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流浪一天  作者: Lotus
第十四章
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第十四章 一

 夏の強い日差しが肌を焼く感覚が続く。足元には白い砂地がどこまでも広がり眩しかったが、楊迅(ようじん)の視線は眼前に広がる青に釘付けとなっていた。

 東涼(とうりょう)汪沙(おうさ)と呼ばれる西端の浜に楊迅は立っている。緑恒(りょくこう)を出てひと月余り、かなり悠長な旅となり時は既に真夏、しかも緑恒よりも南方である東涼一帯は湿度も高く、幾らか辛さを感じる道中でもあった。しかしこの旅が単なる遊山ではない事は最初から分かっていた事である。

(もう修行は始まっているんだ)

 楊迅はそう自分に言い聞かせながら此処まで辿り着いた。

 これほどまっさらな景色は記憶の何処を探しても見つからない。辺りは限りなく青く、白く、鮮やかな緑。それだけだった。だがこれらは全て、太古の昔からあるものだ。

(不思議だな。何よりも古いものなのに、どれもまだ染めたばかりの様な鮮やかさだ。どうして……記憶にある他の風景はくすんだ色しか無いんだろう。どうして……何もかも崩れかかって……)

 楊迅は目を閉じる。そこに見えるのは幼い頃の記憶、生まれ故郷である安県(あんけん)の朽ちゆく街並だった。その記憶の中で幾ら首を廻してみても、此処の様に明るく開放的でどこまでも広く、自由を思わせる風景は無い。

 

「どうした、海を見るのは初めてだったか?」

 背後から声が掛かる。緑恒から共にやって来た陸豊(りくほう)である。

「はい。本物の海は初めてです。こんな……こんなに広くて、青いんですね。向こうに何も見えない……」

「本物とは? 偽物ならあるのか?」

「あ、いや、前に東淵(とうえん)まで行った時、東淵湖を見ましたが最初はあれが海かと間違えてしまって……。すぐに違うって教えてもらったんですが」

 陸豊は楊迅の隣に立ち、何処までも青く光る海に目を細めた。

「青いのが海という訳ではないぞ。今日はよく晴れておる。空が青ければ水も青い。空が曇れば水も曇る」

「そう……ですね。でも素晴らしいです。来て良かった」

「そうか」

 陸豊は隣で汗を垂らしながらも海に目を奪われたままの楊迅を見て微かに笑った。

 暫く眺めて後、陸豊が歩き出したのでその後を楊迅もついて行く。ふと前の陸豊の灰色の頭髪や細い首筋に目を留めたが、やはり汗をかいている様には見えなかった。自分はといえばもう全身が濡れて衣服がそこら中に張り付いて歩くのにも違和感を覚えるほどである。

(汗をかかないように身体を制御出来るのは凄いけど、それは身体に良い事なのかな? やっぱりこんな時は汗を書くのが普通の人間じゃないか)

 一体何をどうすればこの暑さの中で汗をかかずに済むのか想像すら出来ずに、ついそんな事を考えてしまう。だが本心は今すぐにでもその功夫を授けて貰えるよう請いたいところだ。もしあと数刻でもこうしていたなら確実に身体の水分も、気も、失ってしまうだろうと不安すら感じていた。

 楊迅は前を行く陸豊の背中を、改めてじっと見た。若く無い事は確かだが老人と呼ぶにはまだ早いその四肢はやはり武芸者らしく筋骨が盛り上がり力強い。既に楊迅はこの陸豊が武慶(ぶけい)真武剣(しんぶけん)派総帥、陸皓(りくこう)の弟であると聞き及んでいた。

 かつては真武剣派の一番弟子でもあったというこの陸豊に剣術を教わる事となり、あの名高い真武剣を身に付けられると大いに喜んだ楊迅だったが、矢先、陸豊は言った。

『真武剣は教えられぬ。あれは儂の剣ではない。お前には、儂が子供の頃から修練し、今際まで続くであろう唯一つのものを伝えようと思う』

 これを聞いた時、楊迅には意味がよく判らなかった。あの真武剣派に居て一番弟子を名乗る程であったのに、自分の剣は真武剣ではなく他にあるとはどういう事なのか。

『心配するな。これから教える剣は、儂が知る最も優れた技であり、知恵でもある。これは恐らく、あの真武剣派総帥すらも認めるところであろう。言える立場では無いが』

 

 不意に陸豊が立ち止まり、右腕を前に伸ばしている。

「あそこだ」

 白い砂浜が途切れた先に、海から急激にせり上がったかの様な崖が見えており、その上に木々が生い茂っている。そこに何があるのか楊迅には想像出来なかった。しかし陸豊が指し示したその場所こそが、この旅の目的地である事は間違いない。

「何があるんでしょうか?」

 人の手によって造られたものは此処からは見当たらないが、楊迅が訊ねてみると陸豊は目を細めて懐かしむ様に前方を眺めている。。そしてまた歩を進めながら言った。

「目に見えるものはもう殆ど失われてしまった。だが、儂にはとても大事な場所だ。お前にとっても、そうなるだろう」

 これを聞いて楊迅はふと、『黄龍門(おうりゅうもん)』という名を思い出した。

(これから習う剣術に深い関わりがあるという事かな? 東涼……東涼といえば黄龍門じゃないか。先生の言う剣とは黄龍門の剣術なのか? でも前に少し教えてもらったあれは俺の知ってる黄龍門のじゃない)

 楊迅は黄龍門ならば多少習った事がある。子供の頃に住んでいた安県では武芸と言えば黄龍門であり、そこでは殆どの住人がその教えを耳にし、多少なりとも武術に親しんでいた。

(でも、東涼の黄龍門か……。本当にそんなに凄いものなんだろうか? 安県黄龍門から離れた異端の――)

 楊迅は疑念を振り払う。

(先生も真武剣派を辞めて離れたんだ。先生の求めている物とは違ったからだろうな。安県を離れて此処に別の黄龍門を立てた(こう)って女弟子もそうだったのかも知れない)

 崖の上へと続く坂道には辺りの木々が影を作り、幾らか暑さも和らいだ。坂といってもなだらかな丘を登るといった感じで、時折吹く風が湿った肌に心地良かった。

「もうすぐそこだ」

 陸豊の言葉に楊迅が前を窺うと、建物の類はやはり無いが小さな石碑の様なものがぽつんと建ててあるのが見える。形も整っておらずかなり古そうな石だった。

 そのまま真っ直ぐその石碑の傍まで辿り着いた二人だったが、陸豊はそれを眺めて無言のままであり、楊迅は本当に此処が旅の目的地なのかと辺りを観察する。するとどうやら此処には確かに建物があったらしく所々にその存在を窺わせる石積みがある事に気付いた。だかどれも崩れていて何かが建っていたのは遥か昔の事の様だ。

 陸豊が歩き出し、崖に向かったので楊迅も黙ってついて行く。たいして登って来た感は無かったがその崖は意外にも高く、恐る恐る下を覗いて見ると海から押し寄せた波が崖下の岩にぶつかって激しく弾け飛ぶ光景が繰り返されていた。

 不意に陸豊が膝を折り地面に跪く。楊迅は驚いて急いで陸豊の後方へと下がりそれに倣った。が、それが何の礼であるのか全く解らない。黙ったまま後ろから様子を窺っていると、陸豊は地面に膝を付いたままで話し始めた。

「此処は、かつて洪淑華(こうしゅくか)、洪女侠が東涼黄龍門を開いた場所でな。お前は知っておろう? 元は安県黄龍門の始祖、梅慈心(ばいじしん)の末弟子であった」

「はい。聞いた事はあります」

「安県では洪女侠を良くは言うまい」

「……そうですね。どちらかといえば、その、安県を捨てたというか、裏切った……」

 言ったところで楊迅は慌てて、

「でも此処で、黄龍門を名乗る事を許されたんですから、本当は裏切りとかそんな感じで離れた訳では無い……んですよね?」

「確かな事はもう誰にも解らぬが、そう考えるのが妥当であろうな。ただ一人で此処まで来た末弟子に黄龍門を名乗らせるのじゃ。黄龍門の始祖は余程、洪女侠の非凡の才を認めておったのであろう」

 陸豊はまた海を眺めて沈黙する。楊迅にはまだ師の心の内を察する事は出来ない。ただ、これから自分が教わるのはその洪淑華の剣で間違いないと確信していた。

 


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