第十四章 二
再び石碑の前に戻り、陸豊が何も無い土の上に座り胡坐をかいたので楊迅もそれに倣う。
「さすがに疲れた。だが、まずお前に聞かせておかねばならぬ事も多々あってな。それに、少々格好をつけておきたかったのだ。お前をいわゆる弟子とするわけだが、儂の、我らの武芸は他と違い形式的な流派というものを成してはおらぬ。しかし歴史が無い訳ではない。直系とは言い難いが、全ての始まりは梅慈心の黄龍門、そして洪淑華が編み出した新たな黄龍門の武芸なのだ。特に東涼黄龍門発祥の地は、我らにとって今の江湖においては唯一の象徴たる場所だ。今はこんな碑しか無いがな」
陸豊は石碑を指差して笑ったが、楊迅はこれを聞いて正座し直して畏まるべきかと悩んだ。今がどんな事になっていようと、祖が武芸を編み出した始まりの地は全ての弟子にとって聖なる地である。何も無くなっていたとしても、当時、この海までも無かったなどという事があるだろうか? 安県を離れこの地へとやって来た洪淑華がこの波の音や風の感触を知らなかった筈は無い。この場所で何を思い、何を得、何を棄てたのかを無視して祖師の全てを継ぐなど有り得ないのだ。
楊迅はようやく、陸豊が自分を此処に連れて来た意味を知った。武林に数多ある武芸門派ならば入門が許されると祖師への礼拝でもって正式にその流派に弟子入りとなるのだが、自分にとってはこの旅がその儀式に代わるものなのだ。今まで単に個人的に剣を教わるつもりでいた楊迅だったが、それでも形式としてこの地に赴く機会を与えてくれた陸豊に、感謝の念で胸がいっぱいとなった。立派な肖像などは無いが、目の前の小さな石碑が何か神秘的なものに見える程だった。
「あの、先生……あ、師父」
楊迅は言い慣れない言葉を初めて口にした。正式に弟子となるならばやはり陸豊を師父と呼ばねばならず、思い切って口にしたが声が変にうわずってしまう。陸豊は笑い、
「恥ずかしかろう? 今更そう呼ぶのはな。呼ばれる儂も体中がむず痒くなる。今まで通りで良い。それに……、お前が儂の剣をものに出来るかまだ判らぬ。勘違いするな。お前の才を言う前に儂がうまくお前に伝えられるかどうか、お前の師となれるのか判らぬ。前にも言ったが儂もまだ完成させてはおらぬのだ」
「……」
「で、何だ?」
「え、あの、この石碑には何と書いてあったのでしょうか?」
石碑の表面は確かに人が彫った形跡があり文字があった事は疑うまでもないが、既に読み取れぬ程に崩れていた。陸豊は石碑をじっと見つめ一呼吸置いてから、
「知らぬ」
「ハ……」
陸豊は至って真面目に答えたようである。
「此処に何が書かれていたか、今や知る者はおらぬ。この土地の者ですらな。ただ、洪女侠が確かに此処に居たという証だという伝承だけが残っておる」
「そう……なんですか」
「儂はそう聞いた。儂の師からな」
「あの……先生は此処で学ばれたのでしょうか?」
「いや、儂は呂州で育ち、そこで武芸も学んだ。後に武慶に住み着く事になったがその前に各地を放浪した。此処を訪れたのはその時が初めてであったな。師は若い頃この東涼に住んでおったが後に呂州に移り住み我らを教えた。東涼黄龍門、最後の弟子じゃ」
「えっ、ではもう此処には黄龍門の武芸は残っていないのですか?」
「無い。師も実のところ正式な弟子とは言えなんだが、なんと失われかけておった洪女侠の武芸を蘇らせる事に成功した。細かく分断され消えかかっておった技の数々を統合し、更に発展させ、新たな体系を生み出したのだ。フッ、信じ難いことであろう? 武林でも知る者は少ない。聞いても信じられまい。己の目で見ぬことにはのう」
当然、楊迅も初めて聞く話である。しかしこの広い武林で、優れた武芸はなにも名の売れた大門派の専売でなくても良い筈だ。野に優れた絶技が埋もれていてもおかしくない。むしろその方が面白いではないか――そんな隠れた凄腕の侠客に自分が成れたならさぞかし愉快だろうと楊迅は思った。
「だが……、今のままでは本当に消えてしまう。今や師の業を直接知る者はこの江湖にたったの三人しかおらぬ。儂を含めて、のう。東涼黄龍門は一度消え失せた。それがただ一人の手によって再び復活し、更なる飛躍を見せるなど有り得ようか? その教えを直に聞き、見ることが出来た我らの幸運は得難き事なのだ。まこと、天佑とはこれを言うのだろう」
(天佑……)
「儂がお前に教えるのは、再び消え去る事を防ぐ為。たとえ、完全な会得が成らずとも――」
陸豊の視線がふと上を向き、遠くを見つめる眼差しとなる。
「はい」
楊迅は決意の程を込め、力強く返事をしてみせた。しかし、陸豊に反応が無い。
「あの、先生?」
陸豊はただぼんやりと遠くを見ているのではなかった。楊迅の頭越しにその先を凝視している。楊迅は思わず後ろを振り返った。
人が来る。男が四人、馬に乗ってこちらに向かって来ていた。楊迅は此処を訪れたばかりで地理を把握してはいなかったが、男達がこのまま行けば先は砂浜があるだけの筈。どうやら四人とも旅装束の様で、他所から来た物見遊山の客でなければ他に何があるだろうか。
「先生、馬が通りますが……」
やって来る彼らが迂回してくれれば問題ないがこのままでは今座っているすぐ脇を馬が通る事になる。楊迅はいつでも避けられるようにと腰を浮かしたが、陸豊は胡坐をかいたままじっと彼らを見つめている。
男達四人は何か言葉を掛け合うでもなく黙って進んでくる。楊迅は立ち上がり、脇に避ける様に立つ。陸豊に付き合って二人揃って座っていたのでは男達の機嫌を損ねる事に成りかねないが、せめて自分一人でも避けていれば少しはそれも和らぐのではないかと期待したのだった。陸豊は動かない。そして男達は陸豊の前までやって来ると馬を停めた。
先頭に居た男が陸豊を見ながら微かに笑った。
「まさか此処で会えるとはな。我らの縁はそう簡単には潰えぬということか?」
男の言葉を聞いて楊迅は違和感を覚えた。この男の口調とその雰囲気が見た目の印象と異なっていたのである。陸豊にまるで古い友人の如く話しかけたその男は壮年と呼ぶにもまだ早そうな若々しさを持っていた。
「それは儂の言う言葉だ。こんな処へ来ても良いのか? まさか、お前に会えるとはのう」
「フフ、思いがけず会えたのだ。素直に喜んでおこう。互いに先が短くなってきたしな。次があるかは分からん」
「儂はともかく、お前も先が短いとは思えぬがな」
男達は馬を降り、陸豊もようやく立ち上がった。先頭の男は横に立つ楊迅を一瞥し、すぐにまた陸豊へと視線を戻す。
「これは楊迅といって千河幇の者でな」
「二人だけで此処へ来たのか?」
「そうだ。儂は……この者に剣を教えようと思う」
「ほう、見込みがあるわけだな。なるほど、それで此処へ来たのか。まったく律儀なことだ」
男はもう一度、今度は楊迅を値踏みするが如く丹念に観察する。楊迅はというと男の鋭く厳しい視線に思わず生唾を飲み込んで身体を強張らせている。
「ふむ、俺には判らんな。判らん。が、あんたが間違うとも思えん。まあ覚えておくとしよう」
「お前の名を聞かせても?」
今度は陸豊が男に問う。
「そうだな……名など何でも良いんだが。俺は最近まで夏天佑という名を使っていたんだが、どうやらその名が知れ渡ってしまったらしく役に立たなくなった。ま、甥弟子になるという者に名を騙るのも気が引ける」
「夏天佑というのはあの、北辰の総監だった人ですか?」
楊迅は驚いて、思わず口を挟む。鏢局の朱不尽や范撞と共に東淵から緑恒に向けての帰路を同行した夏天佑。楊迅はその最期も鮮明に記憶していた。