのもあるが直後命を落とす程の状態であり、そんなやつれ方が周囲の目をうまく誤魔化すのに功を奏したのか。そう考えるとあの夏天佑の衰弱までも入れ替わりの計画の内にあったとも想像する事が出来る。全てこの殷汪の所為であったのか――。
夏天佑が生きて緑恒まで行けたならもっと詳しく北辰教の内部や鏢局襲撃に関する話を得られた筈――そう考えたところで楊迅はハッとなった。今、千河幇による、鏢局襲撃の下手人探しも行き詰っており、北辰教内部をよく知る筈の殷汪の行方も同時に追っているところである。幸いよく知る仲であるらしい陸豊がいる。陸豊も千河幇のやっている事はよく知っており、殷汪に緑恒まで来るよう言ってくれるのではないかと楊迅は期待した。
「それでお前は、何故此処へ?」
陸豊は殷汪に訊ねた。
「近くを通っただけだ。此処には何も無い」
そう言って殷汪は先程陸豊が跪いた崖の近くへ歩いて行き海を眺め、そして振り返る。
「俺はあんたが此処に居るのは東涼の秘伝書探しを始めたんだろうと思ったんだが、違うようだな」
「武慶のあれか」
陸豊もゆっくりと歩き出し、殷汪の傍で海に向かって立った。その後ろには楊迅が控える。殷汪と共に来た男達は話が聞こえるか聞こえないかといった場所で身に着けていた荷物を降ろして銘々休息するつもりの様だ。時折短く何かを話しているが、こちらにはあまり構う様子も無かった。
「興味は無い、か?」
殷汪の問いに、陸豊は薄く笑う。そして小さく首を振った。
「無い訳があるまい。どうせ偽物であろうが、それを確認するまでは気が休まらぬ。かといって奪った某を追ってみるかという気にもなれぬ。一体どれほど時が要る? 真武剣は多く居る弟子を使えば良かろうが儂にはそんな者はおらんしのう。……お前はどうなのだ? 探しておるのか?」
「探す者に付き合っている。見つかれば覗き見てみようという魂胆なわけだ」
「探す者? 何処の者だ?」
「真武剣なんかとは違う、真にそれを取り戻すべき者。元の持ち主さ」
そう言って殷汪は同行してきた内の一人に声を掛けた。
殷汪に呼ばれて傍に来たのは武慶の商人、劉建和である。どこか緊張した面持ちでやって来た劉建和に殷汪が陸豊を指差し、
「あんたは武慶の住人だから知っているんじゃないか?」
「勿論、武慶の者は皆存じております。真武剣派陸豊どの……」
劉建和の口調は商人らしくかなり丁寧で、頭を低くして陸豊に向かって礼をする。長旅のせいもあってかその顔には疲れが見えており、加えてこの暑さの中、楊迅同様汗を滴らせていた。涼しげな表情でいられるのは陸豊と殷汪の二人だけだ。
「武慶の住人で劉建和と申します。殆ど行商で方々に出払っておりますが」
「おお、おぬしがそうか。……なんでもお子までもが行方知れずとか。何とも気遣わしい事だ」
陸豊の言葉に、劉建和は頭を掻いて、
「真武剣派をはじめ、多くの人達に動いていただいております。しかしもう半年にもなろうかというところ、申し訳無く……」
「真武剣派は秘伝書しか見てないがな」
殷汪は淡々と言って一人、海に視線を投げた。
「真武剣も一人失っておろう? 弟子ではない様だが」
「どちらにしても追わぬ訳にはいかんよな。向こうが先でも悪くはないが、こっちが直接取り戻せればそれに越した事は無い」
「何か手掛かりはあるのか?」
陸豊が訊ねると殷汪は一緒にやって来た残りの二人の許に近づき、何やら言葉を交わす。そしてその二人を連れて戻って来た。
「探してるのはこの劉さんと、捜索の依頼を受けた城南稟施会。稟施会の洪と……助っ人の求、ということにしておくか」
殷汪の簡単な紹介と同時に、二人は陸豊に抱拳してみせる。その様が、この二人は商人である劉建和と違い武林に近い人間である事を窺わせた。
「稟施会の洪破人と申します」
そう挨拶したのは夏の日差しで肌の焼けた一同の中でも一際濃い褐色の肌を持つ若そうな男、洪破人。見た目は殷汪と似た年恰好である。
「洪……破人と申されるか?」
陸豊の眉間の皺が一層深くなる。
「ハ……、稟施会の内の……いわば鏢局の様な処で働いております。こちらの劉さんの依頼を受け、稟施会は奪われたご子息と東涼の秘伝書なる物を探しております」
「左様か……」
陸豊の怪訝そうな表情は変わらないが、短くそう言って視線は隣に移る。そこに居た男はやや俯き加減で、
「求持星と申す……」
小さく籠もった声でそう名乗り、それだけで口を噤んだ。
紹介を打ち切り殷汪が言う。
「手掛かりとなるかどうかはまだ判らんが、怪しい男達がこの東涼に来ているらしい。それを今、探している」
「ほう。どう怪しい?」」
「東涼黄龍門の秘伝書の一部を買えとこのあたりの商売人や金持ちに持ち掛けているそうだ」
「一部? それで役に立つ様なものなのか?」
「さて、どうかな。恐らくその一部分しか持っておらんのかもな。全て揃っていればそれを高値で売りたいところだが、分けてその価値を下げれば尚更買い手などつくまい。更にそれは古文字で書かれている。簡単には読めず、全ても読めず。東涼ならばかの洪淑華の物だからそんな状態でも欲しがる奴が居るかも知れんと踏んでやって来たのかもな。他所では話にならん」
陸豊は頷いて、
「劉どのの子息の方はどうなのだ?」
「二人の男以外、まだ判らない」
殷汪が答え、劉建和が溜息をつく。
陸豊の後ろでじっと話を聞いている楊迅は武慶で起きた事件について聞き及んではいたもののその内容を把握し切れてはおらず、ただ話に出てくる『秘伝書』という言葉に、密かに胸を躍らせていた。